スペアの姫君
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シャルパンティエ王国の王城、謁見の間から外れた所に彼女の個室はある。アラベル・フォン・シャルパンティエ……先代シャルパンティエ15世の伴侶にして、静寂の姫君と呼ばれた、現王国の影の支配者だ。
室内に足を踏み入れると、強烈な違和感に襲われる。カーペットが柔らかすぎて、足音が立たないからか。
「本日は貴重なお時間を頂きまして、誠に感謝申し上げます」
「お気になさらず。私もとっくに現役を退いた身で、今は暇を持て余しておりますから」
「ご冗談を。前国王逝去後も裏で外交筋の調整役として大活躍されておられるとお聞きしましたよ」
軽口を叩きつつ、背中には薄っすらと汗が滲んでいる。この部屋で最も大きな音を立てているのは、俺に違いないのだ。この部屋には一切の音が無い。否、無さすぎる。あまりに静かすぎて耳鳴りがするほどで、息遣いですら躊躇われる。
「王家を取材するのは我が新聞社が初めてだとも。この取材は我が社の歴史に刻まれ、語り継がれる名誉でございます」
「あら、お上手ね。こんなお婆さんをからかうものじゃないわ」
目の前に座る老齢の麗人からは衣擦れの音どころか、息遣いすら聞こえず、心臓の音さえも消し去っているのではと馬鹿な事を考えさせられてしまうほどだ。
犯罪歴のある冒険者パーティーにも取材した経験を持つ俺が、完全に圧倒されている。この人がただのお婆さんであるはずがない。
「それで、私が王妃になるまでの経緯をお聞きになりたかったのですよね?」
「は、はい。是非我が新聞社の独占記事にさせて頂ければと思いまして。機密に関わる部分はボカしますのでご安心ください。もちろん、出来上がった記事で問題ないか事前に確認していただきます」
「若さとは良いですね。恐れを知らず、真実を求めようとする。機密を知った結果、王城から出させないかも知れないとは考えないのですか?」
「その点もご安心を。俺に何かあった場合は、王家の暗部を垣間見たとして別途記事を書いてもらう予定です」
精一杯の虚勢だったが、彼女は口元を扇で優雅に隠してみせた。もしや、笑ってくれたのだろうか。
「面白いお方。わかりました、では貴方を友人と認めてお話しましょう。……さて、どこから話そうかしら」
小さな溜息と共に、美しき老女は語りだした。それは彼女の半生を紡ぎ出す、最初の物語だった。
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『おねえさまがもってるハンカチ、とってもすてきですわ!』
『あら、ありがとうフェリシテ!』
『それとおなじもの、わたしもほしいです!おとうさまとおかあさまにおねがいしてきます!』
妹は昔から、よく私と同じ物を欲しがる子だった。私のドレスに魅力を感じれば、それと同じ物を欲しがった。だけど、決して私が使っている物を奪おうとはしなかった。
『新しい物を買ってもらうから大丈夫です!』
それは多分遠慮とかじゃなくて、単にお古が嫌なだけだったのだろう。だって新品はいつでも手に入るのだから。人の物を盗むのが犯罪であることは、流石に子供でも理解できることだ。
だけどそれは欲しい物に形があって、代わりになる物が存在するからだ。もし私がこの世の中の唯一無二のものを手に入れようとしていたなら。そしてそれが、妹にとっては喉から手が出るほど魅力的な一品だったとしたら、どうなるのか。
今思い返せば、それは私と殿下の政略結婚が決定し、婚約者同士でお茶会をする前の挨拶で、すでにハッキリと表れていた気がする。
『お姉様とニコラ様は、本当にお似合いですわね。とっても羨ましい……』
『……そうかしら?』
『私もニコラ様みたいな殿方と結ばれたいですわ……そう、ニコラ様みたいな素敵な王子様と……』
だけどこの時はまだ、妹の背伸びだと思っていた。あるいはこの時に気付いていれば、何かしてやれたのだろうか。
時は過ぎて、私と殿下が学園を卒業する日になって、その事件は起きた。
「カーラ・ブロンダン!君の高慢には愛想が尽きた!君との婚約を破棄して、私はシンディと添い遂げる!」
「あら、そうですか?ではもう無理な婚約に縛られることも無くなりますね。私も――」
学園の卒業パーティー、その会場の割と目立つ所で婚約破棄騒動が勃発していた。伯爵子息と伯爵令嬢がやんややんやと騒いでいるが、無関係な人間からしたらたまらない。もちろん私もたまらない。
周囲の目の中で、一部がチラチラと私の方を見てきた。恐らくこの中で一番身分が高いのが、ちょうど席を外している殿下を除けば、公爵家である私だからだろう。
……え、私が諌めないと駄目?……だめなのね、先生方も席を外してますもの。ああ、もう、面倒な。卒業パーティーで卒業生が卒業生を叱るなんて、あっちゃいけないことだわ。
私は口を閉じたまま、あくびを噛み殺すように深呼吸をしてから、凛とした声を意識して声を張り上げた。
「……ふぅ。お二人共そこまで!」
ビクリとした双方のうち、令嬢のほうがすぐに申し訳無さそうな顔をした。在学中もそうだったけど、どうもカーラさんは真面目に過ごしてても貧乏くじを引くタイプみたいね。
悟られないようもう一度深呼吸し、言葉を選んで双方を叱責する。どっちかと言えば騒ぎを起こした子息の方が悪いけど、まずは両成敗しないとこの場が収まらないだろう。
「……今日は卒業する皆様にとって大事な一日。学生生活の締め括りであると同時に、社会人としての始まりの日なのです。思い出を共有する者同士、人脈を結び直すものもいる中、個人的問題で騒がれては迷惑ですわ。痴話喧嘩をなさりたいなら外でなさってください」
「くっ……!?し、しかし――」
「今黙って出て行けば忘れてやると言ってるのよ。それともこの記念日に、公爵家の思い出の中で汚点として記憶されたいの?」
あ、反射的に素で応えてしまった。どういう訳か昔から私は深呼吸を一度挟まないと、平民の小娘みたいな物言いをしてしまう一面がある。いつからこうなったのかはよく覚えていないけども。
私が本気で叱責したと思ったのか、伯爵子息は赤くなっていた顔を青くして退室していった。彼は彼で、3年間の学園生活で大事なことを学び損ねたみたいね。あれじゃ卒業後も苦労するんだろうな。
「……はあ。カーラさんまで帰ることありませんわ」
「いえ……騒動を助長したのは私も同じ。ムキになって反論した時点で、私も彼と変わりません。仲裁して頂き、心より感謝申し上げます。今日はこの場にて失礼させて頂きます。皆様、ご迷惑をお掛けしました」
あらら、帰っちゃった……もう少しカーラさんに配慮すべきだったかな。明日、彼女には謝罪の手紙を送っておこう。それと私の発言でブロンダン家の名誉が傷付かないよう、各方面に根回ししないといけない。
「アラベル、最後のは言い過ぎじゃないのか?彼らも反省していたのだし、敢えて恥を晒させるような事をするのは如何かものかと思うが」
私に苦言を呈したのは、なんと婚約者であるニコラ・フォン・シャルパンティエ様だった。いつの間に戻ってきていたのだろう?……おっと答える前に、まずは忘れず一度、深呼吸っと。
「……おかえりなさいませ、殿下。しかし突然一方的に婚約破棄されたカーラさんはともかく、このような場で騒ぎを起こした方は、その時点で既に恥を晒しています。故にそこへの配慮は必要ありません」
黙っていたら私の名誉まで静かに損なわれかねない状況だったし。
「僕が言いたいのは、君の物言いのキツさについてだ。あれでは彼のプライドが必要以上に傷つく。そんな風に貴族間の不和を生み出すようでは、僕の妃となることを周囲が容認してくれないぞ」
確かに油断して多少キツくなったかもしれないが、あれはプライド以前の問題だろう。話の通じなさに少々イラッとしつつも、一呼吸置いてから自分の主張を貫くことにした。
「……ふぅ。私が叱責しなかったなら、王家に叱責されていたかもしれないのです。彼も貴族として致命傷を負う前に退散出来たのだから、まずは良しとすべきでは」
「あくまで正さないと言うのだな?ならば僕にも考えがある」
そう言ってキラリと目を輝かせると、何故か殿下の後ろに伴っていた3歳年下の妹の手を取った。……へ?なんで入学前の妹がここに?な、なにを始めるつもりだ?なんでフェリシテはウットリしているのだ!?
「アラベル・コーヌス公爵令嬢!ただ今より、君との婚約を一時凍結し、君の妹であるフェリシテ・コーヌス公爵令嬢と二重婚約することを宣言する!理由は言うまでもないだろう、君の言葉選びが妃としてふさわしくないからだ!」
なっ!?
「なんですってえええええええ!?」
思わず素が出てしまったことで殿下と妹だけでなく、興味深そうにしていた周囲までがギョッとして言葉を失った。ハッとした私は一度大きく深呼吸してから、もう一度公爵令嬢の仮面を着け直す。着け直しただけで、内心はぐちゃぐちゃだったけども。
「すぅぅ……はああ……婚約を凍結し、新たに別の女性と婚約するなど、法的に可能なのですか?多重婚約は原則として禁じられているはずですが」
いきなり絶叫した直後に、今度は冷静に――見える態度で――法的根拠を指摘したことで、この場の主導権を握ることには成功したらしい。場を複雑にした殿下が正気を取り戻すまでには、数秒の時間が必要だった。
「ハッ!?あ、ああ、そのとおりだ。だが予めどちらかとしか結婚しないと明言し、また凍結された側に明らかな問題がある場合は、例外的に可能とされている」
そんなことはわかっている。だがそれは婚約した相手が婚約後に詐欺師だと判明した際や、収監に相当する悪事が判明した際に、婚約を実質無効として扱うための例外条項であるはずだ。言葉遣いが気に入らないなんて理由で犯罪者と同列に扱われた前例は無かった……はずだ。多分。
「……妹を第二候補に据えるのは何故ですか?」
この判断も謎だ。人選の問題ではない。第二婚約者を用意するタイミングが遅すぎることが問題なのだ。
用意するなら最低でも私の王妃教育が修了する前、つまり王妃教育でも言葉遣いの改善が見込まれないと判断した時にすべきであり、同時期に同等の教育を妹に施さないとスペアの意味が無い。
「いっそ私との婚約を破棄して、妹と婚約し直すべきでは?」
「婚約はあくまで凍結だ。破棄はしない」
殿下は私の質問を完全に無視している。どうにもこの人の狙いと神経の向き先がわからない。
もしもこれが妹にとっても望まぬ事態なのだとしたら、巻き込む訳にはいかないが……そんな思いを知ってか知らずか、妹は愛らしい顔を悲しげに歪ませ、サメザメと泣き始めた。
「ごめんなさい、私が悪いんです。私がお姉様のご婚約者様であるニコラ様に対して、密かに淡い想いを告げていたから……お優しいニコラ様は私の気持ちを汲み取って、チャンスをくださろうと……」
「人それを横恋慕と言うのよ?」
ついでに言うと浮気の自白ね。
「そんな……酷いですわお姉様!?そんな言い方しなくても!?」
酷いのは奪った側では?……でもまあ確かに妹からすれば幸運なのか。常日頃から「お姉様が羨ましいですわ」とニコニコしていたものね。それにしても、この子に人の心を奪ったという自覚はないのだろうか?
