第9話 肚の中
不意に醜態を晒してしまった周だったが、胸に手を当てて確かめてみると、終わって残ったものが、やってしまったという後悔よりも心地よい疲労感の割合の方が多い事を予想外に感じていた。
(必死に隠していたのが、馬鹿みたいだ)
そう自分を鼻で笑って見るのは、引き出した相手のスカーレットだ。
(もっと狼狽えたり、頭を抱えることになると思ってたんだけどな。引き出されたのが猫じゃ締まらないってことか)
そんな事を周が考えていることなど知らないスカーレットは、周の暖かな目にずっと見られている事に気が付いて、動揺した。
「何見てるのよ、また?またなの?」
事が終わったので能力は解除済み。
今のスカーレットは周を覗き見してはいなかった。
だから何を考えているかを把握していない。
「心の中を読んでいるんだろう?なら聞くな」
「あれ、疲れるからもうやってないのよ。それでどうなの?またなの?もう私は手伝ってあげないわよ」
解決した問題の残像を想起したスカーレットは、もう一回は無理とNGを出す。
「違う。そういうのじゃねぇよ」
周は即座に否定した。
「じゃあなんなのよ」
だが、スカーレットに覗かれて心の中を知られるのと、自分の口から、お前に色々掘り返されたけど、そのお陰で肩の荷が下りた気分なんだ。と口にするのでは随分負担量が違う。
簡単に言えば、素直に言いたくなかったので誤魔化すことにした。
「言葉にする程のことじゃない、なんとなくだよ。なんとなく」
「なんとなく見ないで」
言葉を濁されたスカーレットはもう一度覗いてやろうかと、ほんの少し思いはしたが、この力の多用をすることを禁じていることもあり、ひとこと言って、気持ちを抑える。
そう言われてしまえば、従うしかないので、
「もう見ねえよ」と周はあからさまにスカーレットから視線を外した。
「話は私の目を見て話しなさい」
だが、周の目が自分から外れたのを確認したスカーレットは、それにどこか寂しさを覚えてしまい、反射的に盆をひっくり返してしまった。
「どっちだよ」
「その場の空気を読みなさい」
「めちゃくちゃだな。お前は」
「大抵の女はそういうものなのよ。勉強になったわね」
スカーレットは、横目で周の視線を取り戻したのを見て、そう、それでいいの。と満足した様子を見せた。
「それでもう、説明とやらはいいのか?」
人心地付いたからか、弛緩した空気が流れる部屋の中で、周はスカーレットに話し掛ける。
周の引き抜きという目的はほぼ果たされたが、ダンジョンについての説明は、まだからきしだからだ。
「必要ある?」
「意味は、ないかもな」
緊張感のカケラもなく、即座に言葉の意図を理解し合う二人からは、打てば響く、長年の連れ添いのような関係性が見て取れた。
「そうなの。だからかしら?やる気が出ないわ」
「駄目だろ」
「駄目よね」
「一口飲んで、やる気を取り戻せ。俺も飲むから」
「そうね」
給与の話は終わったが、職場環境を何も知らないじゃ困る事になる。調べようにもそれが異世界にしかないのではどうしようもない。周にとって異世界情報の入手先はスカーレットしかいないので話して貰わない訳にはいかなかった。
湯呑みをスカーレットに近づけてお茶を勧める、スカーレットも言われた通り、顔を近づけてお茶を舐め、一度リフレッシュしてから頷いた。
「じゃあ話を続けましょうか、と言いたいところだけど、これ以上は直接見て貰う方が早いと思うの」
口で説明するのは面倒だわ。とスカーレットは暗に言っていた。
(茶だけでは完全回復とはいかないか)
「ダンジョンに行くのか?今から?」
「えっとね、そうとも言えるし、違うとも言えるわね」
「YESかNOかぐらいは、はっきりしてくれ」
「行かなくていいけど、ダンジョンには来て貰うってことよ。まずそこを見て頂戴。ほら立って」
どっちつかずの答えをぶら下げながら、スカーレットは顎をしゃくって本棚を指す。
「近くで見ればわかるでしょ?」
「これは、俺の本棚じゃないな」
指示通りに周は本棚に近づくと、ある違和感に気づく。本棚に羅列された本の内容は被るものもあるが、その中身の8割程は違ったからだ。
同じなのは色味だけ。よく見てみると本棚自体も自分のものではなかった。
「ピンポーン大正解。ではなぜ本棚の中身が変わっているのでしょう?」
「お前が本を入れ替えたんだろ」
「その通り、でも本をじゃないわよ。入れ替えたのは部屋。ここは既にあんたの部屋じゃありません。おめでとうございます」
「有難う御座いますって言ってる場合か。ここが俺の部屋じゃないって?じゃあ、ここは何処なんだよ」
「だからダンジョンよ。それ以外の何物でもないわ。詳しく言うならあんたの部屋に似せたダンジョンの一室と言ったところかしら」
「一から説明しろ、楽しようとするな」
「だから、そうとも言えるし、そうとも言えないって言ったでしょ。ダンジョンに行くのか?の答えは、もう既に来ている、だったってわけ。流石の私も一度来ただけじゃ、あんたの部屋に置いてあった本やゲームのタイトルを全て覚えるなんて出来なかったからここだけはリアルさに欠けるけどね。案外ばれないものよ」
「信じられないな」
「じゃあ、これでどうかしら?」
ほら、というとスカーレットは湯呑みを地面に落とす。嫌な音を立てて割れた湯呑みは、周の目の前でそのまま床に吸収されていった。
「これがダンジョンの力の一端。完全に破壊して持ち主がいなくなった場合。私の任意で物を内部に吸収し取り込むという特性があるの」
「確かに俺の部屋にこんな機能はないか」
周は納得して頷く。
「よかったわ」
「それでいつのまに移動したんだ?」
次に気になったのはこの点だ。
「最初からよ。あんたがこの部屋に入った時にはここはもうあんたの部屋じゃなかったって事。あんたより先に部屋に入って、扉をこちら側の扉に繋げたの。中身を似せてね。それで開けっ放しの扉をあんたが潜って閉じれば、そのままご案内ってわけね」
「知らない内に肚の中か」
「そういう風にしたんだもの、驚いたでしょ?」
「微妙だな。その前に色々あったからな。にしてもここが異世界か。感動も何もあったもんじゃない。扉を抜けたらそこは異世界でした、って言われてもピンとこない。だって見た目は俺の部屋だからな」
驚きの感想をどうぞ、というスカーレットの求めに周は応える事が出来なかった。
「ドライねあんた。じゃあ玄関に行きましょう、別の場所に繋がっているから」
スカーレットも全くその事は気にした様子もなく、淡々と話を進める。
「いよいよ、ダンジョンに潜入か」
「もう中だけどね」
「水を差すな」
「あら、ごめんなさい。楽しみにしてると思わなかったから」
二人は揃って立ち上がり、玄関の前まで来る。
「ほら、開けてみなさい」
ガチャリと玄関のドアを開け、新しい場所に行く自分を想像しながら周は扉に手を掛けた。