6 茶をシバくのである
「こんな格好で店に入って、通報されないだろうか?」
扉を前にして、白衣の前を開けたり閉めたりパタパタしていたら。
チャリーン。チャリチャリーン。
お金の落ちる音がしたので辺りを窺う。しかしホールには何も落ちていなかった。
「白衣のポケットちゃうか?」
ギアにも聞こえたということは、身近なところに落ちたのは確かなのだが。
「あっ。350円入ってるぞ」
右ポケットに若干の重みを感じて手を突っ込むと冷たい感触と共に出てきたのは、100円玉が3枚と50円が一枚。
「なんだろ?」
「最初から入っとったんちゃうの」
と訊かれても、我輩は頭をかしげるしかない。
「まぁ。ええやん。ワテら文無しや。それで茶でもシバけるやん」
お気楽なギアは平気な顔をして黒いガラスのドアを押し入って行くと、先に席へ着いていた少女に歩み寄って気さくに声をかけた。
「ほんでリョウコちゃんの家はどのへんなん? 5丁目か? それとも2丁目?」
能天気なステテコ野郎め。何を訊いておるんだ。だいたい350円ぽっちでは、コーヒー一杯でも足りるかどうかだぞ。
バカの振る舞いに引き摺られて店内に入った。
商店街の店舗と同じで、営業の形態を取っているが無人である。だがポットから湯気が立ち昇り、コーヒーの香ばしい空気が鼻孔くすぐる。どう考えてもつい今しがたまで店員がいたようにしか見えない。
我輩は入り口近くのテーブルにいたギアの横に座ってから、改めて対面席に腰掛ける少女を観察した。
にこやかにほほ笑む面立ちは、ほんのり桜色。目元もパッチリ。息を飲むような美形である以外なにも怪しいところは無い。
それよりも気になるのは座席に着いてテーブルを前にするという行為が初めなのだ。どうしたらいいのか少々戸惑っていた。
「なるほど。椅子に座るとはこういう感じなのだな」
背もたれに背中を引っ付けて体重を預ける。何とも言えぬ安定感が心地よい。
「ほなちゃんと自己紹介といこうや」
勝手にギアは仕切り出し、
「ワテがギアで、こいつがゴアや。白衣の下になんも着てないのは堪忍やデ。コイツの趣味やからな。ウヒャヒャヒャ」
「こら! ウソを吐くな。我輩にはそんな趣味も性癖も無いぞ」
「あんたたち、おもしろーい。あはははは」
チャリーン。
「ん?」
不審な音に眉をひそめる我輩の横では、ギアがはしゃいぐ。
「ほんま? おもろい? そーかー」
バカみたいな顔をするな。と告げつつ、右ポケットを見ると、100円が追加されており、合計が450円になっていた。
「おい、これはどういうことだ?」
顔を上げたが、ギアは心ここにあらず。
「やっぱ関西人は笑いに命を懸けとるからな。おもろいと言われたら、ついはしゃいでしまうねん」
満足げにステテコの足を組もうとして、テーブルの下でドンとぶつけた。
「短いくせに無理するからだ」
テーブルの隅に置かれた小さな鉢植えの葉がゆらゆらと揺れて、少女はそれをちらりと見て楽しげに笑った。
「あははは。たのしいね」
ちっとも楽しくない。それよりこの右ポケットは何だ? 打ち出の小槌か? 振ったら小銭が出てくるとか?
