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夜に羽ばたく蝶はどうしてこうも美しいのだろうか。
その夜、私は王都の隅にある行きつけの酒場で酒をたしなんでいた。頼む酒はいつも同じ。「夜の海」という淡い青をした度数の高い酒だ。この酒をつまみも無しに平らな陶器の器で飲むことが、昔からの習慣だ。
舐めるように酒を口に含む。度数の割には酒臭さはなく、柔らかな甘みと酸味が口と鼻に広がる。新鮮な果実のようであり、また長い年月を経たかのような趣も感じるこの酒はかなりの値段がするのだが、騎士団長である私からしてみればまだ買える酒だ。
「美味い…」
風通しのいい酒場からは夜空を見ることができる。そこに一匹の蝶が飛んでいるのが見えた。黒と鮮やかな青の羽を持つ大きな蝶だ。その蝶はひらひらと羽ばたきながら、夜空に構える月へ向かって飛んでいる。
木造建築の風情ある酒場で、美味い酒を飲みながら風情ある光景を眺める。至福の時間だ。
しばし安らぎに身を任せていると、遠くからジャリジャリと店に近づく足音が聞こえてきた。大通りから離れた小さな店だ。夜中ということもあり、新しく客が来ることなど滅多にない。事実、店にいるのは私のような常連の客ばかりだ。
誰だろうか。だがこの足音には聞き覚えがある。まだ若さあふれる律動的な足音。
「あぁ…」
カラカラと音を立てて、入り口の扉が開かれる。胡坐を掻いたままそちらに目を向けると、案の定知った顔がそこにあった。
「騎士団長。ようやく見つけました」
「トコイルか」
まだ若い赤髪の青年。つい先日私の副官になったトコイル・ラン・ベルロッドだ。靴を脱いで玄関を上がり、私の元に歩み寄るとトコイルはその場で正座をした。
「何か問題か?」
「いえ、そう言うわけではないのですが…」
どうやら火急の要件というわけではないらしい。だがどうにもトコイルの口ぶりは歯切れが悪い。
「ふむ…」
考え込むように私は顎に手を当てる。とはいえ、大方内容の検討はついていた。
「私的な相談か?」
「はい。団長の私的な時間を邪魔して申し訳ないのですが、その自分でもどうすればよいのか分からず。えぇ、ならば信頼できる上司である団長にご相談をと」
「くどい」
「も、申し訳ありませ…!」
「静かに。ここは静謐の中で酒をたしなむ場だ」
トコイルは床に頭をこすりつけんばかりに頭を下げている。そこまで強く言ったつもりはないのだが、どうにもトコイルは気が弱い。家柄も才能もあるが、この気弱さだけはいただけない。
「頭を上げなさい。トコイルは今いくつだったか」
「はっ、わ…私は今16であります」
なら酒は飲めるか。また大きな声を上げそうだったトコイルを目で制すると、ようやく小声で話すようになった。周囲に目を向けると、常連の客たちが好ましそうな目で私たちを見ている。
年配の常連ばかりの店だ。今年で39になる私でも、ここではまだ若造だ。小さく頭を下げると、皆がニッと口角を吊り上げて「構わない」と手を振ってくれた。
厨房の方から揚げ物をする音が聞こえる。さすがは店長。言うまでもなく、私の考えを理解してくれる。
「すまない。彼に何か食べられるものと、この酒を」
「かしこましました」
厨房から柔和な顔つきの店長が顔を出して答えた。待つこと数分。女将をしている店長の妻が酒とつまみを持ってきてくれた。
「鳥のから揚げ三種盛りと『夜の海』でございます」
「ありがとう」
「よ、『夜の海』!?」
酒の銘柄を聞いたトコイルが、小声で叫ぶという器用なことをやってみせた。
「そ、それは王都でも有名な幻の酒では…」
そういえばそうだったな。ここにはいつも置いてあるから忘れがちだが、この「夜の海」は世間では滅多に見ることができない、非常に貴重な酒だと言われている。
「そんな高価な酒の代金は払えま…」
