リーゼと、ケビンと、ヒューバート
「……わぁ、可愛い」
暗く狭い場所に押し込められた状態から急に明るくなり、可愛らしい感嘆の声に迎えられた。箱から出され、まだパジャマ姿の女の子にぎゅう、と抱きしめられる。その子はクリスマスツリーの根元に並んだ、いくつものプレゼントに目を輝かせた。
「お父さん、お母さん、ありがとう」
「そんなに喜んでくれて、嬉しいよ」
「良かったわねえ、リーゼ」
「この子、ヒューバートって名前にする!」
飛び跳ねて喜ぶ娘のリーゼを、両親が優しく見下ろしている。彼女は両親からの贈り物を大事に抱えたまま、部屋に置いてあった鏡の前に移動した。そこにはリーゼと、そしてヒューバートという名前をもらったばかりの、大きな熊のぬいぐるみが映っていた。
「行ってくるね、ヒューバート」
リーゼは朝早く部屋を出て行って、お昼過ぎに学校から家に戻って来る。その間、ヒューバートはベッドの上で、持ち主の帰りを待ちわびる毎日を送っていた。
「ただいま、ヒューバート。いい子にしていた?」
熊は意外と手足の可動領域が広い、やわらかなボディをしている。目と鼻は黒いボタンで、口はついていない。もしヒューバートに口があったら、この可愛らしいご主人様と楽しくお喋りができたかもしれない。そんな思いが届いているのかいないのか、リーゼは軽く咳ばらいをしてから、ぬいぐるみの腕を持って、上下にぱたぱたと動かした。
「おかえり、リーゼ。今日の僕は、お母さんが花壇を綺麗にするのを手伝ったんだ」
ヒューバートの代わりに、リーゼは自分がいつも出すのとは少し違う声色で、ぬいぐるみの喋る言葉を代わってくれた。その情報をまとめると、このぬいぐるみは非常にお手伝いの好きな良い子である。
学校から帰って来たリーゼは熊を抱えて居間へと移動した。持ち主のおやつの時間に同席させてもらうのが、ヒューバートの楽しみだ。ちゃんと椅子に座らせてもらって、目の前にはカップとクッキーが置いてもらえる。香ばしい良い香りがした。
「今日ね、ケビンがテストで一番になったの。走るのも一番だったのよ。すごいよね」
話題は学校の事、そしてケビンという名前が頻繁に登場する。もしかしたら、その子はリーゼのボーイフレンドかもしれない。
熊自身は相槌も返事もできないが、それでもリーゼの友達だと自負している。彼女の好きな食べ物の話、お花の話、学校の友達、それからケビンの話。
ヒューバートは聞き上手である。リーゼはどんな小さなことでも、ぬいぐるみに報告した。
時折、リーゼの友達が遊びに来ると、彼女と同年代の女の子達にヒューバートは大人気。可愛いリボンを巻いてもらったり、抱っこしてもらったり、ぬいぐるみにとっての至福の時間だった。
「……行ってきます」
ある日、学校から帰って来たリーゼは上機嫌だった。鏡の前で何度も髪を整え、それから熊を抱えて外に出る。
初めて、ヒューバートは家の外へ出た。赤い屋根の木のおうちが少しずつ遠くなって行った。
「ケビンがね、ヒューバートに会ってみたいんだって。橋の上で、待ち合わせしているの」
リーゼの声はいつもより弾んで、それから何やら期待に満ちていた。ヒューバートの推測通り、ケビンは持ち主の特別な相手らしい。熊はまだ少し肌寒い青空の下、長閑な田舎町の風景を見ながら、持ち主に抱えられて移動した。
「あ、……ケビンだわ」
ぬいぐるみは彼女と向かい合うように抱っこされているので、まだケビンの姿は見えない。やがて丸太で作られた橋の袂が見えて、リーゼは足を止めた。
「この子がヒューバート、って言うの」
「……ふぅん」
