烏を喉で呑む
一
今日こそ決めてやる。
灼熱の紫外線が着実に皮膚を焦がし、黄色人種の俺を黒人に変化させている。アイスクリームみたいな汗が身体にまとわりついて、きつくきつく俺を締めつける。この強烈な日差しは、人工芝が水分を欲しているからだろうか。それなら汗で水分をやっているのだから、もう少し緩和してくれてもいいはずだ。
最後を迎えた懸命な蝉の鳴き声すら遠のいていく。俺は泥だらけで年季の入ったサッカーボールに全集中力を捧げる。
いける、今だ。
ボールとゴールの距離感を上手くつかめたところで、身体を宙に浮かせると視界が多彩なブルーでいっぱいになる。背と地面を平行にし、左足でボールの一点に力を加えた。
一瞬、時が止まる。
今までで最も手応えがあった。ドサっと背中から叩きつけられるように落下すると、日々の練習で知らぬ間にできていた板チョコの腹筋で、軽々と起き上がる。そして、すぐさまボールの行方を確認する。
ボールは見事に綺麗な弧を描き飛んでいき、フェンスを飛び越えたところで突然に軌道を逸脱し、物理的に考慮してもありえない方向に飛んでいった。どうやら六三八回目の挑戦に失敗したらしかった。
俺は最後までボールを見届けるのはやめ、踵が急にすり減った靴底で地面を剥がすように蹴りつけた。やるせない気持ちを発散することを目的に、しきりに人工芝のグラウンドを抉り続ける。唇の端から微かに漏れる声は誰にも聞こえてはいないはずだ。しばらくして、ようやく気が済んだところで、無人の広いグラウンドの中心に再び仰向けで倒れこんだ。
「ちっくしょーーー…………」
太陽で目が潰れぬよう、右手の甲で目元を覆う。自信があっただけに裏切られたショックが大きすぎる。あれが野球だったら立派な場外ホームランだったのに。
恐らくボールはいつものマンションのどこかに逢着し、今ボールを取りに行ったところで、口うるさいマンションの管理人に罵倒されるのは大いに予想できた。この精神状態でそんなことをされたら、今までの行いが全て無為に思えてきて、俺のキュウリのような心がポッキポキに粉砕し、もう二度と立ち直れなくなるだろう。傷口に塩化ナトリウムを塗りたくるのは理科の実験の時間だけで十分である。
はあーーー…………。
どうしてだろうか。どうしてこんなに蹴り込んでいるのに決まってくれないのだろうか。努力以外にあと何が足りていないのだろうか。単純に素質と才能がないからだろうか。
…………やっぱり、もう潮時かもしれない。
指の隙間から微かに覗かす夏色の空は晴れ晴れとしている。それすらうざったく感じてしまうなんて、心身ともに疲労困憊なことを証明してるとしか言いようがない。この前にサッカー部の練習に参加したので、足は既に自律神経が失調していて小刻みに震えている。これ以上ここにいても時間を費やすだけだったから、潔く帰ることにした。鉛のように重たい身体を肘をついて起こし、立ち上がる。現在地から最短距離である出入り口を瞬間的に選抜し、気怠げに向かっていると、
「ナイース!バッドプレーーー!!」
鼓膜がちぎれそうなほどの大声がサッカーグラウンド一面を余裕で轟かせた。反射的に耳を手で塞ぐと、音の発生源を探す。辺りを見渡してみると、出入り口のすぐ側に見慣れたシルエットが二つあった。
二メートル近くあるフェンスを優れた身体能力で意気揚々と乗り越す少女と、その傍らで参考書を読みながら少女の愚行に呆れつつ、羞恥の色を眼鏡の奥に忍ばせる少年いた。そしてあの爆音の発生源は悩まずとも少女の方だと分かる。
「おつカレーーーっ!大志!!」
彼女はそう言って二メートルの高さからこちらに向けて、アルミ製の水筒を豪速で投げつけてくる。危機管理能力の高い俺は、それを咄嗟に右手でキャッチできた。先程とは違う汗が発汗する。
「…………ッあっぶねーな、理央!水筒を投げつけてくる奴なんて初めてだぜ!!」
「あ、ごめん。私の水筒プラスチックだからつい」
「お前は鉄とプラスチックの物質の見極めができないのかよ」
彼女は悪気なく無邪気に舌を出している。まったく仕方のない奴だ。水筒と同時に投げられたタオルは空気抵抗で不安定に落ちてゆき、取ろうとしたけれど、上手くタイミングが掴めずに地面に落ちてしまった。
「ああ、落ちちゃった。替えはたくさんあるから今すぐ新しいのに交換するね」
「ちょっと一樹、木下の私のサブバックに入ってるタオル大志にとってあげて」
「…………。汚物に汚物を使ったって大して変わらないと思うけど」
彼女が上から指図すると、参考書を読み続けていた一樹がようやく視線をこちらに向けた。向くやいなや性悪丸出しな表情で、俺に対して明らかに悪意ある発言をする。
「なんだと、この野郎!」
いつも我慢しようとは思うのだけれど、一方的に悪口を言われているのが聞くに堪えず、ついつい取っ掛かってしまう。そんな俺も一樹と同等に幼稚だった。こうなった場合誰かに仲裁してもらわないと止まらない。
「いいから至急!!」
まあ、その仲裁役はいつも必然的に理央となるのだけれど。貫禄ある彼女には、あいつも逆らうことができず、チッと舌打ちしてから参考書をバックに仕舞い、目的のサブバックを豪快にあさり回した。さっきのことを根に持っているわけではないけれど、まったくにいい気味である。悦に浸っていたら、彼女が顔を真っ赤に火照らせていた。身体を震い立たせて、
「ちょっと、あんまり見ないでよ!」
とか言うものだから、俺はそのバックの中身に一気に興味が芽生え、一樹は脳天がブチ切れそうになる。きっとあの中には女の子ならではのものが入ってるに違いないと勝手に妄想して心を踊らせる。
一樹がタオルを発見したらしい。あいつにしてはサービスが利き、丁寧に俺の元までやってきてくれた。手渡してくれるのを期待したら、四つ折りにしてあった正方形のタオルを開ききって、グリグリと俺の顔面に擦り付けてくるのだった。視界が閉ざされた上に身体も完全にホールドされ、金縛り状態となって身動きが微塵も取れない。徐々に不安が募って、男である以上掟破りの局部に華麗な蹴りを見舞ってやった。しばらくすると唐突に景色が色づき始めた。次第にぼやけていた物の輪郭が正確に捉えられるようになると、地面にが前傾姿勢で腹を抱えて上体を伏せている彼がいた。
「くッ…………き、貴様、男のくせにここを蹴るとは負けを認めたも同然だぞ」
「仕方ねーじゃん、自己防衛のためだったんだからっ!悪いと思ってるよ、男失格だともね」
「いや、人間失格だな。世間が君を許さないと思うよ」
「確かに自分で自分が許せない」
「あんたたち……名作を乱用して品位を下げないでくれない?口汚いし、」
第三者としてこの喧嘩を傍観していた彼女が悲哀な眼差しを向けていた。多様な意味を持ち合わせたその台詞は、どう捉えてもデメリットしかなかったので喧嘩再開どころか、様々な物事に対しての意欲を失わせた。昼食後に歯磨きしたばかりの歯の隙間から爽快なハイパーミントと生気が逃亡していく。
「喧嘩両成敗ってことでこれにて終了ねっ!」
理央が大声を再び出したらその反動で風が吹き、スカートの裾をひらひらと揺らせ、遂には翻らせた。出ていた生気が急いで切り返して、また体内に住み込む。すっかりゴールも決まらないから今日は厄日だと勝手に決めつけていたが、年に数回しか訪れない好機が本日到来したようだから訂正しよう。
俺たちは目を見張ってスカートに視線を、いや、全神経を全力で集中させる。その視線を察知したらしく、スカートを両手でしっかりと押さえて、上から勝ち誇った顔を浮かべて鼻で笑った。チッ、実に残念だ。俺たちはつまらなさそうに口先を尖らせた。
彼女が視線に気づかないで、スカートを抑えなくてはきっと拝めただろうに。…………スカートを両手で押さえなければ……。あれ、そう言えば彼女の今いる場所って……
「きゃあぁあぁあーーーーーッ」
やっぱり彼女はフェンス上にいて、舞い上がるスカートを必死に抑え、重力に任せて自由落下している。このまま順調に落ちれば地面に強打し痛い思いをするだろうし、真っ白な肌に怪我を負ってしまう。何が何でも阻止しなくてはならない。一樹と思考が一致したようで、咄嗟に受け止めるべく、落下地点を予測してそこに急いだ。
日光をのウェールをまとって天から舞い降りてくる彼女は、あの三大天使のガブリエルのようで輝かしい。ガブリエルのシャンプーの香りが濃度を増してゆき、柔らかな衝撃を受けたあと、俺の焦点はどんどんと下へと推移していった。しめに背中に大きな衝撃がくるが、頭は浮かせて死守したから心配ない。ガブリエルが俺たちを押し倒すような形で無事に着地した。幸い彼女には怪我がないようだし良かったのだが、問題はそれではない。
俺たちは上半身だけ起き上がらせると勢いよく問いただした。
「馬鹿!なんで正面から降ってくるんよ!!」
「わざわざ半回転して落ちてくるなんて、君やっぱりホモサピエンスなんじゃないの?」
彼女はあの滞空時間の間に物理的な自然現象ではなくて、自ら身体をねじって、地面と顔面が対象になるよう旋回したのだった。全くに信じられない話であるが、確実にこの目で捉えた事実なのである。果たしてどのような意図があったのだろうか。刑事ドラマの取り調べ室のような切迫感で聞き入った。
彼女は俺たちの足を踏まないように立ち上がると、尻餅ついたままの俺たちへ気を遣って、少し離れた位置で泥を叩いた。背中姿の髪とスカートが風になびき、様になっている。ポニテールが遠心力で小さな弧を描いて振り返たとき、その端正な顔立ちで、はにかんでいた。ホモサピエンスに不意打ちでときめかされてしまった俺はきっと、歴史の教科書に載っていたネアンデルタール人なんだと思う。
「二人が絶対に助けてくれるって分かってるからだよ」
一樹と俺の頭上に巨大なはてなマークが大々的に出現した。絶対なんてこの世においてありえないことを絶対的に彼女は言い切っている。絶対=百パーセントであり確率を考えても二分の一で彼女は地面に顔面直撃の運命だったのだ。ただ、このくらいのこと才女の彼女には朝飯前どころか朝食前のはずで、その発言には裏に何か意図があると思われる。しかし、どれだけ思慮分別にでも読解力のない俺は文脈から判断することができない。隣であの勉強家な一樹ですら顎に手を添えて顔をしかめているから、誰にも分からない超難問らしい。俺に解けなくて当然であった。謎めいたまま終わらせるのは性に合わないので、見栄を張らずに潔く聞き出すことにした。
「その心は?」
不服にも一樹と以心伝心したようで、声が重なった。彼はしぶとい顔で俺を睨みつけ、俺も負けじと睨み返してやった。彼女は口角を急上昇させてにんまり笑うと、俺たちの前に銘々細く薄い手を差し伸べた。
「根拠なき絆!!」
飛び跳ねた弾む声で自信満々に言い切った。無論理屈がないのだがなんだか納得してしまうのは、俺にも根拠なき絆があるからだろうか。俺たちは産まれた時から一緒である運命的な関係、つまり運命共同体だから考えられなくはない。
一樹は理系の俺とは打って変わって文系よりの文理系だから抽象的なそれをより具体的にイメージできたらしく、異論はないようだった。俺たちは彼女の厚意にすがりつき、手をとって立ち上がった。
「んむーーーーっ!!重い!!あんたたち重量すぎ!!もうちょっと痩せれば?」
「失敬な、筋肉だ!!」
「僕はこう見えて実は骨太なんだ」
「…………一樹、それは無理があるよ。トッポみたいに華奢なのに」
「それならポッキーだろ、トッポは密度が高すぎる」
「だって整形外科の先生に顔覚えられくらい柔だもんね。骨密度は麩菓子並み」
「君たちさ、下らないことが本当に美味いよね。さっき偶にはいいこと言うって感心したのにさ、弁償してほしいよ」
「おお!!一樹に褒められちゃったよ、どうしよう、大志?」
「幸い褒められたの俺じゃねーし。まあ、俺だったら自分の汚点だと心に留めて生きていくかな」
「あははっ、言うと思ったー!」
「わざわざ仲に亀裂が入るようなこと言うなんて、君は何がしたいの?」
「だって第三者から見てるとあれ和やかで微笑ましい気分になるのだよ、うふふっ」
「だからって誘発させるなよ!!喧嘩って割とエネルギー食うんだよ!!」
「僕は結構楽しんでるから構わないけど」
「あのさあ、そういうところに素直にならないでくれない?反応に困るじゃん……」
「わーー!!大志照れてるーー!!」
「照れてないッ!!」
俺は人と歩いている時会話が途切れると不安になってネタ探しに必死になるのだが、いつもこの二人といる時はその必要がなかった。そもそも話題が尽きることがあまりない。もしかしたらそれも、理央が言う根拠なき絆とやらのせいかもしれない。
彼女を真ん中として左右に俺たちが並び、たわいのない話をしながら帰路に着いた。
ニ
高層ビルの狭間にあるこの世は単純明快な学力社会だった。頭のいいやつは価値があり、馬鹿なやつは無価値というなんとも殺伐としていて単純で簡単なものだった。俺の友達にどの学校にも必ず一人はいる、赤点の常連で成績がテストがあるたびに毎回学年ビリの奴がいる。そいつは俺が言えるほどに成績がよろしくなかった。しかし俺は知っている、彼が本当は役立つ人ってことを。
あれは二年生の時に学校の授業の一環で行われた職場体験での出来事だった。俺は偶然あいつと同じ職業体験場所を割り当てられた。その時に普段何もできないあいつが目を疑うほどにテキパキと動いていた。店の人にうちに就職してくれ、と言わしめるくらいに見事な働きっぷりだった。それどころか上手くできない俺のフォローまで手際よく対応してくれた。
俺から見ても彼は臨機応変に対応していて、勉強はできないけど喋りもユーモアがあって面白かったし決して馬鹿ではないと確信していた。彼こそはまさに社会に貢献できる逸材だと堂々と宣言できるだろう。だが、会社は彼に内定を出さないだろう。
無論、彼には学歴がないからだ。まだ中学生だからどんでん返しが起きるかもしれない。しかしそんなのはごく稀なことだ。小学校のころから頭のいいやつは中学校に進級しても頭がいいのと同じだ。馬鹿は一生付きまとうものだ。
有能な若者が欲しい社会、にも関わらず無能と決めつけ首を跳ね飛ばして、採用しないだなんてなんて矛盾が生じている。まるで社会全体で口裏合をわせて、皆んなで馬鹿を演じてるかのようだ。終いには社会がさらなる発展を求めてないようにも思える。俺たちは反吐が出そうなそんなめまぐるしい社会を今日も無心で生きている。
腹を空かせた俺たちは帰り道にあったラーメン屋から漂う香りの誘惑に負けて、生真面目な一樹の消極的な発言で一時入店をためらったものの、結局は理央に押し切られて入店したのだった。この時間帯に店は閑古鳥が鳴っていて、俺たちは直ぐに空っぽの胃袋にラーメンを頬張ることができた。味は閑古鳥が住み着くのが十分に納得できる味だったけれど、二人が美味しいと言い張るから、うまいと言い、完食しざる得なかった。一度休んでしまうと疲れがどっと出て動きたくなくなり、三人でグダりながら随分と長い間居座った。流石に見切りをつけて、俺たちは嫌々店を出た。
三人で理央を中心としてさっき食べた豚骨ラーメン色の空の下を横並びに歩いた。彼女は心なしか腹をさすっている。
「お腹いっぱい。どうしよう、帰ったら夕食あるのにー」
「最高じゃん、帰っても飯とか。このまま悦に入ってようぜ」
「君は親に連絡しなかったの?ラーメン食べてから帰るって」
「忘れちったんだよね」
「あれだけ両親にスマホをねだった挙句使いこなせてないの?貸せ、今すぐそのスマホを売ってきてやる!そしたら二割くらいは君にあげるよ」
「酷いこの盗人!加えて無断売却、列記とした犯罪だよ!」
「盗人とか、昭和かよ」
すると彼が穴があきそうなくらい読ん見込んでいるボロボロになった生物の参考書を丸めるて、彼女の頭を軽く叩いた。
「いったーーーい!ああ、今ので細胞一億個が壊死したーーー!これで受験落ちたら一樹のせいね!!」
「誤解しないでよ。僕は君の頭にこの参考書の内容をインプットしてやったんだ、ありがたく思え」
「勘違いしないでほしいわ。それが私に知識を与えたんではなくて、私の知識をその参考書がインプットしたんだよ。そっちの方が感謝すべきだよ!」
「じゃあ全部不正解だ。すぐに破棄しないと」
「後悔したりしても知らないからね」
一樹は面倒くさくなったのか無視してまた参考書に目を落とした。理央も相手をしてもらえなくなると、カバンの中から彼女お手製の英単語帳を出して一枚めくって俺に問題を出した。
結局みんなどう嘆いても変わらないこの事実を受け止めて、勉強に励んでいる。俺を除いて。しかし俺だって、この世界に嫌気がさして朝から後輩と一緒に部活に出て現実逃避していたわけではない。
俺は今までのサッカーの実績が認められ国内有数のサッカーの強豪校の推薦をいただいた。全国のサッカー少年ならば一度は憧れる名門校であり、無論絶対に行きたい。
しかし、その高校に進学するには二つの難関な山を越えなければならない。一つは筆記試験であり、学力が中の下程度の俺でも過去問を解いたところ、割とサクサク解けたのであまり心配はしていない。登山難易度で言えば富士山といったところだろうか、登ったことはないけれど。
そして実技試験。これは実際に現役の在校生とサッカーの試合をして最中にオーバーヘッドキックを最低一回決めるという条件で、これがとてもネックになっている。オーバーヘッドキックはパフォーマンス的要素が高すぎて実際本番で使われることなんて少ないし、怪我も伴うので危険性が高く躊躇されることが多い。要するに余裕がないとできない、難技である。もちろん俺は試合中に使ったこともないし、他の技に比べて命中力も低いから使う必要もないので練習していなかった。そんなところでこれだ、人生何が起きるかなんて予知できない。登山難易度で表すとエベレストだろう、勿論登ったことはない。そして俺は山に詳しくないから具体的に表現できないけど、極端に例えるならば素人目で比較したこれは正確である。
理央からヒントをもらってようやく一問正解すると、隣人が何かをハッと思いついた顔をして同時に口が動いた。
「そういえば、今日もオーバーヘッドキックダメだったねえ…………」
「え、あ、うん…………」
ようやく忘れかけていたのに、彼女がいとも簡単に掘り返してきた。明らかに俺のテンションが下がったのを見て、焦ったのかは人工的な顔で人為的な笑顔を作って、身振り手振り激しく喋った。
「大丈夫!明日にはきっと決まるって!!」
「うん……」
ああ、
「だから心配しなくても平気!」
「……」
もう、いいから……
「だって大志は推薦をもらえるくらいの実力があるんだもん!!」
やめてくれ……ッ。
その時、世にも珍しい音色が耳の穴の中をバウンドした。
「根拠ないこと言って大志に余計なプレッシャー与えてんじゃないよ」
俺は一樹のナイフのような台詞で息の根を止められた。彼の性格でそれを言うこと自体が駄目押しだった。ナイフは急所をつき、肩を落として俯かずにはいられなくなった。今の俺はそんなにも醜いのだろうか。
いいことを言ったと思っている一樹は、俺がこのリアクションなのに戸惑いを隠せていない。ようやく心境を察した理央も、ごめん、と謝って落ち込んでしまった。
なんてこどだろうか。先ほどまで最高潮だった俺たちのテンションは富士急のジェットコースターの如く、遠心力で座席から身体が浮き上がっていたのに、瞬く間に減速していき停止したのだった。あっさりと俺たちは放り投げられた。