……もしかしたら本当に無いのかもしれない。少なくとも、この子が特定の男子に恋をしたり、告白されて意識したという話を聞いたことが無い……見た目は良いのに。だから婚約者が他の女子に心移りした時の衝撃を想像できないのだろう。
いくら政略結婚とはいえ、未来の夫が妹に目移りして平静で居られるほど、私も人間として熟していない。一切の悪意なく浮気する妹に、今まで感じてこなかった怒りを覚えた。
「フェリシテ……泣くな。君は何も悪くないのだから」
そうね、この場合一番悪いのは殿下の段取りだわ。よりにもよって卒業パーティーの会場で、言葉遣いなどというつまらない理由で婚約凍結などと――
……いや待てよ、これは妹にとって良い機会かもしれない。もちろん、私にとっても。
「……わかりました。では、卒業後しばらくはお互いに距離を置くこととしましょう。その間、私は自らの言葉遣いを正すことに専念いたします。それまでは妹が王妃候補として扱われるということで、よろしいですね?」
「ああ、そうなる。無論、王妃教育も開始する」
「……結構なことです」
妹は外面こそ良いが、少々自分の立ち位置を知らなさ過ぎる面がある。公爵令嬢としての自覚が中々芽生えないあの子に、次期王妃の苦い汁を味見させるのは悪いことではない。
それに今回、妹は初めて私から何かを奪おうとした。本人にその自覚はなさそうだが、それがどういう意味を持つのか、この一件を通じて身を以て知る機会になるだろう。
そして何よりも……私にも殿下との結婚について少し考える時間が必要だ。いくら政略と言っても、何を考えているかわからない人を伴侶とすることは困難だ。
ムカムカした気持ちを深呼吸で無理矢理抑え込んで、努めて平静を装って方針を確認する。
「……ところで、言葉遣いに関しては王妃教育でも特に指摘されなかった以上、具体的にどこを直せばいいのかがわかりません。殿下には、私のどこが気になっているのですか?」
「人を攻撃する際の舌鋒の鋭さだ。それと人を小馬鹿にするような溜息もな。あれではいたずらに他人を不快にさせる。一年ほど待ってやる。婚期を逃したと嘲笑されたくなければ、精進に励むのだな」
不快に感じているのは他人ではなく殿下では?
そんな私の思いも知らずに鼻を鳴らした殿下は、妹の肩を抱きながら会場を後にした。お、おおう……ああもあからさまだと、逆に毒気を抜かれるな。実は殿下も本気で妹と結婚したいんじゃないかしら?
しかし、溜息ときましたか。こっちはこっちで難題だな……。
「だ、大丈夫ですか、アラベル様?」
「うん、思ったより平気」
「え?」
あ、油断してまた深呼吸を忘れた。これはある意味、殿下の言い分にも一理あるかもしれない……多分、物言いがキツイと感じる時って、こういう時だろうし。
それにしたって、婚約凍結の理由にはならないと思うけど。
「本当に大丈夫ですか……?少しお疲れでは……」
「……ええ、私ったら今何を口走ったのかしら。確かに疲れてるみたいですし、今日はもう休ませて頂きます。皆様、大変お騒がせいたしました。卒業後も公爵邸にはおりますので、いつでも遊びにいらしてください」
でもまずは退散しよう。卒業パーティーを荒らすなと言った本人がパーティーを荒らしていては世話ないし。
はてさてとりあえず屋敷に帰ってきた私は、予定よりもずっと早い帰宅に困惑する両親を軽くいなして、私室に閉じこもった。明日からどうしようか考えないといけない。
「うーん……深呼吸を溜息だと誤解されてたのは誤算だったなあ……でも深呼吸無しで公爵令嬢らしく振る舞うのは、未だに上手く行ってないし……」
私も学園生活の中で何度か試したことがあるが、どうしても反射的に応えると頭の中の言葉がそのまま出てしまい、敬語に直してから話すことができなかった。まさに生まれた身分を間違えたと言うべきだろう。
でも今日の殿下の様子から見て、私の癖のある性格を説明したところで理解はしてくれない気がする。下らない言い訳をしているとますます軽蔑するのではなかろうか。
「特に注意してる時とかの言葉遣いがキツイと思われているのよね、多分。そういう時に深呼吸を忘れないようにするだけでいいなら、なんとかなりそうだけど……」
でもそれだと普段の言葉遣いから貴族らしさが無くなり、本当に王妃教育を受けたのか?という疑念を抱かれかねない。いくらなんでも自分の素面を日常的に晒すのは良い手では――
…………うん?或いはそれも手か?
「考えてみたら、殿下は私の素を知らないのよね。一生の伴侶になる相手なんだから、いっそ本性を晒してみようか。それで気に入らないなら予定通り婚約解消してもらえばいいよね。妹も婚約したんだし」
そうすれば私は今後余計なストレスを抱えることもなく過ごせるし、受け入れられなかった場合は妹への教育が本格化するだけで済む。私が王妃教育を始めたのも、今の妹くらいの時期だし、なんとかなるだろう。
よし、それでいこう。もう我慢する生活はやめだ!
「アラベル、大丈夫か?帰ってから様子が変だが」
「卒業式で何かあったの?お願い、顔を見せて頂戴」
様子のおかしい私を心配してくれたのか、両親が部屋のドアをノックしてきた。愛されてるなあ、私は!
晴れ晴れとした気持ちのまま、私はドアを開けて心からの笑顔を向けた。こんなに感情を表に出したのは何年ぶりだ?
「心配かけてごめんね、お父様、お母様。私は元気だから心配しないで!」
「そうか、お前が元気ならそれで……え?」
「アラベル……よね?」
これは思ったよりも具合が良い……!頭でごちゃごちゃ考えることなく、思ったことをそのまま口に出せるのって、こんなに気持ちいいことだったんだ!どうして今まで気付かなかったんだろう!
「私ね、もう我慢しないって決めたんだ。妹が殿下と結婚してくれるなら、ありのままの自分で過ごそうって」
上機嫌でニコニコが止まらない私に、何故か二人はオロオロしている。別に変な事は言ってないつもりだけど……あ、そうか!二人はまだ妹も婚約したことを知らないんだ!?
「えっと、私の言葉遣いが悪いからってことで、妹が二人目の婚約者になったの。でも言葉遣いを全部直すのはきっと無理だから、多分妹が選ばれるわ。だからもういいの」
「こ、言葉遣い?フェリシテが殿下と多重婚約したと?訳がわからないが、お前に限ってそんなことには……いや、しかし……?」
「王妃教育も問題なく終わらせたのに、言葉遣いが悪いってどういうこと?いえ、そんなことより、貴方どうしたの?なんかいつもより……明るいというか……ちょっと子供っぽいわよ?」
これは逆に混乱させてしまったか……?少し時間を置いてから話した方がいいか。私もなんか疲れたし。
「そろそろフェリシテも帰ってくるだろうから、妹にも聞いてみて。私は疲れちゃったから寝るね。お父様、お母様、愛してるわ!」
「え、おい!?」
心の声をそのまま口にした私は、実に晴れやかな気持ちでベッドに飛び込んだ。う、うーーーん!この解放感よ!まるで体中に巻き付けてたものを全部切ったような気分だわ!
「くぅーー!清々しいーー!素顔さいこーー!」
足をバタバタさせながらの叫びは、心からの喜びに満ち満ちていた。裏で何が起こっているのかを知ることもなく、ただ無邪気に。
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シャルパンティエ前王妃の物語のスタートは、俺が予想していた物よりも劇的なものだったらしい。しかし、目の前の老女が足をバタつかせていたとは、少々想像できない。
「意外とウブな一面がお有りだったのですね」
そもそもアラベル王妃に妹君がいたとは知らなかった。一応予備知識として周辺情報を探ってはいたが、手に入る情報は全て彼女が王妃になってからのもので、それ以前の情報は完全に秘匿されていたのだ。これ一つ取っても大スクープだぞ……!
俺は必死でメモ帳にペンを走らせた。この人の思い出話を、一つとして聞き逃す訳にはいかない。
「ええ、アラベルの内面にはまだ子供らしい部分を残していました。当時の彼女は、とても無理をしていたのです」
「無理を……ですか?」
「はい。アラベルは生来の気性がとても強く、無意識とはいえ抑え込む日々に心労を抱えていたんです。その事に最初に気付いてくれたのは、幸運な事に私の両親でした。特に母は、アラベルの変化について早い段階から理解してくれていたのです」
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「ねえアナタ、アラベルを見てどう思いましたか?」
子供返りしたようなアラベルに困惑するばかりの私に対して、妻は冷静に問いかけてきた。だがまだ衝撃から立ち直っていない私には、まともに考えて答えることすら難しい。
「すまない、ローズ。私にはまだ何が何やら……」
「……子供の頃のあの子って、あんな感じでしたよね」
「確かに子供っぽいとは思ったが……」
いえ、そうではなく。そう呟いた妻は、小さく一呼吸置いてから私の目を見つめ返してきた。
「思い出したのです。殿下と10歳で婚約するまで、あの子の言葉選びは年相応の可愛らしいものでしたわ。あの子がああなったのは、殿下と婚約してからです」
言われてみればそうかもしれないが、それはあの子が10歳になって公爵令嬢としての自覚に目覚めたからだと思っていた。……まさか?