試しに振ってみたが小銭は増えることはなく、ジャリジャリと音を出しただけだった。
ふと気づくと、店内に静かなクラッシクミュージックが流れていた。
そして少女が甘えた声を出す。
「ねえ。何か注文しようよー」
おもむろに店内の一角を見て、指をパチンと鳴らした。
するとどうだ、無人だった厨房の奥でまばゆい光がフラッシュし、一人のウエイトレスが現れた。
そのまま涼しげな態度で我輩たちのテーブルに歩み寄ると、おしぼりと冷水の入ったコップをそれぞれに差し出し、トレーを脇に挟んで鈴の音のような声を上げた。
「ご注文をどうぞ?」
「ネーちゃんもべっぴんさんや。この町は美人が多いんやな」
「動じん奴だな。今この人は空中から現れたのだぞ」
ギアは無視して続ける。
「ほな、ネーちゃん。レイコおまっか?」
「レイコとはなんだ? 人の名か? なら我輩はゴアと申す者だ」
「あはははは」
チャリリリーン。
「アホか、レイコちゅうたら冷たいコーヒーのことや。漢字で書いたら『冷珈琲』や。アイスコーヒーやがな。大阪ではレイコ、あるいはレイコーや」
「ならアイスコーヒーと言えばいい」
「あはははは」
明るいのはいいのだが、この子はさっきから笑ってばかりだな。
チャリーン。
またもや聞こえた硬貨の落ちる音。ポケットの中を覗くとまた150円が追加され、600円になっていた。
小銭が落ちるポケットも不思議ではあるのだが、最初の疑問は晴らしておくべきである。
「今、キミは厨房の奥から光と共に現れなかったか?」
「こちらアイスコーヒーですね。お客様は何にいたしましょうか?」
可愛らしく首を傾けるが、ウエイトレスからは肝心の答えは無い。
「あ、いや我輩たちはあまりお金を持ち合わせておらん……」
右手で600円を握り締め、まだ二人分にも足らないと躊躇う我輩の横では、ギアがウエイトレスに尋ねる。
「ネーちゃん、レイコなんぼすんの?」
よく平気でそれだけぶしつけに質問できるな。
「税込みで300円になっています」
「やっすいな。きょうびレイコが300円って昭和時代に戻ったみたいやな」
だから、お前はいつから地球にいるのだ。
ポケットの600円とコーヒー代を検討する間に、ウエイトレスはさっさと厨房へ戻り、
「マスター。レイコ三つ、オーダー入りましたぁ」
「あいよー」
「おい。厨房に人がいるのか?」
「そらおるやろ。茶店やもん」
「オマエには聞いておらん」
「まぁ、いいじゃん」
奥を覗こうと立ち上がりかけた我輩の肩に手を掛けて、少女が無理やり座らせた。
ものすごい力で引き下ろされ、まったく抗うことができず、どしんと椅子の上で尻もちを突いた。
「なっ!」
「うわっははは。楽しいねー」
「我輩はちっとも楽しくない。いいかな? もう一度訊く。きみは誰でここはどこなんだ?」
「ここは桜園田駅の下にある茶店や」
ギアはおしぼりの尻をポンと叩いて中から小型のタオルを取り出すと、おもむろに顔を拭いた。
オッサン感丸出しのヤツの態度にうんざりだ。
「頼むから。ギア。少し黙っていてくれ」
「ふんっ」
本物の鼻息を吹いたギアを横目で睨んだ我輩に、少女はこう答えた。
「あたしの名前は『あいのもと・りょうこ』って言うの」
「変わった名前だな。どんな漢字を書くのかな?」
少女はガラスのコップに着いた滴で、テーブルの上で文字を書いて見せた。
それはキレイな文字で、『愛野素量子』と読めた。
「愛野素くん……か」
良子ではなく量子と書くのか……。
「量子……?」
首をかしげる我輩の前で少女は再び告げる。
「ここはあたしの世界なの」
「やはり精神世界なのか……愛?」
まてよ……愛と言えばラブ。
量子……りょうこ……りょうし……素粒子……量子ビット?
「ん?」
ようやくギアも気付いたようだ。
「もしかして、オマはん量子コンピューターのラブマシンでっか?」
我輩は思わず背筋を伸ばした。
「あの1024量子 Qビットマシンが具現化したのか?」
「あはははは。ピンポーン、ご名答ぅ」
ま……マジか! いや、ちょっと待ってくれ。
「あたしの世界って。我輩たちはヒューマノイドに実体化して町をさ迷っていたんだぞ……ちがうのか?」
「これってVRなんでっか? ばぁちゃるりありてぃ?」
「そうそう。あはははは」
「あははではないぞ。こんなにリアルなのに疑似世界だと言いたいのか?」
我輩はコップを持ち上げると冷水の中で浮かぶ氷を揺らして見た。
小気味よい小さな音を奏でて氷が揺らぎ、照明の光を虹色に輝かせる。これが人工だとはあり得ない。
その様子を横目で見ていたギアも声に力を込めた。
「マジでっか? 茶店の中にある観葉植物が半分枯れかけとるとこや、壁紙が破れて空調の風にピラピラしてたり、窓の桟にホコリがたまってたり、部屋の隅に掃除むらがあるのもそうでっか?」
「姑ではないのだから、そんな細かい部分を指摘してやるな」
「うんそう。運送屋。あはははは」
く、くだらん。スーパーコンピューターの『京』をも凌駕する量子コンピューターがそのノリで来るわけか?
チャリ。
小さな音ともにポケットに50円が追加された。これで650円。この打ち出の小槌ならぬポケットも気になるが、
「なら。なぜ町の人を一人も登場させないのだ? さすがにそこまでは計算能力が追いつかないのだな」
少女はセミロングの髪の毛を背中に払うと、
「キミたちが想像しないからさ。じゃあ試しに町の様子を想像してごらんよ」
「そう言われても、我輩は想像力が乏しいからな……」
「ほなワテが想像したるわ」
ギアが想像した世界とは……。
おーっと。
いいところで待ったが入ったのだ。すまんな青年。また明日な。




