二通の封筒
老婆は日傘を閉じて、中庭から台所を通り、城の一階広間に訪れる。
広間では、フィナと親父とゴリンとカインが建物の構造と予算で侃々諤々とやりあっていた。
その姿に微笑みを送り、正面を向く。
そこに彼が訪れる。
「おや、あなたは?」
彼の声を聴いた瞬間、老婆の全身に衝撃が走り、体が崩れ落ちそうになった。
だが、それを悟らせないようにしっかりと身体を支え、声に体を向ける。
そこにいたのはケント。
古城トーワの主・ケント=ハドリー。
老婆は彼の姿を瞳に入れ、衝動的に抱きしめそうになった。
だけど、その思いを強く覆い隠し、平静を装って言葉を返す。
「勝手にお邪魔して申し訳ありません。旅の途中、久方ぶりにここを通りかかったら、とても賑やかだったもので」
「旅の途中?」
ケントは老婆の姿を見るが、透き通る海のような薄い青色のドレス姿は、とても旅をしている者の姿には見えない。
その疑いの視線を老婆ははっきりと感じているが、あえて無視して、正面に広がる大きな壁を見つめる。
そして、一言漏らす。
「寂しい壁ね……」
「……そうですね」
ケントはひとまず、謎を置き、彼女の話題に付き合う。
「ですが、予算と時間に都合がつけば、エクアという少女に絵を描いてもらおうと思っているんですよ」
「そう……」
エクアという名を聞いた老婆は寂しくも優し気に微笑み、そして、こう言葉を返す。
「そうね、あの子ならきっと壁に絵を描ける。とても素晴らしい絵を描けるでしょうね」
「あの子? エクアのことをご存じで?」
「それは、ごほごほごほごほっ!」
老婆は突然咳き込み、その場でしゃがみ込む。
その咳き込み方は尋常ではなく、口を押さえた手に血がべっとりとついている。
「いかがされた、婦人!?」
「ごほっ、はぁはぁ、もう少し大丈夫だと思ったけど、急に来るのね。あの、ケント様、ゴホゴホゴホ!!」
「婦人!? カイン、こっちに来てくれ。他の者も手を!」
老婆はケントとフィナたちの手を借りて、診療室へ運び込まれた。
騒ぎを聞きつけたエクアも診療室へやってくる。
彼女を診察したカインは、ケントに近づき驚愕に言葉を震わせる。
「ケント様、あのご婦人はもう……」
「病気か?」
「わかりません。彼女の細胞が急激に崩壊をはじめ、皮膚の表面の一部が砂のように。このままだと崩れ落ちるどころか、体全体が塵に帰ってしまう」
「なに? 一体、どういうことだ?」
「けん、と、さま……」
老婆の弱々しい声が響く。
ケントはベッドに駆け寄り、老婆の声を聴いた。
「あまり無理をしない方がいい」
「いいえ、無理を、してでも、来る必要が……あった」
「え?」
「ケント様、これ、を……」
老婆は懐から、両端が鋭く尖り、七色に輝く六角柱の水晶のペンダントを取り出す。
「これは?」
「それを、肌身離さず、持っていて。絶対に、持っていて、ゴホゴホゴホ!!」
「これ以上喋っては駄目だ! カイン、こっちへ!」
「だめ、ケント様!」
老婆は僅かに残された力でケントの袖をつかんだ。
そして、懇願の声を出す。
「お願い、それを絶対に肌身離さず持っていて!」
「よくわからぬが、わかった。だから、これ以上は」
老婆の瞳から光が失われていく。
だが、彼女は言葉を発するのを止めない。
「ゴホゴホ、フィナ。そこにいる?」
「え、ええ。どうして、私の名前を?」
「こ、これを、あなただけが目を通して……」
老婆は震える手に赤の封筒と青の封筒を持ち、フィナへ渡した。
フィナが二通の封筒を受け取ったのを見届け、彼女はとても満足そうに笑った。
そして、次の瞬間には!
