第一章5 『少年は気づかない』
歩き続けて既に一時間が経過していた。
もちろん時計のない今、正確な時間は計れないのでタツキの体感時間に過ぎない。あくまでも憶測の範疇だ。
「あー、腹減ったぁ……」
思えば目覚めた時から何も口にしていない。こんなわけがわからない所に放置される以前の記憶から探っても、何日かはまともな飯を腹に収めた記憶がなかった。死ぬ前の晩餐ぐらい豪勢にしてくれてもよかったのに。
祖父の存在があったのであまり意識していなかったが、本来の食事の数量はかなり少ないものだった。文字通り回数も量も最低限。死なない程度に栄養を補充するだけの。
乾燥してカチカチになったパンや食べカス程度の肉ならまだいい方で、ほとんどが生命活動をぎりぎり維持させるほどのスープや炒めものだった。祖父がいなければ早いうちに空腹に屈していただろう。
もしかしたらそれが叔母の狙いで、飢餓させるのではなく、栄養をすっかり失ったタツキ自ら"死"を望んだところで手をかけるつもりだったのかもしれない。自殺希望をさせるのを建前に、本音はタツキに限界まで苦しんで死んで欲しかったのだろう。祖父がいない自分を想像するだけで寒気がする。
心優しい祖父は、食べ盛りの高校男児の欲望を見抜いて、毎度食べ物を持って来てくれていた。口うるさい叔母には内緒で。
タツキとの面会には"決まりごと"があるらしく、量はそれほど多くはなかった。会うのは自由らしいが(祖父に聞いて初めて知った)、物の持ち込みは禁止されているらしく、来る時は服のあちこちに物を仕込む必要があったのだ。自分のことなのに、らしいばかりで嫌になる。
『ごめんな他月。こんなものしか持ってきてやれなくて………』
会うたびに必ず祖父が口にするセリフだ。菓子パンやおにぎり、エネルギー補給を兼ねた飲み物。ポッケや服の間に隠せるサイズの物を、タツキに恵んでくれていた。
物目当てに(完全否定はできないけど)祖父の面会を望んでいたわけじゃないタツキは、その度に遠慮がちなセリフを返していた。
逆に、訪れるたびに食料や娯楽を提供してくれる祖父に感謝してもし尽くせないぐらいだ。
一日に一度は必ず会いに来てくれる優しい祖父。常に笑顔で接してくれていた気さくな祖父。付きっきりで寂しさを埋めてくれた温情ある祖父。唯一タツキを人として接してくれた、変わり者で……大好きな祖父。
その姿を脳裏に浮かべるだけで、自然と瞼に涙がたまってくる。きっとタツキに会うことを、周りはよく思っていないだろうに。
「心配いらねーからな、じいちゃん…。俺は大丈夫だから」
空を向いて涙をこぼすまいとし、強がりを口にする。
会いたい気持ちが積み重なるが、現実に負け無と返る。
『ぐるるるるるるぅううう!!!』
「!?」
いきなり獣のうなり声のようなものが野原に響いた。
慌てて周りを見渡すが、生物らしき影は見えない。遅れて緊張感が湧き出てくる。
「なんかの鳴き声…。ライオンだったら大ハズレ――一体どこに隠れてやがる?」
流れる汗を拭いつつも、警戒心を高めて腰を落とす。少々大げさだが、これがタツキなりの警戒態勢だった。
低い姿勢のままあたりを見渡し、草影に潜んでいるのであろう強敵を待ち構える。一向に現れない敵を血眼で探した。いきなり背後からがぶり、はないよな…。草の背はタツキの腰ほどしかないのでそれほど大きい動物は隠れられないと思うが。
あまり大きな声をあげると敵に居場所を悟られ、狙われやすくなるため、無言が続いた。
「――――」
一時の静寂。額に溜まる汗。濡れる背中。
『ぐるるるるるぅうう!!!』
が、そんな静まった空間も再び響いた唸り声に掻き消された。
声の方向を必死に探る。タツキの耳がおかしいのか、音が自分から鳴っているように聞こえた。
「ま、まさか…」
『ぐるるるうううぅ!…きゅるぅ』
「ぐわぁああ!やっぱ俺の腹の音かよ!きゅるっじゃねぇ!!デカすぎて気づかなかったとか恥ずかしっ!死ぬっ!恥ずか死ぬっ!」
