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死ぬ寸前だった僕は藁にも縋る気持ちで、彼女(、、)のおっぱいを触り揉み掴んでとその先端をつまんで生き延びたのだけど、助かった状況は抽象的に思い出せても具体的には思い出せなかった。落下した際、頭部を強打して記憶が飛んでいるのかも。血出てたし。
思い出す切っ掛けのために、一つの議題をあげようと思う。
おっぱいとはおっぱいの〝先端〟も含めておっぱいと呼ぶべきなのか?
もちろん、それを含めておっぱいだから、呼んでもいいはずだ。でも、おっぱいとおっぱいの先端を言い分けたほうがなんだかエロいと僕は思うのだ。間違いなくエロい。おっぱいの先端に名称があるにも関わらず、あえて口にせずに先端と言っているのはわざとだ。体験してエロさを実感してもらうための模範演習だ。おっぱいの先端と呼称したほうが変態力によってもっと妄想を膨らませられてエロくなる。と思うのは僕だけか? まあ、いいだろう。僕は思う。僕の結論は先端派だ。
とか、考えながら歩いている僕の隣に〝彼女〟はいた。
「…………」
そのままの意味の彼女。他意はない。
僕は左先端に痛みを抱えたままの女の子と、手を繋いで一緒に歩いている。手を繋ぐなんて行為を男女の他人が行うには理由が必要だったけれど、僕はその理由を手に入れてしまっていた。十七年間女の子の肌を触った経験のない、手を繋いだ経験もない、無論、彼女のいなかった僕は隣にいる女の子に出会って数十分後に、その長い過去に終止符を打った。
『私の彼氏になってくれますよね?』
『はい。ならない理由がありません』
僕は流れに逆らえない性格のようだ。
血液が凍りついたようにガチガチな気分。彼女と手を繋いで歩くのに不慣れな変態の僕はちょっと緊張している。『変態の癖に!』とは云わないでほしい。初めては変態でもやっぱり緊張ぐらいはするのだ。清純な付き合いには弱いのだ。変態なら誰にも負けない自信があるけれど。
ふと、誰かの視線を感じて、隣を見た。自分に言い訳をしている僕の心内が視えるはずのない彼女は、下から覗き込むようにして僕の双眸を見つめると、にっこり笑みを浮かべて云った。
「自己紹介しませんか? 一番、初めにしておくのが普通だと思うんです」
「そうだね」
名前も何も知らない相手が彼女になっているという経験をした人間は、僕が人類初ではないか? 僕達は歩きながら自己紹介を始めた。
「私からしますね。小鳥遊 小鳥といいます。身長、百四十九センチ。体重、四十三キロ。バスト七十のウエスト四十五のヒップ七十五。視力、両方とも良好。今年の目標は引きこもらないことです」
懇切丁寧な自己紹介だった。自己紹介に慎重体重とスリーサイズまで入れてもらえるのが彼氏の特権とは大発見だ。
規範だ!
模範だ!
と、できれば、彼氏特権ではなくて一般常識として取り入れてもらいたい。
「他に知りたい情報はありますか?」
一人僕が興奮していると、彼女は爽やかに訊いていた。
「足のサイズは?」
「二十二センチです」
話の流れでつい訊いてしまった。
足のサイズを訊いて僕は、彼女に靴のプレゼントでもしてあげるつもりだったのかは知らないが、彼女がそう解釈していたとしたら、応えなければなるまい。僕の奇矯な問いかけに不快さを見せずに彼女は言葉が足りなかったと云いたそうに口を開いた。
「言い忘れていました。一応、性別は……、女です」
いや、何で言葉を溜めた? ちょっと心臓が大きく動いた。恐ろしいカミングアウトされるかと思った。いやいや、男って云われたらどうしようと思ったって意味ですから勘違いはしないように。
「ふふっ。びっくりしてくれましたね」
僕の表情が露骨だったらしく、彼女は眼鏡に軽く触れて会話を続ける。
「最近。見た目とかが女性に見えても、男性だっていうのが流行っているらしいですから。こういう言い方したら驚いてくれるかなってちょっと悪戯しちゃいました」
「ほっ、ほう。そんなのが流行っているのか。でも、どうして?」
どうなっての、人類。
「知りません。私は男性じゃありませんから」
「あ、そうだね」
男ではない彼女が理由を知らないのは、当然なのかもしれない。
彼女との会話は難しい。会話を根絶させる話しぶりをどうにか回避するため、僕は相槌を打った。
「あっ、そうだよね。そうなんだ。でも、どうして知らないのに話したの?」
「恋人同士の会話ってこういう下らない話をするのが普通だと聞きましたから」
「な、成程」
なんだか、自分が下らないと云われている気分だ。
「先輩の尋ねた私の靴のサイズと同じですよ」
「その通りだね!」
表情を変えない彼女の的確な比喩は、僕の心を切り刻むぐらいはドSだ!