退屈そうな声と共に、熊はケビンの手に渡された。ヒューバートの顔を覗き込んだのは栗色の髪の、それなりに整った顔立ちの男の子である。
ケビンは熊の感触を確かめるように、両腕を引いたり縮めたりしていたが、いきなり乱暴にぬいぐるみの目のボタンを摘んだ。
「……不細工な顔」
「ちょっと、あんまりヒューバートに乱暴しないで!」
「そんなにムキにならなくてもいいじゃん」
あんまりなケビンの態度に、リーゼは熊を取り戻そうと手を伸ばしたが、しかしこの意地悪少年は大人しく返す気はないようだった。
二人の子供に左右に強く引っ張られて、ぬいぐるみは痛みこそ感じないが、柵のない丸太橋の上である事を危惧した。もしどちらかが誤って落ちても、ヒューバートに助け上げる事は不可能だ。
やめて、返して、と涙目のリーゼとケビンの取り合いは、ビリリ、と響いた音によって終わりを告げた。リーゼが掴んでいた方の腕から肩にかけて大きく裂けてしまい、流石に驚いたのか二人とも手をはなす。
そのままやわらかい熊は丸太の上でバウンドして、雪解け水の冷たい急流へと呑み込まれた。持ち主の悲痛な顔が、ヒューバートを見送った。
ヒューバートは腕が半ば千切れても痛くはない。しかし、ぼんやりとした冷たさは感じた。それなりの深さの川で、あちこちぶつかりながら、川魚と睨めっこしつつ、下流に流されたようだ。そして、浅瀬の流木に肩の裂け目から頭にかけて突き刺さって止まった。
澄んだ川に沈んでいても、ぬいぐるみなので息苦しさは感じない。肩まで裂けて白い綿を晒し、それから頭に尖った木が生えていても、死んだりはしなかった。
熊は、リーゼが危険を冒して探しに来ませんように、と祈る。こうしてケビンの本性が暴かれ、可愛い持ち主が悪い男に引っかからなかっただけでも、こうしてぬいぐるみが木に突き刺さっている価値はあった。せめて、そう思いたい。
悠々と泳ぐゲンゴロウを眺めつつ、水の中に差し込む光が赤みを帯びた頃、唐突に誰かが熊の千切れかかった腕を掴んだ。突き刺さっていた木から引き抜かれ、水を滴らせながら引き上げられる。
ボロボロになっていたぬいぐるみを引き上げたのは、なんとケビンだった。この悪ガキめ、と熊が毒気づくと、少年は目を丸くする。
「ぬいぐるみが、……喋った」
お喋りができるならリーゼが良かったのに、とヒューバートは思った。
ケビンは熊の水気をできるだけ絞り落としてから、川の上流へ歩き出した。やがて辿り着いたのは、持ち主の家と同じ位の大きさの木の家で、天井に渡された棒に干し肉と並んで、乾燥させるためか紐で吊るされる。
「ちょっと、この熊どうしたの?」
「……僕がやった」
愛らしいぬいぐるみから一転、千切れかけた身体では仕方ない。目のボタンは片方、流される途中で無くなってしまっている。からだの中に細かな砂の粒が入り込んで、じゃりじゃりした。
こんな惨めな姿に、と呟くとケビンはきまりの悪そうな顔をした。
「ごめん、てば」
「謝ったって、許してやらない」
母親が行ってしまった後で、ケビンは熊を見上げる。こんな身体ではリーゼの傍へ帰れない。少年は膝を抱えて椅子に座りなおした。
そもそも、どうして熊はケビンと会話ができるのだろう。ケビンの母はリーゼと同じように、ぬいぐるみの声は聞こえていない様子だった。
「……リーゼが口をきいてくれない」
「当たり前だ、あの子の大事な話し相手だったのに」
まさか、ぬいぐるみを探して一人、川のほとりを彷徨ってないだろうか。ヒューバートは急に心配になって来た。
「……部屋から出て来ないんだって。なあ、もしかしてぬいぐるみってみんな、本当は喋れるのか?」
