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企画「ELEMENT」 参加作品

41km関門

作者: 三箱

 42.195km


 この数字を子供の頃に見たとき、「半端や!」と思った。2.195kmって何? 何故そんな微妙な距離なのか。40kmか50kmだろと猛烈に突っ込んだことだ。

 あとあと調べてみれば百年以上前のオリンピックの時に、当時の王女様の要望のコースがその距離だったという逸話である。

 なるほど、王女様も物好きだな。

 けど、正式採用になった理由はもっと別の理由らしい。

 

 そんな事を今更になって思い出すとは。いや、今だから思い出すのか。


 日曜日、雲一つない晴天、気温9度、湿度65%と最高の気候条件に恵まれた今日この日。

 俺はフルマラソンのスタート地点で、集団の遥か後方で号砲が鳴るのを待っていた。


 何故か。


 それはただ人生で何か大きいことをやり遂げたいと思ったからだ。


 特に珍しくもない理由だ。きっかけってそんなものだ。思い立った時に偶々目についたマラソン大会に応募し、抽選が通った。そんな感じで今ここにいる。

 

 昔の自分が見たら、今の自分を鼻で笑うだろう。

「何やってんだ」って。


 それはさておき、とにかく寒い。

 集合時間からスタートまでの時間がとにかく長い。かれこれもう30分以上も待っている。アップして体を暖めたのに全部無駄になった。足踏みしたり、腕を擦ったり、跳ねたりして寒さを和らげようとするが、時々吹く北風によって体の熱を奪い去っていく。他のランナーも駆け足をしたり、腕を振っている。何人かは透明色の安物のカッパを着て寒さを凌いでいる。

 そんな方法があったのか。

 あとは奇抜な格好の人がチラホラいる。麦わら帽子を被った人、金髪グラサンでピンクのプードルコートの人や、黄色のネズミの着ぐるみを着た二人組、極めつけは顔は白塗りで白と紫の最終形態の宇宙人の格好した人が、何やら観客やランナーから声援を浴びていた。スタート前になのに。


 暖かそうだな。


 今度はそんな格好は……。まあしないか。 

 

 それよりも周りを見ながら一つ気が付いた。


「ゼッケンに本名を入れるんじゃなかった。何か恥ずかしい」


 自分の名前「雨宮進あまみやすすむ」のゼッケンを見て思わず嘆いた。他のランナーは「もっさん」や「チャック」というあだ名、もしくは名前を入れずナンバーだけの人も。本名を入れているのはごく少数だった。


「うあー。寒っ。寒いっすね」


 隣にいた少し背の低めで肌が浅黒く焼けて筋肉質な男性が、両腕を交差して背中を丸めながら、チラッと俺に視線を向けた。

 これは話しかけられたのか。一度視線を前に戻し、もう一度男性に向けると綺麗に視線がぶつかった。

 察する。


「そ、そうですね」


 肯定をするとその男性はパッと表情が明るくなった。チラッとゼッケンを確認する。


「ダイガー」


 強烈なあだ名だ。


「コスプレの人いいですね。暖かそうで。今度俺もしようかな」

「……。まあ確かに暖かいですよね」

「あ、でもそんなことしたら、また友達に何か言われそう」

「……」

 

 そうですか。

 別に何か言われることを気にする必要などないのでは……。名前と見た目によらず意外と人目を気にする性格なのか。


「何を言われるのですか」

「ん? ああ。友達がね。俺のことを野生児とかなんとか言うんだよ」

「……」


 正直に言うが、今の姿でも十分野生児っぽい。程よく焼けているし、ちょっと背が低めだし、少し童顔だし、その例えはかなり的を射ている。名付けた友人のセンスは間違っていない。ちょっと直球すぎるか。


「ちなみにですが、その『タイガー』というあだ名はその友人がつけたのですか」

「よくわかったな。そうなんだよ」


 友人のセンスは良い尖り方をしていて面白い。


「まあ。コスプレが嫌なら無理にせずに、今度は使い捨て出来るカッパでも着たらいいんじゃないですか」

「それが無難かな」

 

