説得と涙
台風が去って、お天気が良くなってきたら
めっきり寒くなってまいりました。
暑いのも、寒いのも苦手な私には、また厳しい季節の到来です。
東京都千代田区神田神保町某所・魂の守護者たち・神田支所事務所・支所長室
7月12日 土曜日 午後7時8分
“任務を降りる”と言った紫苑の言葉で、静まり返った部屋の中、その静寂を最初に破ったのは、他でもない沙希だった。
「どうして? ねぇ、何で任務を降りるの? 悪いのは、紫苑だけじゃないじゃない! 調査中に、気を抜いて、もしもの時に、どうするのか確認しなかった私にだって、落ち度はあったでしょ! それに、降りた後どうするの? まだ、特訓だって終わってないんだよね! 中途半端なのは嫌なんでしょ? だったら、最後まで続ければいいじゃない! 渡辺さんだって助かったし、危険になるか、ならないかなんて、誰にも解らないでしょ!」
ややキレ気味の強い口調で、食って掛かるように、紫苑への説得を試みる。紫苑は、突然、捲し立ててきた沙希の勢いに面食らいながらも、沙希の方を向き、目を真っ直ぐ見ながら、落ち着いた口調で答え始めた。
「なあ、沙希。さっきも言ったけど、お前に落ち度があったとして、それをフォローして上手く行くようにするのが、俺の役目だ。だからこそ、任務の責任者は沙希で、俺はそのサポートとしてこの件を引き受けたんだ。だけど、俺は、そのサポートに失敗してミスを犯した。渡辺さんが、助かったのだって、たまたま運が良かっただけで、死んでたっておかしくなかっただろ? この任務は、いずれ、犯人の魔法使いと戦闘になる事が、目に見えてる。相手は、召喚した魔獣より弱いはずが無いし、容赦してくれるような奴でもないだろう。その時、今日と同じことが起こったら、今度は確実に誰かが死ぬ。それだけは、絶対に避けなきゃいけない。そのために、不安要素になるものを、徹底的に排除するのは、当然の事だよな。俺の、ポリシーだの、プライドだのなんてどうでもいい。今、現状で、不安要素になっているのは、俺なんだからな」
「じゃあ、仮に、紫苑が抜けた後、任務はどうするのよ! 私だけじゃ、続けられないでしょ?」
「だからこそ、早乙女次長と、戸川さんに来てもらったんだよ。早乙女次長に、沙希のサポートをしてもらうためにな。戸川さんのサポートは、俺が上に掛け合って、フリーライセンス持ちの誰かを、付けてもらえるようにする。いずれにしても、今回の件を報告しなきゃいけないしな」
「そっ、そんなの無責任だよ! それに、私の特訓は? それも中途半端で止めちゃう気なの?」
「いや、特訓は続けるさ。任務とは関係ないし、今、かなり良い感じに進んでる。これからが、肝心だって所で、誰かに代わってもらおうなんて思ってないさ」
「……だったら……。それだったら……、任務だって……、一緒で良いじゃん……。……やっと、調査にだって慣れてきたのに……。……どうして……」
堪えきれなくなった涙を、ポロポロと流しながら、沙希は紫苑に縋り付き、紫苑の胸に頭頂部を押し付けると、いやいやをするように、頭を左右へ振りながらこすり付ける。落ちた涙が、紫苑のジーンズに染み込んで、生地の色を濃く浮かび上がらせていった。
そんな中、2人の会話を、黙って聴いていた添島が、困り顔をしながら紫苑に尋ねかけた。
「なあ、紫苑。お前が任務を降りる条件は、解った。確かに、理に適っているし、こちらとしても問題は無いと思う。ただ、もしも、私が、お前が任務を降りる事を認めなかったら、どうするつもりだ?」
「確かに、支所長の権限で、任務の続行を命じる事は可能だと思うよ。もし、添島支所長がそうするのであれば、俺は、拒否権を宣言する」
