特訓と調査 10
秋らしくなってきたと思ったら、今日の天気予報は
真夏日なんですって!
そう言えば、昨日も暑かったような……
そろそろ、涼しい日が続いても良いような気がします
東京都世田谷区経堂・某所
7月12日 土曜日 午後3時43分
「渡辺さん! 渡辺さん!」
自分に覆いかぶさっている渡辺の体を揺らしながら、沙希は懸命に声を掛けるが、気を失っているのか返事は無い。沙希の頭は、渡辺の胸元にあり、彼女の鼓動を聴くことが出来ているため、最悪の結果を免れた事は間違いないのだが、自分たちと敵対する何者かに、気を失うくらいの衝撃を受けた事は明白である。
沙希は、挟まれていた両腕を横に出すと、抱きしめるように渡辺の背中に手を回した。ヌルリと濡れた感覚が左手に伝わってくる。沙希は慌てて両腕を地面につけ、上半身を起こした。脱力して、ぐらっと横に倒れそうになる渡辺を腕で支えると、ゆっくりと地面に横たわらせた。
渡辺は、顔が青白く、痛みのためか苦しそうに歪め、額にびっしりと脂汗が滲んでいた。右の鎖骨付近には、先日ご遺体を確認しに行った田所朋子と同じ様な穴が穿たれている。そこからは、おびただしい量の出血があり、どう見ても重症である事は免れない様子だった。
沙希は、渡辺の患部を両手で押さえると、辺りを見渡した。紫苑は、5mほど離れた所で、マジックサークルを発動させ、“黒い影”の正体と思しき、人狼と対峙していた。
「バインドアースチェーン」
人狼の放つ、ブォンブォンと黒い光線状の魔法が無数に付け狙う中、紫苑はそれらを難なくかわしながら、力のこもった声でそう言い放った。
その瞬間、人狼を中心に2mほどの光の円が大地に浮かび上がると、そこから無数の鎖がジャラジャラと音を立てて飛び出し、相手の全身に巻き付いた。人狼は、全身に力を込めそれを断ち切ろうとしているが、何重にも巻き付いているため、そう簡単には戒めが解ける事は無い。そして、ここに至るまでに、渡辺の状態についてある程度、予想がついている紫苑が、のんびりとそれを待っている訳も無かった。
「セインツインシナレーション」
彼がそう声を上げると、虹色の光を纏ったシャボン玉のような球体が、人狼の上半身目掛けて飛び込んで行った。次の瞬間、カッと閃光弾のようなまばゆい光が発せられると、
『グル、グギャー』
と言う人外の叫び声と共に、白い炎に包まれる人狼の姿が見えた。20秒ほどすると、ゆっくりとその炎は消えてゆき、後には、彫像のように、真っ黒になって身動ぎ一つする事のない、人狼が残された。そこへ、2時間ほど前に、児童公園で沙希の火照った体を癒した、そよりとした風が吹き抜けると、人狼はサーッと音がするかのように細かい灰の粒子となって、静かにその姿を消していった。
その様子をじっと見つめていた沙希は、手に伝わる血液の感覚で我に返ると、
「紫苑! 渡辺さんが!」
と叫び声を上げた。紫苑は、2人のもとへ駆け寄ると、自分の鞄からスポーツタオルを取り出し、血で真っ赤に染まった沙希の手を、患部からゆっくりと離れさせた。患部からの出血は、相変わらずのダラダラと流れ続けている。そして、悪い事に、魔法に対して何の防御策も持たない渡辺の傷は、右の肩甲骨の辺りから、右鎖骨の真下に向かって貫通していたため、正面と背面の両方から出血しており、そのおびただしい量から、あと5分も持たない事が予想された。紫苑は、渡辺の上体を起こすと、スポーツタオルを沙希に渡しながら、
「沙希、正面の傷をそれで圧迫し続けろ! 背中の傷は、俺が治癒魔法で出血を押さえる!」
