閑話 西口康子の思い出 前編
3章に入る前に閑話をお届けいたします。
本編の一時の団欒と反動の間、僅かな時間に起こった出来事です。
(微妙なズレや矛盾点は、お見逃しください。ごめんなさい)
前・中・後編の3部になります。
続けて3部投稿致しますので、前書きと後書きは前編のみとさせて頂きます。
東京都港区白金台某所・久世家
7月24日 金曜日 午前10時20分
ティーカップをセリーヌに渡した康子は、久世家に来た時の事を思い出していた。
西口康子が久世家で住み込みのお手伝いになったのは、今から8年ほど前の事である。
4歳の時、両親を事故で亡くした康子は、頼る身寄りも無く養護施設で育った。彼女は18歳で高校を出ると、郊外に1Kの小さなアパートを借り、そこそこの店舗数を持つ輸入品販売の会社に就職する。その頃にはもう、康子の心中には“1人で生きていく”という思いが強かったのか、彼女は形振り構わず懸命に働いた。
半年が経ち、仕事にも大分慣れてきた頃、康子に思いもよらぬ試練が降りかかった。それは、日頃の真面目な働きぶりと上司受けや客受けの良さに加え、康子本人が自覚すらしていなかった容姿の良さを妬んだ同僚からの辛辣ないじめであった。初めは、些細な事と気にもしなかった康子であったが、それは日を追うごとに苛烈さを増していき、やがて彼女の育った施設に関する事まで口にする者も現れた。当然、そんな状況が半年も続いた頃には、彼女からすっかり笑顔が消えてしまっていた。店長もそんな康子に違和感を感じ、声を掛けるなどの気遣いをしてくれたものの、状況が変わるどころか返って妬みが増えてしまい、更なるいじめを誘発させてしまうという最悪な結果になってしまっていた。
康子が、セリーヌに声を掛けられたのはその頃である。
「ねぇ、西口さん。何かお勧めの茶葉はないかしら?」
当時の康子にとってセリーヌは、来店するとどんなに忙しくても店長が接客をしている、若く品のある上得意様という印象だった。週に1度のペースで訪れるセリーヌと挨拶を交わす事は度々あったものの、明確に会話という点で声を掛けられたのは、店長が不在だったこの時が初めてだった。
「ニルギリなどいかがでしょうか? 丁度、品の良い物が入っておりますが……」
いつもの定番であるダージリンを注文しつつ尋ねてきたセリーヌに、突然声を掛けられた康子は少し驚いた。
「ニルギリねぇ…… 名前は知ってるけど、意識して飲んだ事ないのよねぇ…… 西口さん、これって試飲させて頂くことは出来るかしら?」
「あっ、はい! あまり上手ではないですけど、私が淹れたものでよろしければお試しいただけますが」
「じゃあ、お願いしますね」
セリーヌの申し出と笑顔に、康子は急に緊張し始めた。相手は店の上得意様である。
(もし、失礼があったら……)
その先は、想像に難くない未来が待っているだろう。否応無しに緊張感が増す。
康子は慌ててセリーヌを応接スペースに案内し、自らが提案したニルギリを淹れるためバックヤードへ向かった。
伊達に1年近く、輸入品販売の店舗で働いていた訳では無い。康子は、この時点で紅茶の淹れ方に関しては、ある程度の知識と経験を持っていた。
5分ほどで、準備の整った康子はティーポットとティーカップを持って、セリーヌの待つ応接スペースに現れた。来客用とはいえ、店内に展示販売されている高級磁器とは違い、デザインもシンプルでパッとしない物ではあったが、康子はセリーヌに喜んでもらえるよう目一杯心を込めてその一杯を淹れた。
「お待たせいたしました。上手く淹れられたか分かりませんが……」
康子は恐縮しながら、紅茶を淹れたティーカップをセリーヌの前に置く。
セリーヌは、ゆっくりと薫りを楽しんだ後、スッと口を付けてニルギリを味わった。
「ダージリンと違って、ほんのり甘い香りね。口当たりもスッキリとしてて、美味しいわ」
「ありがとうございます。本来なら、アイスティー向きの茶葉ですが……」
「そうなの? でも、これも充分美味しいわ。きっと、西口さんの淹れ方が上手なのね」
「恐れ入ります」
ニッコリとほほ笑んだセリーヌを見て、康子はホッと胸を撫で下ろした。どうやら、味は気に行って貰えたようだ。後は値段の問題だろうと康子は思ったが、そこには一つ問題があった。勤めて1年目の彼女には、値引きに対する決定権が無かったのである。
