第1話 『34日目』前編
……なあ、今日死ぬとしたらさ、この世でやり残したことってある?
うまい飯食ったり、カワイイ女の子と付き合ったり、旅行行ったり、好きなものをたくさん集めたりとか
考えだしたらきりないって?
俺は……ないのかも。どれもピンとこない。ぱっと思いつかないし。
無欲なほうなのか夢もない、だから志なかばでってこともない。
そういうのって頑張って頑張って手に入れることに価値があったりするんでしょ?
めんどくさがりの俺には途中でいいやってなっちまう。
でもさ、じゃあ死んでもいいか、って感じでもない。怖いし、死にたくはない……ような気がする。
じゃあ頑張るしかないって状況のとき、どうすればいいんだろうな。
考えていてもしょうがないから動けって?
うーん、考えつつ答えを出さないまま止まって惰性で生きていく気がするなあ。
なんだかんだ、何かするって疲れるし、失敗するかもしれない。
変わるのってすんごいパワーと気力がいる。
だったら現状維持で、維持で……ってなるのが大半に人間だよな。
でも、それで現状維持できるってのもそれなりに幸せなんだよね。
世の中っていう括りの中でじゃ"今ある普通"にしがみつくのだけでも相当難しい人のほうが多いんじゃないか?
維持してる間にも時間は経って、止まってるだけでも周りは進んでるからそのぶん遅れていったりしてね。
いずれは答えをださなきゃいけない時が来る。
だったら早いうちから答えを出せって、頭ではわかっててもできないことが多い。
……俺もそういう人間だった。
でもいざ動かないと死んじまうって状況になったら、気が付いたら動いちまってんだ。
うん、とりあえず、今日は死にたくないや。明日はまた明日、考えよう………………。
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「……しと…………ごにゃ、って…………」
薄暗い雑居ビルの中、散乱した書類とぶっきらぼうが暴れたあとみたいに部屋は散らかっている。
イスはもとの机に収まらず自由な方向を向いていて、通るものを遮るようだ。
その空いたスペース、身を千々込めてどうにか入る机の下でぐっと丸まっている男がいた。
夢を見ているのか、だらしなく開いた口から聞き取れない程度の寝言が漏れている。ジーパンにはすでに大きいシミを作っていた。
よほど疲れているのだろう、無理な姿勢で座っていながらも放っておけば朝まで寝ていそうだ。
ブラインドの隙間から差す光はうっすらと赤みを帯び始めている。
このまま明かりをつけずに仕事をしていればきっと目を悪くするであろう。
しかし20畳ほどのオフィスに人影はなく、みな仕事をほっぽり出してどこかへ行ってしまったようだった。まだ定時ではないし、休日でもない……が。
ところで、この男はなぜこんなところで寝ているのだろうか。
白い半そでのシャツの内側に長袖のインナーを着て、深緑のリュックを抱えている。
歳は成人していないのか、寝顔にはあどけなさが残っている。
「んて……、…………うん…………うん」
誰かと話しているのか時々、相槌をうっているが、なあ少年いいのだろうか、このまま日が沈んで夜の世界になってしまっても。
――カーン!