 納得しつつも、他のランナーをチラチラと目をやっている。

 気になるのか。今度やってみるといいかもしれない。インパクトだけならありそう。

 

『さあ! スタート開始まであと二分!』


 拡声器越しに聞こえるスタート開始までのカウントダウン。緩んでいた筋肉がキュッと引き締まった。

 近くにいたランナーは各々に「よっしゃ」とか、「完走するぞ」と自分を鼓舞している人や「やっとだよ」と寒さの限界に達していた人たちの解放の叫びが聞こえた。


「おっしゃ! 走るぞ! 頑張ろうな!」


 バシっと背中を叩かれた。ジーンと痛む背中を押さえつつ男性を軽く睨む。男性は俺の視線を意に介さず腕をブンブン回している。

 ホント謎な人だ。話しかけてきた時は寒さに震える子ヤギの様だったのにな。

 でも待ち時間の暇をつぶしてくれたことには多少の感謝はする。

 向こうはその気はなかっただろうが。


「そうですね。頑張りましょう」

「おう」


 柄にもなくそんなことを言った。けど悪くはなかった。


「5・4・3・2・1! スタート!」


 パンと号砲が鳴り響き、前方でワーッと歓声が起きた。だがスタートしたといっても、後方の俺らはまだ動けない。前の人が進むまではまだ待たされる。

 寒い。早く。

 数分経ち、やっと俺の前の人が動き始め、少しずつ進んでいく「STRAT」の看板が徐々に近づいてきた。そして黄色のスタートラインを視界に捉えた。


「おっしゃ。スタート!」


 隣のタイガーさんの雄叫びとともに、俺はスタートラインを踏んだ。



 5.0km地点


 早くもタイガーさんの姿は見えなくなっていた。スタートしてからすぐにランナーの間を縫うようにスイスイと抜いて走っていった。

 そうだな。野生児確定だな。

 対して俺もまだ特に足への影響はない。呼吸も苦しくない。体調は大丈夫だ。

 現在市街地を走っている。道幅は三車線と広いがその広い幅をランナーで埋め尽くされている。ちょっと古風な建物や商店街のアーチ等、多種多様な建物が広がる。

 街中のせいか沿道には途切れることなく観客で埋め尽くされていた。「ガンバレ!」の声援が続く。色とりどりの旗を振ったり、メガホンで声援を送ったり、ゆるキャラがジャンプして応援したり、ハイタッチのために手を伸ばす観客もいる。

 とにかく声援がすごかった。

 一人で走るとは違う。全く新しい世界だった。一つ一つが新しい景色、新しい発見、見ているだけでも楽しい。そう思えた。


 5.1km


 給水所の看板が視界に入ると同時に、それらしき場所では多くのランナーでごった返していた。大方給水の紙コップの取りあいだ。

 これは給水するのが容易ではない。試しに紙コップを取ろうと手を伸ばすが、ランナーが密集していて取れない。少し思考巡らして、もう一つの先の給水所にしようと密集地帯を避けて迂回して進んだ。

 するとそこの給水所はかなり長いのか、50mぐらいずっと紙コップが並んでいた。案外奥の方は空いておりそこで難なく紙コップを手に取って給水に成功した。

 ホッと息を吐いた。

 口に広がるポカリの仄かな甘い香りと、体に水分がスッと巡る感覚を味わい先に進んだ。


 9.0km関門


 関門。

 制限時間内に走り抜けないと強制失格になるという恐怖の場所だ。

 大袈裟だな。

 今目の前に見えるのは初めての関門。大きい看板、沿道にはデカデカとタイム表示盤が三つ、あと関門の閉鎖時間がある。そしてそのタイム表示盤には現在のタイムと現在の時刻とカウントダウンしているタイムがあった。

 多いな。

 正直パッと見て判断するにはごちゃごちゃし過ぎている。けど一つのタイムだけが目を見張った。

 現在のタイムと現在の時刻の数字の色は黄色だ。けど閉鎖時刻へのカウントダウンの数字の色は真っ赤だった。黒地に真っ赤だった。

 真っ赤な数字が一つずつ時を刻んでいる。残り「40:42」、40分42秒だ。それから「41、40、39」と時を刻んでいた。異質な設定に寒気に似たような気持ち悪さを感じた。