そして非常に高価であるということも。
「心配するな。副官に金を払わせるほど私はケチではない」
出された酒はガラスのグラス一杯分。値段は言わないが一副官がポンと払える額ではない。それに注文したのは私だ。それをトコイルに払わせるわけがない。
「で、では失礼して…」
おどおどしながらトコイルはグラスを口に運ぶ。そして目を大きく見開いた。
「お、おいしい…」
「だろう?私が最も好む酒だ」
そう言いながら私もチロリと酒を舐める。やはり美味い。
トコイルは酒を飲みつつ、から揚げをいかにもうまそうに食べている。その様子を私は口元に笑みを浮かべて眺めていた。
*
「それで?相談とはなんだ」
トコイルが一息ついたところを見計らって、話を切り出す。
「あ、はい。すみません。つい酒と飯が美味くて…」
酔って顔を赤くしたトコイルがペコリと頭を下げる。
「ええと、実は今日縁談の話が持ち込まれてきまして…」
そういえば今日、トコイルは所用があると言って休みをもらっていたな。縁談だったのか。
「そうか。…縁談といっても貴族同士だろう?ならばほとんど婚約と同義ではないか?何が不満だ?家格が釣り合わないか?それとも相手が大層な醜女だったか?」
「ち、違います!家柄も容姿も性格も俺にはもったいないほどです。ただ…」
「ただ?」
「出会ったばかりの人と結婚すると言われても実感もわかず…愛どころか今日会ったばかりの相手と結婚すると決めるのは不誠実ではないでしょうか」
若いな。そして青い。だが悪くはない。
「くくっ」
「わ、笑わないでください。俺は本気なんです」
「あぁ、すまない。だがいいんじゃないか?君はまだ16だ。精一杯悩むといい」
「は、はぁ。それでその」
「ん?」
「騎士団長は確か独身でありましたよね?」
「そうだな」
確かに私は結婚をしていない。結婚の話は昔何度も持ちあがったが、結局成就するに至らなかった。
「なぜ団長はご結婚をなさらないのでしょうか」
「なるほど」
地位ある人間は大抵は結婚している。騎士団長という重役でありながら未婚の私には、結婚しないなりの理由があると踏んだのか。
もしかしたら他の結婚している誰かにも話を聞いていて、それで未婚の自分に声をかけたのかもしれない。
「話せば長くなる。それでもいいか?」
「はい」
「そうか。ならば私の弟の話からしなければならないな…」
オウルファクト王国騎士団長エクス・ナイツナイツの昔話。私がまだトコイルのような若造だった頃の話だ。そしてナイツナイツ家の家系図にノラ・ナイツナイツという名前があった頃の話。
酒の注がれた杯を夜空に掲げる。澄んだ青色の酒の一滴が宙に舞った。その先にはもう夜空を舞う蝶はいなかった。
*** ***
*** ***
私の生家ナイツナイツ家は王国ができて以来、王に仕える騎士の家系だった。貴族でこそないが優秀な騎士を輩出し続けるということもあり、家人の多くが騎士団や軍に所属している由緒正しい一族だ。
そんなナイツナイツ家では生まれてきた子どもに厳しいしつけと訓練を施してきた。長男として生まれた私もその例にもれず、物心ついた時から騎士としての心得を習ってきた。
「エクスは優秀な騎士になれるな」
これは父が私に言った言葉だ。師の教えを素直に聞き入れ、努力を惜しまなかった私は早くから才能を開花させ、「ナイツナイツ家の麒麟児」と呼ばれるまでになっていた。
「全く…ノラにもエクスを見習ってほしいものだ」
だが同時に父はこうも言っていた。ノラ。一つ違いの私の弟。齢が近いこともあって私と弟はよく比べられていたが、周囲から褒めやかされる私と違って、ノラは叱責ばかりを受けていた。
剣の持ち方が悪い。目つきが悪い。礼儀がなっていない。言うことを全く聞かない。見るべきところがない。
とにかくノラは褒められることもなく、注意ばかりを受けていた。
