フィコンの願い
――調べ車の塔
エムトは急ぎ塔に駆け込み、その足でフィコンの下へ赴いた。
フィコンは会議室にて、ちょうど二十二議会の面々と話を終えたところのようで、議員たちは暗い顔を見せて離れていく。
その彼らと入れ代わるようにエムトが会議室へ飛び込んだ。
「フィコン様!」
「戻ったか。出迎えをできなかったことは悪く思うな。少々、忙しくての」
「敗軍の将に歓待など不要でございます。そのようなことよりも申し上げたき儀がございます!」
「エムトよ、落ち着くがよい……」
フィコンは長く艶やかな黒髪を振るい、手のひらを差し伸ばして彼の声を止める。
そして、すでに立ち去った議員の残影を黄金の瞳に宿し、薄く笑う。
「フフ、此度の議会の失態で、エナメルの席が空いた。そこに我々の息がかかった者を座らせることができた。もちろんこれに異を唱えたが、ここでフィコンの申し出を断れば民衆の支持を完全に失う。奴らの悔しがる顔を貴様にも見せてやりたかったぞ」
「それは重畳の至り。しかしながら、それにより大きな敵を育ててしまいました」
「ケントのことだな」
「フィコン様はお気づきに?」
「当然だ」
フィコンは会議室にある窓から、アグリスを見下ろす。
「あの男はアグリスと敵対する勢力と懇意にしておる。そして、此度の戦で力を見せつけた。半島は暗にケントに与し、我々は安全な裏庭を失った」
「このままでは、アグリスはっ」
「そうはなるまい」
「何故でございますか?」
「ケントはアグリスの影響を削ぎ、周辺種族と連動して牽制するに留めたいだけで、そこまでは望んでおらん……表向きはな」
「ならば、裏は……」
「奴の心の中では、王都で失った己が理想をここで叶えたいという思いと、身の安全のみを確保し大事には関わりたくないという思いが綱引きをしておる。その綱を無理にでも引っ張らぬ限り、奴は牙を剥かん」
「そうであっても、危険であることは間違いありません。早急に手を打たなければっ」
「打つ必要はない」
「なぜでありましょうか!?」
「たしかに、打たねばいずれ牙を剥くかもしれん。だが、それでよい。ケントには是非にも、このアグリスを奪ってもらわなければならぬからな」
「な、なんと!?」
フィコンは視線を街からエムトへ移す。
そして、冷たく笑う。
「フフフ、エムトよ。アグリスの過ちはなんぞ?」
「過ち? それは議会に余計な影響力を持たせたためでしょう」
「それはちくとばかり違う」
「では、アグリスの過ちとは?」
「過ちとは……即ち、我々の存在。ルヒネ派の信仰の力が表に出過ぎたからだ!」
「っ!?」
フィコンの言葉にエムトはまさに絶句をした。
ルヒネ派の象徴たる存在が、己の存在を否定する言葉に……。
言葉を失ったエムトを置き去りにして、フィコンは一人語らう。
「信仰という力を用い統治すれば、柔軟性を失う。なにせ、教えは絶対。時代に即して変容させるなどできぬ。だが、法は違う」
「フィコン様は、何をお考えに?」
「法は天の如く大なり……法の名の下にアグリスを治め、我らルヒネ派はアグリスの象徴宗教として寄り添う。厳格すぎるルヒネ派が先の時代に生き残るためには、この方法以外ありえぬ。エムトよ、貴様も苛烈な決まり事に迷いを生じたことがあろう」
黄金の瞳がエムトの姿を包み込む。
彼の心の全てを見透かす瞳に、エムトは静かに頭を垂れる。
エムトはカリスの境遇に疑問を抱いていた。
生まれながらに忌避される存在。
カリスというだけで理不尽に石を投げられる。
だからこそ、若き日の彼はカリスの少年テプレノの逃亡を見逃した。
この思いはエムトだけではなく、アグリスの市民の中にも少なからず存在する。
今はまだ、ルヒネ派の厳格さが勝っているが、いつか必ず、疑問が厳格さを勝る時が来る。
フィコンはその日が来る前に、ルヒネ派の生き残りを模索しているのだ。
エムトは沈黙と共に下げた頭を上げ、言葉を纏う。