そう言うと、紫苑の左手が淡い水色に光り始めた。沙希は、受け取ったタオルで、鎖骨部分の患部をしっかりと押さえつけた。
「ホーリーヒールライト」
紫苑がそう呟くと、光が吸い込まれるように、背中の患部に流れていく。見る間に出血は止まったが、患部の穴が塞がるまでには至らず、水色の光が保護膜のように覆っているだけである。幸いなことに、沙希の押さえつけている鎖骨部分からの出血も、若干少なくなったようだった。沙希は、その様子に少し安堵しながら、紫苑に尋ねる。
「紫苑、これからどうすればいい? 早く、病院に運ばないと……」
「ダメだ、これだけ傷が深いと、簡単に動かせない。運んでる間に、出血が抑えられなくなる。それに、渡辺さんが受けた傷は、普通の闇魔法じゃなくて、瘴気を含んだ闇魔法だ。普通の病院どころか、魔法治療の出来る病院でも、相当な治癒魔法が使える守護者がいる所じゃないと、治せないはずだ」
「どうして! だって、紫苑の治癒魔法で、出血が止まったじゃない!」
「沙希、落ち着けよ。確かに、俺の治癒魔法で、出血は止まっている。でも、普通、この程度の傷なら、この魔法で傷口は塞がるんだよ。でも、瘴気を含んだ魔法の傷は、俺の使った治癒魔法じゃ完治出来ないんだ。俺も、治癒魔法専門じゃないから、これ以上の魔法は使えない……。くそっ、どうすればいいんだ!」
一つ一つ丁寧に答えながらも、普段は冷静な紫苑が焦り、苛立っているのが、目の前の沙希にも伝わって来た。沙希は、そんな紫苑を見ながら、
「……紫苑の家がもっと近くにあったら、セリーヌさんに治してもらえるのに……」
そう呟いた。それを聴いた紫苑は、はっとした顔で沙希の方を見ると、
「沙希、今なんて言った!」
「なんてって、紫苑の家が近かったら、セリーヌさんに治してもらえるのにって。セリーヌさんって預言者って言ってたけど、普段は治癒師なんだよね? Sランクなら治せるんじゃないかなって思って……」
改めて沙希の言葉を聴いた紫苑は、
「あはははははっ。そうだよ! 家にはセリーヌが居たんだった。沙希、渡辺さん助かるぞ!」
「えっ、でも、紫苑の家まで距離があるし、むやみに動かせないんだよね? セリーヌさんに来てもらうのも、間に合わないんじゃない?」
「テレポートの魔法を使えばいいんだよ! 家の訓練場には、転移用の魔方陣が描かれているから、ここからでも転移できるんだよ」
そう言うと、ブツブツと呪文を紡ぎ始める。程なく、準備が整った紫苑が、
「沙希、転移し終わったら、何も考えずにリビングへ走って、セリーヌを連れてこい」
「でも、セリーヌさんが出かけてたらどうする?」
「そこは、心配ないさ。セリーヌは、こうなる事を知っているはずだからな」
「えっ、どうして!?」
「それは、セリーヌが、預言者だからだよ」
そう言って紫苑はほほ笑んで見せた。沙希は納得して頷くと、自分たちの周りが、光の膜で覆われているのに気が付いた。そして、
「ディメンションテレポート」
紫苑がそう言葉を発した瞬間、沙希の目の前は、真っ白になって何も見えなくなっていた。
東京都港区白金台某所・久世家・地下訓練場
7月12日 土曜日 午後3時54分
時間にして、わずかコンマ数秒だろう。いつの間にか目を閉じていた沙希が、パッと目を開けると、そこは見慣れた地下訓練場だった。沙希は、何も考えず立ち上がり、リビングに向けて駆け出そうとすると、誰かにふわりと抱きしめられた。
「お帰りなさい。沙希ちゃん。もう大丈夫よ」