確かにノラは剣の持ち方が正しくないし、目つきも悪い。目上の者にも敬語を使わないといった有様だった。
だが見るべきところがないわけでは決してなかった。
「兄さん」
「分かった」
日課の訓練が終わり、家の修練場には私とノラだけが残っていた。今日も私だけが褒められ、ノラは叱られていた。ズタボロになるまで蹴飛ばされ、罵られた弟は父らがいなくなると同時にスクと立ち上がった。
私は槍を構え、ノラは剣を逆手に構えた。そう逆手。長剣を逆手に持つという奇抜な構えを取るノラだったが、私は何も言わない。油断なくノラの心臓に穂先を向けて半身に構える。
対するノラは逆手持ちの剣にダラリとした前傾姿勢。だらしなく見えるが腰は低く落ちており、いつでも飛び出せる体勢だ。
「はぁっ!」
「シィヤッ!」
先ほどまで訓練のような開始の合図はない。私が槍を突き出すのと同時にノラは飛び出してきた。腰をかがめたような動きだったが速い。私の槍をスルリと躱してノラは私に肉薄する。
「ヒィッ!」
奇声と共に鋭く振るわれた剣を、私は槍の柄を手元に引き寄せることで防いだ。軽い。だが受けたはずなのに斬られてしまいそうな「何か」が、ノラの剣にはあった。
「ぬぅん!」
ともかくこのままではまずい。私はうなりを上げて槍を手繰る。突き出し、斬り上げ、叩き下ろす。その全てをノラは体さばきで躱しきってみせる。それどころか隙を見て反撃すらされる始末。
1分ほどの斬り合いで、勝ったのはノラだった。
「これで俺の100勝93敗だ。兄さん」
私の首元に剣を突きつけたノラに言われ、私は槍を落として両手を上げる。
「参った」
ノラは特別父たちの前で実力を隠していたわけではない。彼らの前でもノラは真剣に戦っていたのだ。
ただそれが指南書通りの剣だったというだけだ。指南書通りの持ち方。指南書通りの振り方。足さばき。構え。定石。その全てがノラには合っていなかった。
いわゆるノラは変剣、奇剣の使い手だった。型にはまらない自由な剣風がノラの持ち味で、型にはめてしまえば途端に弱くなるタイプだった。だから型通りしか教えない父にはノラの良さが理解できなかった。知ることすらできなかったと言ってもいい。
最も知ったところで受け入れられたかは疑問だったろうが。
「兄さんはすごいな」
「何を言うか。ノラが勝ち越しているだろう?」
修練場の片づけをしている時のノラの言葉だ。自分に勝っておいて、その言葉はないだろう。そう思っての言葉だったが、ノラは目つきの悪い顔に柔和なものを浮かべた。
「違うよ。俺が言ってるのは心さ」
「心?」
「そう。兄さんはこの家のしきたりを守って規律正しい生活をしてるだろ。なのに俺のことを嫌わない」
「当たり前だろう。ノラは私の弟だ。嫌うはずがあるまい」
「そこだよ。そこ」
ノラの言葉に私は首を傾げた。
「ナイツナイツ家の堅苦しいあれやこれやを全部守ってるのに、古臭い考えに染まってないじゃん。それがすごいなって俺は言ってるんだよ」
「そうだろうか」
当時の私はノラの言っている意味が分からなかった。ナイツナイツ家のしきたりや精神性を知り学ぶことと、私の心は全くの別物だ。染まるも何もない。私は私だ。
その不動の精神性が普通でないということを私はまだ知らなかった。朱に交われば赤くなる。若造だった私はそのことを知らなかった。
「そうなんだよ。本当に尊敬する」
ノラは穏やかな顏で笑う。それにつられて私も硬い笑みを作った。
堅苦しい私とは違ってノラは目つきの悪さを除けば整った顔をしているし、奇剣とはいえ才能もある。手先も器用で意外と物覚えもいい。
(本当の天才とはノラのことを言うのではないだろうか)
これは私が13歳、ノラが12歳の時の話であった。
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