○
僕の言葉は小鳥ちゃんに届いているかどうかあやふやだった。でも、〝聞え〟はしただろう。それだけがはっきりしていれば、笑顔のまま普通に立てている小鳥ちゃんを見ていれば、それが事実で真実であるのは明瞭だ。
あのとき。
僕と出会ったとき。
小鳥遊小鳥は〝自殺〟しようとしていた。
僕が一歩下がったぐらいで足を踏み外して死んでしまう空に近づいた場所で、独りの女の子は何をしていたか。
小鳥遊小鳥は〝自分を殺そう〟としていた。
そうだった。それだった。
眸を縫うようにして暗がりの中、独りの女の子は僕を見つめていた。
「なんだぁ。やっぱり、気づいていたんですね」
やっぱり、と談笑するように小鳥ちゃんは続ける。
「通先輩、あのときは驚きました。先輩、私より先に自殺しようとするんですから。あぁ、違う。不慮の事故でしたね。その、多分、たぶんですよ。自殺しようとした人間が不慮の事故で死んでいく人間を観るって経験は私が初めてだと思うんです」
小鳥ちゃんの口調は、昨日何気なくみたテレビの内容を話すのと同様だった。
「私、落ちていく先輩を見て思ったんです。〝生きる〟のはこんなにも汚く続いていくのに、わぁ、〝死ぬ〟のって一瞬で綺麗だなぁって」
小鳥ちゃんの口調は雑談のように簡潔的だった。
「あまりにも綺麗だから、一緒に落ちようかぁって思ったんですけど、止めました。そうしてしまうと、現場を観た誰かが必ず余計な勘ぐりをして噂を立ててしまうので……。先輩のご遺族に悪いと思って止めました。でも、落ちてしまえばよかった。だって、通先輩――死ななかったから――」
死を思い描いた瞬間、小鳥ちゃんは少し、微笑んだ。
「普通だったら、死ぬはずなのに――先輩死にませんでしたね」
普通普通普通、と同じ単語を並べてなお唇を歪めて僕に回顧させる。
「先輩はそんなに死にたくなかったですか? 生きていたかったですか? うふふ。そう、思うのが普通なんでしょうね。通先輩。もう気づいていると思うんですけど、私、普通じゃないんですよ」
普通の人とずれているんです、と小鳥ちゃんは自分を指すように人差し指を唇に薄く当てたけれど、すぐに外した。
「小さいころはこれでいいと思っていたんです。周りが無知な子供しかいなかったから、気づかれませんでした。でも、大きくなってくるとそうはいかなくなっちゃって。ほら、世間は普通から逸脱した人間を天才しか認めないでしょ?
だから、私は困りました。だから、周りに合わせよう合わせよう合わせよう、普通でいなきゃ普通でいなきゃ普通でいなきゃと思って、自分を隠して自分的には普通に生きてきたつもりだったんですけど。駄目でした。自分の意見を持っちゃっていました。友達いなくなっちゃいました。うふふ、でも、もうどうでもいいんですけどね。ごめんなさい。先輩。また、愚痴を溢しちゃいました。ごめんなさい。先輩の貴重な時間を無駄使いしてしましたね。そうでしょう? だって、先輩にとって私の悩みは――」
「それが――」
光を遮るように、僕は断言する。
「――小鳥ちゃんの本当の僕への相談なんだね」
「…………」
「自分に正直に生きられないのが小鳥ちゃんの悩みなんだろ」
小鳥ちゃんは一旦顔を伏せて「はい!」と、元気のよい大きな返事をした。
小さいころに戻ったかのような。
そんな、
正直な声色に並べて、大きく笑い声を上げる。
「あはは」
韜晦されない哄笑に乗って、小鳥ちゃんは僕を観て云った。
「先輩私のどこを見ているんですかぁ? 本当にえっちですね。先輩は変態だから仕方がないんですよね。いつでも、こんなときでも、自分に正直だなぁ。そうです。そうですね。先輩はこれからら死ぬまで、最後の最期まで生きられなくなるまで先輩は思うままに生きていくんでしょうね。そんな先輩を認めてくれる親友もいて……。まったく、まったく、憧れるなぁ。私にはできないな。先輩は――本当――ずるいや」
悔しさと申し訳なさを含んで、伏し目に言葉を続ける。
「ごめんなさい。先輩は何も悪くないのに、私、愚痴ってばっかり……。悪い子だな、私。先輩も十分に解ったでしょ? たった、一日、いいえ、数時間一緒にいただけで、私のこと物凄く悪い子だって解ったでしょ? 世界に合わせられず自分の意見を口にしちゃう。悪い子だって解ってくれたでしょ? 普通だったら皆妥協するはずなのに、私は同じことで、まだ生き(や)て(ん)い(で)る(る)。死ぬと決めたはずなのにまだ、悩ん(き)で(て)い(い)る(る)。生きたければ世界に染まればいいだけなのに、まだ、自分の考えを貫こうとしている。そんな悪い子」