おっぱいの先端の仕返しだろうか? だから、僕の心がどこまで耐えられるのか試しているのか? いや、僕を拒絶しているのかもしれない。僕は繋いだ掌に汗を掻いていないだろうか? 掻いていたら、汗ばんでいて気持ち悪いと教えてくれるか。
僕は緊張が表情に滲み出ていないのを祈るばかりだった。
「それと彼女は彼氏に誰にも言えない〝悩み〟を相談するのも普通らしいですね」
てっきり、下らない僕との係わり合いはここで仕舞いだと云われると思っていたのだけれど、違っていた。僕は安心を持ってレスポンスを打った。
「そうなの?」
「はい。彼女の悩みを聴けなければ、先輩の存在意義がなくなるらしいですよ」
「僕限定!」
「そんなことよりですね」
「そんなこと!」
僕は自分の存在を抜き終えた雑草程度に扱われて哀しい気持ちを押し隠して「あ、うん……うん」と頷いた。彼女の無垢な表情に対して、頷くぐらいしかやれることがなくなってきていた。
違うぞ。存在意義を消されるから、レスポンスを打っているんじゃないぞ。断じて違う。僕は彼女の声に耳を傾けた。
「苗字。私の苗字。小鳥が遊ぶと漢字で書いて〝たかなし〟と読むんです。名前はそのままの読み方で普通ですけど。小鳥遊、ちょっと、珍しくありませんか?」
「珍しい? あ、うん、珍しいな。小鳥遊、小鳥遊 小鳥ちゃん」
「なんか――歯切れが悪くないですか?」
怪訝な口ぶりで、僕の双眸を見つめている彼女。温かだった表情が急に冷えると、背筋が寒くなる感覚に襲われる。僕は自分が年上だといわんばかりに、落ち着いた喋り方を意識した。
「そりゃね。小鳥ちゃん気づいているかい?」
と。
さりげなく名前で呼んで、二人の間を指差した。
「さっきまで手を繋いでいただけだったのに、腕を組んでいるのを。いつの間にか僕の腕を抱き枕のごとき密着させている。僕としては意識がそっちに向かうのは当然だろう? 歯切れも悪くなっちゃうだろうよ」
僕の片腕は、彼女の身体にめり込むように、セメントで塗り固められてしまったかのように束縛されている。彼女は自分の所業を再認識するように抱いている腕も見て云った。
「おっぱいが腕に当たっていると男性は歯切れが悪くなるんですか?」
「よく、僕の言わんとしているところが理解できたね。少なからず僕に関してはそうだ」
「私の小さいですよ」
「大きさは関係ない」
おっぱいが当たっているというのが重要で。
「感触が肝要だ」
その変態発言を耳にして彼女は真っ直ぐ表情を変えずに訊いてきた。僕はビンタぐらいを覚悟して言ったつもりだったけれど、彼女は強靭な精神力を持っているのか淡々と尋ねてくる。
「先輩は変態なんですか?」
「えっ?」
僕は驚愕した。今までの経験則から「変態!」「変態だ!」と奇声を上げられた経験は幾重にもあるけれど、変態であるかどうかを尋ねられたのは初めてだったからだ。僕は一瞬、困窮したがそのまま答える以外言葉が見つかるはずもなく。
「変態だ」
そう、キメ顔で答えた。
「そうですか」
矢継ぎ早に、云い頷く彼女。
「…………」
沈黙。
彼女は……彼氏に本性を知らされてどう思っただろうか……。僕を彼氏にしたのを後悔するしかないだろう。というか、僕は彼女の彼氏でいいのか? そこがまだ甚だ疑問だ。彼氏彼女の関係には明瞭としたものがない。入籍のような書類上の手続きがない。男女同士での付き合うという薄っぺらな口約束での関係性は、端から見てもあるようでないようなものに近いから、そこまで真剣に考えない性格を彼女は保持しているのかもしれない。でも、そうだったとしても……。
と。