「っ!?」
老婆の肉体は塵となり、衣装だけを残して消えてなくなってしまった……。
あまりにも不可思議な出来事に、彼らは言葉を失う。
その中で、エクアは大粒の涙を流す。
「エクア……?」
「わ、わかりません。なぜか、涙が止まらないんです。涙が……」
エクアは何度も何度も涙をぬぐうが、涙は止まることなく、ずっと零れ落ち続けていた。
――診療室・ケント
私はフィナとカインに老婆のことを調べさせることにした。
しかし、調査の結果、何が起こったのか不明。
ただ、病気の類ではないということはわかり、一応の安心を見た。
ペンダントのこともフィナに調べさせ、執務室でその報告を聞きつつ、老婆が渡した封筒のことを尋ねる。
「フィナ、このペンダントは一体?」
「とある接続媒体……」
「なんのだ?」
「……さぁね。ただ、私が言えることは、あんたはそれを絶対に手放してはいけないってこと」
「ん、なぜだ?」
「言えない」
「言えない? それは一体?」
「あんたにも話せないことがあるように、私にも話せないことができただけよ」
そう言って、彼女は封筒を持つ指先に力を込めて、紙の表面に皺を生む。
「フィナ、その封筒に何が?」
「言えないっ。とにかく、そのペンダントは絶対に持ってなさい! わかった!!」
「あ、ああ、わかった……」
「それじゃ、私もう、行くから!」
私はフィナの剣幕に押され、言葉を詰めながら彼女を見送るのがやっとだった。
――トーワ城・三階
フィナは駆け足で廊下を歩いていく。
その途中、足を止めて、地下室で読んだ封筒の内容を思い起こしていた。
――老婆から受け取った赤の封筒と青の封筒・その一通、赤の封筒――
フィナが封筒を開くと同時に、人頭ほどの大きさの正十二面体の形をした真っ赤な真実の瞳が飛び出す。
封筒はとても薄く、ナルフが納まる場所などない。
彼女は早速、自身の手のひらサイズのひし形の青いナルフで赤のナルフを調べる。
「なにこれ? 私のナルフなんか目じゃない性能。おばあちゃんだってこんなの作れっこない……」
ナルフが納まっていた赤の封筒から手紙を取り出す。
手紙の枚数は二枚。
中身は赤いナルフの扱い方。
そして、フィナへ宛てた言葉と、来るべき時に行う手順。
赤いナルフの扱い方に目を通して、彼女は自身の知を遥かに超える情報に指先を震わせる。
震えを残す指先を動かし、彼女はもう一枚の手紙に目を落とした。
――赤の封筒の中の二枚目の手紙
あんたのことだから、きっと謎を追おうとするだろうね。
でも、知らない方がいい。知り過ぎると、先が読めなくなる。
そうは言っても、気になるのがあんたの悪いところ。
だから、伝えられるところだけは伝えとくね。
あんたたちの前に現れ、消えてなくなったお婆さんは、エクアよ。
六十年後のエクア=ノバルティ。
エクアはケントを救うためにやってきた。
私たちの時間軸ではケントは……事故で死んでしまったの。
それをずっと後悔した。
ずっと、忘れられなかった。
だから、エクアを過去へ送り込んだ。
でも、それは片道切符。
普通の人の肉体では時間移動に耐えられない。
それを私は時間病って適当に名付けたけど、この時間病は時間を移動し、しばらくして症状が現れ、細胞が完全に崩壊し、消えてなくなってしまうの。
私とエクアはそれを知ってもなお、ケントを救うために時間移動を行った。
私はエクアを犠牲にする決断をし、エクアは覚悟を決めてあんたたちの時間軸に訪れた。
エクアが渡したペンダント。
あれがケントを救ってくれる。
その時がいつ訪れるかは、あんただけに伝えておくね……。
――――
フィナは目だけを動かし、恐るべき未来を覗く。
未来を見つめた瞳は恐怖に彩られるが、彼女は手紙を読み続ける。
――――
……事故を回避するためには、事故が起きるまで待つしかない。
これが私の出した計算の答え。
怖いでしょうけど、その時が来るまで、あんたはじっと我慢して、お願い。
六十年後の私から、六十年前の私へ。