紫苑は、顔だけを添島の方へ向けながらそう答えた。“拒否権”という、聴き慣れない言葉を耳にした戸川は、会話の邪魔にならないよう小さな声で、
「翔子さん。“拒否権”ってなんですか?」
と、尋ねると、難しい顔をした翔子がやはり小声で、説明を始めた。
「弥生ちゃんも、フリーライセンスの権利と権限は知ってるわよね? 申請さえすれば、どの協会施設でも利用でき、任務に関する情報開示、記録の閲覧、受諾をどこでも自由にすることが出来る。それとは別に、ライセンス持ち、には、自分が関わる任務についての情報開示や、関わった任務の記録の閲覧、要請された任務、それぞれについての拒否権を持っているの。情報開示や記録閲覧の場合は、同じランクのライセンス持ちが、拒否権を持つ本人に直接許可を求める事が出来るし、時間は掛かるけど、私達でも、申請を出して、許可されれば、情報開示も、記録の閲覧も可能よ。でも、任務の受諾と拒否は違うわ。一度、拒否権を宣言されると、それを解除できるのは、宣言した本人か、その人物の上司による強制権が必要になるの。たとえ、支所長の命令でも、ランクが上の紫苑が、拒否権を宣言すれば、その任務に対する遂行義務は生じないわ。それと、厄介なのは、任務の途中でも、拒否権を宣言して任務の放棄をする事が可能だってことね。まあ、今までに、そんな無責任な事をしたライセンス持ちは、いないと思うけどね」
それを聴いた弥生は、複雑な表情を見せた。説明された内容は理解できたが、納得がいかない様子である。そんな、ひそひそ話を余所に、添島は話を続けた。
「そうか。拒否権とまで言われれば、我々にはどうする事も出来ないな。まあ、それだけ、紫苑の意思が固いって事だろう。ただ、上司である光の元老院に、今回の件を報告すれば、お前だってただでは済まないだろう? それでも良いのか?」
「確かに、何かしらの処分は受けるだろうな……。でも、報告しなくても、いずれ、この件は上の耳に入るだろうし、自宅に怪我人が担ぎ込まれてれば、嫌でもすぐバレるって。それなら、潔く、報告してサポートの件とかを頼んだ方が、よっぽどいいよ」
「なるほど、それも、一理あるな……。相手が親父さんじゃ、どう転んでも逃げられないしな。堅実な人だから、正直に話した方が、処分も軽くなる可能性もあるしな」
紫苑と添島が、そこまで話をし終えると、泣きじゃくっていた沙希が顔を上げ、
「……ねぇ、……ひっく、……処分って、……ひっく、ひっく、……何?」
話の所々でしゃくりあげながら、流れる涙もそのままで、紫苑に尋ねる。
「沙希、ミスをしたら、何かしらの処分があるのは、しょうがない事だろ? 処分って言っても、たぶん、1週間くらい活動停止になるか、他の支所の厄介な任務を受けさせられるか、その程度だよ」
沙希を安心させるためだろうか、あっけらかんとした笑みを浮かべながら、答えた。それを聴いた沙希は、再度、説得をしようといった感じで、紫苑の顔を見上げていたが、どう言葉にしていいか分からず、何も話すことが出来なかった。
その後、翔子と弥生も必死に説得を試みたものの、紫苑を思いとどまらせることが出来ず、話は平行線を辿っていった。
埒が明かない状況に、添島が最終的に下した結論は、
《光の元老院へ、今回の件を報告し、紫苑が任務を降りる旨と、ミスに対する処分、そしてサポートの補充についての決定を待つ》
ということで、今日のところは解散となった。添島は、泣きじゃくる沙希を心配してか、帰りの車の手配をしてくれ、沙希と紫苑は、それに乗って久世家へ帰宅したのだった。
東京都港区白金台某所・久世家
7月12日 土曜日 午後8時31分