「ローズは今のアラベルが本質だと思っているのか」
しかして妻は、深々とうなずいた。妻には確信があるらしい。
「……あの子が返事をする時、一呼吸置くことには気付いてましたか?」
「うむ、それはもちろんだ。いつも話し出す前に深呼吸をしていたな。ああする事で落ち着いた態度を保っているのだろう。子供ながらに理性的だと感心していたものだ」
「あれを教えたのは私です。あの子は私に似て感情的な面が強かったので、婚約が決まる少し前にこう言いました。何かを話す前に一呼吸置きなさい、と」
そうだったのか。だがそれは全くおかしな話ではない。私も怒りに我を忘れそうな時は、意識して何度か呼吸に専念する。
「ではアラベルはずっとその教えを守ってきたのか。だが、あの子はもう我慢しないと言ったぞ。……じゃあ、まさか」
「ええ……。あの子は話す前に一呼吸置くことに、強いストレスを感じていたのかも知れません。私達は一呼吸で冷静になれますが、あの子は深呼吸をしないといけないほどに、生来の感情が強かったのでしょう。私はただ無意味にあの子を縛っていたのかもしれませんね……」
妻は、アラベルの母として後悔の念を抱いているらしい。
「自分を責めるな。お前の教えは間違っていないし、あの子も必要と感じたからそうしてきたのだ。お前に感謝と愛情こそあれど、恨みはあるまい」
「でも、私はあの子の母です」
「そうだ、私もあの子の父親だ。そして私達はフェリシテの親でもあるのだよ」
「ただいま帰りました」
「おかえり、フェリシテ。学園の下見に行っていたにしては、遅かったじゃないか」
アラベルの帰宅から2時間ほどして、ようやくフェリシテが帰ってきた。浮ついている様子を見る限り、どうやらこの子にとって非常に良い事があったらしい。
それが何であるかは、容易に想像がついてしまう。残念だが、アラベルの言っていたことは事実かもしれない。
「夕食はまだだろう?」
「はい、まだです。もしかして待ってくださっていたのですか?」
「ああ。これからはちゃんと事前に連絡しなさい。私達が食事しないと、用意する侍女達の食事も遅れるのだから」
果たしてどこまで理解してくれたか、ペコリと頭を下げたフェリシテはそのまま食堂へ向かっていった。さて、ともかく色々と確認しなくてはならないだろう。
「アナタ……」
「大丈夫だ。冷静に……穏便に話すつもりだよ」
全てアラベルの言う通りだとしたら、私が波風を立てるまでもなく、既にフェリシテは嵐の海の只中にいるに違いない。
屋敷の広い食堂で食器同士が当たる音を聞きながら、私はまず一番重要な事実確認をすることにした。まだワインには口を付けていない。今口にしても、恐らく苦味と酸味しか感じないだろうから。
「フェリシテ。お前が殿下の第二婚約者に選ばれたというのは事実か?」
「まあ!お父様ったらお耳が早いですわね!」
喜色満面といった様子で、フェリシテは笑顔で応えた。そこに計算高さは感じられない。
「では事実なのだな?」
「はい!以前私が封じ切れなかった淡い想いを、殿下は覚えててくださったんです!お姉様より立派な淑女になれるかはわかりませんけど、私頑張りますわ!」
そのあまりにも純粋な喜びように、私は頭と胸が痛くなった。どうやら恋愛小説の王子様と運命の出会いを果たしたような気分でいるらしい。だが実際はそんな甘ったるい状況ではない。
「ならば恐らくすぐに王妃教育が始まるだろう。アラベルの婚約凍結の期限は聞いているか?」
「一年ですわ!」
「まあっ……!?」
一年だと……!?それは明らかに無謀な期間設定だ。妻も戦慄を覚えたようで、顔を強張らせている。どうやら殿下の方は、最初からフェリシテに期待していないらしい。
「あの小僧がッ……!」
「……アナタ、不敬ですわ。落ち着いて……」
「お父様?」
「……いや、すまない。美味いな、今日のパンは」
妻の言う通り実に不敬だが、この時は目の前の現実が見えていない娘より、愛娘二人を振り回すニコラ殿下に対して怒りを覚えた。
確かに、フェリシテは浅はかな行動に出たかもしれない。だがまだ15歳になろうかというフェリシテには、あまりにも背負う荷が重すぎる。
一体何を考えておられるのだ、殿下は……!
「フェリシテ、よくお聞き。お前は今日から寝る間も惜しんで王妃になるべく勉強する必要がある。アラベルが学園生活の三年で覚えた内容を、お前は一年で身に付けないといけないのだ」
「……え?さ、三年?お姉さまは三年間もお勉強を?」
「ああ、学園に通いながらな。しかもあのアラベルをして三年かかった内容をだ。この意味がわかるか?」
「……えっ!?」
ここまで言ったところで、ようやくフェリシテは王妃教育の難しさを想像できたらしい。先程までの喜色が薄れ、顔色が悪くなっていた。フェリシテはアラベルから勉強を教わったことはあっても、アラベル以上の成績を納めた事はない。
「それだけではない。多重婚約が許される理由は知っているか?」
「は、はい。でもそれは、お姉様の言葉遣いに問題があるからと殿下は説明してくださいました。だから私に幸運が回ってきたのだと」
ああ、やはりこれもわかっていなかったか……だが無理からぬことかもしれない。アラベルもフェリシテくらいの歳の頃は、まだ恋に恋するような思春期の少女で、王妃教育もまだあまり進んでなかった。今のフェリシテにアラベルと同じ見識を持てと言う方が酷だろう。
「多重婚約は相手婚約者に重大な有責があった際のみに許された、例外条項だ。主に相手が犯罪者だった場合に適用される」
「…………犯罪者?ど、どういうことです……!?」
「アラベルは今、世間では犯罪者として疑われる立場になってしまったのだ。殿下がお前を第二婚約者に選んだ時点でな」
「そんなっ!?お姉様が、犯罪者扱いって……!?」
「それも一年間だ」
「一年もお姉様が貶められてしまうのですか!?」
遂に事態の深刻さを理解したフェリシテは、これまでの陶酔した表情を全て失い、今度こそ青い顔で立ち上がった。衝撃でテーブルが揺れて、食器がガチャリと音を立てる。
「静かにしなさい。王妃になる者がいたずらに音を立ててはいけない。食事中に突然立つのも無作法だ。家と身内に恥をかかせることにもなる」
「!?」
「さあ、一切の音を立てずに座るのだ」
脚が震えているからか、それとも普段から意識してこなかったからか……フェリシテはぎこちない動きで衣擦れの音を立てながら、背もたれに体を預けるようにして座った。そのせいで椅子からギシリと音が上がり、その音にフェリシテ自身がビクリと肩を揺らす。
「今言ったような作法も、王妃教育の……いや、貴族の基本作法として当然叩き込まれることになる。むしろ当たり前に習得しているものと考えられている。フェリシテ、お前は本当に頑張らないといけないよ」
「お……お父様、私、やっぱり殿下に言って、婚約を取り止めに……」
「無理だ。経緯はどうあれ、アラベルとは異なり、お前と殿下はお互いに望んで、当事者同士で婚約を結んだのだ。故に一方的な破棄は絶対に認められない。お前が色めき立って婚約破棄を叫べば、一番重い責任を負うのは親である私、次にお前だ」
「責任って……」
「金か、土地か、身分か……或いは首か。いずれにしても、公爵家としての栄華は終わるだろう」
「ひぃ……!?」
可哀想だが、王家との婚約とはそれだけ神聖な契約なのだ。本来なら一方的に無かったことにも、凍結させることも出来ない。出来ないのですぞ、殿下。
「……どうしよう……どうしたら……!わ、私、なんてことを……!?」
この様子だと、今日はもう無理だな……。
「焦るなフェリシテ。まずは食事作法を復習しよう。今は出来ることから直していこうじゃないか」
「…………っ、は、はい……はい……!」
消え入るような声に、以前のフェリシテらしい無邪気さは残っていなかった。
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「おはようございます、お嬢様」
「おはよ!いい天気ね」
「はい!…………はい?」
一晩よーーく考えた私は、ついに発想を転換させる事を決意した。ずばり、普段の言葉遣いが崩れてしまうのは割り切って、いざという時だけ深呼吸すると。
殿下はああ言ったが、二十歳手前ならまだ婚期は残っているだろうし。無理なら私がコーヌス家を継いで婿なり養子なりを用意すれば良い。それまでは実質的に私は自由に過ごせる!よーし!
「どうしたの?朝御飯にしましょうよ」
「え、あ、はい!もう準備は出来ております!」
「流石に仕事が早いわね!いつもありがと!」
これまでは胸に秘めていた心からの賛辞も、これからは深呼吸を挟まずにありのまま送ることが出来る。貴族の令嬢として、これに勝る幸福があるだろうか。恐らくは世の中の貴族令嬢の大半が羨む状況に違いないだろう。なんせ侍女や執事に対して貴族の仮面を着けることを意識しなくて済むのだから!ビバ!素顔!称えよ素面!
ルンルン気分で食堂へ向かう私は興奮のあまり、後ろで交わされていたひそひそ話が耳に入らなかった。
「え……あの、メイド長、今のお嬢様……ですよね?」
「そうねぇ、まるで幼い頃のお嬢様そのものだわ。可愛らしいものだわね」
「そうなのですか?お嬢様は昔から完璧というか、かなり真面目で硬いお方だと思っていましたが……」
「それはそうよ。なにせ十年ほど前からは隙の無いご令嬢ぶりを見せていたものねぇ。……さて、朝食を気持ちよく召し上がって頂かないといけないわ。あなたも急ぎなさい。これからも明るいお嬢様のもとでお務めしたいならね」
「は、はい!わかりました!」
その日のメイド達は、何故かいつもよりもずっと働き者だった。
「おはようございます!……ん?」
意気揚々と食堂に入った私だったが、何故か空気が若干重い。いや若干どころでなく、いっそ夜のように暗い。特にフェリシテが深刻だ。な、なんだ?何があったのだ?
「フェリシテどうしたの?元気ないけど……」
「おはようございます、お姉様……」
瞳がまるで常闇のような暗さだ……もしかして、私が寝てしまった後で厳しい叱責でもあったのだろうか。だとしたらフェリシテに対する誤解を解かなくてはならない。
「おはようアラベル」
「お父様、お母様、何があったのですか?まさかあの後、多重婚約について妹を責めたのでは!?」
私の言葉にビクリと肩を揺らしたのは妹のフェリシテだ。その目には怯えたような弱々しい鈍い光を漂わせている。
こ、これは……負け犬の目だ……石を投げられた犬の目だ……!?いかん、いかんぞフェリシテ!貴方には私のスペアとして頑張って王妃を目指してもらわないといけないのだ!怒られたくらいで自信を失ってる場合じゃないわよ!?