そんな事、熊に聞かれたってわからない。気が付いたら既にヒューバートだった。その前に何だったのかは思い出せない。話ができたのは、ケビンが初めてだ。
「……こんなになっても死なないんだ。多少、縫い合わせて生地を張り替えても平気かな? どう思う?」
「……リーゼがそれで、許してくれるかは知らないよ」
わざと意地悪く言った返答を、ケビンは黙って聞いていた。
ケビンによる修復作業は難航した。男の子は普通、裁縫道具なんて使わない。時々、見かねた母親が手伝いを申し出るが、その度に少年は自分でやると言い切る。
針を三つ刺す度に、誤って自分の指を突き刺すケビンの指先はすぐに包帯だらけになった。それでも止める、とは言わない。
ぬいぐるみは暇なので、ケビンの嫌いな野菜の名前をひたすら羅列したり、リーゼがラベンダーの花が好きな事をいきなり呟いたりして、少年の集中を乱した。
しかしケビンは恨めしそうな顔をしつつも、熊を乱暴には扱わない。
「なあケビン、遊ぼうぜ」
「……今日もだめなんだ、ごめん」
ケビンは遊び友達の誘いを断って、学校が終わると熊に向き合った。自分の指を刺す回数は減って来ている。これで作業に集中できる、というところになって、窓の外に男の子達が集まって来たのが見えた。
「見ろよケビンのやつ、女の仕事なんかやってるぞ」
「やーい、おとこ女」
「……」
ケビンはテーブルの上にそっとぬいぐるみを置いて、それから物凄い勢いで家を飛び出して行った。
「うわあぁぁぁぁ! ごめんなさーい!」
家の外からはしばらく子供の泣き声と謝罪が聞こえていたが、やがて静かになってケビンが戻って来た。何事もなかったかのように、作業が進む。
「この抉れてる部分は綿を詰め直して、顔は布を足した方がいいんじゃないかしら。目は……父さんの上着のボタンをこっそり一つもらいましょう」
ケビン母のアドバイスにより、熊の顔の半分は水色の生地に、ピンクの花が描かれた布が覆った。無くなっていた片目は、新たなボタンが縫い付けられる。ヒューバートは元の姿から少しずつ遠ざかっていくけれど、悪い気はしなかった。
ケビンはそれから母親に匂い袋をねだって、熊の頭には綿と一緒にラベンダーの香りが詰め込まれる。
もしかしたら、そんなに根は悪い奴じゃないかもしれない。ヒューバートはそう思い始めた。だったらどうして、あんな意地悪な事をしたんだろう、とも思う。
「……わからない。許してくれるかな?」
顔が一部、花柄になった熊を見ながらケビンは言った。それからこれでよし、と小さく呟く。どうやら、作業は終わったようだった。
「ありがとう、ケビン。それから、リーゼは優しい子だよ」
ヒューバートは、ケビンを励ますような返事をした。
早速次の日、熊はケビンに抱えられて家を出た。ケビンのお母さんが焼いてくれた焼き菓子も一緒に。
もう、寒さは感じない。リーゼに抱っこされて外に出た時よりも、道端に咲いている花が多くなっている。青、白、黄色の小さな花が、野原に彩りを添えていた。春風に揺られて、楽しそうに咲いている。
「もしさ、リーゼが、許してくれなかったら……。それも仕方ないけど、ヒューバートは僕の家で家宝にして、ずっと大事にするから」
「その気持ちだけでも嬉しいよ」
ヒューバートとケビンの間には、色んな物事を超越した友情が生まれていた。そのおかげで会話ができるのかもしれない、とぬいぐるみは勝手に思っている。
「ケビンと、……ヒューバートなの?」
しばらく歩き続けた後、聞き覚えのある声がした。駆け寄る足音と共に、背後から抱きしめた感触は懐かしかった。ぬいぐるみは、ケビンの手からはなれた。彼は緊張と不安でたまらない顔で、深呼吸をしてから、ようやく口を開いた。