久世家に着くと、沙希は、誰とも口を利かず、2階の自室へ閉じこもってしまった。幸い、彼女は、帰りの車内で、泣き止むことが出来ていたため、支所での出来事を知らないセリーヌと、お手伝いの康子は、〈今日の件で、ショックが大きかったからだろう〉と、様子のおかしい沙希に、気付かないふりをしてくれていた。
紫苑は、飛び出すように自室へ向かう沙希の後姿を見送ると、リビングにいたセリーヌに声を掛けた。
「ただいま。セリーヌ、父さんは、何時ごろ戻って来るか知ってる?」
「おかえり、紫苑。賢斗は、今日、早く帰るって言ってたわ。そろそろだと思うけど……」
「書斎で、待ってっても良いかな?」
「ええ、帰ってきたら、話しておくわ」
セリーヌは、神妙な面持ちで書斎に入って行く、紫苑の後姿を見て、
(今日のミスも珍しいけど、あんなに、気落ちしてる紫苑も珍しいわね)
ここ何年も感じていなかった、彼の辛そうな様子を、少ない会話の中で、敏感に感じ取ったセリーヌだったが、何か、人を寄せ付けない雰囲気を醸し出している息子に、それ以上の言葉を掛ける事が出来なかった。
賢斗が帰宅したのは、それから20分ほど経ってからだった。玄関先まで出迎えたセリーヌに、賢斗は穏やかな笑みを浮かべながら、
「セリーヌ、ただいま。難しい顔をしてるけど、何かあったのかい?」
いつもの笑顔ではなく、真剣な表情で出迎えた妻にそう尋ねた。
「おかえりなさい、賢斗。紫苑が、書斎で待ってるわ。仕事の話みたい……」
「そう、分かったよ。すぐに行くから、紅茶を入れてくれるかな?」
「ええ、後で持って行くわ」
「頼むね」
賢斗はそう言うと、書斎の方へ向かって行った。賢斗を見送りながらキッチンへ入ったセリーヌは、2人が話をする時間を見計らうかのように、ゆっくりとお茶の準備を始めるのだった。
〈コン、コン〉と、軽いノックをした後、賢斗は中からの返事を待たずに、書斎のドアを開け、室内に入った。
室内では、今までソファーに座って待っていたであろう紫苑が、ノックの音に反応してか、立ち上がって待っていた。賢斗は、部屋の奥にある、自分のデスクに向かいながら、彼の顔を一瞥すると、
(かなり、覚悟して来たって面してるな。あまり、良い話じゃないんだな)
そんなことを考えながら、ひじ掛けの付いたデスクチェアに腰を下ろした。机を挟んだ向かいには、ソファーから移動して来た紫苑が立っていた。賢斗は、上目遣いに彼の顔を見ながら、話を切り出した。
「お疲れさん。セリーヌから、仕事の話があると聴いたが?」
「お疲れ様です。現在、調査中の、神田支所の任務について、報告とお願いがあります」
「良いだろう。聴かせてもらおう」
賢斗から許可をもらった紫苑は、“黒い影”の正体・渡辺の負傷と現状の経過・自らのミスの内容を説明し、今回の任務を降りる旨の許可と、自分が抜けた後のサポート要員の補充を願い出た。
一通りの話を、黙って聴いていた賢斗は、両肘をデスクに付き、祈りを捧げるように手を組むと、上目遣いのままおもむろに口を開いた。
「あらましは解った。ところで、任務を降りる件を、沙希ちゃんは了解したのか?」
「いえ、状況は理解してくれていると思いますが、納得してはいないと思います」
「そうだろうな。それで、彼女の特訓はどうする? 続けるのか? 止めるのか?」
「特訓に関しては、最後まで、責任を持って続けさせていただければと、考えております」
「うん。それについては、問題ない。特訓に関しては、継続を許可する。但し、彼女の任務に支障が無いよう、考慮するようにな」
「はい。ありがとうございます」
「任務を降りる件は、添島支所長も了解済みのようだし、補充要員については私の方で手配しよう。その間の調査は、協力者の回復と補充要員が確保できるまで一時凍結するよう、支所長には連絡をしておく。それでいいな?」