「フェリシテは悪くないわ!最終的に見初めたのは殿下よ!」
「誤解するな、誓って責めてはいない。が、王妃になるに当たって必要な勉強についての説教はした。この子は利発だが勉強嫌いなところがあるからな」
そう言うとお父様は、指で私に着席を促した。私もそれに従い、侍女が椅子を引くのを待ってから、衣擦れの音さえも消してゆっくりと腰掛ける。背もたれを使うと音が立つので、深くは座らない。そしてテーブルの陰で、ドレスが崩れないようさり気なく直した。
その様子を、何故か周りの人間全員が見守っているような気がして、どこか居心地が悪かった。
「……さて、まずは食事にしよう」
運ばれてきた食事に、お父様の合図の後で手を付ける。サラダは生鮮野菜を使っているので、どうあっても音が立ちやすい。この手の食材を食べる時は、フォークを立てる際はゆっくりと斜めに押し当てるようにして刺して、咀嚼する時もゆっくりと慎重に咀嚼すれば音は立たない。
その所作を見た妹が、何故か痛恨の表情を浮かべて膝上の手を握り締める。あの食欲旺盛な妹がまったく食事に手を付けず、私が食べる様子を観察しているようだった。あんまりにも真面目な顔で見つめてくるものだから、つい苦笑いが浮かんでしまう。
「あんまり見つめられるとちょっと食べにくいわ」
否、だいぶ食べにくいわ。
「フェリシテ、今のを見たな?」
「…………っ、はい」
「王妃になるとは、こういう事だ。普段の所作から可能な限り音を消し、不審な音があった時に護衛がすぐに動けるようにする。今までお前は気付かなかったろうが、アラベルはああして普段から未来の王妃として行動しているのだ」
「…………はい」
「さりげなくドレスも直していただろう。あれは皺が出来ぬようにするための基本動作だ。誰もがやることだが、音も無くこなすには練習が必要なのだ」
「…………はい」
え、そういう話?でもお父様、それは違います。ただ王妃教育が骨身に叩き込まれてて、無意識にそう動いてしまうだけなのです。王妃教育中、所作を間違えた時にガーガー怒鳴っていた教育係のオーガっぷりは、今でもたまに夢に出るほどだ。
それにしても、フェリシテがこんなにも弱々しい姿を見せるなんて、いつぶりだろう。試験の苦手科目で平均点以下を取った時以来ではないだろうか?あの時は私が何度も励まして、毎日一緒に勉強するようになって、ようやく成績上位に食らいつくかというレベルまで持ち直したけども。
「ねえ、本当に大丈夫?少し休んできた方が――」
「……っ!お姉様!!」
「えっ、フェリシテ!?」
突如妹が、私に向けて頭を下げ、それどころか床に手を付いた。
「ごめんなさいお姉様!私、どうしてもお姉様の殿下が欲しかったんです!どうしても殿下のお心が欲しくて、気持ちを向けてほしくて、つい告白を!だけどこんな、お姉さまが犯罪者扱いされるなんて思わなくて……!!」
そこまで言われてようやく理解した。お父様とお母様の方を見ると、無言で頷いている。……どうやら二人がフェリシテに、噛んで含めるように丁寧な状況説明をしてしまったらしい。そして幸か不幸か、妹はその深刻さに気付かないほど愚かではなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい!こんなつもりじゃなかったんです!初恋だったんです!真実の愛を見つけたつもりだったんです!立派なお姉様よりも私を選んでもらえたんだって調子に乗ってました!!でも、だけどッッ!!」
「落ち着きなさい、フェリシテ」
「お姉様ッ!私が愚かでしたッ!私のせいでお姉様が一年間も白い目で見られるなんて耐えられないッ!!どうか私を叱ってくださいッ!!私を叩いてくださいッ!!お気の済むままに!!」
大量の涙を流して謝罪する妹を見て、どうも調子が狂ってしまった。困ったな……横恋慕が成功してシメシメと思っててくれていれば、私も思う存分羽を伸ばして好き勝手過ごせたのだけども。
思ったよりも早く……ていうか出だしから妹が後悔してしまっている。これでは王妃の苦い汁を吸わせる云々の問題ではなくなってしまった。恐らくもう、妹は王妃に成り代わろうとは考えていないだろう。
「……もう私から……いえ他人から何かを奪おうとはしないかしら?自分の幸せを自分で見つけると誓える?」
「は、はい!それもう、誓って二度と致しません!私が間違っていたのです!」
……よし分かった。よーく分かった。妹は既に目覚めてしまったのだ。今からもう一度夢に酔わせたら、私はこの子の姉どころか、人ですらなくなってしまうだろう。
こうなったら家族で一致団結して、方針を更新する他ない。つまり、妹の幸せと私の幸せを両立させるのだ!すなわち、素顔の私が王妃になり、妹もまた一流のスペアになる過程で一流の公爵令嬢へと進化させる!これしかない!
「ありがとう。今から私達は、元の仲良し姉妹よ」
「お姉様!?でも……!」
妹は罰を望んでいるみたいだけど、残念ながら罰を与える時間すら惜しい。
私は冷静さを取り戻すため、敢えて一度深呼吸した。それを見た両親が何故か苦い顔をしていたが、今はそんなことを気にする余裕も無い。
「……フェリシテ、今の貴方が第二婚約者であることに変わりはないの。今更破棄も出来ないし、万が一殿下が私の言葉遣いに満足しなかったら貴方が王妃にならざるを得ない。だから私は、貴方の王妃教育に協力することにする」
「それって……」
「貴方にはちゃんと立派な第二候補になってもらうわ。どちらが王妃になっても、国が傾かないようにね」
息を呑む妹に手を差し伸べて、私は言葉を続けた。次は深呼吸をしないまま、心のままに。
「貴方が味方になってくれるなら、これ以上心強いことはないの。貴方にその覚悟があるなら……私の手を取って立ちなさい。それが嫌なら、その手で好きな物を好きなように食べて過ごせばいい。私はそれを責めないわ」
言うが早いか、妹は私の手をしっかと握って立ち上がった。……なんてことだろう。たった一日で、いや一晩で、妹は一人の令嬢として独り立ちしようと決意してしまった。計算違いもいいところだ。
でもこれでもう、お互い後に引けない状態になった。さあ、覚悟を決めるのよ、アラベル!
「お願いします、お姉様!公爵家とお姉様に恥ずかしくない、立派な婚約者になってみせます!だから、私に王妃のなんたるかを教えてください!」
「ええ、私に任せて。でもまずは朝ご飯にしましょう?ご飯の途中だったから、私もお腹が空いているわ」
「あ!?は、はい!……あ、あの、その前に!!」
「うん?」
「……音を立てないでサラダを食べるやり方を、教えてくれませんか?」
……参ったな。やっぱり私は、この子のことを嫌いにはなれないらしい。
妹の支援を始めて一ヶ月が経った。学園生活と並行しての正式な王妃教育――当然かなりタイトな日程――に加えて、履修済みの私による特別補修も相まって、妹は文字通り寝る時間がまともに無くなった。
「少し仮眠をとった方が良いわよ」
「いいんですっ……王妃様になったら、もっと忙しいはずですからっ……」
それでも妹は折れなかった。欲しい物があればすぐに何でも手に入れられて、苦労らしい苦労も無く育ってきたフェリシテは、何かに突き動かされるようにがむしゃらに教育を受けていた。
「それに私は、お姉様にとって恥ずかしくない予備部品になりたいんです……!」
ボロボロになりながらそう言う妹の目は、私よりもずっと強い輝きを放っているような気がした。
果たして私は、フェリシテ以上の熱心さを持って王妃になろうとしていただろうか。最初から政略結婚だと考えていた私は、ただ惰性で教育を受けてなかったか?
「……座学に入る前に、休憩よ。お茶を入れるわ」
「は、はい、お姉様」
「侍女たちは一度部屋の外に出て。窓も閉めて頂戴。一切の無音の中で飲むわよ」
「はいっ」
その仕草は劇的な改善を見せている。こうして静寂の中でお茶を飲んでいても、お互いに音らしい音は立っていない。教える前から、呼吸音すら抑えていた。もしかしたら、寝る直前まで消音を意識しているのかも知れない。
だがそれでも不足だ。あくまで表面上はらしくなってきただけであり、政治的な感覚はまだ備わっていない。ただの傀儡が、綺麗な傀儡になっただけだ。
端的に言えば中身が足りない。逆にそこさえ備われば、王妃教育一年目としては及第点だ。次期王妃としての素質有りと見込んでもらえるだろう。他にも人脈作りのノウハウ等細かなスキルや作法はあるのだが、それらは時間をかけて育てる分野なので、たとえ王家の力を総動員しても一年では磨けないので割り切るしかない。
もちろん私も私で結婚に向けて、ある準備をしていた。ところがこのタイミングで、やや予想外ではあっても意外ではない人から招待状が届いた。
「お嬢様、失礼致します。殿下からお茶会のお誘いが……」
「どっちに?」
「アラベルお嬢様にです。王城のテラスで行おうとのことです」
なるほど、進捗確認か。
「やっぱり殿下はお姉様のことが……」
「私の言葉遣いがどれくらい直ったかを確かめたいだけじゃない?どうせジャッジは一年後にするのに……監督者気取りなのかしら」
「わ、私にはなんとも……」
それにしても……完全に舐められてるわね、フェリシテは。本来なら婚約凍結した出来損ないの女より先に、新たな婚約者に気を配るべきところよ。どうしても私が気になるなら、せめて同列に扱うべきだわ。でもおかげで、殿下の狙いが少し見えてきた気がする。
殿下は妹を使って私の再教育、いや再調教するつもりなんだ。自分好みの王妃にするためだけに、妹を利用している。
「癪に障るわ」
「はい?」
「殿下は少し調子に乗りすぎてるって意味よ」
よろしい。少し早いけど、殿下にもそろそろ現実を突き付けてやろう。私はティーカップを置いて、侍女へと向き直った。
「お父様にお茶会の日程をお知らせして」
「旦那様はご招待されておりませんが……」
「お父様はお茶会の前に登城する必要があるの。いいから私だけが王城に誘われたと、そのまま伝えて頂戴。それでお父様には全て伝わるから」
そしてその日の夕方に、予想通りお父様から私に返事があった。前日までには仕上げておくので、殿下のお相手を頼む……と。
さて、コーヌス公爵家を敵に回そうとしていることと、自分が何をしてしまったかについて、殿下は気付けるかしら?
