妖怪はそこにいる 1
妖怪を肯定するということは、あれを肯定するということだ。
津野の人生は、あれによってめちゃくちゃになったと言っても過言ではない。
けれど津野は、何かを誰かのせいにする事が出来なかった。そうすることで不幸を他人に押しつける人を何人も見てきた。
だからこそあれは、自分の見た幻で、自分の不幸を感じる力の根拠として作り上げた思い込みなのだと思っていた。
「まだ信じられないか? だが、お前の見たものは事実だ。自分の目を信じろ。でなければ他に誰がそれを信じてやれるのだ」
それは不幸を感じ取りながらもそれを気のせいだと思い込むことで、自分を信じないことで平穏を保ってきた津野にとって重く、徐々に染み渡るような言葉だった。
「いいな、少なくともこの場にぬらりひょんという妖怪はいる。さて、この妖怪、何か知っていることはあるか?」
「ええと、おじいさんの姿で、妖怪達の総大将だとか」
津野は記憶を総動員して答える。たしか妖怪達が出てくる漫画の中で、悪役のボスだったような気がする。
しかし記憶の中のぬらりひょんと、先ほど見た老人がどうしても結びつかない。もう少し怖そうで、おどろおどろしい感じだった気がする。
「そうか、やはりそう聞いているか。そうだ。彼がそうだ。彼は時代の流れに沿って、そうなってしまった」
「なってしまった?」
酒坂は頷き、続ける。
「そう、彼は本来そういった妖怪ではない、ただそこにいるだけ。例えばある日自宅に帰ると、居間で見知らぬ老人が茶をすすっている。ただそれだけの妖怪なのだ。なんだかよくわからないもの、不気味なもの、いるという他に説明のしようがないものとして、妖怪としてはあまりにも正しい存在だった。それがどういうわけか妖怪の総大将であるという俗説が出回り始めた」
突拍子もない事である。いきなり大出世にも程がある。
その話に頷き、間が言う。
「いや、僕にはわかりますよ。説明できないものとはいえ、やはり人は何らかの理屈があるはずだと思いたがるものですから」
「そう、おそらくは当時の人間も『こんな何もないものがいるはずがない。なにか裏でとんでもないことをしているに違いない』などと考えたのだろう。それが共通認識として広まった。が、それで済まないのが妖怪というものだ」
そこでまた一度口を閉じ、表面が結露しきったコップから水を飲む。
津野は周りに何人もいたことを思い出した。
全員が酒坂の話を身じろぎせずに聞いている。
「怪談とは語られてこそ、その真価を発揮する。人々の間でまことしやかにささやかれていたぬらりひょんの話は、やがて彼自身に返っていった。怪異譚に依って生まれた彼は、怪異譚によって変化する。今ここにいる彼は、少なくとも妖怪の総大将として存在するぬらりひょんだ。あくまでも表面上は。中身については彼自身が決定することだ。彼がここの住人を驚かせる生活を好いてくれている以上、少なくとも百鬼夜行を率いる事はない」
話は終わりだと言うように、深く息を吐く酒坂。
津野は今の話を反芻する。
全てをわかったわけではないが、少なくとも彼らについて、少しだけわかったような気がした。
世界は自分が思っていたよりも随分と広く、まだまだ知らないことだらけなんだと。
その後とんでもないことに気づく。
「あれ、じゃあ、もしかしてなんですけど、俺らってとんでもない爆弾を抱えてるって事なんじゃ……」
その気になれば妖怪達を従える事が出来る人が、気まぐれでなんとなくここにいるだけ、という状態って――
「まあ、精々機嫌を損ねないようにしろ」
「えぇ……」
酒坂はそれを否定しなかった。
どっと胃の辺りが重くなる。部屋に帰った時にもしも彼がいたら、どんな顔をしていいかわからない。
「まあ、さっきみたいに怖がってくれれば十分だと思うよ!」
サムズアップ付きで励ます柏原。できればその件については忘れて欲しい。
「夏乃ちゃんは大丈夫なのか?」
味方を求め津野は隣の席に目をやる。
「あの人は私の所には来ない」
なんと。
「あー、彼は垣ノ内家には出没しないんですよ。管理人さんを怒らせたら怖いのを知っているので」
「え、何それずるい」
人間を恐れるぬらりひょんがダメなのか、妖怪の総大将にも恐れられる柚子さんが恐ろしいのか。
ちらりとその件の人を見る。
「なあに? 津野君」
結論は出さないにとどめた。
なんかオーラのようなものが見えた気がする。ずっと笑顔のはずなのに。
「そうだよ、津野君。世の中には知らない方がいいこともたくさんあるんだよ」
淡々と発せられた間の言葉に、津野は背筋に冷たいものが流れるのを感じた。
楽しかった食事は終わり、津野は唯一出された布団の上に倒れ込む。
周りを見ても、あるのは段ボールの山だけだ。
天井が違うっていうのは案外違和感を覚えるもんなんだな。
「知らない天井だ」
津野は言ってみたかった。
今日を振り返りながら津野は思う。
幸せだった。誰の不幸も気にせず幸せだけを感じたのはいつぶりだろう。
先ほどまで帰ろうとすら思っていたことは忘れ、津野はここでの生活を楽しみに思っていた。
けれど湧き上がる満足感に瞼を閉じようとしている津野は、いずれ思い出すことになる。
幸せな瞬間はそう長続きしないと言うことを。
それはこれまでの人生の中で、津野が何度も見聞きしてきたことだった。
そしてそれは、津野に対しても例外ではない。
新生活の朝は、最悪のものとなった。
夢を見た。
ただの夢ではない。幼少期の出来事が蘇ったのだ。
過去が津野を手放すことはない。眈々と首に手をかけようと狙っているのだ。
飛び起きたところで、朝になっているのを確認する。窓から差し込む光と、鳥のさえずりと――
窓から覗く、見覚えのある影がそこにあった。
全身の毛が粟立つ。
あいつは――、あいつは!
膝が笑い、立つことが出来ない。自分がどんな顔をしているのかわからない。
影はそんな津野を見てにんまりと笑い、去って行った。
後に残ったのは静寂、そして場違いなくらい脈打つ鼓動だった。