 でもこのままのペースならまだ特に気にする程でもないと気持ちを立て直した。


 13.6km

 

 左手に青い海が広がり始めた。太陽の光に照らされてキラキラ光る海。そして鼻を擽る塩の匂いと、吹き抜ける風。良い景色だった。

 それを背景に給水所が見えた。ここから飲み物以外のモノが出て来た。一瞬目を見張った。テーブルの上に銀色のトレーがあり、その上に大量に何かが山積まれていた。

 よく見るとバナナだった。

 皮は剥かれた状態だ。

 眉を二回程震わせたあと一瞬そいつに手を伸ばすのをためらうが、他のランナーが躊躇なく取っていく姿を見て、その流れに身を任せ俺もバナナを掴みとる。

 そのままパクっと一口。


 やっぱりバナナだ。


 別にとびっきりに旨いわけではない。フツーのバナナの味を想像したらいいだろう。

 食べ終えると口の中がパサパサになった。すぐに飲み物を口に流し込み、バナナをの残りカスを押し込んだ。

 給水所を過ぎてから、脚に少し張りを感じ始めるが、まだ走りに支障をきたすほどではなかった。だが何人かは歩いている人を見かけた。ここからで慣れている人と慣れていない人とで篩にかけられ始める。まだ四分の一を過ぎたばかりだというのに。

 前に向き直り、あまり周りを気にしないようにしよう。俺は視界を前に向けて走り続ける。


 20.3km関門


 脚が痛いと思い始めた。けどまだ動く。だからまだ大丈夫。まだまだ動く。そう自己暗示をかける。

 関門に見えるカウントダウンの赤い数字は今は「41:36」だ。少し増えた。でもまだ油断はできないな。

 日差しに当たりすぎたか首から上が妙な熱さを感じる。ちょっと気持ち悪いな。

 ちょうど目の前に給水所。助かった。とりあえず一つ紙コップを掴みとり、口から水を一気に飲み干した。あともう一つ紙コップを掴みとり頭からバシャッと水を被った。

 頭から感じる水の冷たさによる少しの爽快……。

 何だろうこの妙に感じる粘着感と不快感。ねっとりした汗にへばりつくような……。


 あっ!ポカリだっ!


 手前のは確かに水だったのに。奥にあったのはポカリ。欲張った結果がこれか。

 頭から肩と背中にかけてねっとりとした気持ち悪い感触が疲労した体に侵食するように広がる。

 新手の災難が襲ってき、闘う気持ちが折れそうになった。

 

 24.1km


 ここまでくるとだいぶ人がバラけて少し開けるので走りやすくなる。前の人を抜くために無理に避ける必要が無くなるから気分が楽になる。

 折り返しを抜けたので、後続の人たちとすれ違いながら走っていく。たまにすれ違うコスプレの人たちを見て、元気をもらいながら走る。美少女戦士の格好をした男性を見たときは少し頬を引き攣らせた。まあいい。元気はもらえた。別の意味だが。

 脚は先程より痛みが強くなった。そのせいでペースは落ちてきている。けど気にはしない。落ちてきているとはいえ。1kmペースが10秒程遅くなっただけだ。上半身には影響はないし、心臓も肺もまだ大丈夫だ。

 ここまで来ても温かい声援は変わらない。応援してくれている人たちの声がまた元気を貰える。まだいけるとそう思う。

 走り続ける。


「もう後ろに来ているよ。追い付かれるよ頑張れ!」


 突然応援の中で少し奇妙な内容な言葉が聞こえた。追い付かれる。何に?