そのとき、固い床に金属がうちつけられたような音が響いた。
「――はっ!」
同時に、男の意識も現実に引き戻されたようだ。
即座に目だけで周りを見る。対面の机と、埃が西日の中揺らめいていた。
即座の危険がないことを理解し、一気に張り詰めた神経は耳に注がれた。
金属音が何度か反響したあと、転がるような音がする。
扉を隔てて階段のほうから聞こえているようだ。
間違いなく、4階に上がる折り返しに立てかけておいたパイプだ。
ヤツらが上がってきたか! 建物が古いからかオフィスに通じるドアにカギはかかっていない。
もう間もなくこの部屋に入ってくるだろう。
西日の赤みが濃くなっているのが目に入る。
「あぁクソっ、寝すぎた」
少しの休憩のつもりだったが、思ってた以上に精神的に疲れているのかもしれない。
腕時計は午後5時半を指していた。もう1時間しないくらいで日が沈む。
それまでに家に戻らないと――。
別に門限がとかっていう話じゃない、ヤバいんだ、夜は。
机から這いずり出てリュックを背負う。
蝉の鳴き声が壁越しでもうるさく感じる。冷房の効いていない室内は蒸し暑く、べっとり張り付いた服が気持ち悪い。
思えば迂闊だった。少し探索距離を伸ばしたため、知らない区画を通った、慎重に歩いていたつもりだった。
しかし、通り過ぎた家の隙間からヤツらが出てくるのは考慮が足りなかった。
それも間が悪く、逃げた先にもいて囲まれる形になった。即座に逃げ込める雑居ビルの扉の隙間に飛び込んだが……。
「1階2階3階とオフィスに通じるドアは開かないときた」
この建物にベランダはない。唯一の階段は屋内にあり、まさに今ヤツらが登ってきていることだろう。
上の階は屋上だが施錠されていて出ることはできなかった。
不運、と言いたいが今日に始まったことではなく、今の環境に陥ってることがすでにアンラッキーだと言えよう。
――ガコッ!
この部屋の入口のドアにヤツらがぶつかった音がした。
大した知能はないが、開閉式のドアくらい簡単に開けてこれる。
机に身を隠して様子をうかがう。
部屋の形状は四角く、入って左側にワークテーブルが5つ固まったものが二つの島を形成している。
おそらく来客用に置かれた丸テーブルが入り口右に設置してある。
あいつらが部屋に入った後、うまく机を障害物に使って通り抜けよう。
リュックからそっとペンチを取り出す。
それだけで多少は心強くなった。
――キィ……。
ドアが体で内側に押され、室内に白いワイシャツにネクタイを着た男が入ってきた。
「オ……おジゃま……しまアァァぁス」
野太く耳障りの悪い遠慮がない声が響いた。
目に日明かりがなく、左右の焦点が合わずどこを見ているのかわからない、口は今から大きいハンバーガーにでもかじりつくのかというほどに大きく開かれている。
夏に合わせて薄手になったサラリーマンだろう。髪はさっぱりと角刈りになっている。
歩行はゆったりとしていてバアさんにも追い抜かれそうだ。
ここが職場なのかは知らないが、もう退社の時間だろう。
「今日は残業なしで帰っていいんですよ」と声をかけるわけにもいかない理由がある。
その壱、ヤツらには言葉が通じない。
「いまスカ? すミませえぇン」
俺を探しているのだろう。はい、私はここですと立ち上がれば、
その弐、ヤツらは他人を襲う。
きっと組み抑えられ、長年鍛え上げてきた咀嚼筋でモグモグされるであろう。
そう、ヤツらはいわゆる"ゾンビ"みたいなもんだが、手に持ったペンチで思い切り殴るわけにもいかない。
その参、『生きている』のだ。
「コウいうものぉですぅ……」
名刺を右腕に持ち、緩慢に動いている。
両手で渡すのがルールだと思うが、残念ながら左手はだらしなくぶら下がっており、親指と人差し指が欠けていた。
だが、決して死んでいるわけではない。
生きているから腹が減り、人間でも構わず襲うのだ。
人格はなく、思考もない。あるのは食欲と習性だ。
