恋
湿った空気から嫌なにおいがした。
たしかに私はその腕をずっと握っていた。
1~2、2~3のように当たり前に並んだ数字さえ疑わしくなった。
ああ、あなたが居なかったら私はどうなっていただろう。
もっとマシになっていた、それともひどく…
そうやって歩いていくと、前にいた男とぶつかった。
「いって」
思わず謝るとその男は私に話しかけてきた。
「あっれー、どこかで見たことあると思ったらピンサロのなっちゃんじゃなーい元気にしてる?」
私は無視して歩き続けた。すると、
腕を強引に取り、裾をまくってシャツの袖を容赦なくめくって言った。
「ほら、なっちゃん」
目の前に私の手首を持ってきた。
もう何十回も見ているその傷をわが物顔で。
私が無表情で男の顔を見ると、
男も真顔になり言った。
「俺から逃げられると思ってんの?」
いつからだろう。哀しいという感情がなくなったのは。
正確に言うと、自分の置かれている状況が哀しいとか、可哀想とみじめとか思わなくなった。
ドラマで主人公が惨めな思いや、悔しい思いをするのは分かるが、、自分に対して悲しいという感情が
無くなってしまった。
いつからだろう。
本見さんは言った。
「君の泣いた顔見たことない」
優しそうに私の頭を撫でながら言った。
前は帰り際1万円や5千円置いていってくれたのに、ここ一年はたまに千円、二千円。
ない時だってある。
「お子さん二人目もうすぐ産まれるそうですね」
一瞬動きが止まってみえた。
「ああ、立市から聞いたのか?」
「いいえ、前畑さんが昼食の時みんなに話してました」
「あいつおしゃべりだなあ。でも君には関係の無いこと。いつも通り僕と仲良くするだけでいいから」
「はい」
形式ばったおめでとうございます。を言いたかったのに、本見さんは見透かしていたのか、渇いた口調で遮ったように感じた。
本見さんとはもう3年の付き合い。奥さんがいるのは前から知っていた。
指輪しているし、女性しか使わないであろう柔軟剤のいい匂いを漂わせていたから。
派遣の私を邪険に扱わず、同じ社員として対等に指導してくれていた。
個人的な連絡先を交換して、それから距離が近くなるまで時間はかからなかった。
「じゃあまた明日会社で」
「はい、また」
いつものやり取り。私の方は会社に関係が分かるといけないので本見部長にはいつも敬語。
今日は…千円?机に置かれたお金を取って思った。
私は一体何者なのだろう。
今日は違う誰かにも抱かれたい。
そう思う私は他の誰よりも変人だろうか。
「Pさんですか?」
顔を覗き込んでくるやせ形の男。
「たぬきさん?」
「はい。そうです。じゃ行きましょうか」
ねっとりした声を静かに震わせ私にそう言った。
男に付いていくと、少し年代物のホテルの中に入っていった。