視線をゆったりと上げた。表情が笑顔に戻っていた。
「先輩も私のこと解ったと思うんですけど、私も先輩のことでもっと気づいたことがあるんですよ。先輩、始めて会ったとき、私のおっぱいの感触覚えてないでしょ? 隠しても駄目ですよ。解るんですよ。私には解るんです。それくらい、解ってしまうんです。何故かは、言いませんけど。教えませんけど。なんて、嘘です。どうして解るか教えてあげましょうか?」
「くだらない」
小鳥ちゃんは僕の声に肩を震わせて、びくついた。僕の表情はどんなんだろう。小鳥ちゃんの心の表情はどんなんだろう。たった、これだけの付き合いじゃ、僕には僅かにしか小鳥ちゃんのことが解らない。
僕はあのときを覚えていないわけじゃなかった。それより印象的な事実が僕の記憶を埋めていただけだ。僕はあのとき、落下していく瞬間。死に近いところで、僕と同じ速度で落ちていく〝涙〟に気づいた。見上げてあったのは女の子の顔だった。泣いている女の子の表情があった。一生懸命に涙を流している女の子がいた。すでに頬を伝って枯れそうな涙。死にそうな僕のために流してくれた涙じゃないってことは解っていた。だから、僕意外の誰かのために泣いているのも解った。死ぬ直前でも誰かのことを思っているのは解った。どうして、解ったのか。その理由は簡単だ。死ぬ直前の人間は生まれてくる人間と同様に〝正直〟だから――いまから死のうって人間が死にそうな人間を助けようとしたから。死のうとしている人間が他人の死を受け入れようとはしなかったから。涙を流して手を伸ばしてくれる女の子の手。震える唇。自分のことで一杯いっぱいであるのがありありと解ってしまう姿。心が折れてしまっているのに。そんな、そんな人間がそれでも、反射的に自然に当たり前に当然に――普通に、そして――異常に、小鳥遊小鳥は僕を助けようとした。
それだけで――
「そんなくだらない理由で、小鳥ちゃんは自殺しようとしたのか」
それだけで――
「そんなくだらない理由で、小鳥ちゃんは自分を殺そうとしたのか」
それだけで――
「そんなくだらない理由で、また、それを繰り返そうとしているのか」
それだけで――
「そんなくだらない理由じゃ――死んだ後じゃ誰かが泣いても、死ぬ前は誰も小鳥ちゃんのために泣いてくれないぜ」
――僕にはそれだけで、小鳥ちゃんが優しいって解ってしまう。
――いや、それだけしか解らない。
たった、それだけしか――。
「云われなくても――」
僕の言葉は薄っぺらで、小鳥ちゃんの表情は笑顔で一律で。
「――そんなこと――解っています。誰も私のために泣いてくれないことぐらい解っています。だから……。だから――私は私のために泣いたんです。この世界に〝さよなら〟を言う前に、私は私のために泣いてあげたんです。私が死ぬ理由なんてくだらないんです。誰にでも普通に存在する理由です。普通の関係じゃ誰にも言えない瑣末な理由です。だから――見知らぬ先輩に、彼氏になってもらって無理矢理愚痴を聞いてもらった。まだ、私は普通のまま生きられるかもしれないと思ったから――」
【――彼女は彼氏に誰にも言えない〝悩み〟を相談するのも普通らしいですね――】
彼氏となった僕には自分の悩みを話せた。
彼氏への相談は、世間では普通だったから。
だから、小鳥ちゃんは僕を彼氏にした。
悩みを相談できる相手が欲しかったから。
効率のよい、時間の無駄の無い恋愛を有効活用した。
小鳥ちゃんには生きる時間が足りなかったから。
でも、僕は小鳥ちゃんの望んだ普通な人間じゃなかった。
笑顔は止まず。言葉も止まず。
「私の悩みは、ただの通過点。誰もが一度は体験するもので体験したもので、誰もが乗り越えていかなければならないもので乗り越えてきたもの、そんな――普通の理由だって解っています。でも、解っていても、耐えられない人間だっているんですよ」
笑顔は止まらず。
「誰も普通ではない私に優しくしてくれなかったとしても、最後に、最後の最期に、自分ぐらい自分に優しくしてもいいじゃないですか」