そう、先ほどのものは腹の虫が"飯催促大合唱"をしていた音だったのだ。拍子抜けな真実に呆れる。本当に周りに誰もいなくてよかった。
音の根源である自分に怒鳴りつけるが、余計にお腹が空くだけだということに気づきストップ。命が助かっただけ良かったじゃないか。…そう、よかったのだ。
「いくら歩いても何も見えてこねーし…このまま野垂れ死ぬパターンかこれ」
筋トレが日課なタツキも、久々に浴びた日光の強さには白旗をあげねばならない。
季節を気にしたことはなかったが、今は夏か。やけに暑い。
何日前に洗濯されたか分からない黒いTシャツと半ズボンは、太陽の光をさらに集める効果をもたらしており、必要以上にかく汗で張り付いて気持ち悪い。
だが、日光を遮るすべを持たないタツキには足を動かす以外の選択肢はなかった。
そんなタツキを救う二人目の恩人は、
「…お?…あれは―――巨大樹!!」
巨大な木が遥か遠くに見えている。遠目でもその木が圧倒的な存在感を持っていることが分かる。
タツキの目の届く範囲に初めて映った障害物でもあった。
巨木が創りだす影にお邪魔させてもらうと、予想以上に涼しかった。
タツキが見た中で一番大きい木でもあったので、その影の範囲も広い。木の中央、幹まで辿り着くのに何分もかかってしまった。
「初発見がこいつか…。なんでこんなとこに一本だけ生えてるんだ?悪いけど助かったついでに日陰を借りるからな」
家付近にあった枯れ木の、何倍も太い幹に触れるとその木が確かに生きていることを感じる。
どくどくどく。
息があるみたいに激しく脈打っている。
タツキの手に、妙に大きな鼓動が伝わってきた。
どくどくどく。
「はは、まるで本当に生きてるみたいだな」
タツキは樹、とも書ける。その理由で急にこの木に親近感が湧いた。独りぼっちで立っている姿に共感したのかもしれない。
木を人に重ね合わせ、スキンシップをとろうと試みる。――猛暑のせいなのか。自分の行動がおかしいことに全く気づいていない。
まるで友だちと接しているように、手で撫でたりつついたりしてみた。傍から見たら一発で通報されるレベルだ。
友達のいないタツキには、話し相手が存在していること自体が喜びなのだ。
相手が喋らない分(当たり前)接しやすく、そのまま何分も木を相手に話し、時に触れたりと、なんやかんやで計三十分がすぎた。
これでは買い物中に長話を始めるおばさん状態だ。
「待て待て…今の俺だいぶ犯罪じみてね?――それにどくどくうるさすぎだろ」
手が感じる大きな鼓動。
今まで気にかけていなかったことが急に気にかかるようになる。
なんだろう。すごく嫌な予感がする。 タツキの不幸センサーが反応した。
『お主が騒がしくするからじゃ…』
センサー反応後、すぐにフラグ回収された。この世の全てを熟知しているような、低く嗄れた声が草原中に広がった。
たちまちタツキの笑顔は凍りつく。
威圧感で満ち溢れ、野太く響いた声は、至近距離にいる人間には問題なさすぎるほどに届いてしまう。
タツキ以外に人はいない。のに、他の誰かの声が…。
「言わんこっちゃねぇ…。フラグ回収早すぎだろ。空耳ってわけでもないだろうし。それにしちゃ大分現実味おびてたからな」
あたりに人影を探すが、もちろん見当たらない。それに声は木の根付く方向からした。
『そうじゃ。ワシじゃ。全く、何十年も気持ちよく眠っていたというのに、お主のせいで騒がしくてかなわんわ…』
「もしかしなくても、これって面倒くさいのを起こしちゃったパターン?」
ひくひくと口元が引きつる。同時に、じっとりとした嫌な汗が背中をつたう。
恐怖と羞恥をミキサーにかけたものが口から溢れそうになった。
『面倒くさいとはなんじゃ、小童』
「ま、まてまて、話せばわかる!話せばわかるから!俺とお前の仲だろ!?」
『主と親交を深めた覚えはないわ。――消えされ』
「展開早っ!結論早っ!」
全然友好的ではない木の枝が一斉に震える。手を精一杯のばしているかのようだ。
メキメキメキッ!!
木が振動する。まるで自力で起き上がろうとしているかのように。
ベキベキッ!!