……おかしい、どうしてこうなったのだろうか、俺は内心で悉くことの根本を追求する。割と内向的な俺が思慮分別を始めると、大体マイナスな方向に働くき、結果も必然的にネガティブなものとなる。よって、原因は俺がオーバーヘッドキックができないから、ということに至った。
俺の不幸に皆を巻き込んでしまっている。この落とし前は自分でつけるべきであるので、一樹に協力してもらって空気を変えることにした。
「一樹にそんなこと言われるなんて………」
「君の脳細胞も一斉に壊死してあげようか?」
「いやん、そんなことしちゃあかしまへんで」
これは普段標準語の俺がいきなり京都弁で話し出して、その意外性に面白さを感じる、という俺にしては工夫と侑士ある行動だった。俺は身体を守るような手つきで体をくねらせておどけてみせたけど、それは自覚する程度に面白味より痛々しさの方が目立った。それが空気の振動よってみんなの身体に伝わり、皮膚からじんわりと浸透したようだった。まるで何事もなかったかのように俺の渾身のジョークは黙殺された。
これ以上は焼け石に水だったし、なす術もなかった。それは第二の理由であり第一の理由は、俺の精神的ダメージを大き過ぎるからである。自分で施した地雷に自ら引っかかってしまったこの屈辱と羞恥はどこに破棄すればいいのだろう。誰かに当たるのは理不尽すぎてお門違いなので、俺はこれらを飲み込むしかなかった。もうこれ以上の痛手を負わないようにと俺はしばらく黙って歩いていた。
沈黙を維持して歩いていると、いつの間にか視界がアスファルトでいっぱいになっていた。たまにヒョコヒョコと覗かせる、色褪せて禿げたローファーの箇所がやけに目に付いた。雨の中を平気で歩き、アフターケアを疎かにしていたし、もちろん磨いたことなんて一度もなかった。だからこのような有様になっているのも当然で納得できた。
ふと靴には人柄が出る、ということを思い立つ。誰かが強制した、というわけではないが私語厳禁の閑散とした時間を有意に過ごすには、このささやかな興味心に従うので十分そうだった。
隣の理央の足元を見ると、女子の割には大きく、キャメル色のタッセルローファーはヒビ一つ入っていないから新調したてなのだろう。つい一週間前は紺のヒールつきコインローファーだったような覚えがある。その一つ前はハイカットスニーカーだったような気もする。
理央を挟んで向かい側の一樹の靴は、俺よりやや小さいサイズの黒のコインローファーで綺麗に磨かれていて黒光りしている。マットな質感が印象的で恐らく本革で、それをさらにワックスで念入りに磨いているんだろう。彼は入学式の日から浮気せずに、長らくそれを履いていた。
それらの靴を観察し推察して楽しんでいるとあることに気がつく。それらの靴は横並びに直線一列に並んでいたのに、次第にズレが生じていたのだ。黒光りしたローファーは広い歩調と歩幅も先頭を陣取り、勢いよく突っ切っていた。それに追いつこうとキャメル色のタッセルローファーは歩調を上げて巻き返していた。俺はこの中で誰よりも早く夕暮れを感じるし、誰よりも星が手に届く位置にあるのに何故か、禿げたローファーが二つの足跡を追いかけていた。
やがて醤油ラーメンにブラックペッパーを塗したような烏の群衆が空を浮遊しているのが分かった。一度羽を羽ばたかせる、風に乗る、を何度も繰り返している。俺たちの頭上を沢山の烏たちが無限のマークを描くように飛び回り、猟奇的な声を荒げ鳴いている。途轍もなく不吉で気味が悪く、攻撃されるんではないかと毛穴までもが萎縮する。
「ちょっとさあ、烏いすぎじゃね?」
「そうだねー、たくさんいるね。どうしたんだろう…………。あ、閃いた!!きっと烏さんもお腹が空いてるんだよー」
「理由はともあれ、不吉な予感しかしないからさっさとあっちにいってほしいね」
「ちょっと!!酷いこと言わないでよ!!烏さんが可哀想」
「今回ばかりは全くに同感だ」
俺たちは行道の転換を試みたが、あと家まで百メートルもないので否が応でも目に入るその烏の群衆を見て見ぬ振りをして通り過ぎるに決め込んだ。
「雑談だけど烏は辛味を感じないらしいよ、かなり昔に新聞で読んだから曖昧だけど」
「ええっ!?じゃあキムチを食べても無味ってこと!?そんなの可哀想!!」
「ねえねえ、お前らこの鴉の量を前にしてどうしてそんなに陽気でいられるの?」
「僕は恐怖心を喋ることによって打ち消してるの」
「もう二人とも、そんなに心配しなくて平気だよ。鴉さんたちだって仲間だよー……何もしなければ襲ってこな、」
その時理央の声が途絶えた。
彼女は声を出すのをやめた。いや、正しくは出なくなった。それの驚異的な出来事は、声にもならないくらいに俺たちの精神を激震した。
背中に、ドライアイスをぶちまけられ、陽炎が全面を迸ったかのような痛みの後、一瞬にして凍りついた。
俺は最初は冷静を装っていたが徐々に動揺が隠しきれなくなった。硬直した身体を一ミリでも動かしたら、砂漠の砂になってしまいそうだった。自身が直面している未だに半信半疑な、ただならぬ光景に動悸がしてくる。
落ち着け、落ち着け…………。
そうやって自己暗示するものの、最早いつも通りに呼吸できてるかどうかすら危うい。過呼吸の状態に陥りそうだ。もしかしたらもうなっているのかもしれない。でもそんなことはどうだってよかった。
烏は辛味を感じないらしい……なるほどじゃあそれはさぞかし無味なのだろう。見た目は真っ赤っかで唐辛子や辛子明太子のようで辛そうだ。
烏は鳩を喰らう。
無数の烏が野次馬のように円状にたむろしていて、その中心で…………、鳩が烏に嚥下されていた。
あたりの路上は血まみれで、あちらこちらに内臓の残骸が飛び散っていた。残骸は後からそれに気がつかなかったドライバーの車に轢かれたのだろう。黄色の体液とか茶色の部分がぐっちゃぐちゃに混ざり合い潰されていて、もう原型をとどめていなかった。全てが血の色に染まり帳消しにされていた。周りの生臭い匂いと獣臭が俺の意識を朦朧とさせるくせに、交感神経を働かせ興奮さえも記憶させる。
そんな風に無残に咀嚼されてるのが鳩だと断定できたのは、身体の部位で唯一残された顔が決定的に残されていたからだった。圧倒的にこちらの事情だけれど、端的に表現すると顔だけ残っている方が怖いから食べもらいたかった。流石の烏も顔は食べないらしかった。血だらけで判断しにくいけど、この辺りでは珍しいくらい白くて鮮明な鳩だった。まるで広島平和記念公園の鳩のようだ。
一樹は遂に限界を超えたらしく、その場にしゃがみ込みうずくまると嘔吐した。無理もない。さっきまでラーメンを食べていたのにこの状況はクレイジーでグロテスクすぎた。この異様な状況に一樹の反吐なんて、アリが一匹死んだ程度の衝撃だった。なんならその嘔吐物を飲み込めと言われても今の俺なら容易くこなすかもしれない。周辺で鳴き叫んでいる烏の声なんてもう聞こえやしない。
気づけば隣にいたはずの彼女は音もなく、いや気づかなかっただけかもしれないが、生気を抜き取られたかのような姿でアスファルトに腰を落としていた。それでも身体は反射的に後進して、後退りしている。いつもなら負傷者に一目散に駆け寄る彼女も今日ばかりは怖気づいたのか、窮地の思い出立ち上がると、生まれたての子馬のように来た道を覚束ない足取りで引き返していった。
俺の身体は戦慄が止まることを知らないらしく、未だに震えている。
ただただ唖然とぐっちゃぐちゃに鳩が烏に食われていくのを見つめていた。
瞬きが許されなかった。
乾ききった両目から涙が頬をぶった斬る。
ゾンビとかそういう類のゲームは苦手なのに今は何故か、この非日常的な光景に釘付けにされている。こういう事態に人間の本質というものは姿を現す。サイコ……パス……なのだろうか。俺は自分自身で頭がおかしいんではないかと疑心暗鬼した。
ちがう、おかしいのは俺ではない。
その時ふと思った。
これはこの世界の縮図であるんではないかと。
鳩は俺たちで烏は社会だ。そして悪は正義を食い殺める。まさに俺たちの世界のモラルそのものであり、常識が正義であることをこの上なく主張してた。だから目が離せないんではないだろうか。だから見つめてられるんではないだろうか。俺がこの世界を網羅しているかどうかは置いて、取り敢えずはこの世界を耐え忍び、生きている。
烏が首をうまく上下させて鳩の肋骨から肉を引き剥がすと、鮮血が烏の真っ暗な身体に飛び散った。鮮血は真っ暗な羽をさらに味のある黒を作り出し光沢を与えた。それには不覚にも高尚さを感じさせられる。いつまでたってもただ慄然と突っ立っている俺の目を不服に感じたのか、磨き上げた日本刀の刃のように俺を睨み斬りつけた。
目が合ってしまった。
それは鋭い目つきで何かと葛藤しているようだった。でも何かを悟り開き、全てを受け入れた明鏡止水のようにも思える、そんな瞳だった。
どちらなのかは判断がつかない。
その毅然としているに空虚で荒んだ目は、もうどうにでもなればいい、俺をそんな気にすらもさせた。
一斉に全毛細血管内に、烏と同じくらいの数のパラサイトイブが駆け巡るような感覚を体感する。
俺はしばらくその烏を見つめていた。
そして俺は悟ったのだった。
この世は平和なんかじゃない。
アメリカが世界を武力で制圧し、同時に戦争をも抑圧する。しかし、それでは戦争は壊滅しない。絶滅なんてありえない。人々の醜い感情と価値観の殺し合いが目に見えない形で肥大化している。誰にも気づかぬよう呼吸を殺して生活し、着実に成長している。
俺たちは所詮は鳩。そして俺たちはごく僅かなるオアシスだけを求め、革命を起こす勇気すら持ち合わせていない、ただ呼吸をするだけのどこまでも救いようのない鳩だった。烏はは絶対的な常識を備えた紛れもない悪で、猛スピードで全てを支配していき、対抗することは無為同然だった。もうどうしようにもない。
俺たちはこの世界はに似合っていない。
未知なる産道を通過し、誕生して辿り着いた我が母星は、すでに酸素が底をつきていて、生きているのに呼吸ができない世界だった。
俺はその場で立ち尽くされ、鳩を食う烏を見て、自分の愚かさに対する絶望を噛みしめた。
今日、俺たちは思い知らされた。
三
昨日の残酷な事件をまるで感じさせな清々しい青空だった。俺は珍しく自然起床し、部屋の中を右往左往に徘徊していた。よし、と独り言を言ってみてか息を吐きすて、腰の下あたりで小さくこぶしを握る。昨日の現場を恐る恐る呼吸を止めて覗いてみると、幾多の鴉も鳩の死骸も何事もなかったかのように綺麗さっぱりなくなっていた。当然のことだ。あれから俺が市役所に夜のうちに撤廃するように依頼したからだ。背を返し壁を背中に密着させてずり下ろしてから、漸く呼吸をする。分かってはいたけれど、分かりきってはいなかったからやはり怖かった。国の奉仕者達は市民の要望に応えるべく、きちんと義務を果たしてくれたようだった。あんな暗がりの中死骸の後始末だなんて嘸かし怖かっただろう。本来は誰にも見せずに俺一人で片せば良かったがそんな勇気もないし、衛生面を考えても不潔すぎた。
あの後、理性を失った俺は車のクラクションで我に帰って気力を取り戻し、一樹の腕を自分の肩に回して無事家に送ってから帰宅した。理央は後から謝罪の電話が来て、全速力で遠回りして帰ったというので安心した。俺たちを見捨てて一目散に退避した、そんな彼女を俺は失望なんてしていない。どんなに美しくてフランス人形みたいな彼女だって所詮は人間だった。人間に期待なんてしてはいないし、それが人間らしげでいい。あの場に三人とも居座り続けたら確実に何かに洗脳されていただろう。何かって、何だろうか。さあ、分からない。分かっているけれど、もしかしたら思い出したくないだけかもしれない。
一樹のお母さん曰く、一樹はショックで三九度の高熱を出しているらしい。いつも踏ん反り返って偉そうにしている割には、意外にもメンタルはか弱く、純粋な奴だった。あいつは昔からお遊戯会とかになると学校を欠席するタイプの人間だった。
二階の自室から一階に下りる際の階段が、一段降りるたびにギシギシと悲鳴をあげる。次に震度五の程度の激震が到来したら耐震性が皆無の我が家はあっさりと崩壊するだろう。母さんたちに訴えてもお金がないからと、見送りされてからはや三年近くが経過している。もう両親のことは知らないけど、俺はここで死ぬのは御免だから、それまでに家を出てってやることに決めている。
階段を降って居間に行くと、入口の方に人の通行を邪魔するダンボールが二つ並んでいた。俺の鍛え上げた脚力で道端にどかそうとしたが、無理があったし、中身が不明の状態で乱暴に扱うのは聊か無鉄砲なので危惧した。中身の正体を興味本意で確認してみると、これでもかというほどの林檎で満杯だった。
送り主を見てみると、青森で農家を営業している祖父母からだった。毎年この季節になると商品にならない不恰好な林檎を有無を言わさず、必要以上に送りつけては佐藤家を困らせているのであった。見た目は確かに杜撰なものだが、味に支障はないから物好きが低価格で購入してくれるだろう。ただ彼らは愛娘と、その家族に自分たちの林檎を食べさせたいらしかった。これが親子心というものなのだろうか。誰かの親になったことがない俺は、祖父母の親心を理解できないし、少々履き違えてるようさえ思う。
これはまだ第一便で、後第四便くらいは余裕で運搬されると予測される。贅沢すぎる悩みだが、また林檎病に罹るんではないかと思うほど食べさせられると思うとうんざりだった。因みに林檎病の本名は伝染性紅斑で発病の原因として林檎の過食とは全く因果関係はない。じゃあなんで言いたくなったかというと、そんな気分だったからだ。深く追求したところで結果は白紙だ。兎にも角にも、今すぐにでもこれを抹消したい。どうにか、どうにか…………。
俺の頭上の豆電球が百万ボルトの輝きを見せた。今回のシンキングタイムは随分と短くすんだ。右側の口角だけをきゅっと上げて人に見せられない笑みを浮かべてみる。思い立ったアイディアがどこかへ消えてなくならないうちに下準備を済ませてしまおう。準備は手短で、俺は急いで二重にした紙袋に林檎を詰め込む。早速作戦実行だ。
ピンポーン………………
インターホンを鳴らして待つ。鳴らしてからなかなか人が出てこないから、俺は根気よく四回もインターホンを鳴らしてしまった。一番最初に鳴らしてから三分後くらいにようやく理央が姿を現した。
「よお、理央おせーよ」
「あ、大志ーっ!ごっめーん、色々出るに出れない状況でさ。てか、来てくれたの?嬉しい!犬猿の仲だから来てくれないかと思ったよ」
「だよなー、はいこれ粗品だけど」
「わっ!本当に!?ありがとう!」
「はは、いいんだ………………っじゃねえよ」
彼女はキョトンと首を傾げて不思議そうにこちらを見ている。俺と彼女が犬猿の仲ならば、世界中の人が知り合いか赤の他人以下の関係である。俺はもう一度玄関先まで引き返して表札を確認した。間違いなく西洋風の表札にアルファベットでNAKAZIMA と表記されていた。
「なんで理央が一樹の家から出でくるの!?」
「何でって、大志と目的は一緒だよ。高熱の一樹を可哀想に思って、お見舞いかつ看病しに来たんだよ」
「おばさんは?」
「なんか、今外出中。すぐ帰ってくるってさ」
ゆ、許すまじ、一樹め。すぐ帰ってくるにしても二人っきりは二人っきりだ。さっきまで一樹に同情していた自分があほらしくなる。その時先ほどの理央の意味深な発言を思い出す、
「ハッ…でるに出れない状況って………そういう……」
「へ?ああ、林檎剥いててタオルを探したらなかなか見当たらなかったの」
「本当に?」
「本当だよ」
彼女が粘着質に聞く俺に半ば諦め気味で答えてくれた。でも私的にはその辺を明確にしておきたいところなのだ。確かに彼女はいやらしい雰囲気が微塵も感じられないから信憑性はある。それに彼女のことは信じてるし、信じてあげたい。一樹のことは死ぬほど信じられないけれど。それが真実ならば、こいつもこいつで危機感がなさすぎて、少々腹がたつ。
「お前、もっと注意しろよ!」
「な、何にッ!?」
当然だけど、悪気のない彼女はどうして怒られているかさっぱり見当もつかないようだった。黒目がちな瞳が本当に分からない、と伝えている。教えてあげたいところだけれど、セクシャルハラスメントで訴えられたらこちらに勝ち目はないから止した。破廉恥な理由で勘ぐったのがばれるのも嫌だった。
「それにしても以心伝心だねえ。きっとディステニーだだよっ。ささ、中に入って」
彼女が俺の後ろに回って背中をグイグイ押した。
「ここ、お前の家じゃないだろ」
いつも通りだが彼女の愛らしさにやられて、あっさり許してしまった。俺は彼女の口から出た、以心伝心やらディステニーとやらワードを乙女のように反芻しては昇天しそうになる。そんな自分を客観的に評価したら辛辣なものとなり、俺は頬を叩いて自制心を無理やり取り戻した。
理央が無必要な一樹の部屋までの案内をしてくれた。彼の部屋は一階にあって、それは昔から変わっていないようだった。昔から犬猿の仲であり、仲人であるのも変わりはない。変わったのは、身体的なことだけだと思う。いつも身長を張り合っているけれど、今のところ俺が優勢だ。この先もあいつにだけは意地でも負けない。
ドアを開くと、暖かい空気がモワッと外に漏れた。全体的に家具はシンプルでスタイリッシュにまとまっているが、散らばった参考書がそれを台無しにしていた。子どもの頃から馬鹿でかい部屋だと思っていたが、相変わらず馬鹿でかかった。あいつの香りがする、ああーーーなんだかさっきから気持ち悪い、俺。ここが他人の家でなければ思いっきり頭をかき回したいところだ。広い部屋の隅に俺の持参した林檎より赤い顔の一樹がベットで寝ていた。
「来てやったよ」
「その様子だと一向に熱が下がってないようだな」
「来てるんじゃねえよ。君なんかお呼びじゃないっての、ゴホゴホッ」
帰れ、とは言わないし、地味に喜んでくれてるんではないか……と、彼の口数が少ないことをいいことに、都合のいいようにに解釈する。俺は許可なく勝手にその辺のフローリングに腰を下ろした。夏なのに暖房が付いていて、羽毛布団を被っている異様な光景。フローリングも若干温かいから床暖房が起動しているんだろう。彼がベッドの中で勉強することでさらにそれを引き立てている。
「はい、これ」
俺は林檎を一樹にさしだすと勉強の手を休め、彼は眼鏡越しに二重の目を丸くして驚いていた。
「君…………偶には気がきくじゃないか」
「だろ。恩に着な」
「えぇえぇえっ!大志のくせにそんな気が使えたのぉ!?うそ、私コンビニのお菓子しかもって来なかったわ!!」
「………いいじゃん、別に気持ちがあれ……」
「いーーーや、よくないね」
俺の言葉を踏んだんして一樹が言う。やけに溌剌としていてる。これはまたよからぬことを思いついたに違いない。よくないことを思いついた時の彼の常套句は、よくないね、であったからもう決定的である。
「僕もよくないけど、君のプライドの方がよっぽど重症なんじゃない?大志に負けて」
「それね!」
「いやいや、そもそも競ってねーし」
理央はベッドの上に肘を立てて、一樹の手をとり両手で握りしめると、
「私にできることならなんでも言って」
「いやあ、悪いからいいよ」