「……リーゼと、それからキミの大事な友達に、酷い事をしてごめんなさい」
頭を下げたケビンの声は心なしか震えている。不安そうな表情で、ぬいぐるみとリーゼを見た。
「ケビンのお母さんが直してくれたの?」
「……僕がやった」
まあ、とぬいぐるみはくるりと回転して持ち主と対面する。リーゼは優しい手つきで、熊のやわらかな身体のあちこちを触った。
「ケビンは川の中に熊を探しに来て、それからずっと、遊びに行かないで頑張ったんだ」
ヒューバートは懸命に、意地悪だった少年を擁護した。持ち主にはやはり聞こえていないようだったけれど、それでも言わなければならない、と必死で訴える。
「おかえり、ヒューバート」
リーゼはもう一度回転させて、自分の目の高さにぬいぐるみの顔を持ってくる。
「ケビン、可愛くしてくれて、ありがとう」
熊の声のつもりなのか、リーゼの裏声によってケビンはどうやら許されたらしい。ヒューバートも良かったね、と彼の努力に祝いの言葉をかける。
仲直りした二人と熊は野原へ座って、焼きたてのクッキーを味わった。リーゼはお礼のつもりか、近くに咲いている小さな花で冠を二つ作って、ケビンとヒューバートにそれぞれ渡す。
「ヒューバートから、ラベンダーの香りがするわ」
「匂い袋が入ってるから」
リーゼはヒューバートを抱きしめて匂いを嗅いでいる。ぬいぐるみは幸せな気持ちで、花とお菓子の香り、それから二人の会話に耳を傾けた。
ケビンはあれから何かに目覚めたようで、定期的に手作りの小さな服や帽子を持って、リーゼの家へと遊びに来た。匂い袋の交換も定期的に行われている。
もしかしたら気を引く口実にされているかもしれないけど、ヒューバートは悪い気はしない。他にもケビンは、熊が退屈しないよう、景色を楽しめるように窓際へ置くよう提案した。ケビンなりに気を遣ってくれるらしい。
ぬいぐるみは窓の外を眺めて、雪が降り、春が来て、日が長くなり、それから木々が色づくのを楽しんでいる。道を歩く子供達が、毎朝ヒューバートに挨拶をして、手を振りながら遠ざかって行くのを見送った。持ち主が思っているよりも、ずっと多くの友達ができた。
そのお返しに、熊も主人の情報をそれとなくケビンに教えた。そのおかげか彼のプレゼントにハズレはなく、リーゼはいつも嬉しそうだった。
好きな色や欲しがっている物。それから二軒隣のマシューに何やら手紙を受け取った事。案外、満更でもなさそうだった、と余計な一言を付け足して、ケビンが焦る様子を見て楽しんだ。
「ケビンはどうして、私の好きなものがわかるのかしら?」
もしかして、とリーゼは不安や期待に揺れる瞳で、ヒューバートに相談した。大きくなっても、熊に色んな事を話しかけてくれる。それもケビンが、未だにぬいぐるみを真面目に友人、として扱ってくれる事あってだ。
「……リーゼ、ちょっといい?」
「どうしたの、ケビン?」
手紙の一件で焦ったのか、ケビンは二人だけで話をしたくて、と遊びにやって来た。随分前に声変わりして、すっかり背も伸びた少年は、やや緊張した面持ちでリーゼを誘う。ヒューバートは二人にとって、既に大きなぬいぐるみではなくなったが、相変わらず二人の話し相手として扱われている。
だから、ケビンが勇気を出した、その場面をしっかりと見届けた。
「……今は二人しかいないよ?」
「まあ、そうなんだけどさ」
ケビンは意味ありげな表情でぬいぐるみを窺ってから、リーゼの手を優しくとって、部屋の外へ誘導する。
ヒューバートは二人の背に、精一杯の声援を送った。