「フェリシテ」
「はい?」
「王妃とは、時に参謀以上に踏み込んで忠告できる存在よ。貴方には私がこれから何をするのか、話しておくわね。それと――」
殿下。貴方には一年間ずっと震え続けて頂きます。
--------
俺はシャルパンティエ前王妃の独白を、ただ黙って聞くことしか出来なかった。取材対象から情報を引き出そうとしていない時点で、取材する側の姿勢としては失格なのだが、今彼女の独白を遮ることは何故か非常に躊躇われた。黙って聞かなければならないと、記者の本能が訴え続けている。
はあ、という大きな溜息に背中が震えた。その溜息には当時の苛立ちや、後悔にも似た暗い感情の残滓が色濃く残されている。
「……アラベルにとって、当時のニコラ殿下……ああ、もちろん前国王ね。彼の横暴が許せるものではなかったの。妹の愚行も騒動の一因ではあったけど、そもそもの発端は殿下の浅はかな企みによって誘発されたものだったから、怒りの矛先が殿下に向かったのよね」
俺は自分を落ち着かせるため、乾いた喉を自らの唾液で潤そうとした。ゴクリと大きく喉が鳴ったが、喉の渇きは叱りつけるかのようにむず痒さを残している。
「な、なるほど。しかしコーヌス家からすれば、政略結婚に乗じて公爵家そのものを傀儡にされるような危機感もあったのでは?」
言い切ってから俺は口を手で覆った。しまった、これは完全に失言だ。いくら今の彼女がシャルパンティエ王家の人間とはいえ、生家を貶めるような発言を快くは思わないだろう。
「失言でした!どうかお許しください」
「謝らないで、むしろ感心していますわ。貴方は公爵家の気持ちを、深く察してくださっているのね。それでいて記者としての職務精神も忘れていない……良い事ではありませんか」
赦しの笑みを向けられた俺は、安堵でさらに冷や汗を流した。危なかった。相手はある意味で魔獣、犯罪者よりも危険な人物なのだ。温厚なお方だが、失礼が無いよう言葉は選ばないといけない。
「記者さんがおっしゃった通り、政治的に見ても殿下の行動は許容できるものではありませんでした。だからこそアラベルと父は、殿下を通じて王家を牽制しようと試みたのです」
「牽制ですか」
「ええ。しかしそれは、アラベル自身も予想が出来ないほどの影響を後に与えてしまいました」
--------
「殿下、アラベル・コーヌス様がいらっしゃいました」
「テラスへ通せ。僕もすぐに行く」
約束の日に、約束の時間通りに来たようだな。相変わらずあの不快な溜息を除けば、きっちりと過不足なく動く娘だ。まあそうでなくては未来の王妃など務まらないだろうが。
「それと、陛下より伝言です」
「うん?父上から?」
「はい。大人として振る舞うように、との事です」
どういう意味だ?まるで意味がわからない。
「僕が子供だと言いたいのか」
「殿下、私は伝言をお伝えしただけにございます」
当たり前のことを言うな……!僕は不愉快さを隠さずに舌打ちして、テラスへと歩を進めた。そして同時に、今日何を話すべきかを改めて整理する。
まずはあの不快な溜息と言葉の強さが改善されたかどうかの確認。二つ目は僕の伴侶としての自覚が芽生えたかの意識確認。特に自分の立場について一種の危機感を抱けたかどうかを聞くことだ。これは僕とアラベルがこの国を治めるのに必要なステップとなる。
彼女は王妃としては申し分無い素養と美貌を兼ね備えているが、問題解決する時にあの深い溜息と共にさっさと片付けてしまうため、隣にいる僕がまるで無能であるかのように周囲からは映ってしまう。
「僕が王子だから誰も言えないだけで、恐らく誰もがそう感じているに違いないんだ……」
故に改善を急がせないといけない。
そこでアラベルの保険に妹を据えることで、妹に対する対抗意識と危機感を煽った。これでアラベルも僕に相応しい伴侶へと急成長してくれるだろう。初めから小娘の方には何も期待していないのだ。
気分を少し取り戻して、僕はアラベルが待つテラスに足を踏み入れた。
「ご機嫌麗しゅうございますわ、殿下」
「ああ、君も元気だったか?」
「はい、お陰様で」
アラベルの様子に若干の違和感を覚えつつ、僕も席についた。既に僕用のお茶と、アラベルが焼いてきたらしい菓子がティーテーブルに乗せられている。
「どうぞ、ベリーケーキです。まだ温かいはずですよ」
そう言うと彼女は、侍女にお願いして小さく一切れ切り分けてもらうと――
「えっ!?」
「っ!」
なんといきなりそれをパクリと口にしてしまった。
その場にいた全員が息を呑む。未来の王妃が毒見も待たずに菓子を口にするなど有り得ない。たとえそれが持参したものであってもだ。だが彼女はそんな常識と作法を無視して、静かに嚥下してから水を飲んだ。
そしてさらに続けて驚くべきことを口にした。
「どうぞ、この通り毒はございませんのでお召し上がりください」
「自分で毒見をしたのか……!?」
「今日は毒見役を連れてませんので」
確かにアラベル一人しか招待しなかったが……!いや、そうではない!
「何故毒見役を連れてこなかった!?」
お、落ち着け!それよりも聞くことがあろう!
「そ、そもそも我が城の毒見係に任せればいいだろう!君は未来の王妃なのだから、そのような危険な真似は――」
「今の私は未来の王妃じゃありません」
その激情が滴るような一言で、ゾクリと背筋が凍り付いた。表情は穏やかなのに、目に込められた力は魔獣のそれに匹敵する。油断すれば喰い殺されそうだ。
ち、違う……!これはアラベルじゃない……!?この娘は、誰だ……!?
「私と殿下の婚約は、殿下の宣言により凍結されています。婚約凍結とはすなわち、婚約が一時無効化されている状態を指しますから、今の私と殿下は他人も同然なのです。故に王家の資産である毒見役を私的な理由で使うことは出来ません」
「他人……だと……!?」
「そう。今の殿下の正式な婚約者は、フェリシテ・コーヌス様だけです。私は新たな婚約者を設定できないだけの、ただの公爵令嬢アラベルに過ぎません」
自分の妹に敬称を付けたことで、僕の中でこの上ない焦燥感と喪失感が生まれた。
「馬鹿な!?」
ガタリと音を立てて立ち上がった俺は、ほぼ同時に叫んでいた。その内容は、僕が打算を組んでいた時とはまるで正反対の、アラベルに縋り付くものだった。
「君はほんの一ヶ月前まで僕の正式な婚約者、次期王妃だった!お互いに夫婦になろうと目指してきたはずだろう!そんな簡単に割り切れる訳が――」
だが僕は最後まで言葉を吐き出せなかった。アラベルが……嘲笑っていた。今まで見せたことの無い溢れるばかりの歓喜と悦楽によって、歯を見せて嘲笑っていた。
ただ一つの音も立てることなく、静かに。
「法的にはそう解釈せざるを得ないのですよ。私も、司法も、陛下でさえも。つまり現状、王妃候補の予備は厳密にはフェリシテ様ではなく……私なのです」
「なっ…………!?」
「故にもしも私が婚約凍結期間中に落命したり、フェリシテ様が王妃教育を完了させた場合は、フェリシテ様が自動的に王妃となります」
ぼ、僕が、あの小娘と結婚!?む、無理だ、あんな純粋無垢だけが取り柄の娘と国家運営していくなど、不可能に決まっている……!いや、それよりも……落命!?暗殺によって益がある人間がいると、そう忠告しているのか!?
「ああ、もちろんフェリシテ様に何かあった場合であっても、私が王妃になるとは限りません」
「何故だ!?」
「……お忘れですか?」
その一言には明確な溜息が添えられていた。たったそれだけのことなのに、不快さではなく不安で内心が満たされていく。
「結婚の条件は私が言葉遣いと溜息を改善すること。期日に私が何度も溜息をしてしまえば、それで破談なのです。そしてそれが故意かどうかを判別するのは……魔法でも不可能」
わ……わざと、直ってないフリをすることも、出来る……!?そんな、じゃあ、既に結婚の主導権はアラベルが握ってるということか……!?
僕がアラベルを突き放したばかりに……!?
「…………はっ………ひっ………!?」
息ができない……!アラベルの目が怖い、次に何を言うのかがわからなくて怖い……!
何故、彼女は優雅な微笑みを浮かべていられるんだ……!?
「お茶とベリーケーキが冷めますよ?」
お茶どころではない!これはまずい……!まずい、非常にまずい!完全に計算違いしていた!
アラベルの言う通りなのだ。僕はアラベルとの婚約を一方的に凍結した。つまり、アラベルに王妃の素質はないと公言したに等しい。フェリシテを第二婚約者にしたことでアラベルを奮起させるつもりが、むしろアラベルを限りなく遠い位置へ追いやってしまっていた!
そして、落命という言葉が示す意味……!卒業パーティーという公的な場で婚約凍結を叫んだのだ。国外の要人の耳に入らないという保証はない。いや、むしろ既に知られていると見ていいだろう。……第二婚約者の無能を知った諸国が、アラベルを害して王妃に据えようとしないと誰が保証出来る!?
ぼ、僕は……とんでもないことをしてしまったのではないか!?
「どうやら本日は体調が優れないようですわね。私は失礼させて頂きます。ベリーケーキは夕食のデザートにでもなさってください」
「ア、アラベ――」
「殿下」
最後の嘲笑は、今度こそ悪意と敵意が込められていた。
「私の言葉遣いは、改善されておりますでしょうか?」
「…………っ!?」
即答出来ない。言われてみれば溜息は殆ど無くなっていた気はするが……言葉遣いはどうだった?駄目だ、わからない。ただ明らかなのは――
「次は妹を招待して差し上げてください。なにせ殿下の正式な婚約者様なのですから」
一番敵に回してはいけない相手を怒らせたということだ。
テラスは夕暮れによって赤く照らされ始めている。だが僕はその場から一切動けなかった。冷めきったベリーケーキを無意味に眺めて、アラベルの言葉を反芻することしか出来ない。
「ニコラ」
「ち、父上……」
いつの間にやってきたのだろう、父上に声を掛けられた。謁見の間でも私室でもなく、テラスで声を掛けられたのは初めてだ。
「ちゃんと大人として振る舞えているか?」
「!?」
その目はフェリシテと共に謁見した時と同じで、何も映していなかった。ただ虚ろに、しかし明確な失望感の残滓だけが感じられる、とても息子に向けたとは思えないほどの冷たい目。
「学園を卒業した時点で、お前はもう大人だ。王位継承権を唯一保持する者として、そして未来の王として振る舞うことを意識せよと、私は在学中も舌が痺れるほど言ってきたな。よもや忘れてはいまい」
何も言い返せなかった。アラベルの変化に対する恐怖と、父上の無機質な語りに、僕はただ震えるしかない。
どうして僕は、アラベルを再教育しようなどと考えていたのだ。僕自身、そんなことを考えられるほどできた人間ではなかったというのに。
「先日、コーヌス公に会った」
コーヌスという名前にビクリと肩が反応した。まだなにかあるのか……!?