態とらしい。
「遠慮しないで!」
「そんなっ、本当に申し訳ないから」
お前そういうキャラじゃないだろ。
「風邪ひいてるんだから甘えていいんだよ」
「君に甘えられるのなんてロレーヌでもなきゃ…………」
如何にもって感じだ。そしてやんわりと侮辱されてるぞ、理央。近所に住んでいたやたらとお前に懐いた不細工犬のロレーヌは、二年前にご臨終したしな。
「なんなりと申しつけてっ!」
彼女が三度目の懇願をしたところで、彼がいやらしい笑みを浮かべる。どうやら策士のようで、まんまと騙されたみたいだ。 気付いていたけど彼女に言わなかったのは、さっきの仕返しとても言うのだろうか。これも彼の作戦のうちだったら悔しいが負けだ。
「そうだなあ、じゃあこれ!」
一樹は態度を豹変させて事前に用意されていたと思われる、希望のスマホの画面を見せてきた。それは表参道の竹下通りにある、ニューヨークから日本に初上陸した話題のドーナツ屋だった。流行に疎い俺でも頻繁にニュースで取り上げられていたから知っていた。なんせ待ち時間が二時間待ちとかで、某ネズミのいる遊園地のアトラクションの待ち時間のようだった。
「一度食べてみたかったんだよ。僕、これが食いたい」
満面の笑みだった。失笑と苦笑しかしないこいつがこんなに口角を上げていると企みしか感じない。ここから表参道まで行けないことはないが片道一時間くらいかかるだろう。ドーナツのために往復で二時間、もはや待ち時間は測りきれない、そんなの時間を費やしてるとしか言いようがない。まあ、彼女なら………
「わかった!行ってくる!」
予想の範囲内だから別に驚愕したりしない。
丁度おばさんも帰ってきた。俺は軽く会釈して林檎を手渡した。おばさんは大層喜ばれていて、少々良心が痛んだ。今度お返しするわね、と言われて粗品を渡しておいて厚かましいにもほどかあるが、一樹の家は大きいし衝動的に期待したてしまった。
「よし!じゃあ行くよ、大志!」
「は?何で俺まで行くんだよ」
「少しくらい付き合ってくれてもいいでょ!」
「そーだよ、大志。お伴してやれよ」
「迷い子になって俺のドーナツが届かなかったら無念極まりないからな。それか、健康な人間にとってはサウナ状態のこの部屋で、俺の話し相手にでもなるか?」
八方塞がりだ。こいつと部屋で二人きりだなんて、通常のサウナに入るよりむさ苦しい上に拷問としか言いようがない。ならば新しい案を出すまでまでだ。
「そーだよっ、私と一緒にいこーよっ」
「いや、俺は理央についていかず大志の話し相手にもならずに自宅に帰る、なんと言われようがな」
「おい、ひきずってでも連れて行け」
「ラジャ」
一樹が顎で指図すると、俺は彼女に引きずられていった。自主性のないロボットみたいな俺の意見はあっさりと黙殺された。強烈な二人のプッシュに、抗うことが面倒くさくなり、というより逆らうこともできずに、無抵抗で理央に連行されるのだった。
四
俺たちは駅近に住んでいて、最寄り駅まで徒歩で五分もかからないから、その間はカウントしないも同然だった。夏休み中だから学生や家族ずれ、更には地方の観光客で、車内はいつもより人口密度が高くて少し窮屈だった。けれど朝の通勤ラッシュ時とは比べ物にならない程度だった。
俺は右手で吊り革を掴みんだ。つり革の紐部分に抗菌と書かれているが、そんなのは当てにならないので、シャツの袖をめいいっぱいに伸ばして掴む。決して潔癖症とかではない。ただ、電車の複数のサラリーマンが握った手汗やら手垢やらがこべりついた吊革は不潔で汚く思える。これなんて指紋までくっきりと反転していて、正直に胸の内を明かすと、掴める人の気がしれない。自発的に手を黒くは染めたくはない。それでも平然と、彼女は長椅子の両端にある片方の鉄棒に掴んで横並びに立っていた。
「ぷっ、とどかねえのかよ」
「うるさいな、幼稚じみたこと言わないでよ」
彼女を態とらしく鼻で笑った。彼女が吊り革に届かなくても俺は届く。当たり前だ。俺は男子で彼女は女子なんだから。そんなことは分かっているなのに何故かあえて言いたくなったのは、やはり俺が幼稚だからなのだろう。彼女の前で虚勢を張りたかった。
無意味な他愛のない会話をした後、俺たちはそれぞれスマホ画面と睨めっこしていた。ゲームが一区切りしたところで、現実世界から無事に帰還すると、ふと右斜め下にいる人物にビビる。そういえば俺は今理央と買い物に来ているのだった。ゲームが白熱し二次元の世界に入り込みすぎて、すっかり忘れていた。その隣人も色とりどりの可愛らしいゲームアプリで絶賛現実逃避をしている。同じ人間とは思えないくらい端整な顔立ちの彼女の横顔を見て思った。
これはデートではないのか。あくまでも俺と彼女の間では買い出し、ということになっているが、はたから見れば男子と女子で彼氏と彼女だ。実際は違くても客観的に見れば見るほどそうにしか見えなくなって、俺は彼女に話しかけようとして横を見たけど、急に話しかけずらくなってやめておいた。
俺が勝手に気まずい気持ちになって口を噤んで困惑していると、
「大志、やっぱり怒ってるんだよね。昨日は本当にごめん、……興ざめしたでし
ょ?」
俺の感情が誤解されて彼女に伝わってしまったようだった。彼女はゲーム画面に目を落としたままだった。目を合わせるのを恐れてるのだろう。訂正が面倒くさいのでこのまま話を合わせることにした。
「な、何の話?」
「だ、か、ら、私がみんなを見捨てて我先にと退避した話!」
「ああ、いや、別に?普通の人間がああいう状況に陥ったら、本能的にとる行動でしょ」
彼女は漸くスマホの画面を消してこちらを見てくれた。いつも気が利いた事の言えない俺が、適切な返答を出来たらしい。
「普通なら、か。あの後大志はどうしたの?」
「一樹を連れて俺も逃げたよ」
嘘は、ついていない。
「あはははは、私と同じじゃーんっ。どうよ、腰抜け同盟でも作る?」
「丁重にお断わりするよ」
彼女が傷つくのは筋違いだった。しかし、俺の嘘を彼女は何の疑いもせずに丸々信じ切って調子に乗ったことを言い出すから、少々苛立つ。嘘をついて自分の思惑通りの展開なのに、つくづく俺も都合がいい。それなのに彼女を責められるはずがないではないか。
俺たちは昨日の事件を名ずけようと思考を凝らした。結果は二人ともネーミングセンスがないので、シンプルに、鴉鳩咀嚼事件と命名した。理央が通話アプリを通じて、すぐさま一樹に報告しようとする。一切合切悪いことをしているわけじゃないのに、またむず痒くなりいい気にはならなかった。
電車に揺られること一時間、明治神宮前の車内アナウンスが流れて、俺たちは人に押し出されるかのようにして下車した。と言うより、降ろされたの方がより的確かもしれない。まず人の多さに圧倒される。人混みがごった返していて、これも夏休み効果かと思ったけど、ここはいつもこれが普通でお祭り状態なのだから、わざわざオーバーリアクションをとって田舎人を丸出しにする必要もない。俺は喉のすぐそこまで出てきていた言葉をググッと飲み込んだ。
「すっごぉーーーーい!世界中の人がここに集結してるんじゃないのぉっ!?」
「………………もーーー。僕の画策を閃光の速さで壊すなよー」
彼女は非常に感銘を受けているようで、それに対して応答がなかった。まあ、田舎人を恥じるのもなんだか道理がないのだが。だから彼女を今回ばかりは真剣に罵ることができなかった。
とにかく人が多い日本の心臓。人々はショッピングを楽しみ、お金を供給している。毎分五リットルの勢いどころではなく、きっともっとヘモグロビンは排出されている。少し目を話すと彼女が、
「おぉーーーい。置いてかないでよぉ〜」
血流に漂流しているし、今回ばかりは一樹の言う通り俺がついてきて正解だったと思う。あいつの言うことは大抵正論であり正解なのだが、頭が秀でているからだろうか。何でもいいが腹の立つ野郎だ。結局俺たちはつまみ食いをしたりして酸素を送りながらも、目的地に着に中々到着できず、心臓内を巡り巡った。
俺たちは辛うじて竹下通りに着くことができた。初めて見た竹下通りはカラフルなパステルカラーで染まったいて、みんなが独自のパトスでそれぞれの魅力を築き上げていた。ピンクや紫の髪色でも目立たないのはこの街しかないだろう。クレープの香りで充満していた。ポップが四方八方にスプラッシュして、道端の花や飲食店に食べカスをつまみにきている鳩を色ずけている。
「すっげ……」
さっきまでその言葉を必死で堪えていたのに、限界に到達したようで思わず声が漏れた。
俺たちの通りだと思った。
そこにフリルやらレースやらを身にまとった若い同い年の女の子たちを加えて、その通りは完成していた。理央は
「すごぉーーーい…………」
と言って、少女漫画のような目にホワイトを入れて輝かせていた。特に俺はこのファッションが好きなわけではないので、いつか俺は理央がその路線に走ってしまうんではないかと心配になった。このファッションは男子には受けないと思う。多分、理央ならどんな服装も似合うし、第一俺が彼女にアバタにえくぼだからなんでもいいんだろうけれど。
竹下通りにくるまでに随分と時間がかかってしまった。原因は二つあるのだが、それもこれも原因は全て彼女にあった。
一方は理央が一々普段の町では見かけない高級店のショウウィンドウに見入いってしまい、中々離れないがために進度が遅れたこと。これは俺も決して関心がなかったわけではないから多少の共感の余地はある。もう一方は、…………
「すみませーん」
振り返るとこの景色に似つかわしい服装の女がいた。
「どうかされましたか?」
だいたい見当はついているが、一応そう呼応してみる。彼女は俺に目もくれず理央の方に向かって行き、
「あの、○○プロダクションの者なのですが芸能活動にご興味ございませんか?」
予想通りだった。理央の美貌に魅了されたスカウトマンが先程から五十メートルに一度くらい話しかけてくること、後者が今回の遅刻のより主な原因だった。
彼女の服装はワンピース一枚に定番のポニテールにノーメイク、という地味さにも関わらず美しさは健在で、滲み出る美貌はどうやっても隠しきれないらしかった。周囲の着飾った女子たちがいつかの見覚えのある目つきで彼女を睨んでいる。
理央はどこまでいっても人がいいのかただ単に満更でもないのか、両方あると思うけど、さっきから嫌な顔ひとつせずに笑顔で丁重にお断りし続けている。最初は俺も芸能人の幼馴染を持つことになるかもしれないと、むしろ彼女より興奮していたのだが、そのフィーリングがいつまでも維持できるはずもなかった。そろそろ嫌気がさしかかってきた。
あと、どれくらいで終わるのだろうか。もう随分と待たされている気がする。俺は彼女の服をスカウトマンに見えない位置で少しつまんで催促の意味を込めてくいくいと引っ張った。無反応で表情一つ変えずにスカウトマンと話している。終わりそうにない。もう一度引っ張ってみる。そしたら彼女が手を振り下ろすと見せかけて俺の手を払われた。相手にもしてくてないし、それが俺の気に触った。
こうなったら一か八かの賭けに出てやろう。
今度は彼女の服の裾ではなく彼女の腕を下の方で掴んだ。彼女が驚いたのか話していた口を一瞬閉じて、俺の方をちらっと見た。
吸が合った。今しかない。
俺は人の波を上手く利用して、うっかり押されたかのように見せかけて彼女を多少強引に引っ張って走った。
我夢中でひたすら前だけを見て走った。人なんかいないみたいに俺が先頭を走った。彼女の走力は俺についてくることはきついのは重々承知していた。だから逸れないように後ろを走る彼女の腕を滑らせて手をしっかりと握った。
表情は分からない。
彼女の息切れが聞こえる。
湿っていて本能を引っ掻くような声。
俺はその息切れに混じれるかすかな声を聞き逃しはしなかった。
「大志って、意外に力強いね」
そんなこと……俺だって思っていた。運動神経が俺ほどではないけど、秀でている理央がこんなに非力だとは思わなかった。さっき滑らせたときに気づいたけど、腕がこんなにも細いと思わなかった。そんなこと絶対に言わないけど。何故か。分からない。理央の怒りを買うから、きっとそれだ。
追手が来ていないか背後をチラっと確認すると、しつこく粘り強くついてきていた。人波を歩くことがあの人にとって有利なんだろう。彼女さえ逃がせばいいんだ。俺は後ろにいた彼女を強引に引っ張って俺の前にやった。俺がストッパーの役目として止まり、あの人を足止めすればいいのだ。どもって振り返った彼女に目で作戦を伝える、運命共同体の彼女なら俺の脳内の作戦をも理解してくれるだろう。彼女は一度だけ振り返ったけど、再び前を向いた。俺はそれを了解の合図としてつないでいた手を緩めた。少しもスピードを落とさず、シャンプーの香りをその場に残して、彼女は俺の前から走り去った。
一時も迷わず、放しかけようと緩めた俺の手を強く握り返して。
身体が先に引っ張られ、後から身体と頭がそれに追いつく。シャンプーの香りの惹きつけられるように引っ張られている。小さい小さい彼女の背中から解き放たれる、大きすぎる魅力と覇気に泥酔する。彼女の手が熱い。このまま触れていたら蒸発して溶けてしまいそうだ。
走っているからだろうか、それとも…………。
俺は熱伝導性がいいんだ。体温が上がって行くのが分かる。知ってるのかよ、理央。お前が一挙一動するたびに俺は神経とがらせて、一喜一憂してるんだぜ。
「いった、大志、痛いって!」
「うるさい、離れられたら困る」
お願いだから離れるなよ。君がいなくなったら、止めどないこの感情はどこに追いやればいいのだ、バーカ。ああ、もう、本当に、
……………………………好きだ
俺と君の体温が同じになった。
走っていたら目的のドーナツ屋にはすぐに着いた。後ろを振り返ってみると、見た限りだともう追っ手はきていないようだし、上手く撒けたようだ。お目当ての店はやはりネズミーランド級の長蛇の列だった。先頭辺りに横入りしたら、蛇を捕獲するときみたいに並んでいる人に噛まれずに済むんではないだろうか。そんな有り得ない上に下らない邪念を抱いてしまう程の長さだった。
真面目なザ・日本人の彼女は乱れた髪を整えながら律儀に列の最後尾に着いた。俺も彼女の傍に静かに黙って立った。個々でそれぞれ息を整えていたから、沈黙が続いても全然気まずい雰囲気にはならない。肺が通常運転しだすと彼女が小さな口を動かした。
「大志、ごめんねー。愛嬌振りまいてないで単刀直入に断っちゃえばよかった」
「いいよ、別に。結果オーライでしょ」
「えへへ、ありがとう」
えへへって何とも女子っぽくて可愛いらしいのだ。彼女はそれきり口を閉じていた。
密度の高い太く長い睫毛に囲われている、黒目がちで少女漫画のように大きな瞳。筋の通った鼻は、どうやって酸素を取り入れているのか問いたいくらいに小さい。唇は小ぶりでピンク、口角はキュッと糸できつく縫い付けたかのようだ。白い肌ははきめ細やかで、毛穴という毛穴が見当たらない。まるで人形のように端麗な顔立ちをしているくせに、運動もできて、社交的で、頭も上の中くらい。才色兼備という四字熟語は理央のためにあるのだと思う。学校の先生方が職員室で頻繁に彼女の将来について勝手に話し合っている。肝心の本人不在にも関わらず、しかも他人事なのに果たしてどうしてそこまで盛り上がれるのかいつも不思議でならなかった。
しかし今はとても共感できる。彼女の未来がとても気になる。きっと明るくて華やかな未来だから気になる。
「理央は将来、キャビアテンダントにでもなればいいと思うよ。きっと向いてる」
自分の知っている職業の中で彼女に最もふさわしい職を適当に言ってみた。
「CA ね!!確かに素敵だよねー。でも私には他に夢があるからさ。そのために今勉強頑張ってんの」
筋肉が大して無いくせに筋肉ポーズをとってにこやかに笑っている。夢があるだなんて初耳だ。
「あっそ、でも別に勉強そこまで頑張んなくてもよくない?」
「ほう、どうして?」
「……」
「女子だから」
今考えると迂闊だったと思う。明らかに男女差別的発言で、この間公民で習った、えっと…………あ、男女雇用機会均等法に反していた。ただ、その時の俺は気づく余地もない。
「…………………いま、なんて言った?」
「だから、女子だし別に勉強頑張らなくても……」
こまで言って、ようやく俺は周りの邪悪な雰囲気を察知した。心なしか頭上のずっと先は暗くなり、隣人からでる得体の知れないチャクラで大気が大きく動かされ、それは上昇気流となり積乱雲を生みだしているような気もする。空が今まで溜め込んでいた涙を堪えきれなくなり、ポタポタと流し始めて服に滲みる。長蛇の列もさっきまで割と順調かつスムーズに進んでいたのに急に進度が落ちる。そして何より、饒舌な隣人が無言なことが恐ろしく、逃げられないその場を、臨場感と緊張感でパンクする寸前までいっぱいにさせている。さっきまで発熱しそうなくらい体温が高かった俺が、刹那の速さで手先まで冷たくなった。そんな不自然な態度を取っている俺を見かねた彼女はどかか不気味に笑った。
「女だから勉強しなくてもいい?」
彼女の口は笑っているけれど、目が座っていて微塵も笑っていない。実際に心は少しも笑っていないんだろう。笑顔の裏腹にある怒りがジリジリと伝わってくる。雨が酸性雨になったんだろうか。一粒一粒が痛いくらいに身がしみる。彼女は頭の位置より手を高く振り上げ俺の左頬を高い音を立てて叩き当てた。
「ふざけるな、男だからって図に乗るんじゃないわよ!!」
さっきまでちっとも回らなかった首が左頬にだけ紅を差して根性もなくあっさり横を向く。それと同時に彼女は唾が飛び散る勢いで一気に全てを吐き捨てた。俺は驚きのあまり声も出せなく呆然とした。周りが視線をこちらに集中させる。あんなに温厚な理央が声を荒げて仕舞いには暴力を振るうだなんて信じがたいけど、現在進行形でそれは事実だ。理央はなんとも険しく醜い剣幕で話し始めた。
「あのね、類は友を呼ぶのよ?頭のいい大学に進学できれば、頭がよくて将来性のある人と結婚できる可能性が上がるの」
「女は結婚っていう逃げ道があるから姑息だと、男はそんくらいにしか思ってないんでしょ?」
そんなことまでは言っていない。と言うか、自分の今の性別に満足しているからか考えたことすらなかった。けれど今までの経験からするとここはすんなり彼女の意見を聞き入れたほうがいい。刃向かったところで才女の彼女に語彙力で圧倒的に負けてるし、百パーセント俺が正論だったとしても何だかんだ屁理屈つけられ押し通されてしまうのは、もう言わずとも目に見えていることだった。だから黙って耳を傾けることにした。
「確かにね、何があっても自分だけの男よりは楽よ、でもね…」
「こっちだってねえ、高学歴のイケメンと結婚して玉の輿に乗るのに必死で命か
けてんのよッ!!」
こ、怖い。怖すぎる。なんだか大袈裟に表現しなくても、恐怖のジャンルは別として昨日の鴉鳩咀嚼事件よりも怖い。恐る恐る勇気を出して聞いてみた。身体が硬直してしまい、情けないくらい振幅が小さいく変動の激しい声だった。
「じゃあ、理央の夢は玉の輿に乗ることなの?」
そしたら突然、彼女が俯いて黙りこくってしまったから地雷踏んだのかと思って、全身の親善代謝が急速に活発化する。どうかまだつきたての弱火に大量の油を注ぐような真似は……
「………………少し前まではね。でも今は違う」
