第一章3 『死刑と処刑 (過去編3)』
びゅう。
風が強い。肌寒くて仕方がない。――夜にマンションの屋上なんかに来るからだ。
びゅう。
足が冷たい。――裸足で手すりに立つからだ。
「よし、準備出来たね」
後ろから叔母の声がし、我に返る。そして気づいた。
知らぬ間に自分の足で処刑台に登っていたことに。
タツキは無意識にマンションの立入禁止場所まで上がってきていた。叔母に先導され、暗い非常階段をひたすら登っていたことは覚えているが、そこまでの経緯や言動は何一つ記憶にない。
現在は平らな手すりの上で夜風に晒されている絶望的な状態だ。
あと一度でも強風が吹けば、抵抗する間もなく落ちるだろう。タツキの頭はイチゴを潰したようにぐちゃぐちゃになる。
「さぁ、後はお前が自分が生きていることに懺悔して飛び降りるだけだよ!」
叔母の声は昔からキツくてあまり好きではなかった。無駄にキンキン頭に響いてくる。
だが、それも今となっては関係ない。
自ら前に傾かなくとも、後ろから押されればタツキの人生はそれで終わるからだ。
案外最期は呆気ないものだ。助けを求めたとしても誰も助けに来てくれない。スーパーマンが来るわけでもない。そんなものアニメの中での話でしかない。
「…ッ!!」
少し荒らさを増した風が吹き、意識せずとも体がグラついた。そしてそのまま手すりから転げ落ちる。ほぼ反射的に体を丸めて衝撃に備えていた。
どん!!
鋭い痛みがタツキの体を襲う。
「なにやってんだい!?」
頭上から再び叔母の声が降って来る。体中に走る痛みに身悶えながらも、目線を叔母に這わせた。
案の上、一度捨てたはずの愚物が再び視界に入ったときに見せるようなしかめっ面で、顔いっぱいに嫌悪感をにじみ出していた。
どうやら落ちたのは柵の内側だったらしい。
「今まで抵抗しなかったから、身の程をわきまえていると思ったのに……まだしぶとく生きるつもりなのかい!図々しいにもほどがあるんだよ、この疫病神!!」
そんなつもりはない!風のせいだ!
小さな反論を試みるが、どうせ叔母は相手にしないだろうと中断した。
夜風には高校生のタツキを落とすほどの風力はない。
なのに、落ちた。
「まさか―――俺はまだ生きるつもりなのか?この最低最悪の現実を前にして…?」
頭をぶんぶん振り、微かに漏れた言葉を打ち消す。
そんなはずはない。あってはならない。本音は早く死にたいはずなんだ。早く死なないといけないんだ。死ねばすべて終わる。飛び降りれば楽になれる。無駄なことを考える必要はなくなる。
そう自分に言い聞かせるように口で繰り返し唱える。
「俺は死にたい死にた死にたい死にた死にたい死にたい死にた死にたい……死ななきゃならない」
「何をブツブツ言っているんだい!?気持ち悪いったらありゃしないよ!さっさと登りな!この穢らわしい悪魔めッ!」
ゴミ屑扱いに苦笑する。何度その呼び名を聞いたかわからない。タツキの中でもすっかり定着してしまった。
ぞんざいな扱いを受け、タツキは再び手すりに手を付ける。
そのまま体重を乗せれば……
「何してるんだい?早くおしよ」
苛つく叔母の声が耳に入らないぐらい、タツキは狼狽していた。
――あり得ない気持ち。それを、自分の心の隅っこで誰かが叫んでいた。
死にたくない!!!
それは、他の誰でもない。――タツキ自身だ。
「なんで今さら、こんな気持ちが…?」
震える手を抑えながら、必死に自分の気持ちを整理しようとする。
タツキが気づいていないふりをしていただけで、生きる意志は確かにあったのだ。
証拠に、強固な想いは無自覚に体を動かし、死に向かう自分を止めようとしてくれている。
「俺は、死にたくないのか…」
初めて気づいた感情にショックを受け、同時に嬉しさがタツキの体中に広がる。
そうなると、一気に柵の向こうの暗さが怖くなった。死を恐れる今震えを止めることはもはやできないだろう。
唯一の手段は運命に身を任せあの闇に放り出されてしまうことだ。震えの停止と同時にタツキの命も消え失せてしまうけれど。
でも。
生きる意志がある!!!