「フェリシテ嬢は寝る間も惜しんで王妃教育を受けているそうだ。一日に3時間も寝ていない日々が続いているらしい」
「あ……あの子が……?」
「お前にふさわしい伴侶になるためだそうだ。アラベル嬢も協力してくれているらしい。なんとも健気ではないか」
ふるふると手が小刻みに揺れた。カタカタと脚が震えた。僕の為に頑張っているだって……?あの、何も知らなそうな、小娘が?
俺なんかの、ために?
「お前はどうなのだ、ニコラ」
「え……」
「お前は彼女達に相応しい男なのか」
「……っ」
「それでも未来の王か?」
答えられない。答えが無い。そんなことは考えた事もない。帝王学は学んでいる。父上の仕事も手伝っている。剣の腕もある。
――だから、どうした?
「……言葉もありません」
絞り出すような一言に対して、父上は何も応えなかった。
--------
さて、殿下の肝もこれで相当冷えたことだろう。結婚の主導権は既にコーヌス家にあり、私と妹のどちらと結婚させるかは今やこちら次第だ。
私の素顔を見せるという当初の目的達成は先延ばしになってしまったけど、今回ばかりは仕方なかった。こちらの話を有利に運ぶためにも私の言葉に耳を貸せる心境にする必要があったし、暴走しそうになっていた殿下を牽制する必要があったから。
しかし、それにしても。
「……はぁ……!はぁ……!……はぁぁー……」
疲れた……!なんとか、こちらの狙い通りに殿下の鼻っ柱を折れたと思うけども、この呼吸法はあまり良い方法ではなさそうだ。
私の言葉遣いは、実際のところ殆ど改善されていない。今も深呼吸抜きで話すと言葉が乱れてしまうし、意識してもどうしても抜けてしまうことがある。
それでもあの場では、溜息を可能な限り封じる必要があった。そうしないと殿下に何を言っても説得力が生まれない。だから私はかなり無茶なやり方で言葉の乱れを封じることにした。
その方法とは、常に深呼吸をし続けること。
話す直前に深呼吸を挟むのではなく、普段の呼吸を全て深呼吸にすることで、いつ如何なるタイミングでも言葉を崩さずにいる事ができる、まさに奥の手だ。つい先週編み出したばかりの苦肉の策だったけど、どうやら一定の効果はあるらしい。
でもこれは……。
「駄目ね……っ!これは使えない……っ!」
このやり方では呼吸するだけでひどく疲れてしまう。言葉遣いだけはギリギリ維持できたが、感情を抑える余裕がない。自室では一時間ほど持続できたが、王城のような衆人環視の下では2,30分が限界のようだ。
しかも最後の方は過呼吸になりかけて、無理矢理理由を作って席を立つしかなかった。これではとても改善できたとは言えない。
こんな方法で騙し騙し克服したところで、殿下のことをより巧妙に欺いているだけに過ぎないだろう。やっぱり、次に会う時には言葉遣いの維持にどれほど心を削っているのか、よく話し合って知ってもらう必要がある。
「………帰ろう。フェリシテが待ってる」
そのフェリシテは、どうしていつも丁寧な言葉遣いでいられるんだろう。敬語を使うのって、こんなにも苦しいことなのに……どうやって維持してるの?
この時、初めて妹に対して劣等感を覚えた気がした。私から教えられることをどんどん吸収していくフェリシテは、今の調子でいけば2年もすれば立派に王妃教育を終えてしまうだろう。でもそうなったら、私があの子に勝る部分なんて残っているのかしら?
その先を想像しそうになって、私は本当にめまいをおこして倒れそうになった。だけど込み上げるものを抑える為にした深呼吸は、ただ私の胸をさらに締め上げるだけで、役に立ってはくれなかった。
--------
「当時のアラベルは必死でした。強すぎる感情を抑える術が分からなくて、無謀なやり方で強引に封じようとしていました。全てはコーヌス家にとって有利な政略結婚を成立させるため……つまり、基本的にはアラベルが殿下と結婚し、それが認められずフェリシテが結婚した場合でもアラベルの影を残すために。妹の決意を知ってしまった彼女は、ただ妹が不幸にならないよう全力で努力していたんです」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
俺は我慢できず、前王妃の言葉を遮った。これまでも微妙に感じていた矛盾が、ここでさらに大きくなる。アラベルの行動は、明らかに矛盾している。
「それなら当時の殿下を脅迫するような真似をする必要は無かったはずです!硬軟織り交ぜて、アラベル様が王妃になるよう思考誘導……えーっと、つまりアラベル様が王妃になる方が、王国にとって多大な利益があると、そう認識させれば良かったはず!わざわざアラベル様が殿下に恐怖心を抱かせる必要は――」
静かに。まるでそう言っているかのように、彼女は自身の唇に指を乗せた。気が付けば、俺は椅子から腰を浮かせている。……いけない、落ち着こう。どうやら感情移入しすぎているらしい。
だが、誰にだ?当時のアラベルに?フェリシテに?それとも、目の前の前王妃にか?何故こうも落ち着かないのだ。
この気持ちの悪い違和感はどこからくる。
「お優しいお方。慌てずとも、最後までお話しいたしますわ。でも貴方の言う通り、アラベルの行動は矛盾を孕んでいたのです。本当に政略結婚を正しい形にしたいなら、父と組んで陛下に訴えればそれでよかった。なのに彼女は敢えて、殿下の敵として立ちはだかった。それはまだ彼女自身は気付いていなかったけど、内心で燻っていた予感に突き動かされたものだったのです」
「予感……?アラベル様は、一体何に気付いていたと……?」
深い深い溜息は、部屋の静寂を明確に打ち破る大きさだった。それはまるで、これから話すことが彼女にとって大きな意味のある……いや、覚悟を伴うものであることを予感させた。
俺は手汗でヨレヨレになったメモ帳と、べとべとになったペンを握り直した。
--------
「お嬢様。殿下よりお茶会のお誘いです」
「今度はフェリシテね?」
「はい」
お茶会からわずか一週間後、今度はフェリシテが誘われた。王家の手配にしてはお茶会に誘う間隔が短い。それだけ殿下にも焦りが生まれているのだろう。
焦ってくれていることに安堵している私の心は、どこに向かっているのだ?殿下と結婚したいのか、したくないのか、どっちだ?
「フェリシテ、頑張ってきなさい。今回のお茶会は今まで通り、殿下に対して想いを――」
「お姉様」
凛とした声が、フェリシテの口から出たと認識するまでに数瞬の時間が必要だった。
「殿下は今、どういうお気持ちなのでしょう?」
「どういうって……」
「どんなお話し合いをすれば、コーヌス家にとって利益になりますか?」
驚きのあまり言葉を失った。あの妹が、自らの意思で政治に参加しようとしている。殿下を手玉に取ろうと、相談を持ちかけてきているんだ。
でも、どうすればいいかなんて、私にも分からなくなってきている。私自身、どうしたいのかわからなくなってきてるというのに、何をアドバイスできるんだろう。
「教えて下さい……お願いします!」
目覚ましく成長するフェリシテを見て胸が苦しくなるのは、何故なんだ。
「……殿下は」
落ち着け、アラベル。深呼吸して。そうすれば貴方は王妃候補のアラベル・コーヌスでいられる。
「…………殿下のお気持ちは、今不安定になっているはずよ。私と結婚出来ない見込みが強くなってることと、貴方と結婚する事に対する不安で、どうしたらいいか分からなくなってる。だから、お茶会の再設定を急いだんだと思うわ」
不安という部分でフェリシテの顔が一瞬曇ったが、すぐに私へと向き直った。
「では、お姉様と結婚したいというお気持ちを強めるためには、今は無能を装った方がよろしいですか?」
この立ち直りの早さは、ついに私には持てなかったものだ。
フェリシテの、強さだ。
その強さを私の都合で封印する権利なんて、私には無いんじゃないか。強く、大きく育とうとしている彼女の意思を、私達の政治で挫いていいものだろうか。
王妃に相応しいのは、本当に私の方なのか?
私が王妃になるべきなのか……?