俺はホッとして肩の力が無意識に一気に抜けた。運良く大量の油ではなく、水を注いだらしくて命拾いした。彼女は周りの注目を浴びていることに気づいたのか、多少落ち着きを取り戻していて更にそれに安堵する。
彼女は今まで俺を横目で睨みつけるように話していたが、俺と対面する方向へ身体ごと方向転換させた。
彼女と必然的に目が合う。そして不覚にもときめく。
その時俺は初めて気がついたんだ。
彼女の瞳はいつも澄んでいて美しい。
なぜならば、大きいっていうのもあるけれど強い生命力を宿らせたような目力だから。
確かに今日も澄んでいる。
しかし 今俺とアイコンタクトを取っている目はいつもと同じではない。
訴えるものが何もない喪失感。
節穴のような空虚感。
そして、瞳から酸性雨。
これを何かに例えるならば、よく言えば死んだ魚のような目。
悪く言えば…………―――、昨日の鴉と瓜二つだった。
俺は愕然とした。
常に元気発剌で天真爛漫でおまけに才色兼備な社会的に高い位置にいる俺の幼馴染。あの三人の中だと最も世渡り上手に生きていける要素を兼ね揃えている。はっきり言って、苦労なんてないと思ってた。完全にないと思ってたわけじゃないけど、あったとしてもたかが知れていて、ないのと同然だと思っていた。
ないはずなのに、如何して……
彼女はこの世界の怠惰を解放するかのように、走って崩れた一つで結っていた髪をほどく。シャンプーの香りが周囲を漂わせて俺は頭が少しぼーっとしたので、理性を取り返し気を確かにするため、頭を左右に激しく振ってみた。
「少し前まではそれが夢だった。それを叶えたら幸せになれると思っていた。きっとそれは間違っていないとは今でも思う」
「でも、受験を通して考えが変わったのよ」
やはり受験か。受験が理央をこんなにも変えたんだ。許さない、絶対に許さない。急に今まで溜め込んでいた受験への憤りが溢れ出てくる。
学歴がなんだというのだ。MARCH 卒、早慶上理卒がなんだ。
確かに俺は突発的に勉学ができない奴は嫌いだ。人並みに努力ができないのは人間性に陥落する。しかし、中学時代の学年ビリ男が学年一位と比べて何か人として劣っていたか。
人事において偉い奴らというのは、履歴書のたった一枚のピラピラの薄い紙でそいつの人間性が図り切れるとでもいうのか。B5判の用紙に自分の全てを可能性を完全に表せきれるというのか。数回の面接でその人の人柄を決定してしまいのか。調子にのるな、お前らどれだけ偉いんだよ、人としてどれだけ高級なんだよ。無茶を言うな、お前らが俺たちの希望を殺しているのだ。この世はいかれ狂っている。
下らない下らない下らない下らない下らない下らない下らない下らない下らない下らない。
下らない世の中に生まれちまったなあ。返せよ、俺の理央を。こん畜生…………っ。
「私のやりたいことってこんなことじゃなかったなーって……」
俺は心の中の闇の感情と激しく葛藤していたので、彼女の話しを全く聞けていないから、何処まで話しが進んでいるのか見当もつかない。俺はうっかりはーっとため息をついてしまったて、急いで吸い込んで幸せを回収した。彼女か再び俺に横顔を見せる。
「私の夢聞いてくれる?」
長く細く揺れる髪で顔は隠れていたけど、風に靡いて時折覗かせるその表情は儚く微笑んでいた。声の振動で彼女が消えてしまったら嫌だから、俺は息を殺すようにして上下に首を振った。
「笑われちゃうかもしれないけど、私、将来家庭を築いて、私の作った料理を美味しいって食べてもらいたいの。それが夢なの」
再び俺に横顔を見せる。
「小さすぎて失望したでしょ?」
今度は過激に左右に首を振った。小さいとは思ったけど、心底失望したりなんてしたりしない。俺の夢なんて、デカすぎてデカすぎて………………。自分のことを棚に上げて人に文句を言う権利は俺になかった。
「ありがとう。でもね、客観的に見て自分でも狂ってるし、イカれてると思うのよね。でもね、私この夢はノーベル賞とることよりも凄いことだと思ってるの」
俺の行動をまたしても誤解されてしまったようだが、やっぱり面倒臭いので言い直しはしない。前言撤回だ、彼女は才女ではなかったらしい。彼女がその世界的にも有名な賞を知らないらしいから、知恵を貸してやることにした。彼女は気を取り戻してきたようだし、俺の興奮も冷めてきていた。
「ノーベル賞?世界で最も功績を残したやつに贈られる賞だぞ?」
「そうそう、」
彼女は意図的にあえて高い声で話しているようだった。知っていたようだった。よって、信じ難いが正気で言っているみたいだった。
「ノーベル賞を取った新たな細胞を発見した科学者よりも、世界にその名を轟かせる小説家よりも、貧しい国でボランティアをする人よりも、…………」
彼女はたまたま通りかかったベビーカーを押しながら子どもをあやす、二十代前半くらいの若い母親を指差して言った。
「あのママの方がよっぽど立派で偉大に見えるの。それくらい、私はこのささや
かな夢に誇りを持っている」
晴れやかで希望に満ちた表情をして真っ直ぐ前を向いていた。その顔はさっきとは打って変わって輝かしくて、思わず目を細めてしまうほどだった。俺は目元を手の甲覆い隠すと、ふと出た疑問を投げつけた。
「でも、その夢は勉強に勤しむ必要はないよな?」
「確かにね、私は普通科の高校に行く予定だけど、卒業後は専門学校行く気だし」
徐々に取り留めのない話になってきた。専門学校に進学希望のくせに勉強を頑張るだなんて合理性がなさ過ぎる。
「頭のいい高校いって高校生になって、青春して、賢い人と恋に落ちて……、専門学校にいって技術を得て、結婚して家族のために料理を拵える」
あ、なるほど。将来を見据えて頭のいい高校に進学して、懸命で誠実な奴と関係を持ちたいってことか。彼女は人間とは思えない顔立ちをしておいて、意外に腹黒くて打算的な人間らしい人間だったみたいだ。別にそれくらいで彼女を嫌ったりしない、むしろ好きになる。彼女にするなら学力とかは置いておいてあらゆる面でクレバーな子がいい。
「今を生きるには学歴は必要なもので学歴なしなんて通用しないけど……」
俺の顔の前に人差し指と親指がそるくらい力を入れて突き出して、覗き込んだ。
「学歴は夢を叶えるための過程に過ぎない!!」
「勉強をめいいっぱいしてノーベル賞を獲得したって、この夢が叶わなきゃ意味
ないわ!!」
まるで何か悟りを開いたかのように花がほころぶような笑顔を見せていた。もう一度目を合わせた時、彼女の瞳はやっぱり鴉のままだった。しかし、奥に大きな力が宿っていた。さっきとは違う、いつもとも違う、目。
理央。君はいつからそんな顔して笑うようになったんだ。少し知性を兼ねて大人になるにつれ出てくる魅力もあるのかもしれない。今の彼女も高飛車で美しい。空は雲がどこかへ去って行き、列の進み具合もまた快調になった。
「理央、ありがとな…………」
「…………は?何唐突に?気色悪いんだけど?」
「おい、人が感謝してるのにその態度はどうなんだよ?」
……………俺の血迷いを消してくれてありがとう。やっと俺たちの番が来て、海外の雰囲気が漂う色とりどりのドーナツを、様々な感情が交錯して思い募って俺たちは無駄に大量購入した。大量のドーナツを二人で分担して持ち帰ることにした。相手に気づかれないように少しだけ俺が多く持つ。横に寝かせておいてあるドーナツは随分とバランスが取りにくい上面積を食って、人ごみの中を歩くのはなかなかの至難の技だった。最初の方は気を遣っていたけれど、 十分もすれば食べ物は味、と、二人で割り切って開き直っていた。学習能力の高い理央は人波を歩くのにも慣れたのか、ドーナツを振り回しながら軽快な足取りで駅に向かう。やっぱりまたしてもその背中を見つめて歩く俺。君が今回俺の血迷いを消してくれたのは一つばかりではない。それはある決意をさせた。
「なあ、理央」
彼女は振り返らずに前を向いて
「なっにーっ???」
ご機嫌な口調で返答してくれた。彼女はよくよく見るとこの人ごみの中で小さくスキップすらしていた。もしかしたら俺の今からの発言で彼女の機嫌を一気に損ねるかもしれない。けれど、言わなきゃ始まるものも始まらない。
「あ、あのさ」
「うんうんっ、なんだーいっ?」
「あのさ、俺、やっぱりお前は勉強しなくていいと思うんだよね」
「えぇっ!?まあーだそんなこと言ってるわけー?さっきの私の懸命な力説は大志の胸に届いてなかったってわけかッ!?」
「ガッカリだね!落胆するよ」
「いやいや、そうじゃねーしッ」
俺は少し滑りやすくなったドーナツの袋の持ち手を必要以上に握った。
「そうじゃなくて…………」
今顔歪みすぎててすごく不細工になってる気がする。元々群抜けていけ面なわけでもない、ってことは尚更ひどい顔してるに違いない。どうでもよくないけどどうでもいいくらい高まる緊張感。人ごみに紛れて聞こえないでほしい、でも、君に届いて欲しい。この心境を素直に………
「いつか俺がもらってやるからさ」
…………………無音。こんなに周りは騒音や雑音だらけなのに俺の動機しか聞こえない。理央が振り向く、何だかもう返事なんてどうでもいいような気がしてくる。振り返る理央の動きがスローモーションで俺の目に映る。心なしかいつもより可愛く見える。理央は俺の前にずんずんと近づいてきて、首を若干かしげて覗き込んできた。
「ねえ、今なんて言った?」
……………出たお約束。俺は顔が引きつって、右の眉だけがやけに小刻みに動く。
「……………―――あーぁあっもう!耳遠いなババアか!無駄にナーバスさせやがって!もう二度といってやんねえ!」
「酷い!逆ギレしちゃってんじゃないわよ!!あんたの声量が小さいのが悪いんでしょうが!」
俺たちはその後もギャアギャア揉めながら電車に乗った。車内迷惑にならないように極力気を配っていたけれど、多分、いやかなり迷惑かけていたと思われる。
そんな状況下でさえ、俺は電車が揺れて君がフラつき俺の方に倒れればいいのにな…………なーんて甘い妄想したりした。意識が彼女にしか回らなかった俺は、行きより濃くなった吊り革の指紋に新たなる指紋を刻んでいるのであった。
玄間に着くと割とさっぱりした顔の一樹が、手を前で組んで仁王立ちで待ち構えていた。
「おせえよ、まさか寄り道でもしてたんじゃねえだろうな?もう6時だぞ?夕食になっちまうじゃねえか」
熱は引いたんではないかと思われる。
彼は案の定怒り心頭の様子でいつもならそこで彼女が宥めるのだが、今は疲れがたまって気持ちの後制御ができない彼女が珍しく口を出した。
「文句言わないでよ!!すっごい苦労したんだから!」
「それは俺の台詞だよ」
俺は割って入る。事の発端は全て彼女のせいなのだから、彼女がそれを言うのは相応しくない気がする。彼女が頬を膨らませて、
「はーい、文句言ったお詫びに今度私に勉強教えなさい」
「そんなこと?いつでも教えてあげるよ、低脳な君の学習内容なんて大したことないからね」
「わーうざったい!けど、やったね!そうだ!どうせなら勉強合宿しない?一樹の風邪が完治したら皆んなで」
「理央、いい発想するね」
彼女がまたよからぬ思いつきを後先考えずに口に出す。
「いや、俺は遠慮しとくよ」
「大志だってペーパーテストあるんでしょう?なら絶対に無駄にはならないか
らこよう」
「おまえ、 do or lost の二択しかないんだからな、即決で do だろ」
「しかも、オーバーヘッド全然できてないしね」
二人の意見はご最もで、ただでさえ能無しの俺の頭を槍でグサグサにとどめを刺してくる。秀才なこの人たちと勉強するだなんて劣等感ばかり感じて勉強に集中できないし、恥を掻かせられるなんて真っ平御免だ。このまま二人に乗せられて参加することは十分に予測できるので経過は割愛する。理央は家について気が緩むのと同時に、口のチャックも緩んでいつもの調子で呂律がフル回転しだす。
「皆んな超いまめかしくてさ、あきれたよ」
「その言い方が既に時代遅れな気がするけど」
「君は頭いいふりして温故知新と言う言葉を知らないのかな?」
「いやいや君こそ、吐故納新って熟語をご存知ないのかな」
多分腹が減って二人とも血糖値が下がっているから不可解な会話をしているのだろう。内容の大半が全く意味が伝達してこない。俺は手にぶら下げたドーナツを二人の目線の高さの位置まで持ち上げて
「取敢えず、食べようぜ」
笑顔でその場を繕ってみた。一樹は期待して一番乗りにドーナツの箱を開けて声にならない悲鳴をあげた。中身は俺たちがなんの配慮もなく持ってきたがために、ドーナツのトッピングがグチャグチャに混合していたのだ。色合いは完全に、黒。
「理央…………」
「大志…………」
と理央はとっさに目を合わせて目を見張ると、別に分けてあったそれぞれ自
宅用のドーナツ袋を素早く取って玄関に向かって猛ダッシュした。
「こら、待て!お前ら!」
呼び止める一樹を無視して走る。今止まったらきっと命は………………ない!
「お大事に!お邪魔しました!」
そう言い捨てて逃げ去っていった。
その後一樹は医者に一週間はかかると診断された風邪を僅か二日間で奇跡的に完治させ(まったく、どんだけ楽しみにしていたんだ)、夏の終わりに俺にとっては生き地獄の勉強合宿が始まるのだった。
五
朝日が昇る前に部活に出て、汗だくになって帰ってきた俺はまずシャワーを浴びた。女性用のシャンプーを使って気分をリフレッシュすると、上がってから心地よくなって布団に横たわり寝ようとした。母さんがお昼におにぎりがあると言っていたけれど疲れ過ぎてそれを食べる気力すらなかった。俺の脳内サミットが開催された結果、食欲より圧倒的に睡魔が大勝したのだ。心おきなく眠りに就こうとしたところ、どこかの常任理事国が大事なことを思い出して、その事案は急きょ廃止となった。
俺にはやらなくてはならないことがあった。今日からの二泊三日の勉強合宿に備えてその最終荷物確認を行わなくてはならなかった。歯磨きにパジャマに下着類、肝心な勉強道具を狭い自室にめいいっぱい広げて合宿に持っていく荷物を一つ一つ念入りにチェックしていく。こういうところには異常に丁寧で余念のない俺は、常日頃から忘れ物をなかなかしない。
決してナルシストというわけではないけれど、これは自分の好きなところでもある。対して俺の悪いところといえば、根性なくて、自主性がなくて、人を信じないところとか、山の数ほど出てくるからもうよそう。わざわざ自分の首を絞めて窒息死する必要はない。人間は自分のことを多少好きでないと生きていけないのは確かなことだし、自分の悪いところだけではなくていいところも見つけ
ることも大切だと思う。勿論それは自分のことことに限らず他人のこともだ。
理央のいいところは考えずともパンパン思い浮かぶ。才色兼備で元気良くてコミュニケーション能力が著しく高い。悪いところは、疲れてくると短気になるところ。要するに気分の変調が激しい気分屋、といったところだろうか。それを含めても総合的に彼女ほどできた人間はいないと思う。
続いて一樹だが、あいつ生まれた時から一緒に居るけれど未だによくわからない。歴史や英語の暗記科目は知識がないと解くことことはできない。あいつもそれと同じだ。知らないものを熟考しても無意味だけれど、一応頭をまわしてみることにした。あいつのいいところは…秀才で、TPO に応じて臨機応変に対応できて、いい意味でストイックで、努力家で、物事を単刀直入に発言できて、自我を貫き通していて、台詞回しが得意で…………なんてことだ、アンビーリーバボー……。絶句しそうだ。なんと全然理央よりもいいところが思い浮かぶではないか。彼のことを、胸糞よく知っていているではないか。俺は遂にヘディングのしすぎで元々悪かった頭がパーになったらしい。あいつは君子であるかもしれないが聖人ではない。しかし、同時に悪いところも思い出せる、口調が悪い、毒舌、利己主義で自己中、暴力的、態度がでかい、表情が乏しいなど結果的にはプラマイゼロでノープログラムだ。あいつがいい奴ならば世も末である。 そんな邪気が宿った考え事をしながら確認していたので、ぼろが出た。二泊三日でなのに下着が一枚足りなかった。下着は一階の風呂場のクローゼットに家族三人分一箇所にまとめて分別されて置かれている。さっきから準備のために何度も老朽化した階段を行ったり来たりと往復しているので、この上なく面倒くさかった。
重たい体をなんとか持ち上げてまたミシミシと音を立てて階段を下る。脱衣所にたどり着いて、一歩踏み出すと小指一点に激痛が走った。
「ッつ〜〜!!」
俺はでかい図体を最小限に縮めた。足の小指を手で押さえ痛みを噛み締める。どうやら小指に何かが当たったようだった。意識が朦朧とする中、俺は加害物を認識するべく少し斜め後ろの事件現場を見た。そこには見覚えのある段ボールがあった。我が家は入浴剤を好む奴はいないのに何故か少しフルーティーな甘い香りが脱衣所に香っている。とてもとても嫌な予感がした。痛みが和らいできたところで俺は段ボールの中を思い切って覗き込んでみた………………予感は的中していた。
中には不恰好な林檎が大量に敷き詰められていた。恐らく二日前に送られてきた青森の祖父母から送られてくる第一便に続く第二便といったところだろう。相も変わらず、見た目の凹凸の激しいものや、表面が削れたもの、熟しすぎて腐りかけたものなど様々にあった。
「いたたたたーっ…………」
今度は猛烈な腹痛が俺を襲い、もう一度縮こまる。あの目まぐるしい林檎地獄ライフのリターンズである。どうしようか、今度はどう始末しよう。今回はどれだけ思考を凝らしてもいいアイディアが思い浮かばなかった。仕方がないから前回と同じ手口でいこう。あいつの家に三日間お世話になるからと、母さんが事前に用意してくれていた物とカモフラージュして入れておこう。そうしたらばれないに決まっている、大丈夫だきっと、うん。小指も腹も鈍い痛みが鎮火しないが踏ん張って下着を取り出すと、そんな痛みを感じさせない足取りで自室の押入れの奥に常日頃から貯めてある紙袋を取り出すために猛ダッシュで階段を駆け上がった。
やがて階段がいつもより大きなギシギシという音を立てて脱衣所に戻ってくると、汚いものの中でも美しい、良質なものを自分なりに選抜して二枚重ねの紙袋がはちきれる寸前までいれる。できるだけ隙間ができないようにそれぞれの林檎の形状計算して詰め込んむのがポイントだ。というか押し込んだ。これでよしと。
二袋分くらい持っててもこっちは全く差し支えないがあちらに感づかれてしまうかもしない。図々しいけどやっぱり立派なお返しが欲しいしそれはなんとも回避したい。このあいだのおばさんの笑顔が側頭葉で記憶の整理をしているらしいのに感覚的には前頭葉辺りにパッと思い浮かんだけど頭をふるって邪気を振り払うと、心を鬼にして持っていくことにした。あいきゃんどぅーいっと、よし。
俺は自宅の続きを続行し二時に一樹の家に集合ということだったので、五分前に着いた。
六
ピンポーー……バンッ。俺がインターホンを押したと同時に一樹が勢い良きドアを開けてそれを面食らいそうになったので、ビビり焦って足を一歩引いたら階段を踏み外しそうになって余計に冷や汗を掻く。
「遅いぞ、全く。僕に暇を与えるなんて、君はどんだけ偉いんだ?」
「五分前集合してるってーの!それにしても危なすぎだろ!絶対ドアの前で待ち構えてたんだろ!」