それはヒトと呼ぶには難しい。しかし、人権はある。
少なくともこの『第三隔離地域ニシトウキョウ』では……。
――――――――
もう日が沈むまで猶予もあまりない。
不要な接触はリスクが高い。ここはうまく隠れながら部屋を出るのがいいだろう。
この薄暗さの中なら机の影をかがんで動けばバレないはずだ。
ヤツらの探知能力は高くない。視力は個体差で0.01から高くても0.3ほどで低いかわり、聴覚は"生前"より多少衰えている程度だ。
だから10mほど離れているこの距離で頭を出したり、何かにぶつからない限り、気づかれることはないだろう。
……"生前"というには語弊があったな。
ヤツの様子からするとまだ"半ゾグ状態"の可能性が高いだろう。
ゾグは死者であるゾンビと人食い鬼であるグールを合わせた総称だ。
ウイルス感染から1年かけてその形態を変化させていくことからその名がついた。
世界を崩壊させかけている現代最悪の問題だ。
まず感染した人間――ゾグに噛まれることで感染する。24時間以内に発熱、だるけが出始め、次第に理性と人格を失い、食欲だけが残りゾグ化する。
半ゾグというのは感染してから30日以内の状態のことを呼ぶ。
人を襲うが、心臓は動いているし、映画のゾンビのように頑丈ではない。
だから頭を吹き飛ばさなくても血を大量に失えば死ぬ。
ただし、治癒力は高くすぐに止血されるし骨折も1週間で治ってしまう。
リミッターが外れているのか力は強いが、動きは鈍い。
見分けるのは検知器なしでは難しいが、人語を話したり、社会性のある動きが残っているといった特徴がある。
何よりも半ゾグは、適切な治療をすれば人間に戻れるのだ……。
これらは高校に通っていた頃に授業で受けた知識だ。
8年前の萌芽から今や世界中でゾグの情報は共有されている。
ニュースや番組、ネット記事のあらゆるメディアで解説され、知らない国民はいないだろう。
そんなことを考えながら角で待っていたが、リーマン風の半ゾグはドアの前でうろうろして、中に進んでくる気配がない。
このまま待っている余裕もない。
あたりの床を見回すと、落ちているA4ファイルがあった。
それを手に取り、角から様子を伺う。
ドアまで10mほどだ。十数秒あれば、まっすぐ進み右手のドアから出られるだろう。
ヤツがこちらを見ていない隙きに部屋の反対側に思い切り投げた!
一瞬遅れてパーテーションを挟んだ向こう側にバサリと音を立て落ちた。
「イラッシゃいまスヵァ」
音に反応し、男が部屋の奥にゆらゆらと歩みを進めた。
同時にこちらも慎重にしゃがみ歩きをする。
ドアまで3mのところから障害物がない。
振り返られたら気づかれる。
建物内に他のゾグがいる可能性を考えると、気づかれながら逃げるのは危ない。
男は出口の反対側まで少しのところにいた。
今しかない。
息を押し殺しながらそっとドアに手をかけたとき。
男の足元に目が行った。
コピー機の横、大量に床に落ち膨らみを作ったFAXの山。
そこに男の足が乗りかかり――。
――ズルッ!
踏み込んだ足が思い切り滑り、男の体が回る。
ズシンと音を立て倒れ込んだ体とその顔が不運にもこちらを捉え、目と目が合った。
瞳は薄暗い部屋の中でも不気味に光っており、背筋が凍る。
差し込んだ夕日の光が俺の姿をはっきりと照らし出してしまっていた。
「ペーパーレスにしとけよおおお」
1秒の間、脳に鉄の棒を突っ込まれたような衝撃とともにドアを思い切り押した。
「スミませぇぇぇエエン」
同時に獲物を見つけた男も立ち上がろうとする。
それを尻目に階段に飛び出した。
すぐさま階段を2段飛ばしで駆け下りる。
このまま勢いで逃げよう。
踊り場を落ち返したとき、ミスに気づいた。
足元にホウキはなく、2階に転がり落ちていた。
そしてそれを手に持った、女がこちらを見ていた。
その横のドアは開いている。
来たときは開いていなかったはずだ。
女の目は3階の男と同じくピンボールのように見えた。
最悪だ!