「お姉様?」
わからない。わからない。
わからなかったはずなのに、勝手に口が動いた。
「フェリシテ。貴方、今も殿下に対する想いが残っているんじゃないの?」
不意に出た言葉は、私自身予想だにしないものだった。当然フェリシテも動揺したけど、私も同じくらい戸惑ってしまっている。でも続けて口から流れ出た言葉は嵐による濁流のようで、まるで止めることが出来なかった。
「今も恋をしてるのよね?」
胸が痛い。苦しい。認めるのが辛い。だけど、ほんの少しだけ軽くなったのは、きっと私の本心だったから。私がずっと、見てみぬふりをしていたことだったからだ。
「……ごめん、なさい……」
だからこそ、妹の心にも強く響いてしまったのだろう。
こんなにも、強く、痛いほどに。
「わかってるんですっ……!酷い人だってことも、私のことを好いてくれてる訳でもないこともっ!だけど、駄目なんですっ……こんなに誰かを好きになったの、初めてで……!!初恋で……!!諦めきれないんです……!!」
ポタポタと涙を流すフェリシテは、俯いたまま懺悔を続けた。
「ニコラ様は……私がはじめましての挨拶で転んじゃった時、一番に手を差し伸べてくださいました……!大丈夫かい?って、お声を掛けてくださいました……!立派なお姉様に負けないで、素敵な令嬢になるんだよって、そう言って……くれて……っ!それ以来ずっと……ずっと……!!」
たったそれだけのことでと断じることなんて、私には出来ない。いや、きっと誰にも出来ない。
「ごめんなさい……!お姉様の王子様に、初恋をしてしまって、ごめんなさい……!!殿下との幸せな日々を夢見て……ごめん……なさい……!!」
当時のフェリシテは、まだ7歳だったのだ。
フェリシテも、そして私も、まだ白馬の王子様を夢見る童女だった。
10歳の殿下は、フェリシテの目からはずっと大人に映ったに違いない。幼くも純粋に、ただ一途に、15歳になった今でも色褪せることなく、8年間も恋心を秘め続けてきたのか。15歳になって、ずっと淡い想いを抱いていた王子様から、王妃になってくれと声を掛けられたとしたら……それを固辞できる令嬢が、一体この国に何人いるだろう。
転じて私はどうだ?10歳で婚約して、15歳で王妃教育を始めて、18歳で修了して……その間、どれくらい殿下の事を考えていただろう。
国の事は憂いていた。たった一人の王子が王位継承権を独占する危険性を、常々お父様からも教わっていた。だから私は人一倍、王妃になった後にどうやって政治参加していこうかと考え続けてきた。
でもその中に、どれくらい殿下の存在があっただろう。
伴侶の姿が殿下であったことが、一体どれくらいあっただろう。
確かに王妃になる自分を夢想していた。
白馬の王子様を夢見る自分を捨て去って、現実の王子と添い遂げた後の政治ばかり考えていた。
じゃあ、殿下の幸せを、私はどれくらい考えてきた?妻としての自分をどれくらい想像出来ていただろう。
「……フェリシテ。顔を上げて」
泣き続ける妹の頬にそっとハンカチを当てて、吸いきれないほどの涙を受け止めた。
「……正直に答えて頂戴。殿下と結婚したら、一生殿下の事を愛する自信があるの?」
15歳になったばかりのフェリシテにする質問じゃない。何を答えたところで子供が何をと思うだろう。でも、私には大きな意味があった。
私なら"政略であっても愛する努力をする"と答えるだろう。でも、フェリシテなら――
「私は……殿下以外の誰かを好きになったことがありません。殿下以外を好きにはなりません。8年もの間、ずっと片思いを続けてきました。この想いが成就するなら、私は生涯を殿下の為に使うことを厭いません。そして私の生涯が閉じた後も、殿下の施政が未来へ続くよう、この身を捧げるつもりです」
私よりも愛さない答えを出すはずが無い。それなら、もう答えは出ていたじゃないか。
最初から私が王妃になる道なんて無かったのだ。
「なら、貴方が王妃になりなさい」
「お姉様!?でも、そんなの!?」
「きっと私が愛していたのは殿下ではなく、この国そのものだったのよ」
これまでにない激しい痛みが胸に走った。ずっと隠していた本心を、誰かに吐露したからだろうか。
「私が貴方の影になるわ。貴方が王妃になった後も、政治的な判断に迷った時は私がアドバイスしてあげる。貴方に足りない物を、私が補ってあげるわ。だから……胸を張りなさい。婚約凍結された私の予備としてではなく、より優秀な婚約者として、王妃を目指して。そして私の分も殿下を愛してあげて頂戴。貴方ならきっと出来るわ」
「……おねえ、さま……!こんな、不出来な妹の為に、どうして……!」
ついにハンカチでは受け止めきれなくなったフェリシテの涙を、無理やり胸のドレス生地で吸い取った。頭を強引に胸に押し付けた後、妹は堰を切ったように泣き始める。私はただ、胸の激しい痛みに耐え続けていた。
フェリシテの問いに対して、私は答えを持っていなかった。ただ殿下はフェリシテと結婚すべきだと、直感とも予感とも言える何かに突き動かされていた。
気持ちを落ち着ける為に深呼吸をする。何度も、何度も。胸の痛みと、目の奥の熱さを大きくするだけだと分かっているのに。
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「そんな……し、しかし……」
俺は動揺するばかりで言葉が紡げなかった。アラベル・コーヌスが王妃の座を辞退したなら、どうしてアラベル・コーヌスが王妃になれたというのだ。妹のフェリシテは、一体どうなってしまったというのだろう。
まさか、フェリシテの記録が無いというのは……彼女に何かがあったということか……?
オロオロする俺を嗤うでもなく、アラベル王妃は優し気な笑みを浮かべて言葉を重ねた。彼女にとってはもう何十年も前の痛みであり、既に微笑みと共に語れる思い出になっているということなのか。
「それから約一年間、フェリシテはまともに寝ないで王妃教育を受ける日々を送ったの。アラベル自身も彼女に協力したわ。自身が王妃になることを捨て去ったアラベルは、これまで以上にフェリシテに協力した。時に励まし、叱咤し、疲れが取れる果物や休憩方法を勉強してフェリシテに施した。そうすることで、なんとフェリシテは一年目にして人脈作りのノウハウを除く全ての科目をクリアしたの」
俺はこの国の王妃教育がどれほど難しいものかは理解していない。国家機密なのだから俺が知っているはずが無い。だが、アラベル王妃でさえ三年かけて学んできた内容を一年で詰め込み切ったというなら、フェリシテの努力と熱意は並々ならぬものだったのだろう。常人なら発狂しかねないようなスケジュールを一年間続けてきたのではないだろうか。
「そんな私達を見て、殿下も過ちに気付いてくれたわ。これまでの非礼を深く詫びて――額を床に擦りつけたのには驚いたけど――アラベルの婚約凍結を即時解消、公式に謝罪する旨を提案してくれた。そして殿下自身、もう一度国家運営について勉強し直し始めたの。でも……アラベルは婚約凍結の解消は拒否した」
「結婚するつもりが無かったから……ですか」
「そうです。婚約を解消すれば二重婚約も解かれ、自動的にアラベルが王妃になってしまう。だからアラベルは、あくまでフェリシテを王妃にすべく固辞し続けたの。殿下もアラベルの気持ちを察して、何度も謝罪しながらも受け入れてくれた。それは円満な婚約解消と言っても良かったのだけれど……それが良くありませんでした」
「え……?」
「アラベルが王妃にならない方が良いと考えている人間は、少なくなかったのです」
背筋が凍り付く思いだった。これがただの貴族間恋愛であれば、ハッピーエンドで終るだろう。だが、王家の政略結婚である以上、政治的な横やりや妨害が入らない保証は無い。
利権に酔う人間や、シャルパンティエ王国の弱体化を人々が、無能なフェリシテを担ぎ上げようとしても不思議ではないのだ。
そしてこの時になって、俺の中にあった違和感が、ついに無視できないレベルに膨れ上がっていた。
何故彼女は独白する時に、徹底して主語を抜いているのだ?
当事者であるはずの彼女が、何故……?
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いよいよ私達に審判が下る一か月前。私とフェリシテは殿下からお茶会に誘われた。名目上はお茶会だけども、実体としてはフェリシテと殿下が結婚する方向で良いかの意思確認だ。近くに川が流れる木漏れ日の道だが、どうも今日は天候がよろしくないのでいつもの清涼感はない。帰りが危険な雷雨になりそうなら王城に泊めてもらおう。あの陛下と殿下であれば、快く部屋を貸してくれるだろうから。
「お姉様……約一年間、本当にありがとうございました」
天性の無邪気さを上品な明るさに進化させたフェリシテの笑みは、姉の私から見てもほれぼれする美しさだ。今のフェリシテであれば、殿下の外遊に伴っても恥にはならないだろう。一年前からは考えられないほどの見事な出来だ。
「何よ急に。まだあと一か月残っているわよ?ずーっと勉強していたせいで、フェリシテったら人脈の拡げ方とか全然ダメダメなんだから!もう一年猶予はもらえるだろうけど、公爵家にいる間は私がしごいてやるからね!」
「えへへ……ありがとうございます、お姉様。大好きです」
次に見せたはにかむ笑顔にはまだ幼さが残っていたが、これは今となっては私にしか見せなくなった秘密の笑顔だ。私も妹に対しては遠慮なく庶民的な素顔を見せるようになった。殿下の婚約凍結から始まった騒動は、私達の絆をより深いものにしてくれた。これも怪我の功名というものだろうか。
「そういえば、お姉さまは来月からはどうなさるのですか?王妃にはならないのですよね?」
「うーん、まだ考えてないのよね。でも国務院の下で働くのも悪くないと思っているわ。貴方というパイプがあれば、色々と自由に動けそうだし」
「まあ!お姉様ったら、お人が悪いですわ」
他に誰もいない馬車の中、声を出して笑いあう。こんな幸せな日々が、あと一か月で終ってしまうのかと思うと少し残念だ。だけど来月からは新しい幸せを掴むための日々が待っている。ならばそれまでは、姉妹愛を確かめ合う日々にするのも悪くは――ん?
「……?ねえ、少し道から外れているわよ?」
馬車がいつもよりも川の近くを進んでいる。いくら通い慣れた道とは言っても、今日は雨なので川もかなり荒れている。あまり近くを進むのは良くないのではと、御者に声を掛けた。……が。
「ひっ!?」
フェリシテの悲鳴を思わず塞いだ。御者の頭に短い矢が一本刺さっている。どうやら、クロスボウで狙撃されたらしい。これは……まずい!!
「敵襲よ!!……っ!?」
馬車の周囲にいたはずの護衛がいなくなっていた。この時になって、ようやく私は護衛達を思い出す。御者は公爵家お抱えの男だったが、護衛の騎士達は見覚えのある人間だっただろうか?……思い出せるはずが無い。今日に限って、彼らは顔が隠れるアーメットヘルムを被っていたのだから。
これは暗殺だ。恐らく狙いは私達だろう。フェリシテを王妃にするために手を打たれていたか……!!
「お、お姉様!」
「くっ!」
私は御者の腰に着いていた緊急用の信号弾をひったくると、空に向けて全弾放った。4発中1発は不発だったが、これで周辺に異変を知らせることが出来たはずだ。
問題は、この馬車だ。異常に気付いた馬たちがパニックを起こして出鱈目に走りだそうとしている。このままでは川に馬車ごと落ちかねない!
「う、馬の操り方なんて、分かるわけないでしょ!?……ひっ!?」
私の顔の真横に、クロスボウの矢が刺さった。正面方向にも暗殺者がいる!?
「お姉様、危ないですわ!馬車にお戻りになって!!」
「くっ!?」
フェリシテに引っ張られるようにして馬車に飛び込むと、次々と矢が撃ち込まれた。当然馬たちにも当たり、狂乱の度合いがさらに高まる。あまりのスピードに馬車そのものがミシミシと音を立て始めた。狙いはもちろん私のようだが、二人まとめて消せるならそれはそれで良いとでも思っているらしい。
「お姉様ぁ!!」
「フェリシテ!!伏せて!!」
お互いを守るように抱き合っていた私達だったが、ついに馬車が勢いに耐えきれず横転してしまった。凄まじい勢いで馬車から投げ出された私は、全身を強打して一瞬息が詰まる。
「フェ……フェリ……シテ……」
「お……お姉様……」
声のする方に目をやると、馬車の瓦礫に挟まって動けなくなったフェリシテの姿があった。川の増水も進んでいて、このままではフェリシテは瓦礫ごと流されるか、川底で溺れて死ぬだろう。
「フェリシテ!!」
そんなこと、させない!!
「お姉様、私のことはいいから、早く逃げて……」
「黙って!!こんなゴミ掃除、すぐに済ませるわ……!!」
馬車の瓦礫は女の手で取り除くには重すぎて、一つ取り除くごとに手の皮が破けて、出血した。すごい痛みに襲われたけど、構わずに取り除いていく。矢が飛んでこないのは、フェリシテが生き残った方が利益になると踏んでいるからに違いない。なら、フェリシテを助けてる間は邪魔は入らない!