ジェット機じゃあるまいし、でなければあの速さはありえない気がする。
「ああ、待ち構えてたよ。君じゃなくて理央をね」
俺より階段の一段上にいる彼は嘲笑うかのような微笑を浮かべていた。俺の大動脈が切れかけた。しかしここで怒りをあらわにしては紳士ではない、そう自分に言い聞かせる。俺は一樹とは違うのだ。
「そ、その言葉後で理央に伝えてやるよ」
「別に。好きにすれば」
このくそ暑い真夏日に白シャツと黒のロングパンツを着こなした彼は、身長の割に長い足をスマートに運んで家の奥に入っていった。チッ、なんだか負けた気がした。この調子だと先が思いやられる。自分でもよく理解できないけど、突然、この家に入るのを身体が躊躇った。改めて建物の外観を見てみると洋風の白くてでかい威厳のある家で、隣の小さくてボロい家を引き立て役にしていた。その向かい側に立っている、理央の家。もたもたしていると奥から催促の声が聞こえるので俺は早急にお邪魔した。靴をいつも放りつけてるが一応人様のお宅なので丁寧に靴を並べるとおばさんに軽く挨拶をして粗品を渡すと、一樹の部屋へ直行した。
彼の部屋はこのあいだの家具にプラスして、ちゃぶ台が一つ設置されていた。恐らく、俺と理央はここで勉強することになるのだろう。それにしてもちゃぶ台という言葉かなんて似つかわしくない風情の部屋なんだろうか。潔癖症を彷彿させるような清潔に保たれた周りには、自然と身を引き締められる。前回訪れた時とは打って変わって、布団は羽毛布団からタオルケットになり、暖房からクーラーになっていた。さっきまでの汗はもう粒子となってこの部屋の中を浮遊している。
一樹が勉強机の椅子に飛び乗るように座ると勉強し始めた。俺も用意されたちゃぶ台の上に持参した教材を拡げてどの教科をやろうか迷う。俺は物事を考えてから口に出す、と言うより、口に出してから物事を考えるタイプなのでやっぱり今回も先に口に出る。
「なあなあ、どの教科がいいと思う?今は理科の気分じゃねーんだよなあ」
「じゃあ数学だな」
すっかり無視されるか逆上されると思っていたから、応答してくれるとは予想外の反応だった。
「今俺もやっていて、教えるときに違う教科にすると切り替えに疲れるから。あと、習得に時間がかかるから」
なるほど。でも後者は共感できても、後者は教える側に回ったことのない俺には到底理解しがたい。
「そうか、数学にしよう」
「てか、ぶっちゃけ計算のスピードだったら一樹に勝てると思うんだけどなー」
「あははっ…………」
一樹は回転式の椅子を回して俺の方に体を向けて、神妙な趣でこちらを見つめた。
「君、それ正気?」
「勿論」
「俺は君がサッカーしてる時間死に物狂いで勉強しているんだよ?」
「知ってるよ、お前勤勉だもんな」
「承知の上で言ったの?君さあ………どれだけ馬鹿なの?」
「いやいや、今回は真面目に自信あるかッ!!」
「ふうん……」
一樹が案外すんなり受け止めたので俺は驚く。それともまたいつもみたいに面倒くさくなってしまったんだろうか。
「じゃあ、今からゲームしよう」
「おお、いいねえ。俺、Wii がいい!!」
俺はあるはずのない尻尾を振って、ヘアの片隅に置かれているテレビに駆け寄った。電源をつけようとしゃがみ込む。その背中に冷めた声が降りかかった。
「Wii はないよ」
「……友達に貸してるのか?」
「いや、捨てたんだよ」
「は!?捨てた!?どうして!?」
彼はつい一ヶ月前まで新しいカセットを買ったと高らかに俺に自慢してきて、羨ましく思ったのをよく覚えている。それを捨てただなんて冗談はその性格だけにしてほしい。まず彼の心中を聞くべきだ。何かそれに見合う意図があるのかもしれない。俺は彼の方に頭を向けると彼は再びシャープペンを走らせてしれっとした表情でこう言った。
「ゲームへの要求が勉強の妨げになるから」
「…………」
「そ、それだけ?他にも対処法あっただろうに。押入れの奥に押し込むとか、親に預かってもらうとか」
「でもこのくらい徹底しないとさ」
嘘だろう……、しかし、彼らしいといえば彼らしい。部屋を改めて物色すると必要最低限のものしか置かれておらず、恐らくゲームや漫画、その辺りの勉強の邪魔をするものは全て排除したのだろう。意識の違いを目の当たりにされ少々焦る。これは上の上の奴がやることで俺がやることではないから気にしなくていいと自己暗示を繰り返す。
「という訳でWii はないよ。でもゲームはするし君も参加するよ、強制的に」
「別に嫌じゃないからいいけど」
なんだかWii をしている場合ではないような気がしてきたが、俄然やる気な彼に付き合ってやることにする。一樹はゲームが中々の腕前で俺と張り合えるくらいに強かったから、力がほぼ互角で勝敗が見えないから楽しいのだ。Wiiではないけれどゲーム好きな俺は内心ウキウキで聞いてみる。
「早く何でゲームするか言えよ」
「じゃあ、発表する」
「…………」
「今から三日後、つまり合宿が終わるまでにどちらの計算タイムが早いか勝負!!」
「……それゲームじゃないじゃん」
「ゲームに勝負はつきものだろ」
俺は期待とは大きく外れたあまりにも古風なゲームだったから萎えて当然やる気も下がった。ゲームと言えばテレビゲームかオンラインゲームしか頭になかったのだ。現代っ子は普通はそうだ。彼は、はーっとため息をついて俺を横目で見てきた。
「どうした?急に怖気付いたのか?」
「ちげえよ、やりたかったゲームと的外れだったからさ」
「そうだよなあ、お前は馬鹿のくせにプライドばかり高いからなあ。自分で自分の首絞めていてさぞかし苦しいだろうに」
「うるせえよ、やったらあ」
彼の一寸先には凶悪な俺のご面相があるに違いない。なんだか、彼の策略にまんまと乗せられている気もしなくはないが、ここまで言われて黙ってはいられない。彼はくすりと笑って、
「そうこなくちゃ始まらないよなあ。でもやっぱり、速攻ゲームしようとしていた意識の低い奴には負ける気しないな」
「何だとてめえ……」
「そっちこそ」
一樹の方に豪快な足音を大きく立ててずんずんと接近する。一樹も椅子から立ち上がり、拳を握って関節をポキポキ鳴らしている。そして開始のゴングが鳴り、俺たちは互いに殴り合う。格闘に関しては無知なのでガムシャラに殴り合い、時々手ばかりに集中していたら足の攻撃をまんまとくらった。素人が適当に暴れているがなかなか激しい。この世界では知恵が貴重とされているが、最も重要なのは武力ではないかと疑わせるほどに。現にさっきまで学力で戦おうとしていた俺たちは殴り合っている。世界は戦争で物事を解決しようとするし、実際にはそうなのかもしれない。でも今を生きるのに必死な俺たちに、そのようなことは果てしなくどうでもいいことだった。
その時、部屋に一つしかないドアがバンッと開き風とともにいい香りが吹き抜けた。
「やっほーーー!!みんな勉強はかどってる?」
「おう理央か、元気溌剌だぞ」
「おお理央か、良好だよ」
と言って俺たちは互いに攻撃をする。
「いやいやいや、元気よすぎて迷惑だから!!」
俺たちは気にせず殴り合っていると、ベリッと絡み合っていた互いを引き剥がされた。そして頭に刺激を受けてその刺激は益々強まっていく。確認すると理央が俺たちの頭をまるでネジを打ち込むように叩きつけていた。
「もう、あんた達はーあっ!!大人しくこれをくらって反省しなさい!!」
ぎゃあああああああああああああああ……
男二人の悲鳴が日本の裏側のブラジルにまで届きそうだった。よって、女の子には手を出せないジェントルマンな俺たちは、ほぼ無抵抗で手加減を知らない彼女にフルボッコにやられた。やはり武力を行使して平和を築くのは良くない。
「いい?君たち、そんなでかい図体して喧嘩なんてしたら家が崩壊するよ」
「は、……はひ。もうじません」
身がボロボロな俺たちは彼女に正座させられて、二人並んで説教をされる。様々なところがひしひしと痛んで、その説教が右から左に流れていく。特に頭が酷い。CT検査を行うべきだと思う。
「二人で先に楽しくしてるなんてズルい、仲間はずれはよくないよ!」
遂に本音をあらわにした。怒りの理由の主な原因は後者らしい。全く大遅れしたご身分で何を言っているのだか。まあ、彼女の気を余計に逆なでするだけだから胸の内にとどめておこう。彼女は俺たちに同じ内容を何度も何度も繰り返して罵り続けた。暫くすると気が済んだのか、もう良し、と言ってちゃぶ台の空いている場所に文系の教材をひろげた。
すっかり脱力して落ち着きを取り戻した俺も、理央と対面してちゃぶ台の前に座った。一つちゃぶ台を二人で向かい合って共有するなんてなんだか夫婦みたいだった。よからぬ妄想が暴走して勉強に集中できなくなるといけないから、理性を立てなおした。。
参考書を読んで基礎問題から実践してみる。基礎を徹底的にやり込めるのはもう夏が最後だ。この機会を逃すと受験に失敗するといっても過言ではない。夏に全てがかかっている、だから受験生の夏は「勝負の夏」と言われるのだ。
一樹とはゲームという名の勝負中なので、計算問題を意識して俊敏に解く。俺は元々計算が早い方だからやり込めば確実にもっと伸びるはずだ。三人が虎視眈眈と問題を解いているとちゃぶ台の二人は所々わからない問題が出現する。その度に止む終えず、一樹先生にお知恵を拝借しに参るのだった。
理央がさっきから小声で唸っていて、そちらに気を取られ全然問題に集中できやしない。一樹に聞きに行くことを勧めると、嫌、と眉毛をハの字に曲げた渋い顔で断固拒否された。さっさと聞きに行けばいいものを負けず嫌いの彼女は限界まで自力で粘る。全く迷惑と思う反面何とかしてあげたい。彼女の問題を盗み見して自分なりに解いてみるも、下の中の学力の俺に何とかできるわけがなかった。そもそも俺と彼女では文理が分離しているから無茶なのだ、……我ながら寒い。彼女が立ち上がった。
遂に観念しだようで彼の傍まで行くと、問題の問題ををペンで指差した。
「うーん、一樹ここよく分かんない」
「うんうん、それはね、相似と二次関数が融合した応用で〜……(何を言っているのかは理解不能)」
「へー、そうなんだ。さすが一樹だね。ありがとう!」
「はいはい、後からちゃんと自分で解き直しな」
先ほどとは打って変わって、晴れやかな笑顔で理央はご機嫌に帰ってきた。そして今までの計算を消しゴムで消していたが、広範囲を消すのに手が疲れてやめていた。代わりに四隅にあったこれの解答を書くには小さすぎる空白に、正しい計算を無理やり書き込んだ。
「解決してよかったな」
「うん!さすが一樹だよね」
「そうだな」
俺の中にいつか味わった何とも言えない感情がどろっと再発した。もう何度か味わっているのにこの正体が一向に不明である。胸糞悪い吐き気な感覚だから癌みたいだ。
次の問題にさしかかろうとして、問題文を読む。今までまでに見たことのない形式の問題だった。どうやら俺はモンスターに出くわしてしまい足止めされているらしい。最早言ってる意味さえわからないからどの分野でこの問題を解決すればいいかわからない。難問は癌と同じで早期発見早期対策肝心であり、俺は一樹の方をチラッと見たが直ぐに前に戻した。さっきまで素直に一樹に聞きに行けたのに、唐突に出現にした癌が邪魔をする。理央にも聞きたくない、一応雪のように繊細なプライドが雪崩を起こす。
俺は独力で頑張ることにした。脳みそをフル回転して今まで得た知識を脳みそのタンスを弄りあさって蘇らせる。俺が思考を凝らした結果、ようやく問題を解く手がかりを発見した。俺の中緊張感が抜けていくのを感じる。あとは問題を綺麗に解き直すのみだった。俺が再びシャーペンを手にとり紙に文字を綴ろうとした時、俺の右肩の方から手が差し伸びてきて視界に入ると問題をトントンと母指で叩いて、遅れて声が聞こえる。
「ここ、二次方程式じゃん。まず代入しないと先見えてこないよ」
彼は親切心でそうしてくれたんだろうけど、俺の腹の底は煮え繰り返った。
「俺も今思いついたんだよ!!」
と言って後ろを振り返った。後ろを向いた時既にドアのバタンと閉まる音が聞こえて、そこに彼はもういなかった。
「一樹トイレ行くって言ってたじゃん。まあ、すごい集中力で取り組んでたもん
ね、気づかなくても無理ないよ。それにしても一樹、凄いなあ。通りすがりに問題を見ただけで解法が分かるなんてさ、超人だよ!」
彼女があまりにも彼を褒め称えるから俺はそっぽを向いて言った。
「べっつに!!」
なんだよ、あいつ。俺だって解けたのに。図に乗りやがって、ずるいずるいずるい。ずるいよッ。
ああ、 だから嫌だったんだ。目から日本海の海水が出そうになるのを俺は堪えた。だから勉強合宿なんて参加しなければよかったんだ。すごくすごく……惨めだ…………。
俺たちが集中しているとノックオンが部屋中をこだました。そしておばさんがなにやら嫌な香りを放つお盆を持って入ってきた。いい香りだけれど、嗅ぎすぎて嫌いなこの匂いは・・・まさか・・・。
「うわ!!アップルパイですか!?おいしそうっ」
予感的中過ぎて貧血になってふらつく。悪事は自分に返ってくるものなのだ。食べたくない林檎を渡したらまさか姿形を変えて返されるなんて思ってもみなかった。おばさんはそれぞれの飲み物の要望に応えて注いでくださった。もう食べる前から食欲がないが、親切なおばさんに失礼のないように食べることにした。
「やったあ、ブレイクタイムだーーー!んんっ、林檎パイ美味しいね、二人とも
っ」
俺と一樹は黙ってもぐもぐ食べる。どうでもいい話だったからだ。それに俺は今そういう気分ではない。目の前のものを消費することしか頭には無い。俺たちが無視するから彼女が話題を変えてふってきた。
「ねえねえ、選択問題でニ問くらいは絞れるけど残りのニ問で迷わない?」
一樹が喋りそうにもないから俺が話すことにした。これ以上無視していると流石にかわいそうだ。
「ニ問で迷って外れるくらいならいっそのこと、一問も分からないではずれた方がいいよな」
「…………そうだな。まあ、僕なら確実に迷わないようにするけど」
「やっぱり、最後はダウジングかな!?」
「お前強運だからいけるかもな」
「その手口約三十年前に流行ったらしいよ。だから今は念入りに対策されていて通用しない」
理央が名案を思いついたのにすっかりダメになって悔しかったのか、極限まで肩を落とし、ホワイトソーダを自棄飲みする。ストローで吸っているから大して吸えていないとは思うけれど。
「そういえば大志は合宿中部活はどうする気なの?」
「勉強に集中したいので三日ほど休ませてくださいって言って、コーチに許可も
らった」
「一樹と理央も塾じゃん、どうなってるの?」
「僕は通常通りに九時からあるよ」
「私の塾は今休講中」
「それさ、ふざけてない?自習室すら解放してないの?」
「本当だよね、してないよ!大手が金にあこぎじゃないとか世も末だよね」
クラスで唯一塾に行っていないのは俺だけだ。後は皆、塾で先生と二人三脚で対策を練って受験に挑んでいる。俺も夏休み前まで通っていたんだけれど、サッカー推薦で行くことがほぼ確定していたため退塾した。
「そういえばさー、聞いてよ理央。さっき一樹が理央のことドアの前で待ってた
んだぜ?どー思う?」
俺は隣の一樹の首に腕を回して、お手柔らかに冗談で首を絞める。一樹は焦っているんだろう。その手を剥がすこともせずに理央の反応を待っていた。
「一樹……」
ドキドキ。なんだか告白を待っているかのような甘い雰囲気にクラクラと酔ってしまいそうだ。でも残念だったな、この後理央のキラーワードを喰らうことになるぞ。さあ、こてんぱんに言われてしまえ。
「え!嬉しい!!私に会えるのが楽しみだったんでしょう?可愛いとこあるじ
ゃなーいっ」
彼女が少し顔を赤目らさて一樹の背中をバシバシ叩いた。なんということだろうか。どう思う、と念押しまでしておいたのにもかかわらず、彼女は俺の欲しいセリフと真逆のことを言った。俺に対する嫌がらせであろうか。
あっという間に征戦逆転し、一樹は俺を寝転がらせるとその上に馬乗りになった。華奢な彼だがやはり人間だから重い。体重が俺の背中に乗った。
「聞いたか?大志。可愛いだとよ。ざまあみやがれ」
「だーーー!重い、圧死する、どけよ、この小太りが!!」
「ああ、俺はこぶとりじいさんだからお前に俺のこぶを分けてやるよ!!」
彼はさっきのお返しと言わんばかりに、全身に力を入れた。コブという名の痛みを醜く逆襲してくる。
「あーーーああっ!ギブギブ!!悪かったからどいて!!」
理央の方を見ると、わははははっ、と腹を抱えて大爆笑している。それを見たらそのままでもいいような気がしてきて、無抵抗で攻撃を受けていた。つくずく馬鹿である。しばらくすると理央が飽きたのか馬乗りになっていた彼をバンと突き飛ばして、
「お腹いっぱい、シエスタしよう」
とか無邪気な笑顔で言うから誘いに乗ろうとした。しかしのりの悪い一樹が
「一人でしてろ」
と決めくくってしまった。それからまた皆でたわいのない話をしていると、一樹がお手洗いのため退室した。
「ねえねえ、本当に一樹ってかっこいいよね。男の人から見ても立派だと思わない?」
俺の心に波風が立って、食べていたアップルパイが気管に入ってむせる。
「ゲホ……ゲホ…ッ、じゃあ、お前は女の目で見てあいつをかっこいいのかよ?」
「それは違うよ---。誤解しないで!!」
その言葉を彼女はいつもとは違う真剣な顔して言うから信憑性があって、俺は安心する。彼女が何か悪巧みをしているような笑いをする。
「あ?何?もし私が彼のこと好きだったら彼に嫉妬しちゃった?本当に二人とも私が大好きで照れちゃうな。一度言ってみたかったのよね、二人で私を取り合わないで!!」
「黙れよ、馬鹿」
「ジョークが通じない男子はモテないよ!!」
「余計なお世話だぜ。それに嫉妬なんかしねえよ。何で偽善者の模範のようなあいつに嫉妬しなきゃなんねえんだ」
珍しくて異様な単語が出てきて俺は少し冷静になった。嫉妬。生まれてそんな言葉口に出したこともないし、脳内のクローゼットにしまいこんでいた感情だった。
そんな感情を俺が味わうはずもない。なんせしまってあったのだから。彼女が瞳孔が開ききるぐらい目をでかくすると、俺に近づいてきて俺は後ずさりする。
「え、大志もしかして気付いてなかったの?」
「気付いてないっていうかしてないからさ。一体一樹のどこにどう嫉妬してるっていうんだよ?」
彼女はケロっとした顔で即答したのだった。
「全部」
一樹のすべて…………
「んなことありえねーーーっ!!」
俺は頭をグシャグシャにかき混ぜた。剛毛な髪の毛が絡まって、鋭い痛みが走る。
「なんで俺があいつに嫉妬しなきゃならないんだ。確かにあいつは頭がいい、だけど賢くない!!賢い奴はもっと社交辞令がなっている!!俺はあいつになんてなりたくない、心からそう思っているし……」
手を大降りに振ったら何かに当たった感触があった。一樹の机上のコップが倒したらしかった。ジュースがフローリングに垂れて落ちて徐々にその面積を増やしていった。
そして悟った。自分がこんなにもムキになってしまっていることに。どうでもいいことならきっとさっきの理央の話みたいに無視できたに違いないのに。
理央も近寄ってきた。彼女は片手に俺の飲んでいた葡萄ジュースを持っていた。それをストローにつたわせて溢れたオレンジジュースに垂らすと、垂れたところを中心としてそこから滲んだ。茶色く滲んだ。理央が呟く。