自分の中で詩の朗読をしていると。
「よかった。じゃあ、先輩は私のおっぱいが当たって嬉しいんですよね?」
彼女は安堵した溜息と一緒に同意を叩きつけてくる。
「へっ?」
「少し心配していたんです。私のおっぱいを触り揉み掴んでとその先端をつまんだ人だったので大丈夫だと勝手に思い込んでいて失念していました。恋人同士になったとしても、こういった行為を嫌がる人もいるのを。ドライな関係を望まれたらどうしようかと、私焦ってしまいました」
僕の腕は檸檬のように締め付けられる。
「先輩が変態なら、肉体的接触は概ね良好ですね。これで私は先輩の大抵の行為をえっちだなぁ、で済ませられるわけですから」
彼女は爽やかに云い続ける。
「先輩……。えっと、あの、恋人同士でこの呼び方は変ですね。私を小鳥ちゃんって呼んでくれているのに、私だけそんな他人行儀な呼び方じゃ、ちょっと、普通じゃないですよね? えっと、お名前を……」
僕は漫画では出しそうな鼻血を出さぬように興奮を抑えて、即答した。
「通。十七歳です」
やっぱり、私より先輩でしたねと、ほんの少しはにかみ云う彼女。
「通先輩」
「はい。ありがとうございます」
「……?」
変態にとって貴女のような女の子に、そうそう出会えるような必然も偶然もないのです。それが彼女だなんて衝動を抑え続けなければならないのが不幸としか言えません。と、喜びを吐露せずにお礼だけ口にする僕だった。
「通先輩?」
自己陶酔していた僕は、首を傾いでいる彼女に視線を向けて謝った。
「いや、ごめん。ごめん、話を脱線させてしまった。小鳥遊って苗字は珍しいって話だったよね。さあ、続きを話して」
「続き? 続きはありませんよ。あれで終わりです。私、苗字の話であれ以上話を広げる自信はありませんし……」
無理算段で続けた方がいいですか、と困った表情で尋ねられた。
「…………」
僕の思い込みで、彼女は最初から気遣いなんてものはなかったようだ。僕は頭を振った。
「いいえ」
「そうですよね」
僕たちは並んで歩いている。
風景が目には入っているはずなのに、記憶に残らない。意識が彼女に集中しているからに違いない。歩けば歩くほど密着度が増していく気がする。二人三脚でもこれほど密着するとは思えない。
前方に向けていた視線を下ろして自分の腕を見た。
自分の腕におっぱいが当たっているのを確認した。
やばい、やばい、やばい! このままでは何かがやばい。何かって僕の変態行動なのだと解っている。人間の三大欲求の一つが悲鳴を上げて崩壊しそうだ。というか、した。
「ねえ、小鳥ちゃん」
「はい、なんでしょう?」
「もうちょっと、離れて歩いたほうがよくない?」
「えっ……?」
彼女の鼻歌が止んだ。実際には鼻歌は流れていなかったのだけれど、牧歌的な雰囲気はあった。それを壊してまで言うことだったのか自分でもよく判らない。
変態の僕の言葉ではない。おっぱいを拒絶するなんて、変態の行動ではない。でも、恋人という存在に対して些かの緊張がこういった理性発言をさせてしまっているように思えなくもない。事実そうなのだろう。そうでなければ、他に理由を考えなければならないが、どうでもよかった。小鳥ちゃんは僕の発言を耳にすると落胆した表情と声色になった。
「通先輩……どうして、そんなこというんですか……?」
「うーん」
曖昧に声を出して、言い訳を考えてみる。間に合わず、彼女から問いかけがやってくる。
「私の肌がべとつくからですか?」
「いや、さらさら」
「汗臭いとか」
「想定内だ」
「えっ、臭いですか?」
「フローラル」
「驚かさないで下さい」
どっちの意味?