「お姉様……もう、いいんです」
思わず瓦礫を片付ける手が止まった。フェリシテが川の水を眺めたまま微笑んでいる。だけど目は完全に虚ろだった。まるですべてを諦めているかのような笑みのまま……何かを話そうとしている。
「きっとこれが……私の人生だったんです」
「何を言っているの!?」
「私はずっと、お姉様に憧れていました。ずっとお姉様の後を追いかけていました。お姉様と同じ物を持てば、お姉様に追いつけると思ってたんです。お姉様と同じものを好きになれば、お姉様の隣に立てると思ってた……でも、きっとそれは間違いだったんです」
フェリシテの身体が震えているのは、川の水が冷たいせいだけではないだろう。紫色になった唇を震わせたまま、彼女は全てを振り絞るようにして叫んだ。
「私は、お姉様の足を、ずっと引っ張っていたんです……!お勉強が出来なければ、お姉様の時間を奪って、お勉強を手伝わせていました……!お姉様の旦那様を、奪おうとしました……!今だって、お姉様の命を危険に晒しています……!きっと私はお姉様を縛る鎖だったんです……!!お願いします!!私をこのまま捨てていってください!!」
「フェリシテ!?」
「私はもう一生分の幸せを頂きました!!大好きなお姉様と一緒に王妃を目指せただけでも、もう十分!!これからはお姉様の幸せを手に入れてください!!私の為じゃない!!国の為でもない!!お姉様の為の幸せを手に入れる為に、私をここに置いて行って!!」
そんなこと出来る訳が無い。妹を捨てて、自分が助かろうだなんて、そんなこと……そんなこと……!!
「……っ、行きなさいアラベル!!私を助けた先に、貴方の幸せは無いわッ!!ここで鎖を切って、自分の幸せを掴むのよ!!」
出来る訳――ないでしょ!!
「うるさいッッ!!!」
「っ!?」
「妹なら黙って私に救われてればいいのよ!!助けたくて助けてるのよ!!調子に乗って呼び捨てにしないで、妹らしく私に甘えてなさい!!どうか助けてくださいって叫んでいればいい!!」
「や、やめ――」
「邪魔したら貴方が死んだ後で私も死んでやるわ!!黄泉の底まで追いかけて貴方の性根を叩きなおしてやるから覚悟なさい!!」
瓦礫の数は大分減ってきたが、川の増水も進んでいる。既に両手はボロボロで、流血も止まらない。
でもやるしかないんだ!!妹を救えるのは、私しかいないんだ!!姉である私にしか!!
「お姉……様……」
川の水がフェリシテの口を塞ごうかという時に、ようやくフェリシテの足が瓦礫から解放されたようだった。私は血まみれの両手でフェリシテの手を掴むと、渾身の力で川から引っ張り上げる。ドレスが水に濡れてかなり重かったが、なんとかフェリシテを川水の外まで引っ張り上げることが出来た。
「はあ……!はあ……!」
「よし……!フェリシテ、森まで走るわよ!」
「はい!!ありが……え?」
私の足は、まだ川の中にある。でもそんなことより……。
背中が、痛い。とても……痛い。
私の背中に、一本の矢が刺さっていた。
「フェ……リ……」
「おねえさまああああああああああ!!!!」
半狂乱になったフェリシテが私の手を掴む。だけどフェリシテの腕に一本の矢が刺さった。どうしようもない。手が離れる。私だけが濁流の中に飲まれる。
何かが聞こえる。妹の悲鳴か。濁流の音か。分からない。一つだけ分かる。
私はここで死ぬ。
死ぬしかない。
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「…………え?」
「アラベルは……フェリシテを助ける為に勇敢に働き、濁流に呑まれてそのまま行方不明になりました。それ以降、アラベルの消息を知る者はいません」
シャルパンティエ前王妃は、微笑みを浮かべたまま話を区切った。だが話の展開に追いつけない俺は、頭を振って質問するしかなかった。
「待ってください!!では、アラベル・コーヌスはその時に亡くなられたと、そうおっしゃるのですか!?」
「はい」
「ですが貴方は、間違いなくアラベル・フォン・シャルパンティエでしょう!?50年以上シャルパンティエ王国の施政を支えてきた!!静寂の姫君として、今も国を支えている!!一体――」
俺の言葉は、前王妃の右腕が晒されたことで遮られた。衣擦れの音も気にせず晒された右腕には、一か所だけ歪な傷跡がある。
ま……まさか……貴方は……!?
「フェリシテ・コーヌス……!?」
「そうです。私の元の名前は……フェリシテ・コーヌス。結婚に際してアラベル・フォン・シャルパンティエと名を変えて、シャルパンティエ王国の王妃となったのです。当時の陛下も、殿下も、そして両親も、私の決断には反対しました。だけど私は、婚約解消の危機になっても改名だけは譲らなかった。アラベルお姉様の名前を、後世に遺すために。……フェリシテの犠牲になったお姉様の……かつて婚約凍結された姉の名誉を回復するために、アラベルとして生きることを決めたのです」
俺は……何も言えなかった。ニコラ・フォン・シャルパンティエの伴侶が、アラベル・フォン・シャルパンティエであることは、今や世界の常識だ。まさか妹のフェリシテがアラベルを名乗っている等と、誰が想像出来よう。
「公式にはフェリシテという妹は無かったことに……あるいは消息不明となった体になりました。結婚後に発表することで私は暗殺の脅威を軽減することに成功し、こうして今も生き続けています。恐らくあの日の実行犯たちは速やかに処理されたのでしょう。……夫は私と結婚してからもずっと……何年も、何十年も、姉の命日になると泣いて悲しんでくれました。遺体が収められていない墓石の前で、すまない、すまなかったと、泣き続けてくれました。夫に対する気持ちはとても複雑ですけども、姉に対する懺悔と情は本物だったのだと思います」
じゃあ、彼女はずっと姉を模倣してきたということか。理想的な姉であるアラベルを想像して……彼女ならこうするだろうと考えながら、彼女の模倣品として、ずっとシャルパンティエ王国を支えてきたと言うのか。
「後は貴方が調べた通りだと思いますわ。アラベル・フォン・シャルパンティエは献身的に前国王を支え、その後も影の支配者としてシャルパンティエ王国を支えているとされている。これが、私が王妃になるまでと、その後の全てです。お婆さんのつまらない思い出話だったけれども、新聞社のネタとして使えるものだったかしら?」
……重い。俺が記事にして書くには、この歴史はあまりにも重すぎる。
俺はふやけたメモ帳をビリビリに破くと、俺のために用意してくれていたらしい灰皿の上で焼却した。まさかこの灰皿も、俺が細巻を吸うためではなく、取材のネタを消すために使われるとは思っていなかっただろう。
「申し訳ありませんが、どうやら新聞紙に載せるネタとしては相応しくない内容だったようです。この話は聞かなかったことにしてもよろしいですか?」
「あらあら、せっかく一所懸命思い出しましたのに……忘れてしまうのですか?」
とんでもないことをおっしゃる御仁だな。俺は苦笑いを浮かべながら、調子よく指を弾いた。
「忘れられる訳が無いでしょう、ご婦人。ここでのお話は、あくまで友人同士の談笑とさせて頂きます。友人同士なら秘密はつきものでございましょう?次にお会いする時は、私の秘密をお話しますよ」
「っ!?……ふ、ふふふっ!、まさかこの年齢で本当に友人を作れるとは思いませんでしたわ。実に面白いお方ですこと。わかりました、貴方を信用しましょう。さあ、お帰りなさい。兵達には、貴方の身の安全についてよく言い渡しておきますから」
やはりここの情報を持ち帰るようであれば、俺の命は無かったらしいな。やれやれどこまでも油断ならない御仁だ。
しかし……本当にあれはフェリシテ様なのだろうか?疑う訳じゃないが、思い出話の彼女とあまりにも乖離しすぎちゃいないだろうか。一年間の王妃教育が相当濃密だったのか、あるいはどこかに優秀な参謀がいたのか。
もし彼女の参謀として働ける人間がいるとしたら、俺に思いつく人間と言えば一人しかないのだが……いや、まさかな。
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「アラベル様、かの御仁からお手紙が届きました」
「ありがとう。独りで読みたいから、皆さんは外してくださる?」
「承知いたしました」
「……流石ですわ。彼が私の友人になろうとすることすら、想定の範囲内ですのね。お姉様には敵いませんわ」
私は王妃の証である髪飾りを外して、手紙を読むことに集中した。そこには新聞記者が諸外国のスパイである可能性を指摘する文面と……もしも話した内容を持ち帰らないことを確約した人物であれば、情報屋として囲い込むようにとのアドバイスが書かれている。ギリギリ手紙が間に合わなかったのは、それだけ彼が迅速だったということなのだろう。
確かに彼は信用するに値する男だ。まだまだ若いが、この先を担う頼れる仲間になるだろう。特に今年から学園の高等部に入学する、お姉様の孫娘にとっては。
「……あら、また曾孫が生まれましたのね!ふふっ、息子に王命を使わせて、登城させちゃおうかしら」
お姉様。きっとお姉様は、私が姉の名前を使っていることを快く思わないでしょう。妹が消えてしまったことを悲しんでおられるでしょう。ですが、これは私の決意でもあるのです。
もう私達は、誰の予備でもありません。
名を変えたお姉様と、名を受け継いだ妹は、ちゃんと幸せになれたはずです。
もう不幸な姉も、その妹も存在しません。
子供達や孫たちに幸福を分け与えることが出来た今ならば――
「もう一度、姉妹揃ってお茶会を開きたいですね……お姉様」
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俺が一世一代の取材をした十年後、前王妃……いや、フェリシテだった女性は亡くなられた。享年90歳という、まさに大往生だった。
「どうか、安らかにお眠りください……掛け替えのない友よ」
前王妃の豪勢なお墓にひとしきり祈りをささげた俺は、そこから少し離れたところにひっそりと建てられた、小さなお墓へと足を運んだ。そのお墓には一言……「愛する妹に殉じた誇り高き姉」とだけ刻まれている。
このお墓が建てられたのは、彼女が亡くなられたのと同じ年だ。平民らしからぬ上品な女性だったとの情報を得たが、彼女が前王妃と何かしらの関係があったという確証はついに得られなかった。
ただ一つだけ確かなことは、その女性は前王妃からほど近い墓地に埋葬することが許されていたということだけだ。でもそれだけで、俺にはこれが誰の墓なのかが分かった。
「お父さん」
物静かな娘が、俺の服の袖をつんつんと引っ張った。
「うん?」
「これ……だれのおはかなの?」
子供は純粋だからこそ核心を突く。でもこのお墓が誰のものなのかをはっきりさせる必要は無いだろう。大事なのはそこではない。
この墓の下にいる御仁が、生前に何を成し遂げたかが大事なのだ。
「命を懸けて妹を助けた人のお墓だよ、ベル」
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