暖かい温もりと、聴き慣れた優しい声で、沙希は、自分を抱きしめた相手がセリーヌだと気が付くと、彼女の目から堰を切ったように涙があふれ、ヒック、ヒック、としゃくりあげながら泣き始めた。セリーヌは、そんな沙希の頭を軽く撫でると、ゆっくりと彼女を小脇にずらし、渡辺の右側に座って患部の様子を確認し始めた。
「結構、深い傷ね。出血も多いし、ここで治癒しましょう。傷が塞がって安定したら、客室で寝かせると良いわ」
セリーヌは、今までに見せた事のない真剣な表情でそう言った。彼女の両手は、すでに、新緑を思わせる明るい緑色の光を纏っており、その光は、暖かい春の日差しのような感覚を周囲に与えていた。
「紫苑、そのまま彼女を支えてて」
セリーヌは、紫苑にそう指示を出すと、正面の患部に右手を、背面の患部に左手をそれぞれ添えると、
「ホーリープルガシオン、ソリドゥスヒーリング」
と、2つの魔法をほぼ同時に発動させた。緑色の光は、渡辺の傷を中心に、彼女の右肩から胸の辺りまでを覆うように広がっていった。沙希が、こぼれ落ちる涙を拭いながら、目を凝らして傷口を見ると、穿たれていた穴は徐々に塞がっていき、苦痛に歪んでいた顔も、穏やかな表情を浮かべ始めた。
傷の状態を見ていたセリーヌは、ふぅーとゆっくり息を吐くと、
「とりあえず、危険な状態は脱したわね。あとは、足りなくなった血液だけね。紫苑、この人は、どのくらい出血したの?」
「恐らくだけど、1000mlより、少し多めだと思う」
「そう、じゃあ、活性化の魔法を使って、造血作用を高めておいた方が良いわね。紫苑、彼女をゆっくりと寝かせて」
紫苑の答えに、セリーヌは頷きながらそう言うと、右手を銀色に光らせ、渡辺の鳩尾の辺りにそっと宛がうと、
「エンジェリックベネディクション」
優しく澄んだ声でそう呟く。それに伴って、銀色の光は、渡辺の鳩尾に、吸い込まれるように吸収されていった。全ての光が、渡辺の体に吸収されたのを確認したセリーヌは、ゆっくりと手を放しながら、
「これで、大丈夫よ。2、3日もすれば元気になるわ。それまでは、絶対安静よ」
そう言って立ち上がると、訓練場の入り口にいたお手伝いの康子に、
「康子ちゃん、菅沼さんを呼んで来て、彼女を、私の部屋の向かいの客室へ寝かせて。時々、様子を見ないといけないから。着替えは、私のを使って良いから、体を拭いて、着替えさせてあげてちょうだい」
「はい、分かりました」
康子は、セリーヌの指示に返事を返すと、上の階へ向かって行った。さらにセリーヌは、制服のあちこちを渡辺の血で染めたまま、安堵の表情を見せていた沙希と紫苑に向かって、
「2人とも、まだやらなきゃいけない事が残っているでしょ? 早くシャワーを浴びて、やるべき事を終わらせてしまいなさい。彼女の事は、心配いらないから」
そうほほ笑みながら促した。その言葉に、2人は頷くと、沙希は、一階に続く階段へ向かい始めた。同じくセリーヌの横を通って階段へ行こうとしている紫苑に、すれ違いざまセリーヌが、
「As for the mistake that dose not seem to be you,it is Shion」
そう呟いた。それを聴いた紫苑は、大きく首を横に振りながら、
「No,I who was careless easily was stupid」
歩みを止める事なく、セリーヌにそう答えた彼の目は、不甲斐ない自分に対する怒りで、真っ赤に充血していたのだった。
