Side.ダイチ・ガッシュ
ダイチ・ガッシュには、長年分らないものがあった。気にはしていたが、それで困ったことはない。
戦闘員としてとある紛争状態の国境で活動していたガッシュは、捕虜になるのが好きだった。つかまればもちろんタダでは済まない。ガッシュの肌にはいつも無数のミミズ腫れがあり、爪も生えてはちぎり落とされた。それでもガッシュは毎回ふらりと投降しては、10日のうちに帰ってきていた。ガッシュはいつも尋問に負けず、逆に通信設備をのっとって、仲間たちに情報をリークしていた。
ガッシュは生まれて23年の間、「敵意」を理解できていない。憎しみも知らない。殺意も知らない。ある意味でガッシュは、凄まじく冷静な戦士だった。
「ガッシュよぉ。お前みたいなやつが、なんで人殺しができる?俺は未だに慣れないよ。何もかもがこわい。つらいばかりだ」
俺も好きでやってるわけじゃないよ、とガッシュは答えた。でもこわいってのにはピンとこないな、とさらに加えた。
ガッシュには敵意も憎しみもない。だからガッシュは他人の敵意も憎しみも理解できない。人の死は誰かの得になって、自分はその中で金を稼いで、生活をしている。自分が殺せば自分が稼げる。殺されれば、殺した誰かが得をする。良くできた仕組みだと、そう考えていた。その中で自分が感謝されたり、恨まれたりすることを、ガッシュは何度教えられても想像できなかった。
その日、またも捕虜となっていたガッシュは、敵対組織の若い男と愛し合っていた。ガッシュには昔から、不思議な魅力があった。人懐っこく、老若男女分け隔てないガッシュ。彼に接した人は皆、心のどこかでガッシュに、家族に対するような気持ちを抱いてしまう。そして恋人に対するような気持ちも。父に求められるもの、息子に求められるもの。兄に、弟に、恋人に求められるもの。その全てをガッシュは兼ね備えていた。
ガッシュを抱いたその男は、アトンと言った。ガッシュの尋問を担当していた男だった
「こうして、捕虜の体を使うことは、これまでもあったんだ」
アトンは、ぼそりぼそりと、何かに詫びるように言った。
ガッシュは何も言わず、ただアトンを見つめている。
「それは、自分が楽しむためっていうか、相手の心を痛めつけるためにしてたんだと思う」
アトンが、少し泣いた。
「今、満たされてるんだ。何故か。お前はどうだった、ダイチ?」
澄んだガッシュの視線がアトンを刺す。アトンは、居心地悪そうに身じろいだ。そして少し顔を赤らめながらガッシュの視線に応えた。
「うれしいよ、アトン。お前が俺を見てくれることが。俺に心を分けてくれることが」
アトンは表情を歪め、自分が尋問の最中、ガッシュにつけた傷をなぞった。仲間の無念を掌に乗せて、アトンは確かにガッシュにぶつけた。怒りで殴り、哀しみで刺した。憎しみの、全てで責め立てた。どんなふうにこの男を殺してやるか、こいつらの仲間を何人殺すか。どうすれば仲間たちの苦痛は晴れるか。アトンの頭は、死でいっぱいだった。
ガッシュはアトンの苦しみを、全て受け切ってしまった。そしてガッシュは聞いた。名前は?出身は?家族は?友達は?好きなものは?10年来の友人に尋ねるように、何気なく、暖かく。
質問の中にはアトンの気持ちを逆撫でするようなものも多かった。アトンは何度も激情に狂った。質問そのもよりもガッシュに心を掻き乱されていることがアトンを苛立たせた。
それでもガッシュはアトンのことを知りたがった。自分のことも話した。友達の話、好きなものの話、楽しかったこと、面白かったこと。
大きく開かれたガッシュの心の扉に、アトンは呑まれた。逆鱗を全て引き抜かれたアトンは、ガッシュをどう見れば良いのか分らなくなった。
このままでは無二の親友となる人間を殺めてしまうのではいか。アトンはある時、ガッシュを失う事を恐れてしまった。
「俺は、間違ってきたんだろうなぁ」
アトンから伝う涙を、ガッシュは優しく拭った。
「俺といる時、アトンはいつもつらそうだ」
「つらいよ、何かがつらい。俺の中の苦しみが、全部せり上がってくるみたいだ」
「ならきっと、吐き出せる。たぶん、良くなっていくと思う。お前なら」
ガッシュはアトンの額を撫で、キスをした。
「顔、ぐちゃぐちゃになってる」
二人は少し笑い合った。
月の光も、雲の流れも、遠くに聞こえる仲間の寝息も、砂の香りも、風の音も、過去も、未来も、アトンの世界から消えた。ガッシュを残して
全てが消えた。
「ダイチ、お前は俺の苦しみを吸い出してくれていたんだな」
アトンは寝台から拳銃を取り出して、ガッシュに差し出した。
ガッシュは何も言わず、アトンだけを見つめている。
「今なら、天国に行ける気がするんだ、ダイチ。俺の人生の中で今晩だけ」
「逝くんだな」
「ダメかな。俺はお前じゃなきゃイヤだ」
「しょうがないやつだな」
困ったようにガッシュが微笑んだ。アトンもつられて口元を綻ばせた。
赤ん坊を撫でるように引き金は引かれ、アトンは苦しみから解き放たれた。
ガッシュは名残惜しそうにその死に顔を眺め、取るものをとって、その場を後にした。
ガッシュは人との出会いが好きで好きでたまらなかった。それと同じだけ、別れも愛おしかった。迷いのないガッシュに、人は惹かれた。恐れを知らないガッシュに、人は憧れた。やさしさを忘れた人に、ガッシュは寄り添った。
ガッシュと共に生き、看取られる事を、人は望んだ。
「日本、分かりますよ。俺の名付け親になってくれた人が、確か日本の人だって聞きました」
ある時ガッシュの元を、イイダという男が訪ねた。
「いかがでしょう、戦争からはすっかり復興した、こことは何もかも違うところです」
イイダはガッシュを日本に連れて行こうとしていた。ガッシュの仲間たちはイイダの申し出に猛反対した。イイダをガッシュに近づけさせないために、イイダは誰からも冷遇された。
イイダはその度に、ガッシュを必ず日本の地で幸せにすると、頭を下げて回った。既にイイダは
ガッシュのグループのスポンサーにも話をつけているようだった。イイダの話はガッシュの耳にも入ってきた。そしてその誠意に胸打たれた。日本への興味ももちろんあったが、自分の仲間に筋を通そうとする姿勢がガッシュを動かした。仲間たちもイイダに次第に心を開き、自分たちがガッシュにしてやれない事を、代わってやって欲しいと考えるようになった。
「それで、俺は日本で何をしたら良いんですか?」
21世紀、日本は平和な時代だった。
「ここで活動と、特に変わりはありませんよ」
平和であるはずだった。
イイダの返答にガッシュは胸を撫で下ろした。
「それならよかった。俺には他にできることもないし。でもせっかくだからいろんな事を勉強してみたいなぁ。きっと知らないことがたくさんあるはずだし」
「それなら、私で良ければ色々お教えしますよ。休みの日には、パートでいろんな仕事をしてみるのも良いかも知れませんね」
ガッシュは目を輝かせ、日本での暮らしに想いを馳せた。新たな出会いや、物語。今とは全く違う日常にガッシュは期待を膨らませた。
2016年、戦地に『神の子』と異名をとった傭兵、ダイチ・ガッシュが、日本に降り立った。