生き伸びた後、どうするのかは分からない。また死にたくなるかもしれないし、閉じこもってしまうかもしれない。
それでも今は、死ぬのが怖かった。
生を失うのが、たまらなく怖かった。
ナルセ・タツキという存在が無くなってしまうのが―――怖いのだ。
「な、なんだい…?」
幸いにも屋上には叔母とタツキの二人だけ。逃げようと思えば難なく逃げられるだろう。さすがに腕力で負ける気はしない。
手すりにかけていた手をおろし、ぎゅっと握る。
そして、突然のタツキの奇行に焦る叔母に向かって、全力でダッシュを開始した。走るのは何年かぶりだったが、一応高校生並みの走力はある。体のあちこちが久々の全力疾走に音をたて喜んでいる。
叔母までの距離、わずか10メートル。
扉までの距離、およそ15メートル。
一歩で何センチもその差を縮めながらも、一気に加速する。人生初の猛ダッシュだった。死という怪物を掻い潜るための、命を賭けた走り。
「いけるっ…!!!」
パンッ――――
「なっ――!!?」
フラグを立ててしまったことを後悔した。乾いた銃声音とともにタツキの足から勢い良く血が噴き出る。それはまるで噴水のように惜しみなく溢れだしている。
「あああぁあ、足がああぁあ!!?」
絶叫が夜空に広がる。
それが自分の発したものだと気づいた時には、全てが手遅れだった。
一風変わらぬマンションの屋上には、地面に転がる負け犬と、高笑いを続ける勝者がいた。周りは血まみれで生臭い。頬が感じる冷たい地面。その上で足を押さえて悶えるタツキ。傷口を止血しようと当てた手が真っ赤に染まる。もちろん流血は止まらない。
タツキは未だ理解に苦しんでいた。受け入れることを脳が拒否していたのかもしれない。
目まぐるしく回る展開に追いついていたのは、這い蹲るタツキを見下している叔母のみ。
「念には念を入れておいて正解だったよ。穢らわしいったらないね。ほらお前たち、そこの愚物を柵から放り捨てな」
冷たい目でタツキを射抜く叔母。その後ろから黒ずくめの集団がどばどば溢れてきた。
激痛に意識が遠のく。もう考えることさえままならない。足の感覚が消えていた。身体が急速に冷えていくのを感じる。
そのままタツキは大男の集団に担がれ、抵抗するより先に空に放り出されていた。
「ぐあッ…!!!」
体が重力に従い落ちてゆく。
先が見えない暗闇を猛スピードで駆け抜けているみたいだ。一つ違うのは、後戻りができないこと。どう足掻いたって数秒後には地面に直撃する未来が待っているだけ。なら醜く滑稽な姿を晒すよりは、このまま運命を受け入れすべてを投げ出した方がいいだろう。が、
「んなことできっかよ……!!!」
タツキには出来なかった。
一筋の涙とともに本音が零れ落ちる。タツキ以外だって、だれが自分の目を笑顔で受け入れることができるだろう。言葉にするのといざその場に立たされるのとでは全く違う。自虐より恐怖が勝る。死ぬのは怖い。痛いのは嫌だ。
「死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない!!!!」
終わりの接近に、願望を吐き出す。
時の流れとともに自身の人生が終結する。その事実はタツキの恐怖心をあっという間に膨張させた。
―――人生の終わりって大事な日ぐらい、自分に嘘をつきたくない。
今までの、タツキの口からこぼれ出る言葉は全て、下らない見栄やプライドの膜を破いた先に出る心からの本音だった。
風が頬を叩き、傷口を抉る。体は冷えきり、動くのをやめてただただ落ちてゆく。地面が見えない分、終わらない恐怖がタツキに纏わりついていた。このマンションが何階だったのか覚えていなかった。例え下が水面だとしても無事では済まない。まぁ、叔母がそんなミスをするとは思えないけれど。