 よーく耳を澄ませると、反対側の後続ランナーが走っている方の沿道の観客からそう言った声が聞こえる。何が迫っているのだろうか。

 俺は進行方向の斜め奥に視線を寄せる。


 いた。


 ランナーの後ろのに見える。白く大きい箱状の物体がランナーを追いかけるようにゆっくり迫ってきていた。

 だんだん近づき、そして俺の横を通り過ぎていった。その箱には何人か囚われていた人がいた。

 リタイアした人たちだった。

 背中がスッと寒くなる感覚を味わう。

 まただ。俺はあの白いバスのことを忘れ、ただ走ることだけに集中した。


 31.2km


 フルマラソンには壁が存在するという。壁と言っても物理的な壁ではない。身体的な意味だというのは想像ができるだろう。それが大体30kmという。これは心理的とかではなく体の構造上から算出された数字である。人間の脚の筋肉に蓄えられている糖質が、ぶっ続けで約30km走る分くらいしか蓄えられないそうだ。要は30kmを超えるとガス欠状態になる。根性でどうにかなるとか、そういう問題ではないらしい。

 俺は今、まさにその壁にぶち当たったみたいだ。

 脚が痛いではない。力が入らないそんな感じだ。そして重い。鉄球の重りでも足に縛り付けているようだ。俺はやむ無く走るのをやめて歩き、少し足を休ませる。

 周りの景色を見る余裕はもうなくなっていた。地面を見つめながら少し右足を引きずる様に歩く。当然、後続のランナーにどんどん抜かれていく。

 でも脚は思うように動かない。

 何とか栄養補給しないといけない。

 給食所まであと1.0kmだ。とりあえずそこまでは何とか歩こう。


 32.2km


 給食所に到着。

 糖分を摂取できるものはお腹に詰めれるだけ詰めよう。

 テーブルの上に置かれていたのは、バナナよりも珍しいもの。それにかなりバラエティに富んだものだった。

 バナナからの丸いカステラ、どら焼き、チョコパン、みかん、塩、そしてちくわ。

 

 どこかの日曜市の試食コーナーか?


 体は間違いなく疲弊しているはずなのに、ツッコミを入れたくなる程の食べ物だ。でも今はその食べ物が何よりもありがたいと思った。

 とりあえず両手に溢れるくらい取り、無理やり口に押し込んでいく。バナナやカステラといった甘いのが口に広がり、みかんの酸っぱさから塩のしょっぱさとちくわの独特な味、口の中でありとあらゆる味が殴り合いをしていた。

 それを全て水とポカリで押し込み、栄養補給を済ませた。けど糖分が回ってくるのには時間がかかる。だからまだすぐには走れない。ゆっくりと足を運んでいこう。


 34.1km関門


 関門にやってきた。カウントダウンタイマーを見つめる「20:12」だった。たった3kmだ。たった3km歩いただけで20分以上もストックが減っていたのか。

 俺は歩いていた足を何とか無理やり動かす。当然痛いでもさっきよりは動く。2km前の糖分がやっと回ってきたみたいだ。あと8kmだ。もう10kmもない。だから行ける。

 一歩ずつ足を進める。


 36.8km関門


 ここまでは何とか走れてこれた。カウントダウンは「15:28」だ。あと関門は一つだ。今の状態を維持すれば何とかなるはずだ。


 37.2km


 ここで俺は息を呑んだ。残り5kmなのに。

 今目の前に見えるのは、一瞬壁と見間違えるような上り坂が鎮座していた。走っていた脚を止めてしまった。事前情報で知っていたが、いざ目の前にすると、足がすくんでしまう。

 いやまだだ。

 両手を振り上げて思いッきり脚を叩いた。パチッと高い音が寒空に響く。ヒリヒリと痺れる様な痛みからそしてうっすらと叩いた部分が赤く染まる。

 やっぱり痛い。そう簡単に足が復活するような治療でもない。ただの気休めだ。

 でも。ギュッと足の裏に力を込めて一歩前に踏み出した。


 一歩ずつ一歩ずつ進めばいずれ乗り越えられる。だからとにかく歩みを止めるな。


 平坦より明らかに足が進まない。自分の足のサイズ一個半くらいの長さしか進めない。太腿の裏が突っ張って力が入らない。でも確実に上っている。だから頭だけでも前に向けたのだ。