「やっぱり、おっぱいが大きくないと……」
「そうじゃない。感触が肝要だといったはずだ!」
「真剣だ。嘘がない。それじゃ、真正面からがいいとか?」
「云われてみて実感したよ。横からのタッチも弾力があって感懐深いものがあるね。それもそれで興奮する」
「じゃあ、どういうことなんですか?」
「……えっと」
尋ねられて思って、考えて声にしてみる。
「一応の確認だけど、僕と小鳥ちゃんは今日が初対面だよね」
「そうですけど」
それがなにか? と当たり前だといわんばかりに首を傾げられた。僕はそれでも当たり前を再確認する。
「それで、恋人同士になった」
「はい」
「おかしくない?」
「何がですか?」
「何がって……、こういう状況が」
「……?」
首を傾げ続けているので彼女に説明がこれ以上必要なのが解った。
「だから……」
説教をするつもりはないけど、説教染みた言い方になってしまうのは許してほしい。
「初対面で好き同士でもない二人が、恋人同士になって手を繋いで歩いているって状況」
僕達は恋人同士だ。でも、今日出会って、相手の気持ちなんて知らない恋人同士だ。幼馴染でもクラスメイトでもない。関係性は今日生まれた。どちらかが恋慕していて告白したわけでもない。成り行きで、仕方がなくなってしまった恋人同士。それは、恋人同士なのか? いいのか?
小鳥ちゃんは少し考えた風な表情を作って、見慣れた表情に戻って云った。
「普通ですよ」
「…………」
ちょっと、気持ちが悪かった――。
云い方が普通すぎて、彼女の気持ちが判らなかった。
「……ふ、普通?」
「そうです」
僕が疑問符を抱いているのとは正反対に、清々しく彼女は教授する。
「いまはそういうのが主流なんですよ。初対面で好きでもない二人が恋人同になって手を繋いで歩くのが普通なんです」
歩く速度に変化はなかった。電柱が視界を何度も通り過ぎていく。少しは僕が抱いていた気持ち悪さが薄らぐくらいの時間が過ぎた。順応と呼ばれるものだろう。そんなタイミングで彼女は確認してくる
「通先輩は男女好き合って恋人同士になるって主義ですか?」
そう尋ねられて、そういう主義を持っていたんだと僕は知った。
「その考えは古いですよ。いまは、付き合ってみて好きになるものなんです」
だって、人の心は視えないでしょ、と小鳥ちゃんはおどけて続ける。
「付き合ってみれば相手の性格がよく解ります。自分と相性がいいかがすぐに知れます。そこで好きか嫌いかをはっきりさせて、そのまま付き合い続けるか続けないかを選択すればいいんです。そのほうが効率がいいんです。
先輩の恋愛は〝無駄〟が多いと思います。結局結果は同じなんですよ? 好き合っていても相手を解って知って嫌いになったりするんです。だったら、相手が解って知れてから好きなるほうが、無駄が省けるでしょう? 自分と合わなかったら、嫌いだって伝えて解消すればいいんですから。卵が先か鶏が先かと同じです」
僕は彼女の声を聴きながら「うん」とだけ反応した。
「付き合うって結婚みたいに明確なものがないじゃないですか」
「僕もそう思う」
「お手軽ですから有効活用しなくちゃ」
「そうだね」
気のない反応を示したあと彼女は独り呟く。
「人には圧倒的に時間が足りないんですから」
「時間が足りない……、ね」
彼女の呟きを復唱しつつ、思う。
何の時間が足りないのだろう、と。
疑問の表情をしたけれど、何の時間が足りないのか彼女は教えてはくれなかった。教えてくれなかったとは酷い手前勝手だ。知りたければ訊けばいい。訊かなかった僕が悪いのだ。
「この話は終わりですよ。先輩、お話しましょう。これから、どこに行きましょうか、通先輩」
でも、彼女が僕を好きじゃないのは訊かなくても知れた。