「なんで俺が―――…」
望んでこの姿に生まれてきたわけじゃないのに。
望んでこの環境にいたわけじゃないのに。
望んでこんな最期を迎えるわけじゃないのに…。
落ちる時間より幾分も長い時間をタツキは体感していた。
実際時間をカップラーメンの熱湯3分に例えるとしたら、タツキの感じる時間は三時間ぐらいにも思える。まるで別次元に迷いこんだような、異様な感じ。そんな不思議な現象を、本人は走馬灯的なあれだと解釈する。
時空の挟間にいる感覚を永遠と味わいながら、自身の不運さをしらずうちに嘆いていた。
同時に、自分が周りと同じだった場合の未来図を頭に築きあげる。
お母さんもお父さんも死なない。
僕も生きる。
みんな笑って。 みんな幸せ。
そんな未来だったら良かったのにな。
一生とも思える充実した時間を空で堪能した。そこには澄み切った感情しか存在しておらず、幸せな家族像が描かれているだけだった。…ごく普通の。
諦め。安心。悲しみ。弛緩。苦しみ。安らぎ。
それらが色となりタツキの周りを回り続ける。螺旋階段にも見える、奇妙な光が裂けたり弾けたりを繰り返していた。
やがて多様な色は数を減らし、六個の輪を形作っていく。それが小さく丸まり、球体となってタツキの近くを浮遊しだす。
幻想的な空間。ありえないはずの光景を、脳は否定しなかった。浮遊する球体を回らない頭で眺め続ける。一切の感情を起こさないでいると、どこからか温かい気持ちが湧いてくるから不思議だ。
どれだけ長い間そうしていたか分からないが、六体の球体は最後に一段と眩しい光を放ち、タツキの中へ吸い込まれていった――。
ふと、目を開く。進むのを忘れていた時が動いた。
「こんな最悪の人生でも、俺は……」
理想を散々駆けめぐり、諦めとともに現実に返ってきたその瞬間、世界に色がついた。
川の流れを堰き止めていた岩が突如撤去された…そんな感覚。
閉じていた目を盛大に開いたことでなにか変わるわけもなく、数分前と違わない光景が広がっていた。
ただ、落下感覚は消えておらず、地面がすぐそこにあることもなんとなく分かっていた。
モヤモヤしていた負の感情が一斉に引き下がり、代わりに穏やかな気持ちが胸中に広がる。
「これでやっと…」
痛みから解放される。願わくば、痛みを伴わない死を。
『君は死を望むのかい?』
タツキの発する言葉を遮って、どこから聞こえるかわからない、中性的な声が聞こえた。それは脳に直接響いているように感じる。
男性にも女性にも…子供の声にも聞こえる声だ。
いつの間にか落ちるのをやめた体の四方。そこから重ねて聞こえてくる。
「―――」
『ねぇ、君だよ君。そこの怖い顔してる君』
「っだぁー!悪かったなこんな顔で!!でもお生憎様だな、これは生まれつきなんだよ…って、今から死ぬ俺が笑顔だったら逆に怖いだろ!」
何十階あったって足りないくらいの長い時間を、一瞬で落ちながら思案に暮れる。
今まで違和感を持たなかったが、大袈裟じゃないレベルの距離を落ちているはずだ。
『僕がいろいろ弄くったせいで感覚がズレちゃってるみたいだね。ごめんごめん~』
全く反省していない、間延びした声の謝罪を黙って受ける。
いつものタツキならぎゃいぎゃい噛み付くはずだが、この状況ではそうもいかない。
軽く頭がパニック症状を起こし、更にズキズキする痛みを連れてきていた。
整理しようにも何があったか思い出せない。
「ん、とさぁ…。いろいろ聞きたいことが盛りだくさんで、しゃべりだしたらマシンガントークになりそうなんだけど……俺、そろそろ地面にぶち当たって人生終了する地点にいるんだよね、たぶん絶対」
とりあえず返答をしなければ、という謎の使命感のまま口を開いたのはいいが、改めて目前の『死』を再確認するとになった。