 39.0km


 何とか坂を越えた。でもここにきて突然体全身が痛み出した。本当に突然だ。太腿から尻、背中から腕に肩、全身が軋み始めた、ロボットの関節のすべてから煙を噴き出し、がくがくと震えながら動くような感じになっていると思う。

 もう限界なのか、でもここまで来てリタイアなんてしたくない。

 痛い。

 他のランナー達は、顔は苦しそうでも俺をそれとなく抜いていく。それなら俺もみんなと同じように。

 痛い。例えなんて無い。痛い。

 

「くっ」


 また脚が止まった。気持ちが萎えたではない。身体的に動かない。本当のガス欠か。道の真ん中で突っ立たまま動けなくなった。

 もう一歩も動けない。足が地面とくっついた。いや全身がくっついたと言ってもいい。今心の中では「動け」と叫んでいる。でも動けない。本当に動けない。

 ああ。ここまでか。最後の関門の制限時間に間に合う気がしない。

 

 俺は何も達成したことがない。

 それが今になって何かを達成したいと強く願うなんて思わなかった。

 部活は飽きたら辞めて、他の部活を転々、勉強も続かず、それでも我儘で虚勢ばっか張って親と喧嘩してばっかり、そんな俺が急にフルマラソンを走るとか無謀だったのか。

 昔の俺がみたら鼻で笑われそうではなく、笑っているだろう。

 はあ。マジか。俺は……。


 茫然としながら、ゆっくりと天を仰いだ。


「……さん……れ」

「……」

「あ……やさん……ばれ」

「……」

「あまみやさん。がんばれ」


 耳の遠くで名前を呼ばれた気がした。そんなはずがない。俺の知り合いなんてここにはいない。


「雨宮さん!がんばれ!」


 はっきり聞こえた。俺はその声が聞こえる方に振りかえった。


「あ、雨宮さん! 頑張れ! もうゴールまであとちょっとだよ!」


 俺の全く知らない人と目が合った。全く顔を知らない女性。文字入りのうちわを持った女性が俺に目を合わせて応援していた。


「おー! がんばれ!」

「おい。あとちょっとだ。頑張れ!」


 その女性の両隣にいた文字入りのうちわを持った青年と同じくうちわを持った背の低めの女性が言葉を重ねて俺を応援する。

 何で俺の名前を知っているんだ。ああ。そうかゼッケン。フルネームで入れたせいか。でもこんな俺を応援したって、もう足が動かないんだ。半端ものを応援したって……。

 いや……。応援してくれるんだ。こんな俺でも。


「まだ終わっていないよ! ここまで来たんならあとちょっと!」

「あとちょっと!」

「ここで負けて完敗するより、完走して乾杯しよう。俺は一緒にできんし、ダジャレだけど」

「ぷっ」


 噴き出した。

 本当に何をバカ言っているのだ。意味が分からん。分からんけど。

 そんなに応援されて動けないなんて嫌だ。


 ぎりっと歯を食いしばり、精一杯の力を足に込める。ビリビリと足に電撃が走る様に痛む。足が震える。けど動け!


 ストン。


 足が前に動いた。理由は分からない。数秒前まで動かなかったのに。


「ふっ」


 結局この現状に対して鼻で笑ってしまった。そんなオカルトチックなことなど信じない性格なのに。精神論なんて信じないのにな。

 一歩ずつ一歩ずつもう一度進み始める。


「雨宮さん。頑張れ!」


 俺は応援してくれた三人組に手を振ると、その三人は持っているうちわを高く上げて全力で振ってくれた。


「プッ」


 また噴き出す。うちわを見て笑うなんて人生で初めてだ。こんな偶然俺は信じないつもりだったけど……。

 ホントお前の友達も揃いに揃って面白い人たちだよ。タイガーさん。


 41.0km関門


 最後の関門の看板が見えた。その横に見えるのはカウントダウンタイマーは「1:01」だ。残り距離150m。ギリギリだ。もう痛い。動きたくない。でも。あんなに応援されたら、止めれないだろう。