「ほら嫉妬してるじゃない」
嫉妬……ではない気がする。俺の数少ない語彙からこの感情に相応しい言葉を探す。
「ちがうよ」
理央は否まれても何も言わずに、ジュースを垂らして色遊びを続けていた。耳だけをこちらに傾けているようだ。目を瞑ると垂れた時の音と俺の声だけが鼓膜に響いた。
「嫉妬してるんじゃなくて、多分………………憧れてるんだ」
身体が燃えた。ものすごい羞恥で消えてなくなってしまいそうだ。彼女の反応も怖い。
「ふうん」
理央がまた葡萄ジュースを一滴垂らして言った。
「茶色な感情ね」
俺はいつから憧れだしたか分からないくらい昔から、あいつに憧れていたのかもしれない。
一樹が部屋から帰っきてこの状況を見た瞬間失神しそうになった。なんて言ったってオレンジジュースがまき散らかしてあるのだから。きっと参考書が汚れでもしたらきっと死んでたぞ。俺と理央は一樹が再び目覚めるまでにオレンジジュースを綺麗に片した。
勉強をしておばさんの夕食をいただいた。おばさんの料理の腕前はプロ並みで、お嫁さんにするならやっぱりお料理上手だと再確認させられた。理央がおばさんに全てのレシピを教わっていて、俺に活力とささやかな希望を与えた。
それから俺たちはまた勉強して、一樹は軽食を持って塾に行ってしまった。その間、俺と理央はだるい、疲れた、とかネガティブワードを言い合いながらもポジティブに、二人で特に何事もなく黙々と問題を解き続けた。
どのくらい時間が経っただろうか。理央が俺の体を揺すって俺はようやく気がついた。
「大志、私もう寝るからね。早くお風呂はいんなよ、次がつっかえちゃうから」
「え!?嘘、待って、今何時!?」
勢いよく顔面をあげると、くっついていた消しゴムがはがれて落ちた。俺は理央の口から聞く前に時計を見ると、短針は十一時ちょっと過ぎで長針は二十六分を指していた。
「 十一時二十六分……」
「そーだよ、何回呼んでも気づかないし、揺すったらうるさいっていうし」
全く自分の集中力の良さにも圧巻とさせられる。それで得する時もあるのだが今回は裏目に出た。時の流れとは恐ろしいものだ。知らぬ間に時間が経っている、というものはなんて不愉快なものだろうか。数学ばかりが進んでしまい、計画的に有意に過ごせなかった。憤りを誰かにぶつけたいところだが、紛れもなく自分のせいなのでもどかしい。
「とりあえず、私は二階の別室で寝るからね。おやすみ、大志」
「あ、ああ、おやすみ」
さてと、俺は背伸びをして固まった身体の筋肉を伸ばす。すぎてしまった時間はもう取り返すことはできないから仕方がない。これからどう有意義に過ごすかが肝心だ。一樹はまだ帰ってきていないみたいだし、先に風呂に浸からせてもらうことにした。風呂場に向かう途中一樹のおじさんにお会いして、挨拶させていただいた。確か防衛省のお偉いさんだったはずだ。でも全然気取っていなくて親しみやすい雰囲気のいい方なのだ。いつもどのようなゲノムの突然変異であのご両親から、一樹なような子どもが生まれるのか不思議に思う。割と早く帰ってくるんだな、国家公務員は多忙とよく聞く。うちの父は民間で働いているが、一年前に転職した。前の会社では父さんは会社で一ヶ月以上会社に寝泊まりでじゃじゃ馬に働かされ、労働基準法に触れそうになっては家に帰らされるという姑息な会社に愛想が尽きたらしく転職した。今は東南アジアに主張中でもう半年は会っていない。
風呂場にはジャグジーがあって格が違いすぎるのでうちと比べるのはもうよそう。シャンプーも市販のシャンプーではない、天然素材の品質の良いものだった。 俺はその香りを堪能してどこかのホテルの風呂に入っているかのような錯覚に陥った。
俺がおばさんに一声かけて上がったことを報告してから部屋に戻ると一樹がいた。時計の針は十ニ時を回っている。ベッドの上で魚市場で競りに賭けられている鮪のようになっていた。俺は鮪をつついておちょくろうとしたが相当疲れているようなので止しておいた。さすがにそこまで人でなしではない。代わりにベッドの彼の傍に座る。
「おつかれ、理央はもう寝たよ」
「あーあ……うん、なんか連絡きてたから知ってる」
「なんか悪いことでもあったの?」
「別に。強いて言うなら帰り道に風俗の勧誘がしつこいのと、警察に補導されかけてのダブルヘッダー……」
「なるほど制服で行ったもんな、それは風呂に入って心身ともに癒したほうがいいな」
「そうだな、入ってこないと明日に響く」
俺は一樹が風呂に入っている間に筋トレをする。部活に三日間いかないだけで筋肉はだいぶ衰えるから、少しでもそれを防ぐのだ。俺は彼の部屋中を捜索する。さっきから部屋の中に筋トレの道具がないか勝手に探し回っているけどそれすら排除してしまったようだった。男のくせに筋トレしないとか私的にはありえない。仕方なく、いつもの筋トレコースで道具がなくてもできるやつることにした。ああ、サッカーしてえな。
自己流の筋トレフルコースが終わると、俺は風呂上がりなのに汗だくになっていた。これはもう一度入り直したほうが無難なのかもしれない。彼が帰ってくるまで時間を持て余したので自分の寝床を布団を敷いて用意した。彼の家だからハンモックとかロフトとか期待したけど、さすがにそれはなかった。
上半身裸姿の一樹がさっきより大分晴れやかな顔で、片手にアイスを持って戻ってきた。そして、扇風機の前を陣取ると塾帰りの至福のひと時を余韻に浸っているようだ。身体を見ると筋トレの道具が一切置かれていないのが容易に納得できた。
「風呂でうたた寝してたら溺れかけた」
「マジ!?だから遅かったのか!悪りぃ、様子見に行けばよかったな」
「でもお陰さまで目も覚めたよ」
一樹が珍しくあはははは、と笑っているけど彼は副腎髄質がぶっ壊れ、アドレナリンが出すぎて頭が狂っているようだ。はっきり言って全然可笑しくないし笑い事でもない。
「さてと、宿題やらなきゃな」
俺は一瞬空耳が聞こえた気がした。けど、彼がベッドでなくて机の前に座ったということは今の呟きはやっぱり空耳ではないらしい。
「は!?止めとけよ、夜にやっても効率悪いって!!」
俺はすかさず止める。これは四方八方どの角度から見ても正論である。彼は食べ終わったアイスの棒をゴミ箱に投げて、見事にそれは入って、小さくガッツポーズをしている。
「明日予定変更で朝の十時から塾なんだよ。それまでに間に合わせなきゃ」
「ブラック企業だな……殺す気かよ」
「君、眠いなら寝てていいよ」
「分かったよ、明日俺朝練とかないし付き合うよ」
「へえ、気色悪い」
「お前絶対他に友達いないだろッ」
電気を消して一点の明かりを頼りに俺たちは問題を解いた。おじさんもおばさんも眠られたのだろうか。ドアの隙間から漏れていた明かりがいつの間にかなくなっている。日常生活にかき消されていたエアコンの音だけが聞こえるようになった。この家で起きているのは一樹と俺だけだ。
俺は度々襲ってくる眠気を、一樹が持ってきてくれた栄養ドリンクをスポーツドリンクを飲むペースで摂取して緩和させる。それでも睡魔に負けてしまいそうになったので一つ、眠気覚ましに彼と争ってみることにした。
「ちょっとさ、現時点でどっちが計算早いか競争してみない?その結果によっては明日以降の勉強の仕方が変わってくると思うんだけど」
「そうだな、いいよ。じゃあ、この問題でやろう。塾の計算ブック。俺がまだ解いてなくて見たこともないページならフェアだろ?」
「それで決まりだな」
一樹が適当なページをコンビニにコピーしてくると言って一旦外に出てた。コピーした紙を脇に挟んでいて、ビニール袋をぶら下げ両手には隙間から湯気の漏れたカップ麺を持っていた。ドアを開けるのもままならない彼のフォローをしに行く。
「カップ麺、あと三分くらいな」
「了解、サンキュ」
俺たちはカップ麺の完成までの時間を競うことにした。一樹がビニール袋漁って取りだしたのはポテチだった。それも一袋でなく三袋も。彼にしては気が利いた。
「うわ、デブ。食べようぜ」
「は?ちげーよ。負けた奴が食う罰ゲームだよ」
「え?勝った方じゃなくて?」
「負けた方に決まってるだろ」
彼は変わっている、相当。でもそれぞれの価値観があるからその辺りは尊重したい。俺と一樹は位置につく。
「じゃあ、いくよ?」
俺は息を吐いて集中力を高める。
「用意、…………スタートッ!」
二人同時に一気に解き始める。序盤は簡単な問題でいとも簡単に解いて行く、後半になると段々計算が複雑になってきて混乱してきた。しかし、ペンを一度でも止めたら負けなので取り敢えず解いた。お互い接戦だったが、先に声をあげたのは…………
「はい、終わり。僕の勝ちだね」
…………一樹だった。
「くっそーーーーッ!!俺だってあと一問だったのに!!」
「うわ、それ本当?勝ったのに素直に喜べないね。取り敢えずポテチは食べろ」
俺は罰ゲームを食らっていふはずなのに喜々とパンと空気が漏れる音を立ててポテチの袋を開けると、バリバリやけ食いした。美味しい。夜にポテチを食べると健康に良くないからいつも戒めている。戒めてるから余計に美味しい。
一樹は勝ったからか調子に乗ったらしく、宿題をどんどん進めていく。俺はパッと思いついた。
「てかさ、それ朝やれば良くない?朝やるって言っても今すぐ寝て四時くらいからな?そっちのほうが進むよ」
「僕、今ので今日徹夜を決めたから」
「意固地だな、頭いいくせに頭固いな」
一樹が振り返ってこっちを向く、
「徹夜が不効率だとか言ってる余裕俺にはない。とにかくやるしかないんだ」
彼の面持ちは真剣そのもので、俺はその滑稽な勉強法にというより、勉強に対する熱意に感心してしまった。どうして勉強に対してそこまで熱心にできるのか。何が彼をそこまで真剣にさせているのだろうか。
「一樹はさ、どうしてそんなに勉強頑張んの?なんか夢でもあんの?」
そういえば彼とこういう話をすることは今までに一度もなかったかもしれない。考える必要もタイミングもなかったからだ。
「将来の夢は楽して暮らすこと」
「あ、案外普通なんだ。おじさんみたいになりたいとかいうのかと思った」
「なれればなりたいよ、特に職業に関してはこだわらないけど安定してて高収入なところ。楽したいからね」
「ふうん」
「覚えてる?俺が高校受験失敗してここにいること」
忘れたりなんてしない。当時特に夢もなかった俺と理央は近隣の中学校であるここにそのまま進級することを選んだ。でも、一樹だけはその頃から志が高くて、有名国公立大学の付属中学校を受験した。結果は落ちて俺たちと同じ学校へ行くことになった。あの時入学式にいるはずのない一樹がいた。斜め左で時々目元を拭っていてブレザーの袖口が少し濃くなっていた。きっと泣いていたんだろう、あの姿が今でも胸に焼き付いている。表情が見れなくてよかった、それを見たらせっかくの晴れ舞台で、きっと俺も泣いてしまっていただろう。よく考えればあれが人生最初の難関であり、自分たちで開拓する人生の分岐点だった。
「うん、鮮明に」
「俺入学してからずっと思ってたんだよ。どうしてこんな馬鹿と一緒に生活しなきゃいけないんだろうって。友達ができないのも、学力に差がありすぎて話も合わないからだと思ってた。本当は俺がみんなを見下してたからだったのにな。高校に入って初めてのテストで学年一位だったけど全然嬉しくなかった。だってノー勉だったから、むしろ悔しかった!!全然凄くないのに褒められて惨めに
なった、やめてほしかった」
これは夜の効果なんだろうか。きっと日中に聞けばこいつの嫌味ったらしい武勇伝にしか聞こえないに、今は同情する余地があった。けれど、あいつが泣いていないのに泣くのはお門違いだから我慢した。彼は話を続ける。
「俺は二つ通ってた塾も一斉にやめて、ついに自分を見失った。俺の性格上親には相談できなかった。友達も大していないから話せなかった。何も知らないお前らに話すなんてもってのほかだった。どこかの漫画みたいにで救世主が現れて落ちこぼれた自分を救ってくれるってこともなかった。そんな人間関係は気付くのが難しい世の中だったから致し方ないし、恨んではいない。そのとき、自分は自分でしか救えない、僕のヒーローは僕しかいない、ってようやく気が付いたんだ。
大志知っていたか?心の傷は時が解決はしてくれるわけではないんだよ、絶対に。長い時間をかけて向上心を育ませるから時が解決してくれるように見えるだけであって。でも実際はそうではなくて、向上心によって奮起し、復活することが解決することなんだ。だから俺は励んだ。次こそは中学受験した学校よりレベルの高いところへ行こうと志した。そしてもう少しで待ち焦がれた復讐のときだ」
一樹は復讐者だったらしい。憎しみと悲しみを一人で抱き抱えて葛藤して、この感情はどう形容したらいいだろうか。現状言切れることは、立派ってことだ。
「取り柄のない俺にとっては学歴が社会を生きる唯一の武器であり保険だ。これがないと生きていけない。でも俺は勉強が決して好きなわけではない。本当は漫画とか読みたいしゲームだって死ぬほどしたい。でも、この夢を叶えるためになら俺は…………」
「勉強に人生は捧げられないけど青春は捧げられる」
彼の強い意志が鳥肌を立たせた。カップラーメンが水分を吸って伸びきっていた。やっぱりこいつ素敵だ、本当に凄い。こんな奴と幼馴染になれたことを誇りに思う。彼が床にゴロンと転がった。
「大志はいいよな、才能あって」
予想外のワードがてできて俺が伸びたカップ麺を気管に入れたのは本日二度目だった。いや、時計がもう十ニ時も回ったから一回目か。
「ゴホゴホ、才能?なんで?片鱗もなくて困ってるんだけど」
「あるある、君がなかったら誰があるのかわからない」
一樹が箸で俺の方を鋭く指した。あまりにも目元にギリギリの位置だったから俺は一瞬肌が粟立つ。
「だから一体何を根拠に!?」
俺が精一杯キスを回避すると、一樹も我に返ったらしく恥ずかしそうに元の位置に戻った。
「Genius is one percent inspiration, ninety-nine percent perspiration.」
一樹が英会話で鍛えた見事な発音で、ツラツラと英語を話し出して俺は困惑する。勿論翻訳なんてできず、意味なんてまるで分からなかった。
「大志も知ってるだろ?エジソンの格言だ。直訳すると、天才とは一パーセントのひらめきと九九パーセントの努力である」
「なんか聞いたことあるかも。やっぱ偉人は言うことが違うよな。こんなこと世間に認められた自信あるやつじゃなきゃ言えねえよ。じゃなかったら格言じゃなくて失言だ」
「そうだな。僕もこれは失言だと思う。それを君が証明している」
「それはそれは、…………アンビーリーバーボーだな」
俺は一樹のことを冷ややかで少し軽蔑した目で見る。嘘だと見え透ぎたお世辞を言うのもどうなんだろうか。彼はその視線を突破らして話す、
「お前、サッカーどういう風に思ってる?」
そんなこと考えたこともなかったから、俺は少し返事をするまでに時間がかかった。短気な一樹も黙って待ってくれていた。
「…………生活の中にならなくてはならない存在。衣食住と同等でサッカーがあるくらいに。あと、何も考えなくてもサッカーしちゃってる、呼吸してる感じかな」
「サッカーに関して努力してることってある?」
「単刀直入に言わせてもらうと全然ない!!こんなんじゃまだまだ足りねえよ。このくらいで努力とか自分で思える日が来たら多分それは死んだ時だな。だから正直言うと、あんまり周りの人にも頑張ってるって褒められたくない」
「それだよ」
「え!?」
「だから、それが才能なんだって」
何を言ってるんだ彼は、さっきから全く頭のいいやつは理解できない。
「人間って好きでもないことを続けてられるほど利口じゃないだろ?このストイックな俺でさえもだ。俺は勉強をしているけど、別に勉強が好きなわけではないからいつか止めてしまうだろうな。でもお前は違うだろきっと生涯サッカーし続けるだろ?」
まさにそうの通りで、妥当な指摘である。実際に俺はこの先オーバーヘッドキックができなくともやり続けるだろう。仕方ないじゃないか、二六百三回失敗して嫌いになんてなれなし、好きさ余って知らないうちに身体を動かしているんだから。
「それが天才なんだよ、大志。俺たちから見ればお前は驚くほどよく頑張っている。でもそれを本人は自覚しせずにより向上を目指す。それは凡人にできないことなんだ。要するに努力する前提に愛好という才能が必要ってことだ」
「努力を努力と思ってるやつは天才じゃない。努力を努力と思えない奴が天才なんだ」
「だから天才とは一パーセントのひらめきと九九パーセントの才能である」
なるほど、そういう彼の理論に従えば俺を買いかぶりすぎていることもない。ふうん、そういうふうに思うのか。
「なるほどね。お前あっさりエジソンを否定したな」
「信仰者に殺されるかもな」
「そのときはお前に賛同者の俺が加担してやるよ」
一樹はあはははっと笑った。彼はこの世に似つかわしくないくらい爽やかな笑顔を見せていて俺は何だか切なくなった。この心優しい感受性豊かな少年は夜の闇に飲み込まれたら儚く消えてしまいそうだ。俺は伸びきって少しまずくなったカップ麺を完食すると、一樹がさあやるぞと、言って再び自分の席に着いた。俺もペンを持つ。
「悪い、一つだけいいでか?」
「何?」
「二回目の罰ゲームは相手に普段は聞けないことを暴露してもらうのはどう?」
「その方が盛りあがりそうだね。その意見採用してあげるよ」
俺の秘密…………何だろうか。理央が好きなことはまだ(聞こえてなかったけど)理央にしか伝えてない。これでも一番の秘密ににふさわしいんではないだろうか。けど今の俺の一番の秘密はやはり、指定公推薦を辞退しようとしていることだろうか。今までの話の文脈から辿ってみると、もしかしたら一樹はそれが心配でこのこの罰ゲームを承諾してくれたのかもしれない。ならば言うべきではない気がする。一樹には余計な心配かけたくない。そもそも俺が勝てばいいことなのだ。そしたら俺が一樹に聞きたいことも聞き出せる。
「やっば、こりゃ本気出さないと!!」
「もえてきたあああああっ!!」
外の空気より俺たちははるかに熱く燃えていた。夏の夜は涼しいから網戸で十分暑さをしのげた。近くで花火でもやってたんだろう。火薬の香りがかすかに部屋に流れ込んでくる。花火が美しいのは華麗な硝煙反応のせいではない。大切な人と一緒に見るから美化されて、永久に記憶に残るのだ。夏の終わりに大志と二人でカップ麺を食べたこと、徹夜でテスト勉強したこと、きっと百年経っても忘れられないだろう。
あれから月日は流れ、あと三ニ分で合宿の終了時刻である十二時になるところだった。最後の最後まで手を抜かない、受験生のモットーを律儀に守り抜く俺たちはラストスパートに全身全霊で取り組む。クーラーはガンガンに効いているのに、三人の熱意で体感的には外より暑くて息切れすら覚える。一樹は目を散らばせて唇を噛み締めながら問題を解き、理央は一問一答問題を一定のリズムで体を揺らしながらそれを崩すことなく解いている。そんじょそこら友達と二泊三日の合宿なんて楽しみという気持ちより、憂鬱という気持ちの方が圧倒的だが、運命共同体となら前者が勝る。そして、この部屋にいて心地よさと落ち着きを感じる、なんだろうか。多分この三日間で築き上げた余裕である。