自分にまだ軽口を叩ける余裕があったことに驚く。
そんな心境の奥の奥に、声の主を探し求める自分がいる。
どこかで聞いた声。懐かしい声。忘れるはずのなかった声。思い出さなきゃいけない声。
記憶が混合する中で、誰かが思い出せと叫んでいる。
『君は死を…』
「望むわけねーだろ!!ず っと弱気思考一直線だった俺が何言ってんだって話だが、お前の声聞いた途端どうでもよくなったんだよ!今まで溜め込んでたこと全部な!自分でもよくわかってないんだけどさ…。 てか何回言わせんだこんな妄言…!質問ガンスルーの上に俺の心の傷口的確に刺しやがって…ドSなのかこの野郎!いざ死にそうになって逆に生きる気満々になったし? 語彙おかしいのは分かってるけどね!」
半ばヤケクソでまくしたてる。
生に固執している証拠だった。今まで生きることに絶望しか感じてこなかったのに。
『へぇ、それは嬉しいな』
「もーなんなんだよ!?新手のいじめ!?大掛かりのドッキリ!?」
喜ばれる意味が分からず匙を投げるタツキ。会話の通じない相手と話すことは想像以上に辛い。むず痒い。理解するだけ無駄だと脳が判断する。
そこで、またも不思議な停止感があることに気づく。
空中で止まっているような感覚。いつまでも"今"が続くような不可思議な感覚。
『まぁ今はその言葉が聞けただけ十分かな』
「時間に引きずられてるみたいな…とにかく気持ち悪いこの感じを現在体感中の俺に、これ以上分けわかんねーこというつもりか?――お前は誰なんだ」
『これから死ぬべき者に答える義理はない。……だろ?』
マジ顔での本性探りを一蹴され、そりゃそうかと受け入れる。
死んだら全てが無に帰る。今自分が生きている理由も、生きていた理由も綺麗さっぱり消えるのだ。
「んじゃ、この変な感覚解除してもらっていい?―――目、つぶってっからさ」
――たぶんこの感覚が消えた時、俺は死ぬ。
『またね、タツキ―――』
「もう会うことなんて――…んだばぼぼ!?」
年齢を読み取らせない声が空を切る音に溶けていった。
と同時に、ぽっかりと開いた口に遠慮無く風の塊が入ってくる。一瞬呼吸が止まり、落下感を肌で感じなからも、咳き込むことで呼吸を再開した。死を目前にしても醜く生命活動を続けようとするとは、無様極まりなかった。ただ、
死にたい。
そんなこと死んでも思うべきじゃなかったと今になって後悔する。自殺志願者も死にそうになってやっと死にたくないって思うんだろうな。
吹き付ける風、迫る地面。…そして、印象深かった割に何故か記憶が曖昧な誰かの声。
"死にたくない"という意志を増幅させた根源でもある。あれほど待ちわびていた今日が直前になって絶望に塗り変わった。祖父への罪悪感、そして自分への失望。
死を垣間見たから言える。
死んで救われることなんて一つもない。
『君は死を望むのかい?』
突如、地面の色の区別がつくぐらいの辺りで、耳に馴染む声が響いた。
「望むわけねぇ―――!!」
繰り返される問いに、息をめいいっぱい吸い込んで叫び返す。
それが地面に跳ね返り、新しい問いを耳に落とした。
『君は生を望むのかい?』
鼓膜が震える。
知らず知らずのうちに泣いていた。それは地面の細かな作りまで見えるようになったタツキの目から離れ、鼻の少し窪んだところにたまり、顔の一番高い部分から下に垂れていった。
洗面台で、蛇口から水がたれた時のような音がすぐ近くに聞こえた刹那、タツキは吠える。
心からの祈りを。魂からの叫びを。我が血液からの希望を。脳からの意志を。
「死にたくないッ!!!!」
その叫びに共鳴し、閉じた瞼からでも分かる膨大な光の粒子がタツキの全身を包んでいった―――。