ここから降りるには下の階のゾグをかわさなければいけない。
しかも建物内にまだいる可能性もある。
その状態で複数に囲まれれば一巻の終わり。
女が階段の1段目に足をかけようとする。
もう下への逃げ道は潰れた。
ここで終わるのか?
いやまだだ。
固まりかけた体を引っ張り、もといた4階を目指す。
「アノォ――」「オラァッ!」
内側から開きかけたドアに蹴りを入れさらに上を目指す。
体がアツい、手すりを掴む手は汗で滑るが、全力で駆け上がる。
屋上へのドアノブを掴み、思い切り飛び出した。
オレンジ色に染められた空、火照った体をぬるい風が撫でた。
ドアを塞げそうなものは置いていない。
幸い柵はなく、縁が膝上まであるだけだ。
すぐさま身を乗り出し、降りられそうな排水管を探す。
こうしている間にもヤツらが上がってくる。
複数に襲われれば感染どころか失血死さえ見える。
こんなところで死ぬのも感染するのもまっぴらごめんだ。
それは生きながら死んでいるようなものなんだから。
……もう2度とそんな経験をしたくない。
「見つけた!」
見下ろすと屋上の右奥の角から1階まで管が続いていた。
元の色は白だたのだろうが、所々の塗装が剥げて赤茶の錆が浮いていた。
少し不安だが、ここから降りるほかない。
獲物を見つけたヤツらは思いのほか動きが早い。
足を管に絡ませようとするとドアが開き、リーマン風のゾグが飛び出してきた。
だがゾグは管を使って降りるなどの細かい運動はできないはずだ。
リュックは身軽にしているとはいえ、体重を合わせれば70kgほどはある。
慎重に体を下ろし完全に管に捕まった際、男の背後から3体ほどのゾグが出てくるのが見えた。
「ふっ!」
近づかれる前に降りてしまおう。
排水管の表面がでこぼこしているせいで滑り降りることができない。
壁との接着面を足場に少しずつ降りていく。
「オマチクァサァアイ」
上から嫌な声が聞こえる。
見ると縁から顔を出し、こちらに手を伸ばすゾグたちが見えた。
手が届くことはないが、気持ちが悪い。
ここで急ぐこともできるが、まずは周りを見渡す。
数台留まれるほどの駐車場が下にあり、ここから見える範囲でゾグはいない。
下には白いミニバンがあるが、鍵はかかっていなさそうだ。
降りたら走ってすぐにこの場を離れよう。
3階に差し掛かった頃、上から聞こえる声に異変を感じた。
「けいヤ……クォをオねがいス」
リーマン風の男の体が大きく外に投げ出されていた。
まずい! このままだと――。
危険を感じる中で、男は手を深くまで伸ばそうとする。
上半身が宙に投げ出されたことにより重心が崩れ――真上から落ちようとするのをスローモーションに感じた。
ぶつかればもろとも地面に叩きつけられ少なくても骨折は免れない。
とっさの判断で壁面を蹴り飛ばす。
狙いは、すぐそばのミニバンだ。
声にならない声が漏れる。
瞬間、股間が縮み上がる感覚を感じ――ドスン。と強い衝撃が足から首まで伝わる。
「――痛ってぇ!」
幸い両足で着地できたが、その衝撃で体は地面に転がり落ちた。
遅れて横から鈍い骨の砕ける音がした。
リュックがクッションになり、駐車場のコンクリに叩きつけられることはなかった。
とっさの判断とはいえ、無茶なことをした。
まだしびれる足を引きずりながらも立ち上がる。
振り返ると地面に叩きつけられた男の両足はあらぬ方向を向いていた。
大きく擦りむいた半身からは黄色がかった赤い血が流れている。
それでもこちらを向き、捕まえようとする意思があるようだ。
バケモノめ。これが本当に人間か?
屋上を見ると、既に人影はなくなっていた。
小休止をとる時間もないようだ。
既に陽は遠くのビルに寄りかかろうとする中、速歩きでその場を離れたのであった。