「アグリスを治め、我々が寄り添う存在がケント=ハドリーと?」
「奴は切れ者だが、ヴァンナスの支配層から比べるとかなり甘いからな。奴相手ならば、我々の力をさほど損なうことなく立ち回れるだろう……そのためには世界の行く末を見つめる必要があるが」
フィコンは再び街へ視線を動かし、次は街ではなく遠く先を見つめる。
「魔族の活性化。これはヤツが目覚める前兆」
「ヤツ?」
「世界を破滅に導くモノだ。数多の世界はヤツの手によって滅ぼされた。いくつかの世界は犠牲を払いながらも乗り切ったが……果たして、この世界は乗り越えられるだろうか。これはサノアの力宿るフィコンの瞳をもってしても見通せぬ」
神の力が宿る、遠見の黄金の瞳。
先を見ていた瞳はゆらりと動き、エムトを映した。
エムトは人の知の及ばぬ瞳に捉われ、言葉を発することなく、ただただフィコンを見つめ続ける。
虚けのようなエムトの姿へ、幼いフィコンは我が子を見つめるように柔らかな微笑みをかけた。
「ふふふ……ヴァンナスは最強の剣にして盾である勇者レイを派遣してきたな」
「え?」
突然の会話の変化。
エムトは戸惑いながらも言葉を返す。
「はっ。最強を寄こすということは、我々を危険視している証でしょう」
「それもあるだろうが……勇者レイを遠くに置き、手放しても問題のない域まで達したのだろう」
「ん? 仰っている意味を解りかねます」
「ヴァンナスは、勇者を不要とする秘密兵器を手に入れたということだ」
「なっ!?」
「フフ、ネオめ。やりおる。ヴァンナスを守るために穢れに塗れた道を歩むか。だがの、貴様は先を見通せようが、フィコンの如き先は見えぬ。運命が交差するその時、勝者として立っているのは……フィコンか、ネオか、ヤツか、それとも、ケントか。フフフフフ」
フィコンはまるで、濁流に呑まれ翻弄される運命を楽しむかのように笑う。
そして、一頻りの笑声の後に、エムトの心を覗く。
「此度の戦。そして、貴様の知らぬ場での駆け引き。不満があるのだろう」
「……僭越ながら、一言伝え置き願いたかった。それが偽らざる気持ちでございます」
「そうだな。貴様に全てを話しても良かった。そして、話しても貴様であれば腹に収めることもできよう。だが、フィコンは……フィコンの下におる者以外に、全てを伝えたいと思わぬ」
「なんと!?」
エムトを突き放すこの言葉に、彼は怒りと悲しみが混じり合う声を咆哮する。
「フィコン様! それは心外でございます。私はフィコン様の忠実なる信徒であり部下として今日までっ」
「黙れっ! 貴様はフィコンに仕えているわけではない! フィコンの母である、先代フェンドに仕えているのであろうが!!」
「うっ!?」
「貴様がフィコンに見せる優しさは、フェンドの形見を守る優しさ。主を思う優しさではない!」
「そ、それは……」
「エムトよ、フェンドを忘れろとは言わん。だが、主が誰であるか、しっかりと己の心に問いかけ、答えを導け。それができぬというならば、立ち去るがよい」
鋭い刃を見せる眼光。
フィコンは自身よりも逞しく、威容を誇る獅子将軍を瞳の力で切りつける。
そこにあるのは、フェンドの形見でも十四歳の少女でもない。
アグリスの象徴であり導く者、塔に立ちし者フィコン――
エムトは主たる少女の前に片膝をつき、頭を深く垂れる。
「このエムトの迷い、完全に断ち切れました。フィコン様を主として、この身命の全てを投げ打つ覚悟でございます!」
「ふふ、それでよい! では、新たな任を授ける」
「はっ!」
「勇者レイと協力し、大陸の魔族の状況を調査しろ。アグリスはフィコンに任せておけばいい」
「勅命、賜りました。レイと共に魔族の調査に向かいます!」
彼が仕える主は幼い少女などではない。
二十二議会の議員など敵にすらならない、象徴的存在にして導く者。
だからこそ、エムトは迷いなく颯爽と踵を返し、前を向いて歩きだした。