「西口さん、このニルギリは量り売り?」
「あっ、はい! 量り売りになります」
セリーヌの質問は、値段を聴かれるとばかり思っていた康子にとって意外な一言であった。
「う~ん…… じゃあ300…… ううん500グラムいただくわ」
少し考えた末、次に出て来たセリーヌの言葉は、康子にとって最も意外な一言であり、それが故に理解し返事をするのに一定の時間が掛かってしまった。それも当然で、康子が勧めたニルギリは店でも珍しいくらいの最高級品であり、グラム当たりの金額で比べるとセリーヌが常時買いしているダージリンの倍近い値段なのだから。
「はっ、はい! ニルギリを500グラムですね。ありがとうございます。ご用意いたしますので、しばらくお待ちくださいませ」
注文を受けた事に気が付き、慌てて頭を下げる康子。その顔には、何か月ぶりかの笑顔が浮かんでいた。
それは、ほんの些細な出来事かもしれない。
それでも、精神的に疲弊した康子にとってその出来事は、久方ぶりに訪れたとても嬉しい出来事であったのだ。
そう、自分でも気が付かないうちに、笑顔を浮かべてしまうほどに……
しかし、そんなささやかな喜びは長く続かない───
準備に向かった康子を、セリーヌは暖かな眼差しで見送りながら残りの紅茶を飲み干すと、店内にレイアウトされたティーカップのコーナーに足を向ける。様々な模様の磁器を眺めながら色々なシチューエーションを思い浮かべる事が、セリーヌにとって楽しみの一つであった。
《カランッ、ザザザザザー》
そんな楽しい空想をセリーヌが始めて数分、静かな店内に不釣り合いな音が響きわたった。セリーヌは咄嗟に音の出た方、ガラス造りのショーケースへ歩み寄る。そこには、俯き加減で床に横座りしている康子、少し離れたところに転がった茶葉入れの黄色い缶、撒き散らしたように床一面に散乱した茶葉、そして康子の傍で不敵な笑みを浮かべながら見下ろす女性店員の姿が目に入った。
「あーあ。あんた、何やってんの? 大事な商品ぶち撒けちゃって。とっとと片付けなさいよ! て言うかこれ、どう責任取るつもり?」
「すっ、すみません」
女性店員から喚き散らされ、康子は慌てて謝りながら散らばった茶葉を手で集め始める。一方の女性店員は、仁王立ちで口元に笑みを浮かべたまま、心配する様子も手を貸す様子も無かった。
康子はこの時、世の中の理不尽さを呪った。なぜこんな事になったのかと言えば、彼女が茶葉を用意している所へ相手が横からぶつかって来たからである。それも、わざと倒れるくらいの勢いでだ。
(悔しい! 何で私ばっかりこんな目に合わなきゃいけないの?!)
康子はそう思いながら、白くなるくらい手をきつく握りしめた。
「西口さん……」
そこへ声を掛けたのは、セリーヌだった。
「あっ、お客様! お見苦しい所をお見せして、申し訳ございません。すぐに準備いたしますので、もう少々お待ち下さい」
康子はその声に驚き、セリーヌを見上げながら謝罪をすると、急いで片付け始める。そこへ、再びセリーヌから声が掛かった。
「急いでないから大丈夫よ。それより西口さん、そのこぼれてしまった茶葉を紙袋に入れて貰えるかしら。それも一緒に頂くから」
「でも、お客様……」
「良いのよ。飲むのに使うんじゃなくて、茶香炉で焚いて使うのだから」
セリーヌからの思わぬ申し出を康子が慌てて止めようとすると、セリーヌが言われるまでも無いとばかりに康子の言葉を遮って言った。
床に散乱した茶葉は、どう見繕っても飲む分として注文された500グラムより多い。注文された康子に加え、その場にいる店員全員が唖然とした表情になる。
そしてセリーヌの驚くべき発言は、それだけでは終わらなかった。
「それと、あそこに並んでるティーカップとソーサーのペアセット、一番左のセットと左から3番目のセット、それと右から4番目のティーポット付きの4客セットを頂くから、一緒に用意してもらえるかしら?」
追加で注文をしたセリーヌは、口を開けてポカンとした表情の康子を見つめながら、にっこりとほほ笑んで見せたのだった。
不定期更新にも関わらず、お読みいただきまして
ありがとうございます。
ラストまでお付き合いの程、よろしくお願い致します。