お互いにどっちが切り出すか悩んでいる。切り出しっぺで負けたら恥晒しである。しかし、自ら言い出した方がかっこいい。舌なめずりをして唇を湿らせる。よし、俺が……
「よし、そろそろ始めようか」
緊迫した部屋に先に響いたのは一樹の声だった。どうやら先を越されてしまったようだ。自信は実力と同等で大切だから、もっと早く決意すればよかったと小さく後悔する。理央は二人のことを交互に見て、何が起きるのか全く分からない、といった態度をしている。
「え、何々?何すんの?」
「いいから今から俺と大志のことよく見ていて」
「え?え?隠し事はよくないよ!?」
混乱している彼女を、何とか言捩込ませて黙らせる。男の約束は死守する、それは俺が男の中の漢だからだ。そんなかっこいいセリフを吐く自分に酔いしれて、我に帰ると穴に入りたくなった。
そして俺たちは三人で均等な感覚で間が空くように座り、位置についた。彼女は今はよく理解できないながらも、俺たちが今から問題を解いて競おうときていることは理解できたようだった。どうせ一樹が勝つと予測しているのだろう。誰だってそう思うはずだ、俺だって一樹はこの前の勝負で勝っているしそう思っている、少し前なら。今はなぜか自信がある。一樹が事前に適当にコピーしといてくれた問題用紙を裏側にして配布した。不正の心配はない、こんなことに不正をする奴なんていないだろうし、一樹はそんな真似する奴じゃない。俺は若干透けた問題用紙を見て何が書いてあるかまでは読み込めないものの、黒く透けてる部分が多いことから、中々複雑で手のかかりそうなものだと断定した。
どんな名医にも治癒できない発熱する錯覚に襲われる。とてもとても寒くて、クーラーの時々当たる風邪にいちいち身体にしみて痛い。でも、身体はマグマだまりのマグマのように熱い。そう、まるで北極か南極の氷を心に手で抱きかかえて、マグマの中を泳ぎ回り徘徊してあるような感覚である。魔法の氷を抱えているから俺は無事なのである。無知な俺が何も考えずに泳ぎ回っていると、マグマだまり内部にガスを発生させてしまったらしい。マグマが深成岩となって、火山灰を引き連れて噴火しそうだ。それならばタイミングを逃してはならない。慎重に、そして的確に、今だと自信を持って噴火する。俺はいける。
「用意……スタート」
すの字と同時に俺たち二人は、風のように力有り余っていてもう我慢できないペンを全力で走らせてやった。熱が冷めてきてきたけど、マグマは限界を知らないのだ。無知だから。そして自信という名の自惚れを心してるから。いける、解ける、俺は噴火口に向かうためマグマの中を無我夢中で手足をバタバタと動かして泳いだ。地上に出てくると思わず綻ぶ、表面を剥ぎマグマも氷も全て剥ぎ落とすと、心臓に毛細血管がびっちり張り巡らされたようなマグマがドロドロとこぼれ落ちていって、冷えて固まった。
「できた…………」
掠れた声が確かに部屋にこだました。俺が紙からゆっくりと顔を離し、正面を見ると、驚いた顔の理央がいて、斜め左の一樹の答案を見る。ドキドキという心臓の心拍に合わせて慎重に目を落とす。彼はラスト三問目に取り掛かろうとしていた。勝ったのだ。
理央が声を上げようとしたから、失礼と承知の上で彼女の口をふさいだ。一樹が決着のついた勝負を投げ出さずに、最後までやり抜こうとするその聡明な姿勢をぶち壊したくはなかった。 俺が一樹の方に視線を向けていると、彼女が抑えた手をバンバンとしつこく叩く。うるさいと忠告するため後ろを振り向くと俺は彼女の鼻まで塞いでいたようで、彼女は酸欠状態で気絶する寸前だった。
一樹が終わったのはその一分後くらいだった。しばらく静寂が漂っていたものの、最初に一樹が声を発した。
「あーあ、負けちゃったね」
俺も場の雰囲気が沈まないように、冗談混じりで上から目線の返答をしてみる。
「へへん、どうだ見た……」
「たっいしーーーー!!!凄いじゃん、一樹に勝つなんて!!すっかり見直しち
ゃったよ。ついに、不正でもしたんじゃないの?」
「人聞きの悪いこと言うなよ!実力ですーーーうっ!じ、つ、りょ、く」
彼女が勢いよく俺に肩をホールドして前後に大きく揺すりつつ、ウサギのようにその場でぴょんぴょんと飛び跳ねている。溢れる笑顔から歯並びのいい白い歯が左右対称に綺麗に唇から覗かせている。この時点で勝ってよかったと思える。
「ちょっとちょっと、負けた僕には発言権もないの?」
「ないに決まってるだろ?どうしてそんな当たり前のこと聞くんだよ?」
「貴様…………ッ」
「あーあ、そうだった、約束の罰ゲームちゃんと実行してもらわなきゃなあ」
俺はすっかり忘れてたという装いて彼の怒りを誘発させる。彼のそういう顔はあまりお目にかかれないから、今まで俺がされた分見てやる。まったくいい気味である。
彼は俺の画作に気がついたのかまたいつもの余裕ぶっこいた表情に戒める。
「そうだな、俺は決して囲碁版をひっくり返したりしないし、後々負け犬と呼ばれても困るから罰ゲームはやって遂げよう」
「おお、さすが一樹」
彼は壊れかけの自制心を辛うじて立て直した。現時点で俺がどれだけ下に回っても立場が上だったので、最大限に腰を低くしてみる。余裕があるとこういうことができるのだな。彼は一度、コホンと咳払いをして真剣な眼差しをこちらに向けた。
「君たち二人に重大な発表がある」
「……何よ、そんなにかしこまっちゃって。あっ、もしかして彼女でもできたの?」
理央が再び呂律よく喋り始めるから、俺がビシッと言ってやる。
「いいから黙って訊けよ、理央」
理央がつまんなそうな顔をして、ちょっと言ってみただけよ、と呟いた。俺は耳の穴をかっぽじったら伸びた爪が中を傷つけたらしく、耳垢に混じって血が付いていた。
「実は僕さ」
俺と理央が目を見張る。なんだろうか、秘密の告白だから皆んなに言えないきっと恥ずかしいことだろう。彼の口の動きに注目した。
「明後日第一志望校の自己推薦の結果発表なんだ」
自己推薦、テストなしの面接だけで合格する場合が殆どてだいたい八月下旬には合否が決まる楽チンな制度。大抵内申点の高い奴しか受験することが出来ない。また、受けたら他の高校はもちろん受験不可だし、
「自己推薦んんンンーーーーーンんっ!?」
全然恥ずかしい話ではないけど、とてつもなくシリアスな話で確かに暴露する
にはこれ以上にないくらいもってこいな話題ではあったが…………。
夏の終わりに最後にして最大の台風が俺たちを襲おうとしていた。
七
今年の夏は最後の命を振り絞り、この暑さに残力の全てを託したらしい。朝は風で少し肌寒いが真昼になると暑くてたまらなく、その差は歴然としていた。秋という季節に浸食されながらも、しっかりとその面影を残していた。サッカーグラウンドでは人工芝に汗を滴らせながら部員が走っている。その中でも蜃気楼に近い俺がいた。部員が吐く二酸化炭素は俺に容赦なく絡みつく。
俺は息を振り切るとグラウンドの中央を皆より少し早い足で馬のように駆け抜ける。それに部員たちは引っ張られるようにドリブルをして追いかける。ボールがパスされていき、最後にボールを持った部員が俺に向かって精鋭なロングパスをした。 俺は歯を食いしばった。頭を追い越したボールと見つめあう。そしてジャストタイミングで強く蹴り上げた。後輩が俺の名を呼ぶ声が聞こえてくる。それに浮かれた俺は手応えのない蹴りをして見せた。空振りしたことを実感する。どんどんと身体と覇気が重くなるのを感じた。ああ、またやってしまった。もう、当たるまで逆さのままでいればいいのに、どんなに頭に血が昇っても死なない自信があった。そんな無謀でささやかな俺の願いも知らずに、身体はいつも通り自由落下していく。
「いっでーーーッ!!」
俺は背中でも急所を打ったらしく反射的に声を上てしまう。それを見た後輩部員たちは、最早大丈夫ですか、の一言すらかけずに、次にきますよ、とだけ告げた。何百回も背中を打って、何百回も同じリアクションをしているようだから後輩たちの対応も日に日に素っ気ないものとなっていく。でもこいつらには何とも文句が言えない。わざわざ本来部活のない初登校日に俺の練習のためだけに五時半に集まってくれたのだから。おばさん方にも今度お礼をしなくちゃいけない。後輩たちが完全に愛想尽かされる前に完璧にしたいところだ。ちぇっと、体を起こしあげるとグラウンドの外のに登校してきた生徒の姿が見え、話し声も聞こえる。
コーチが朝練終了の笛を高らかになり響かせると、俺は挨拶をすると片すのは後輩に任せて一足早く更衣室に向かった。着替え終わり更衣室から外に出ていくと、コーチが建物に下半を隠して上半だけ出すとこちらに手招きしていた。
俺は眼光鋭い目にそのままに従って、周囲を気にしてそちらに行く。言われることは何となく予想がついていた。コーチはしばらく至近距離で神妙な険しい面持ちでこちらを見つめていた。さっきまで吸われていたのかタバコ臭い口を開いた。おまえ、このままじゃまずいぞ。それは実にシンプルで単刀直入だった。もともと謙虚な人柄ではないが、下劣なことはしない人だし事態の悪さを十分に伺えるものだった。
「はい、分かっています」
俺はあまり取り乱すことなく冷静に、事前に用意されていたカンペを読み上げるように淡々と答えた。
俺はあれから静止状態からのオーバーヘッドキックは完璧に習得したものの、実戦でうまく使えずに苦戦していたのだった。本来ならもう完璧にマスターして実戦でもバンバン決められるくらいの完成度にしなくてはならなかった。
分かっている、できていなきゃまずいことは。でも分かっているからって急に何とかなるわけではない。その事実を報告するより実現のため助言してほしい。いけない、駄目だ。最近周りの人に当たってストレスを解消しようとしてしまう。
俺はそのあとコーチの永遠と内容のない話を聞くのが面倒臭くなって、時間が迫ってることを口実に逃げ出した。
運動後で代謝が良くなっているのもあるけど、暑過ぎた。まだまだ収まる気のない残暑に対抗するため、俺は半袖にズボンの裾を巻き上げて空気性をよくして熱を逃がした。こういう時女子制服が羨ましく思えるのだが、冬になったら男であることに虫よく感謝してしまう。
グラウンドから校舎までは不便なくらいに距離があった。去年の今頃は運命共同体と仲良く初登校していたのに、今年は一人で寂しく歩いている。受験生だから仕方ないし、もうじき解放されるんだから一時の我慢である。通勤ラッシュのピークを過ぎると通学路には人っ子一人居なくて、自然と早歩きになる。
空はいつも通り青々としているけど、生暖かい風に揺られて雲の動きまでもが早い。低気圧のせいか、少し頭に鈍い痛みが走っているけどこのくらい気にしない。気にしない程度だけど、気づいてしまうくらいには痛みがあった。もしかしたらみんなと一緒に話していれば気にも留めなかったかもしれない。直感だけどその痛みはしばらく僕を放してくれない気がした。蝉の声が聞こえないことがたった僕の気を焦らせ、恐怖に陥れようとする。
勝負の夏が終わり、博打の秋が始まる。
学校の下駄箱で俺は新調した上履きに履き替える。面接では上履きも審査の対象となる。上履きからは普段の生活態度が滲み出るものなのだ。踵を踏んでいると後が残りだらしない奴だと思われ、汚すぎると不潔な奴だと認識される。かといって新品同様の綺麗さだと何かやましいことがあったのではないかと疑われていまう。この時期に新調すると本番では、綺麗すぎず汚すぎずでベストの状態でいられるのだ。新しい上履きは履きなれてないから違和感があった。老朽化しか感じさせない廊下を少し歩いてから靴の裏を見てみると、ホコリや糸くず、何かの食べ物がへばりついて、俺は先に行くのが嫌になる。
教室に着くと誰もいなかった。既に始業式のためにホームルームを終えて、体育館に移動してしまったらしい。机の上にみんなの容量のなさそうなスクールバックが適当に置かれていた。俺は誰もいない教室に荷物だけおくとそのまま体育館に直行した。
体育館に行く途中の保健室扉には張り紙が貼ってあって、具合の悪い生徒が中で寝ているから静かにね、と隅に知名度の低いキャラクターが描かれていた。絶妙すぎるそのキャラクターを俺は知らない。もしかしたら保健室の先生のオリジナルキャラかもしれない。毎年この時期になると中三でいっぱいになる。俺はいつも不思議に思っていたけれど今は理解できる。熱は出ていないけど気分じゃないから学校を休みたい、そんな感じだ。
体育館にはもう随分と人が集まっていたけれどまだ始まってはいないようで、ぎりぎり間に合いそうだった。しかし何故か人だかりができていて中に入れない。男女比は三対七くらいで、見慣れた顔が多いからおそらく三年生で、騒ぎを起こしてるやつは三年男子だと予測できる。まあ、そんなこと今の俺には果てしなくどうでもいいことだった。他の奴の情報なんて耳に入れれている隙間なんてなかった。
このせいで点呼に遅れて遅刻扱いされては堪ったものではないから、億劫な気持ちを振り払い、赤に反応する闘牛のように人ごみの中を突進した。俺は進んだり戻ったりして揉まれると、どうやら騒ぎの格に来てしまったようだった。折角だからチラッとそっちに目をやると、そこには俺の知ってるような知らないような奴がいた。
眼鏡なしでいつもよりぱっちり二重が際立っていて、ワックスでセットされた髪の毛は黒光りしている。子柄で華奢な身体だけど、手足のバランスはよくてファッション誌のモデルのように制服を着こなしていた。その周りには先生方が数人いらっしゃって褒め称えられた彼は、猿のように鼻の下を伸ばしきっていた。
俺は人混みを掻き分けて異色の猿男の腕を引いた。
「ちょっとちょっとちょっと、一樹」
そいつはイメチェンに成功した一樹だったのだ。彼は全く嫌味のない爽やかな笑顔を浮かべて俺に向けけくる。足先から順に鳥肌が顔にまで移る。俺はそれに不覚にも激しい憎悪と嫌悪感を抱く。
「大志、おはよう」
周りの女子が思わず耳も塞ぎたくなるほどの黄色い歓声を上げた。俺は唖然とした。もちろん開いた口も塞がるはずがない。でも決して周りの反応に声を失ったわけではない。俺は彼から発された聞き覚えのない発声に虚脱したのだ。
なんて言ったって生まれてこのかた、彼におはよう、なんて言われたことがなかった。いつもは挨拶代わりに、今日も糞みたいだね、とか、朝から醜いね、とかそんな下衆な台詞で代用していたのに。これが異常といえば全くにその通りなのだが、俺たちの中ではこれが普通であって今のほうがよっぽど異常だった。ついに勉強のやりすぎて頭がいかれ狂ったに違いない。このバカ丸出しのおちゃらけた服装が何よりも証拠だ。俺は彼の油でベタついた髪の毛に思い切って手を突っ込んでかき混ぜた。
「どーした?精神安定剤が効かなくなったのかよ!!もっと量を増せよ!!」
「うわあああ、触れるなよ!!一時間半弱かかったんだから!!」
「うるせえ!!脂ギッシュで逆に不潔だ!!」
「あと誤解を招くような言い方やめてくれる?正式に病院で処方されたものだから法には触れてないし、量は足りてるよ」
「そうなんだ………………じゃ、な、く、て!!この有様は有様はなんなんだよ!?」
彼は女みたいに廊下のガラスを鏡にして髪の毛を感覚でセットし直していた。その間俺は興引きしつつただ唖然と待たされていた。満足いくまで整え終えたら、彼は紙を俺の前に突き出して、顎でこれを見ろと、顎で合図した。彼の態度にいちいちムカついて、俺はそこにこの事件の発端があるとみて真剣に見る。そこには目を疑うような衝撃的事実が記載されていて、俺は思わず二度見した。
「慶應…………合格……」
無意識に声に出た。その瞬間外野がワールドカップで得点が決まった時みたいに歓声をあげる。うちの学校からは四年前以降慶應に受かったものは一度もいなかった。
凄い………………本当に。
ただここで不安がよぎった。彼の夢は楽して生きること、あの夜に切実に話してくれたその夢とはかなり矛盾していた。
彼が明らかに天狗のように鼻を伸ばしていて、へし折りたくなる。
「なんで慶應にしたの?」
俺が抑えた怒り心の皹から漏れて言葉にこもる。外野が何事かとそれぞれが話し始めて、歓声は鎮まった。
「なんでって、早く精神的苦痛から解放されたいからに決まってるじゃん」
「お前は将来就職しやすいから有名な学校にいきたいんじゃないのかよ!!慶応なんて……、お前の実力だったら国立にいけただろッ!!」
「かもな。でも、大志?慶應だって誰もが合格できるわけじゃない。それに国立にいくのに最低あと三年間は勉強地獄だ。それだったら道は一本しかなくなるが付属校に行って青春を謳歌したいだろう?」
俺はその愚見に納得させられて引き下がらず負えなくなった。伏し目で冷静な一樹に対して俺は眼球が飛び出そうなくらい目を見開いて詰め寄った。体育館の一部がさっきとは違う盛り上がりを見せている。先生方がアナウンスが流れて俺たちは早く整列するために散った。
始業式が始まり、校長の話になる。校長もまた彼を褒め称え、我が校の誇りです、なんて誰でも言えそうなことを誇らしげに話した。ほこりの間違いではないのか。事実そうなのかもしれない。けれど皆んなに褒められて調子に乗ってる彼奴が許せなく、憎らしかった。何だかでかい俺の図体が消えてしまいそうだ。顔を上げると隣のクラスの理央と偶然目があって、微笑まれた。それで俺は平静を取り戻した。
始業式の閉式の言葉と同時に、俺ははちきれそうな膀胱を救出すべくトイレに駆け込んだ。クラスに戻ると体育館では気づかなかったが、クラスメートの三分の一の程しかいないことに気がついた。俺と親しい友人たちは、俺を除いた面子で裏で口合わせしたんではないかと疑わせるほどに皆無だった。皆んな頑張っているんだな、なんてそんな風に思えるほど俺は人がよくない。ポケットからスマホを取り出して通話アプリを起動させるとグループで彼らを攻めたてる。既読がつかなくて貧乏ゆすりが激しくなる、未読スルーしているんではないんだろうか。いや、そうだ、そうに違いない。今度会ったらはっためたのギッタギタにしてぶっとばしてやろう。明日からは部活だけ参加することにしようと密かに心に誓った。
うちのクラスの担任が入ってきて早く席につけ、と促す。俺は誰かと会話を交わしたかったがそこは堪えて、大人しく先生から一番遠い窓際の自席に着いた。
一時間目は早速夏休み前に受けた模試のテスト返却からだった。教室中が喚きだす。俺もすっかり忘れていた。先生が何のためらいもなくチラシを配るみたいにその指南書を出席番号順にどんどん渡していく。返された人が俯き加減で帰ってきて、変えなきゃ……と、呟くからゾッとする。完全に裁判から判決を下される前の囚人の心境だ、別に味わえて全然嬉しくない。小池、小島、小泉、佐々木、斉藤…………俺の番が徐々に近づいてくる。佐藤、と担任に呼ばれた俺は、はいッ、と元気よく返事をして指南書を頂いた。俺は一旦唾をごきゅっと飲み込みこむ。そうだ、緊張した時は深呼吸だ。吸ってー、吐いてー、吸ってー、吐いてー、吐いてー、吐いてー、…………っごほごほ。駄目だ深呼吸すらままならないくらいに落ち着けない。もう早く見てしまおうと思った。囚人が早く死刑にしてください、という気持ちが今日何となく分かってしまった気がする。
そろりそろりと明けて隙間から志望校判定を覗き込む。さあ、どうだ…………!?