深く根付いた根っこが、土から盛り上がってくるような音が響く。
巨大樹の振動は、地を伝い、地響きとなってタツキを襲った。
その威力は予想以上に大きく、人間には立ち上がることさえ許されなかった。
「おいおいおいおい…二度目のジ・エンドとか冗談じゃねーぞ…!」
"死"が近づいてくる悪寒が地面を転がるタツキに再び襲いかかる。あちこちに出来た擦り傷に微かな痛みを感じながら、必死で体勢を立て直す。
地鳴りは止むことをしらず、ひときわ大きな音を放つ震源地そのものは、ついに叫びとなって大地を揺るがした。
世界が揺れているような錯覚。
タツキの目の前では、木に命を宿す怪物が、今まさに目覚めんとばかりに暴れているという奇妙な光景が繰り拡げられていた。
「はは…さすがに夢、だよな…」
地面から突き出る刃が枝だと気づいた時には、もう考えることをやめていた。
ただただその刃が自分の心臓を貫くときを這いつくばって待っていた。
「―――ファイズ!!」
「!!?」
肌に熱を感じた瞬間、この世のものとは思えぬ激昂を聴いた。
『ガアアアアアアアアァ!!!!!!』
目を開くことさえ許されない激しい熱風。腕で顔を守った間に、燃え盛る炎を見た。その中で、ひとつの命がのたうち回って暴れている。死ぬのを恐れ、拒絶しようとしているような。この世界への憤りを体現しているような。
そんな命を燃やした狂わしき踊りに思考を奪い取られ、タツキには何も考えずに見入ることしかできなかった。あまりに現実離れしすぎて、映画のワンシーンを見ている第三者気分になる。これが本物だとは到底思えなかった。
直後、失われていた思考が眩い閃光とともに戻ってくる。
――気がつくと、タツキの前に残っていたのは焼け焦げた大樹と人影だけだった。焦げ臭い香りが当たり一面に広がっていた。
この世の終わりかと思ったほどの大地震もいつの間にか収まっている。
だが、すっかり焼けクズと化した古木の元は、地盤が割れ、盛り上がっており、先ほどの出来事が夢ではないことを生々しく教えてくれていた。
「何が…起きたんだ…?」
状況を理解するための材料を探していると、ふと耳の裏に残った少女の声を思い出した。
「確か『ファイズ』って―――」
聞き覚えのない単語。もちろんタツキが口にしても何も起こらない。
しかし、一連の出来事に必ず関わってくるだろう言葉だということはすでにわかっている。
少女の叫びの後、化物は命を燃やし、タツキは助かった。
キーを握るのは彼女以外にない。
それに、先刻死を覚悟した時に湧き上がるように出現した炎。
タツキの脳はアニメに侵食されている。故に、その火が現実に存在しない"魔法"の類だとしか考えられなくなっていた。そこにプラスして、次々に身に降り掛かってくる普通ではありえないはずの出来事。
それらの非日常は、漫画で何度も何度も読み返したシーンを想起させる。
絶望に負けそうになった主人公。
苦しみの渦中、ある時救いの光が差す。別次元への転送だ。そこは、二度目の人生を築くことを許された新たなる世界。つまり"異世界"だ。
小説や漫画で多く描かれる別世界は、一部のアニメ好きの憧景になりつつある。もちろん、アニメが趣味の一つであるタツキだって例外ではない。"異世界"は、どうしようもない時現れる逃げ道でもあるからだ。ありえないと分かっていながら縋るしかない希望。
一人部屋の中で、自分が活躍する姿を思い浮かべては笑みをこぼしていた。
剣と魔法の異世界。主人公が転んだり起きたりしながら人を救い、自らを強化し、時にはウフフも経験して英雄となる世界。あくまで漫画内での知識を、あの暗い部屋で、似ても似つかない自らの未来に重ね合わせていた自分…。
想像とは程遠いが、今目の前に広がる光景は――――
右を見、左を見、上を見る。
「これって異世界転生ってやつ――!!?」
紛れもない、漫画で見たそれだった。
死にそうになったところで意識が落ち、目が覚めたら知らない場所におり、ありえない出来事が連続して起きる。これを異世界転生といわず何と言う。
そう高をくくってしまえば、謎の声も謎の光も、謎の全てがすっきり収まる。
「もしくは異世界転移もあり得るな。魔界天界のいかにもなところは避けたいところだ」
タツキの理解する"異世界"は、選ばれし者が別世界から召喚されて行ける世界であり、根本は元いた世界と変わらない、というものだ。ただ、タツキ個人の意見なので確信はない。異世界の定義は個人個人だろう。
絶体絶命時に現れるヒロイン(仮)。異世界モノに有りがちの要素を既に身を持って体験しているタツキである。ここを本当の世界とは違うことを証明するものはそこら中にあった。
第一、タツキの目前には木一本で建物の大きさほどにも達する大きな焼け跡がある。
一瞬視界を失っただけで随分殺風景になったものだ。大木が振動した時、いち早く距離をとっていたタツキが巻き込まれることはなかったが、その跡を改めて見てみると心底肝が冷える。判断を間違えばタツキも焼体の仲間入りをしていただろう。
命あることを染み染みと感じながら、ふと気づいた。誰が自分を助けてくれたのだろうかと。声質から勝手に少女と断定していたが、それも間違いかもしれない。
立ち込める煙に薄ぼんやり人影が見えることに気がついた。
十中八九、元恩人の木を焼き払い、タツキを救った現恩人本人だろう。
どんな勇ましい人かは知らないが、お礼を言わねばならない。
それに、この場所やさっきの木についてもいろいろ聞きたいことがある。
震えが止まった足で立ち上がり、人影へと駆けて行った。