シャワーを浴び、着替えを済ませた沙希と紫苑は、まず、今回の事件の情報提供者である諜報者の井上警視に連絡をした。〈渡辺の負傷〉と、今回の事件に〈人外の者が関わっている魔法絡み〉の事件であると報告をすると、以外にも冷静な口調で、渡辺の様子を確認するため、明朝9時に久世家を訪問すると返事が返ってきた。
次に2人は、神田支所の添島支所長に連絡を取り、今回の件を、今から支所へ報告をしに行く旨を伝えた。どうやら、詳しい内容は解らないまでも、2人が何事かに巻き込まれ、魔法を使用した事は、すでに添島の耳に入っているようで、普段、忙しく、時間調整が必要なはずの添島に、呆気なくアポを取ることが出来た。
2人は、白金台の駅に向かう道中も、電車に乗ってからも、必要なこと以外の会話をすることが無かった。ただ2人とも俯いたまま、定刻通りに走る電車に揺られながら、支所の最寄駅である神保町駅へ向かうだけだった。
東京都千代田区神田神保町某所
7月12日 土曜日 午後6時18分
2人は、駅を出て、支所へ向かう道を並んで歩いて行く。紫苑は、落ち込み、俯きながら歩く沙希に、
「渡辺さんの事は、沙希が悪いんじゃない。油断してた、俺の責任だ」
そう語りかけた。沙希は歩みを止め、勢いよく紫苑の方を見ると、
「違う! あの時、私が警戒を解いたからでしょ! だから、反応が遅れた私を、渡辺さんが庇ってくれたんだよね! ……私を庇ったから……、渡辺さんが……、大怪我したんだよね……。……経験もない……、対して実力も無い私が……、紫苑と特訓して……、ちょっとうまく行ったからって、調子に乗って……。……私、馬鹿だ! 大馬鹿だよ!」
沙希は、話の途中から、ぽろぽろと流れ始めた涙を拭うことも無く、紫苑にそう訴えかける。沙希に合わせて歩みを止めた紫苑は、静かに首を横に振ると、
「それは違うよ沙希。お前が警戒を解いたのも、俺が悪いんだ。お前、平気なふりしてたけど、急に警戒し始めた俺を見て、怖くて緊張してたんだよな? 初任務で経験の無いお前が、事態の予測も、打ち合わせもしてない状況で、いきなり敵に襲われるかもしれないって言われたら、怖くて緊張するのは当然だ。調査が終わって、目撃者も無事に家に送り届けられたら、早く怖さのある緊張感から解放されたいっていうのは、正直な気持ちだと思う。
俺が、1人で警戒してた時に、『早くここから移動しよう』って言ってたよな? あれは、〈魔法を見られたら〉とか、〈一般人に被害者が出るかも〉って心配してたんじゃなくて、単純に、《怖いから早く移動したい》って思ってたんだよな? その気持ちに、俺が気が付かなかったから、警戒を解いたお前へのフォローが遅れて、結果、渡辺さんが怪我したんだ。だから、沙希が悪いんじゃない。お前が、初任務だって事を忘れて、油断してた俺が馬鹿だったんだよ。怖い思いさせて、ごめんな。辛い思いさせて、ごめんな」
そう沙希の顔を見ながら謝る紫苑に、沙希は、
「うっ、うわっ、うわーん。怖かった! 怖かったよー!」
そう言いながら彼に抱き着くと、顔を胸に押し付けて号泣し始めた。紫苑は、そんな彼女の頭を優しく撫でながら、
「ごめんな……、ごめんな……、……、……」
と、何度も繰り返し謝り続けた。
2人が寄り添い佇む街は、夕闇の中、いつもと変わらない喧騒に包まれ、ただ過ぎ行く時を、ゆっくりと刻み続けるだけだった。
前回の続きをお届けいたします。
次回は、ちょっとした波乱を予定しております。
ご期待ください。
次回更新は、少しお時間をいただきまして10/21土曜日の予定です。
早く、更新出来れば、前倒しいたします。
よろしくお願い致します。