「頑張れ! 頑張れ!」

 制限時間が近いから、沿道の声援が一層大きくなる。

「40.39.38.37」と時間が刻まれていく。あと100mだ。

 今のペースなら間に合う。関門の横では補助員らしき人が待ち構えているのが見える。勘弁してくれ。

「頑張れ! 頑張れ! 間に合え!」

 応援のボリュームが上がる。激しく腕を振る。力強く足が進んでいく。もう少しで関門のラインを超える。この調子ならあと10秒を残していける。行けるはずだ。

 思いっきり足を前に突き出した。

 途端。視界が下に下がった。足が地面に沈んでいく。何が起きたか理解できずに体が地面に落ちた。

 自分が転んだと認識したのに2秒程時間が経った。


「ああああ! 頑張れ! 雨宮さんがんばれ!」

 

 関門ラインは目と鼻先に見えた。

「12.11」

 けど、手に力が入らない。

「10.9.8」

 こんなところで。

「7.6」

 こんなところで……。

「6.5.4.3.2.1.0」


 補助員の人達が何人もザーッと割って入ってきて道を塞いだ。


「あああ!」


 観客から悲鳴が起きた。

 越えられなかった何人かのランナーは足を止めた。そしてうなだれるように地面に座り込む。一方で天を仰ぐランナーもいた。そして暗くやるせない顔を浮かべながら補助員に誘導されながら後ろのバスに連れ込まれていった。


 俺は頬と体を地面にへばり付きながら、背中を丸くしてバスへ乗り込むランナーの姿を補助員達の背中の隙間から眺めていた。

 

「雨宮さん! 頑張れ! 関門は越えたよ。あとゴールまであとちょっと!」


 とめどなく声援が聞こえる。ありがたい。本当にありがたい。けどちょっと休憩したい。まだ体が地面から離れない。

 なんとか這いつくばって、ほふく前進でギリギリラインは越えられたが、地面に寝そべった体が全く起き上がってくれない。

 越えられたのに……。


「大丈夫ですか?」


 耳元に声援とは全く違った声色が流れる。

 補助員の人が視界に入る。俺が倒れて動けずにいるせいだろ。


「大丈夫ですか?」


 甘い声が聞こえる。もう十分頑張っただろう。そんな言葉が聞こえる。もうゆっくり休みなさい。そんな声が聞こえる。限界なんてとうに超えた体には、補助員の声がそう聞こえる。

 

「雨宮さん。雨宮さんがんばれ!」


 補助員の人が手を伸びてきた。気を使ってくれたのだろう。親切さなんだろう。


「雨宮さん立って! 頑張って!」


 だけど俺はその手を強く払いのけた。

 もう一度手に力を込めて体を起こす。そして膝を立ててゆっくり立ち上がった。


「うおおおお! 頑張れ!」


 観客からの拍手喝采の嵐が舞い起こった。本当に想像しないことばかりだ。自分の体の復活も、周りの人たちの反応も初めてのことばかりだ。

 何かを達成したいと思った事自体、自分自身でも想像しないことだった。 限界を超えているはずなのに動く。知らない人に名前を呼ばれ応援される。何だよ。面白いな。

 それに人に手を差し伸べられるなんてな。考えたこともなかった。けど……。


「すみません。ありがとうございます。でも俺は自分の力で行きたいので」


 補助員の人に俺はそう告げていた。

 補助員はその言葉にニッコリと笑った。


「そうですか。出過ぎた真似でしたね。ゴールまであとちょっとです。頑張ってください」

「はい」


 そう笑顔で返してあげた。

 振り返って前に一歩足を進む。


 痛い。動けたけど体は正直だ。あと1.195kmか。本当に半端過ぎるだろ。やっぱりこの数字は嫌いだ。100年前の王女様を恨むぜ。


 でもこの距離になったのは、王女様が決めたコースのオリンピックで、ゴール直前で倒れた選手が役員の補助でゴールした、という感動エピソードによって採用されたのだった。

 その選手は役員の補助が原因で失格になったけどな。


 俺は失格は嫌だ。完走したい。自分の手で達成したい。だからどんなに痛くても前に足を進む。

 

 俺は1.195km先のゴールを目指して、一歩前に進んだ。




 完


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