笑顔は続いて。
「私が私のために、泣いてあげてもいいじゃないですか――」
そう、云って小鳥ちゃんは微笑んで頬に一筋の涙を流す。流した涙に気づかない独りの女の子の唇は正直さに満たされて軽快に美しかった。
美しく。ただただ、美しく。
僕が見ていると、小鳥ちゃんは過去の出来事でも思い出すように云う。
「余談に正直に言えば」
もう二度と使われなくなると、云わないばかりに。
「私も先輩と同じ考えだったんですよ。恋愛。先輩のことを積極的に知ろうとしないで――どうして、くだらない話をしたり、目的もなく無駄な時間を使って歩いたりして、効率の悪い時間、相手を好きに嫌いになる時間を無駄に使っていたか解りますか?」
いいえ、と小鳥ちゃんは頭を振った。
「尋ねたのに……ごめんなさい、やっぱり私に言わせて下さい」
正直な声は身体全てから搾り出されるように、強く熱が篭っていた。
「先輩とくだらない話をして、目的もなくただ、無駄に歩いた時間が、自分に正直にいられる時間が……ただ、ただ、私は、ただ、私は――もの凄く――、最高に――、楽しかった――」
頬を這う涙に気づく小鳥ちゃん。手の甲で雫を拭うと、赤くなった頬以外なにも残っていなかった。
喋るのが大好きな女の子。
また、喋り足りないと唇を動かす女の子。
そんな女の子は云う。
「ありがとうございます、通先輩。最期までこんな私に付き合ってくれて。本当に感謝しています。こんな私にもできるお礼受け取って欲しかったんですけど……」
これ以上の迷惑はいけませんね、と小鳥ちゃんは呟いて、頷くように頭を下げると僕を見つめて、楽しそうに云った。
「先輩。私、死んできますね」
意志は固く、これも小鳥ちゃんの正直な声、
「この世からバイバイしちゃいます。だからこれで、さようならです」
僕は月並みな言葉を作ろうとして、
「――――」
止めた。
小鳥ちゃんの別れの挨拶。
それに何を言える?
それに何が言える?
僕は、単純に、言葉しか言えない。
「――そうかよ。そこまで、解っているなら僕は――黙るよ。小鳥ちゃんの人生だ。小鳥ちゃんが死に方も生き方も決めればいい――」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
最後の最期の挨拶。
「――さようなら、小鳥遊小鳥」
相対したまま、空を見上げて下ろして僕は雨が降ってこないかと思った。
人間一人に生命は一つ。
生きるのも一度きり、死ぬのも一度きりで、それをどうするは所有者が決めるものだ。人生は他人が介入してはいけないもの。
人生は創られた〝物語〟のようなものだ。
人は銘々物語を持っている。物語の主人公は自身で常に一人っきりで、他者は脇役。主人公が二人存在しては物語ではなくなってしまう。そんな中、女の子はずっと、生きてきた。ずっと、独りで生きてきて、ずっと、主人公のままで、いて、もう、女の子の物語は完結を迎えようとしている。ただ、それだけの誰もが同じの王道の物語。女の子が決める物語。それを見ている僕は脇役でもないただの読者。
人は死なない。心の中に生き続ける限り人は死なないと誰が、残された者の気持ちを代弁した言葉を残したんだろう……。
――嘘吐きめ――
僕は歩いて前へ進む。生きるように。足取りは思うよりか軽かった。普段、どれほど重いか考えたことがないからだろう。一歩進むとその分だけ二度と逢わない誰かに近づいた。一歩、一歩、進んでいく。
「…………」
ああ――何もできないってこういうことをいうのか――
「…………」
――今日は最悪に――空が見えすぎる。
「…………」
闇が迫ってくる。
時間は止まらない。
時間は止められない。
光の世界が、もう、終わる。人のように。
「――え?」
通り過ぎて行くとき、小鳥ちゃんは驚いている。多分、そう、僕にも解る表情をしていたと思う。
今日出会った女の子――。
僕は瞼を閉じて開いて払拭して結論付ける。
どうでもいいことだ。
どうにもならないことだ。
どうしようと。
どうにもならない。
どうしろと?
どうした?
オマエならアンタならアナタなら、こんなにも自分に正直な女の子に〝嘘〟を吐けたか?
生きろと。
生きていれば楽しいことがあると。
未来を知らないのに。
言えたか?
綺麗言を口にできたか?