「はい。よろしくお願いします」
「解った。お前の処分については、追って伝える。下がっていいぞ」
「はい。失礼いたします」
賢斗から、退室の許可が出た紫苑は、ドアの前で軽く一礼すると、書斎を出て行った。入れ違いに、紅茶を持って来たセリーヌは、賢斗の前にカップを置きながら、
「紫苑の話はどうでした?」
難しい表情の賢斗に尋ねた。賢斗は、紅茶を一口飲むと、やや重い感じの声で答えた。
「うん。『沙希ちゃんと調査している任務を降ろさせてくれ』、と言ってきた」
「そう。今回の件について、何か思う所があったのね」
「そうだな。あいつにとっては、いい経験だと思うが……」
「沙希ちゃんが、ちょっと可哀相な感じがするわね……」
そう言いながら、セリーヌは、心配そうな表情を浮かべる。賢斗は、それを見ながら、紅茶を飲み進めた。
「まあ、あいつの決めた事だ。特訓は続けると言ってるし、しばらく様子を見ようと思う」
「そうね。先はどうなるか解らないものね」
「セリーヌには、視えてるんじゃないのか? あの2人がどうなっていくのか」
それを聴いたセリーヌは、少し呆れたような顔になって、
「あら、私は、個人的な興味で先読みの力を使うようなことはしないわよ。それに、大概は、危機的予知を強制的に視させられることが多いのを、賢斗だって知ってるでしょ?」
そう答えた彼女に、賢斗はバツの悪そうな表情をしながら、紅茶を飲み干すと、
「そうだな。悪かったよ。紅茶ごちそうさま。書類仕事が残ってるから、先に休んでいいよ」
空になったカップを渡し、鞄から書類を出すと、パソコンの電源を入れた。
「はい。じゃあ、お先に休ませてもらいますね。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
そう言うと、セリーヌは受け取ったカップを持って、キーボードを叩く音が響き始めた書斎を、静かに出て行った。
久世家・書斎
7月12日 土曜日 午後11時19分
カタカタという音だけが響いていた書斎に、〈コン、コン、コン〉というノック音が不意に響いたのは、後40分ほどで日付が変わる頃だった。この時間、家の者は寝ている時間だし、普段から、呼び出さない限り、書斎を訪れる者はいない。一瞬、訝しく思った賢斗だったが、
「どうぞ。開いてるよ」
と、ドアの向こうにいるであろう人物に、声を掛けた。それに反応して、ややためらいがちにドアが開くと、
「遅い時間にすみません。失礼します」
そう小さな声で答えながら、入って来たのは、半そでのカットソーにロングスカートといった普段着の沙希だった。恰好こそ、普通の出で立ちだが、賢斗が見たその顔は、いつもの笑顔が可愛らしい姿からは想像が出来ないくらい、目が赤く、まぶたは腫れ、頬は涙の痕でカピカピの状態だった。
神田支所から久世家へ帰って来た時は、セリーヌ達に心配を掛けまいと、泣くことを我慢していた沙希だが、いざ、部屋にこもってしまうと、紫苑が任務を降りる事に対する淋しさと、降りないように説得しきれなかった悔しさ、自分の軽率な行動で、紫苑を追い詰めてしまった事への後悔で、涙が止まらなかった。
暗い部屋の中、ベッドの上で膝を抱えながら泣き続けていた彼女が泣き止んだのは、書斎を訪れる30分ほど前である。
その時、沙希の目は、いつもの半分しか開かないほど、腫れてしまっていたが、その瞳は、強い決意を物語るかのように光を帯びていたのであった。
いつも、ご覧いただきありがとうございます。
前回に引き続き、沙希には辛い状況になっております。
2人は、どうなって行くのか……。
次回更新は、11月10日(金)の予定です。
よろしくお願い致します。