死ぬなと。
戯言を口にできたか?
無責任に言っても、嘘はすぐに見破られるぞ。
だから、口を噤むのが一番いいのさ。
ふん。
そうだよ。
ただの言い訳だ。
ただ逃げているだけだ。
勇気がないだけだ。
肯くよ。
認めるよ。
今日出会った小鳥ちゃんのことなんて、どうだっていいんだと、認めるよ。
呼吸するのが難しすぎた。
時間を沈黙に無駄に使った。
通り過ぎて足を止めた。
振り向いて小鳥ちゃんを見ると、数秒間目を離しただけで雰囲気が変わったように見えた。ただの気のせいだろうが。
「一つ、お願いがあるんだけどな」
見捨てた人間に対してずうずうしく、僕は言った。もう逢えないと知っているから、言えるんだろうけど。
「何ですか?」
「今度、自殺するときは、僕の無関係のところで自殺してくれよ」
「…………」
「理由はね、迷惑だからさ」
「……迷惑?」
「そう。邪魔だ」
「…………」
「僕の物語の邪魔をするな」
小鳥ちゃんはそこで「そうですか」と呟くと、奇妙に一度表情を絶やし、首を傾いで不思議そうな表情をして脈略もない問いをしてきた。
「無関係のところって……」
「…………」
「通先輩が人を助けられないところでという意味ですか?」
「…………」
「通先輩が私を助けられないところでという意味ですか?」
不明瞭な発言をする女の子に僕は訥々で、答える。
「意味が、判らない」
「難しい質問でしたか? そうですか、でも、問題ありません。先輩が判らなくても私が解ればいいんですから」
そう、云って、
小鳥ちゃんは忘れていた表情を思い出したかのように――にっこりと子供みたく微笑んだ。
「…………」
僕はそんな女の子を鼻で笑った。
「意味が判らないことを云う前に怒ったらどう? 僕は、小鳥ちゃんが死ぬ未来を前提で話しているんだ。普通じゃないだろ?」
「そうですね、普通は起こるべきなのかもしれません。違いますね、私が死ぬと言いましたから普通に当てはめてはいけませんね。いいえ。普通自体がどうでもいいです。あっ、通先輩。私、やっぱり自殺するのを止めます」
生死の決断は、飲食店でオーダし終えたあとに、もう一品デザートを付け足すようなあっけなさだった。僕は卑下する。
「心替わり?」
「そうですね。いきなり、心変わりしたんです。私はこんなにも優しい男の子に弱かったようです。通先輩のような優しい男の子に」
「…………」
――雨が――降ればいいと思った。
「……やれ、やれ、下らない独白が、始まった。僕が優しい? 僕は変態だ。優しいと変態。カンジにしても、平仮名にしても、かたかなにしても、発音にしても、何にしても似ても似つかない――」
「あはは、先輩は面白い人ですね。似る必要はないじゃないですか。どうして、そんなにいい言葉から先輩は離れようとするんですか? いいえ。それでいいんです。それが、私にしたら優しいって意味にもなるんです。私だけが解ればいいんです」
そう言う、独りだった女の子の眼は誰かに感謝するように温かだった。
「――――」
僕はもう、喋りたくない。
僕は、
雨と一体化したくなった。
「通先輩――」
雨を降らせる力を欲した。
「――どうして、先輩はいま〝泣いて〟いるんですか?」
雨が降ってくれないかと願った。
「私のために泣いてくれているんでしょ?」
雨に降ってくれないかと願った。
「私は自分のためにしか泣けなかったけれど、先輩は――会ったばかりの他人のために、私のために――泣いてくれるんですね」
今日は空が見えすぎたけれど、夜空の下でそれでも願い思う。
「先輩は私の悩みはくだらないって言っていましたね、いま思えばその通りだと思います。だって……、私は――先輩の前じゃ――〝自分に正直〟でいられていましたから、悩みじゃなかったんですね。通先輩の言葉通り、あれは悩みじゃなかったんです。けれど、気づけなかったあのときの私にはそれが悩みだった。この言葉はいまの私じゃない私が言わないといけない言葉だけれど、無理だから、いまの私に言わせてください」
何度も、
「通先輩、死ぬ理由にならない、くだらない悩みで、死ぬ前の私のために、泣いてくれて――ありがとう」
僕は、命令した、
「嘘だと心配しないで。もう、自殺しませんよ。先輩がいるのを知ったから。だから、また、私、正直に生きてみようと思います」
雨よ、降って何も言えなくなった僕の表情を隠してくれと。