そこには大きく太字で視力検査みたいな形をしてでかでかと書かれていた。
C………………合格確率五十パーセント…………
撃沈だった。身体の力が指南書に吸い取られて抵抗する気力がなかった。俺は海のどん底にまで抗う気力もなくあっさりと沈んでいった。
一時間目ですっかり魂を抜き取られた俺は机に身体をへばりついていた。午前中は日差しが強いからカーテンが引いてある。それでも日光の威力は凄まじいもので、ここは冬でもあまり寒くない。よって、午前中は自分の意思にそぐわず寝かされてしまう。そんなことを先生に訴えても聞き入れてもらえないから、理不尽に俺がいつも叱られるのだ。カーテンはボロいから所々破れていてそこから差し込む光が肌をくすぐる。ぽかぽかな陽気は心も身体も全てを洗浄してくれるのだ。
寝ていた俺の耳に先生の嫌な話が聞こえる。目を瞑っているからそれはより悍ましいものに聞こえて、俺は上体を起こし目を開いて一か所に集まった神経を各器官に分散させる。でも目を開いて見えた黒板に書かれている文字や掲示板に貼られている掲示物、白い仮面を被ったクラスメートらしき人達は、もっと恐ろしくて俺は急いで再び瞼を閉じた。先生の声が耳から入って俺の脳内で反芻し続けて、頭痛が悪化した。
もう、いいじゃないか。終わったことだ。うるさい、黙れ、俺は今地地良いんだ。邪魔をしないで寝かせてくれ。
薄っすらと目を半開きに開いた時、先生が書いた時に黒板から落ちるチョークの粉だけが消えた。それらはカーテンの隙間から差し込む斜陽に照らされゆらゆらと舞い降りていく。いつか家族で見に行った銀座のイルミネーションとはまた違った類いで幻想的で輝いていた。
授業後に黒板のレールを見に行くとチョークの粉がそれ単体でも十分に美しいのに様々な色が順に上に蓄積され見事にグラデーションしていた。
互いを激しくぶつけ合いより新たな魅力を産みだし、まさしく芸術が爆発していた。
世界もこうであったらいいのにな、と思う。
結局一時間目の模試結果が駄目だったせいで俺は六時限目まで身が引き締まらず、部活に出ることになったのだった。部室には早くも後輩たちが着替えていて、一樹の話題で持ちきりだった。俺は聞こえないように部屋の隅に行った。今日初めて知ったけど俺は地獄耳らしかった。聞きたくもない会話が聞こえる位置にいないのに聞こえてきた。
うちの学校から慶應でたらしいよ。うわ、マジかよ。俺も三年になったら塾増やそう。サッカーなんかしてても何にも役に立たねえし。だよなー。こんなような会話をしていた気がする。
何だよ皆んなして…………一樹、一樹、一樹、慶應、慶應、慶應…………って、学力が全てなんかじゃねえだろ。
サッカーシューズの靴ひもを強く結びすぎて、血流が止まって麻痺した。俺は飲み物を黒のエナメルバックから探そうと思って漁った。その時ちょうど黒のエナメルバックが反射して自分の姿を写した。ショウウィンドウの中の醜男は涙袋に豊潤な膨らみとハリをもっていた。焦った。まずい、ここではいけない。俺はいてもたってもいられず、鉄のドアを豪快な音を立てて出てグラウンドに飛び出た。残された部員はきっと驚いたに違いない。
グラウンドに飛び出てサッカーボール入れをゴール前まで引きずると、中途半端な位置で突然立ち止まらずにはいられなくなり、意味深に空を見上げた。俺は再び動き始め定位置にセットすると、五つのボールを床に転がして蹴り飛ばそうとした。勿論、オーバーヘッドキック……………………のはずだけど、…………失敗したらどうする、……推薦危ういぞ……サッカーできたって無意味だよな……C 判定……一樹……慶應合格……、俺の脳内を不安事がよぎりすぐに支配した。
次に失敗したら何て言われるのだろうか、諦めろと言われるのだろうか。膝が馬鹿になって景色がモノクロの漫画のスクリーントーンを至近距離で見つめているみたいだ。
もう、もう、…………っ、無理だ。俺はもう蹴れなくなっていて、走り出した。どこに行けばいいかなんて分からないけど、取り敢えず走らずにはいられなかった。グラウンドを抜けると、コーチに呼び止められたが気づかないふりして通り過ぎた。下校時刻だから三年が大名行列のように校門に向かって下校していく。ちらほら俺に声を掛けてくる奴がいたが無視をした。とにかく全速走で走って、走って、走って……。
何で俺は目的もなくただ走っているんだろうか。何だか鬼に追われてる錯覚に陥った。死にたくないから逃げているんだ。逃げるってどこへだ、さあ分かんない。
前方に見慣れたシルエットが見えた。サラサラ髪のポニテールの女の子。スマホをいじっていて下を向いているから顔はよく見えなかった、けどあれが誰なのか俺にははっきりと分かった。俺は足の回転速度を最大限にする。偶に気持ちに追いつかなくて、足の回転のリズムを崩して転けそうになる。
ただならぬ地鳴りに彼女も異変を感じたようで顔を上げると、目をまん丸にしてギョッとした。
俺は彼女の眼の前まで到達すると、両手を広げて彼女を強く抱きしめた。右手で彼女の頭におき、左手で腰に腕を回して力を込めて目を瞑った。
「理央、理央、理央」
彼女の名を連呼して、彼女の存在を感じる。彼女の身体は細くてエアリーだった。そのわずかな狭い身体から彼女の温もりを感じ取ろうとする……軽くて、あったかくって、ふわふわしていて……それにしても感覚がない。俺はもう少し力を込めるとやはり感覚がない。
「どうしたの大志!?この怪我!!」
ん、この怪我とは何の話だ。全く身に覚えがなかったし、この状況でその台詞は違和感があった。俺はそっと目を開くとあたりに彼女はいなかった。でも確かに声は聞こえていて、下を見たら彼女はしゃがみこんで俺のサッカーソックスを踝辺りまで下げていた。
「ねえねえ、どこでやったのよ!?この痣。すっごい痛そう!!だから走り方が変だったんだね」
痣……ああ、そう言えば昼休みに友達と会えたことが嬉しくってついつい興奮して、座席の脚の部分に脛をぶつけたんだっけ。てか俺、自分を抱きしめて感じてたのか…………気持ち悪るっ。
「ちょっと友達とゲームに白熱しすぎて打っただけ」
「これだけ青いから骨に触ってるかも……」
「ないない、俺は痛がりで足の骨折ったらもう歩けないから」
「でも馬鹿は気づかないらしいか……」
「ええい、黙れいっ!!」
俺は神聖な彼女の頭に触れないようにチョップの仕草をする。担任とは違う意味合いで、彼女には馴れ馴れしく触れ慣れない。彼女はすかさず体育で習得した上段の受け身を取る。
「この後何か用事あるの?」
「うん。なんか一樹が話したいことあるんだって、それも直接二人きりで!!シリアスな話に違いないわ!何だろうねえ、ちょっと怖いなあ」
俺の心に唐突に嫌悪な波紋が広がる。
「そう言えばあいつ慶應受かったよね、それの自慢じゃなね?個別で」
「ねっ、凄いよね!幼馴染として誇り高いよね!でも、自慢は嫌だ」
どんどんどんどん肥大化していく。
「もしかして、慶應受かって自信がついたから…………告白とか、かもよ?」
「何を今更!!一樹が私と恋愛関係を持ちたがるなんて!!」
ああ、それ以上……
「でもさ、あいつイメチェンに成功してイケメンになったしさ、」
「どうしたのー?大志、らしくないよー?」
言っちゃ……
「それにお前らお似合いじゃん、美男美女でさ!!もう無敵!!」
「ちょっと、いい加減にして!!」
駄目だって…………ッ。
「うるさい、お前だって嫌じゃないんろ!!」
「あいつみたいな奴が理想の男性像なんだからな!!」
ああ、やっちまった。言ってはいけないことを言ってしまった。我に返って彼女の顔を恐る恐る伺うと、今までに見たことのない表情だった。何もなかった。まるで青いターバンの少女だった。黄金比率でシワさえもが対照的な彼女の顔はいつも以上に親近感なく、それは俺に強く何かを訴えた。
彼女は昔から表情豊かだった。けど一つだけ乏しいのがある。喜怒哀楽の哀で、運命共同体となってから、俺は彼女の泣いたところを一度も目撃したことがなかった。今もない。
俺たちが中学三年生の時に彼女のお婆ちゃんが高齢のため亡くなった。それから学校に一週間もこないからさすがに心配になって、彼女の家を訪ねた。
「おい、生きてるか?」
ドアを開けて入ったら、お菓子のゴミや漫画に洋服などが床全面に散らばっていて足の踏み場のない部屋だった。空気の入れ替えを怠ったのか悶々としていて、呼吸しにくい。生命の危機を感じるような不潔な部屋で、この部屋とは対照的に清潔感漂う彼女が、ベッドの上で漫画を読んで爆笑して転げ落ちそうになっていた。
「あははははははっ、ヒィーー、あ、大志いらっしゃい!!適当に腰下ろして……きゃはははっ」
適当に座っていいと言われてもそんなスペースはありはしなかった。俺は入り口で立ち話することにした。
「……元気そうじゃねえか、学校こいよ」
「うん、明日から行くよー。もしかして心配してくれたの?嬉しいなあ」
「したけど必要なかったみたいだな!!」
彼女は漫画を読むのをやめて、かすかに残った床の隙間を身軽に踏んでこちらにやってくると、俺の手を曳中に入れ込んだ。勢いよく引っ張られた俺は床にあるうっかり服やぬいぐるみを踏みまくる。彼女は気にも留めないようだ。あああ………ごめんよ、ねいぐるみさん達。ベットの上に座らされると、話を続行した。
「本当にタフだな。お前、絶対泣かないよな。どうして?悲しい時は泣けばいいじゃん、女の特権だぜ」
「私は泣いたりしないよっ」
彼女はベッドを跳ねた。跳ね上がった時と着地した時の振動で俺は二回揺れを感じる。
「どうして?」
適当に質問を投げかけてみる。
「知りたいの……?」
彼女が小綺麗な顔を近づけてきた。ドキッと血圧が急上昇して、緊張した。後ずさりしようとしたら物にあたって逃げ場がなかった。彼女は聞き返されることを期待していて思惑通りになったようで喜んでいるようだ。だから俺は敢えて聞きたくない態度をする。
「それはね、泣いたらブスになるからだよ」
「………あのさ、ふざけてるよな」
「あはははっ、でも一理あるよ?女の泣き顔は美しいなんてそれも嘘。女の泣き顔は皮肉なもんよ」
「残念だけど、理央がブスなんて想像つかねえな」
「ほう、それはどうも。でも、みんな私を買いかぶりすぎてる。確かにみんなより少し顔が整ってるけど、特別美人ではないよ」
表参道であれだけスカウトマンの視線を釘付けにしておいて、よくもそんなに過信せずにいられるものだ。それとも、その謙虚さも気づかずにできた自信から成立しているものなのか。そういう状況に陥った事のない俺が分かるはずもないから穿つのは止しておいた。
「私はね、泣くような女々しい女嫌いなの。だから泣いたりしない。これは現代女子のプライドであり、象徴なんだよ」
「女子とか、言える立場かよ」
「無礼な!!私だって、レディーなんだからねっ!!」
その時の俺は彼女を嘲笑ったけど、今は少し理解できるよ。ジェーンダーレスって言葉は元々は社会で不利に感じた女の不満によって誕生した言葉だ。お前は当時から無意識にかもしれないけど、この社会と地味に戦ってたんだろうな。そんなこと男に生まれた俺が気にするはずもないし、分かるわけがなかった。多分生涯完全に理解できることは不可能だと思う。少なくともその時分かったことは、彼女ほど女に誇りを持ってる奴はいないってことくらいだった。
彼女が時を止めていて、彼女が無表情になってから一度目の瞬きをすると時はようやく時が再開した。彼女は視線だけを上げて、見きな瞳をスローモーションで最大限に細めると。そして冷静に毅然とした態度で、
「私は彼をそういう目で見ていない」
そう言い切って彼女は俺の横を通り過ぎて背中に声をかけた。
「あとね、」
あまりにも間が長いから、いなくなってしまったんではないかと思って振り向いたら、俺が振り向くのを彼女が待ち構えていた。すっかり度肝を抜かされた俺に、彼女は張り裂けそうな笑顔で応えた。
「がんばれ」
彼女は右手を天高く上げて光のウェールを纏っていた。その手で俺の胸をトンと叩いた。果物ナイフでひとつきされた。痛々しいほど昂然なその笑顔は見ていられないほどだった。彼女は風に身をまかせるかのように走り去ってしまった。
がんばれ、彼女にとっては唯一濾しだせた声援だったのかもしれない。でも俺はこの台詞を送られて、鉛の鉛の文鎮で押し潰されて反吐を吐きそうだった。今、一番言われたくなかった。
頑張っているのに頑張ってなんて……なんて酷いこと吐くんだろうね。それに理央、頑張れば頑張るほど怖いことだらけなんだよ、知らないんだろ。彼女は才色兼備で出来た人間のくせにデレカシーがなかった。彼女には味わったことのないことだから仕方がないし、また嫌味がないところが余計に駄目押しだった。
俺は彼女のスマイルキラーで金縛りにあって、その場を離れることができなかった。
俺がただ呆然と立ち尽くしていると、後ろからコーチが追ってきた。早く練習に戻れと催促してきたのだ。そうしないと推薦がうまくいかず、学校のためにならないと、必死こいている様にしか俺の目には映らなかった。この人は優しいというより己に甘いらしい。優しい人は賢いから、相手の立場に自分を重ねて思慮分別ができる。自分の名誉のために俺を追いかけてきたこの人は甘ちゃんでしかない。このコーチも俺を合格させて実績を残したいだけなのだ。
どいつもこいつも…………。
俺の中で迷っていたものが、ここで確定した。もしかしたら俺は初めからこうしたかったのかもしれない。⼊道雲が健やかに引いていった。
「コーチ、俺推薦やめます」
八
夕暮れ時の繁華街は仕事帰りや学校帰りの高校生や大学生で賑わいを見せていた。確かにこの周辺は手に入れやすい価格の有名なブランドが建ち並んでいて、態々都会に出ずとも一通りのものは手に入れることができるから学校帰りに気軽に足を運ぶにはうってつけの場所なのかもしれない。各社百メートルにつき一つの感覚で建っているコンビニエンスストアは、この小さな範囲で紛争を繰り広げている。スタバが五つもあるのにマックが一つもない。スタバがどれだけあってもマックが一つもないなんてやはり副都心である。
この時間にショッピングを楽しんでいる高校生は一、二年生かもう受験が終わった人か進路を見失った人だけなのだろう。
俺は霞む視界の中でボーとしながら街に干渉され、一本目のエナジードリンクの淵に唇をつけていた。本当はビールが飲んでみたかったけど、見た目からして無理があってレジで止められたから、仕方なくエナジードリンクを三本買ってやった。
俺はお酒どころかエナジードリンクすら値段の高さに躊躇してしまい、一度も飲んだことがなかった。魔女の爪がデザインされた缶を開けると中の炭酸のせいで中身も溢れ出してきた。中を覗いてみると、それは独特な緑色をしていて、いかにも身体に悪そうでそそられた。味は普通の炭酸飲料で美味しい。
あれから俺はとっつくコーチを振り払い、自分の荷物も取りに戻らずユニフォーム姿の手ブラで学校を出てきてしまった。いち早くあの息苦しい場所から解放されたかったのだ。だが、やたらと人の注目を浴びる。この時期にまるで裸で歩いている人を物珍しげに見ているようで、ひたすら恥ずかしい。と、いつもなら思っているのだが今日は全然人目なんてどうでもよかった。人にどう思われようが関係ないのだ。目の前で人目を気にせずいちゃつき歩いている制服のバカップルも同じ心境なんだろう。でもこいつらは周りの人に公害だからもう少し自粛すべきである。目のやり場にひたすら困る。
あーあ、俺は何をやっているんだろうか。こんな時間があったら一刻も早くサッカーか勉強をやらなきゃいけねえのにさ。でも、C 判定だしやっても努力って実らねない時もあるんだな。もしかしたらオーバーヘッドキックもそうかもしれない。それにサッカーが少しできる程度では誰も評価してくれやしない。
改札が開いて人々が忙しそうに雪崩となって出てくる。みんな先を急ぐ。先を急ぐってことは行き先があり、目的があるってことだ。俺もないわけではない。社会人からしたら全然大したことない目的なのかもしれない。けど、受験勉強はしなくちゃいけないしサッカーはしなくちゃいけない。でもできない。みんなそんな気にはならないのだろうか。またはそんなこと考える余暇がないのだろうか。俺は忙しいのに考えてしまう。
可哀想な俺を、前の中年男が煙草の煙で撫で回し可愛がる。最近、タバコの香りが嫌いではない。俺はめいいっぱいそれを吸い込むと、まっ平らなのど仏に絡まりついた煙を唾と一緒に流し込もうとした。短くなった煙草は道端に捨てられ、その背後を歩いていた、赤いエナメルのピンヒールを履いた女によって火が押し潰された。見事なコンビネーションで思わず関心した。
この人混みの多さだった。突然誰かが俺にぶつかっても無理はないし、悪気なんて絶対になかった。でも今回は随分と幼女で、俺は大丈夫、と気を使い声をかけるために幼女の目の高さまでしゃがんだ。その時昔の記憶をほじくり起こされた。
幼女の目は小さくて瞼の脂肪が余計に瞳の面積を小さくしていた。脂肪と脂肪の隙間から僅かに見える澄んだ瞳は少し前の理央の瞳とそっくりで、心臓のど真ん中を直感であて抜き、レイピアで貫通されたたような気になった。まるで汚れも恐れも知らないその目は、死の匂いなんて一切無臭だった。平仮名も書けないかもしれないこの子に自分の全てを透視されているそんな気にすらさせた。俺はその子に圧倒され、すっかり口から言葉を発するのを忘れる。すると何も話さずに瞬きもしない俺を見て恐ろしくなって、幼女は小刻みに全身を奮い立たせてビービーと泣き始めた。
俺が不慣れで不器用に宥めてみるけど、泣き止むどころか余計に泣いた。全く親はどこ行ったんだ、こんなに幼い子適当にするなよ。行き交う人がジロジロとこちらを見てくる、見てくるけれど声をかけてはこない。その目はこの子と真逆のものだった。先ほどとは違う意味で注目されてしまっている。今度はちゃんと恥ずかしい。俺が困り果てていると、彼女の母親を名乗る女性が現れて俺は安堵した。
母親は俺には盛大な感謝を告げてペコペコと平謝りするから、何だか逆に恐縮してしまい申し訳なくなる。お店のチルドレンスペースで遊んでいる間に買い物に出掛けていたら、戻ってきたらいなかったというありがちな成りゆきだった。俺が気を付けて下さいね、と喚起すると母親は最後までお礼をかさず二人で歩いて行った。俺もまたどこかをぶらつこうと道を探すが、裏はラブホ街で特に何もなかったので、必然的に彼女たちの後を追うことになった。
親子の会話が地獄耳の俺には微かに聞こえる。母親がまだまだ泣きじゃくっている娘を叱っているようだ。最初は盗み聞きしているくせに偉そうに、うんうん、と頷き聞いていた。しかし段々とその内容が不可解なものになっていく。その母親は俺のことを変質者、不審者、またはロリコン扱いしていて幼女によく注意するように言い聞かせていたのだった。俺は呆れて彼女たちに気付かれる前にU ターンして、暗い路地の道へと足を踏み入れた。
路地裏はかなり怪しげで外観が杜撰な営業しているのかどうかも怪しい店が立ち並んだ、ラブホ街だった。警察がそこたらじゅうに巡回していて、ラブホから出てくる男女を取り締まっていた。特に変わった様子も見られないし、何のためらいもなく俺はラブホ街を突き進む。すれ違うのは大抵身なりが派手な若い女と幅広い年代の男で、女の方は視力がよくないようだった。売春は犯罪ですと、デカデカと主張したポスターが電信柱に貼りつけてあった。
制服を着た婆とメイド服を着た婆が俺を呼び止めていかがわしい勧誘をしてきたが丁重にお断りした。あんなことをしていたら親が可哀想に思う、と疑わないのだろうか。いや一部の奇特な人を除いて、彼女たちだって本望であれをやっているわけじゃないだろう。この世界に適応しなかった彼女たちがそれでも生きるためにやっていて、彼女たちの最後の生き残る術でありラストホープなのだ。そうなると俺も他人事ではなくなる。だから風俗取り締まり法もどうなのかな、なんて思ったりもした。
人気のないとこにいくと、俺は飲みきった空き缶を力強くブロック塀に打ち付けた。当たってコンクリートに転がった空き缶はパッケージが傷ついて禿げていた。俺は落ちたスチール缶をさらに踏みつけて凹凸にした。駐車ブロックに座り、ここで二本目のエナジードリンクと三本目のエナジードリンクを一気飲みした。二本目は赤色のラズベリー味で三本目はオレンジ色のオレンジ味だったけど、殺気立って張り詰めたこの場では鉄臭い鉄分の味しかしなかった。
ふと、ブロック塀の先に黒人男の姿を捉えた。大変だ、隠れなければならない。上りきった息を殺して、俺はブロック塀にへばりついた。あいつらは若い奴らに声をかけ、肩を組んで自分たちの経営する悪徳店に引きずり込ませ圧力をかけて爆買いさせるらしく、この間俺の友達も被害にあって二万五千円も払わされたそうだ。噂で聞いた話だと最悪の場合お金を持ってなければ、理解不能な英語でベラベラ話された後に半ば強制的にオッケーと言わされて、薬を持たされるとか何とか…………。とにかく要注意人物なのである。そんなことも忘れていたなんて、自分で自分が嫌になる。とにかく最悪の事態だけは何としてでも回避したい。
様々なことがいっぺんに起きて感情が高ぶったせいか、俺の目が震え水面抗力で瞳に水分が滞っていた。口から声が漏れそうになるから両手で覆った。ここで泣いてはいけない。でも同時に思う。ここで泣いたら誰かが手を差し伸べてくれるのだろうか。いや駄目だ、差し伸べられたその手は悪魔の手で間違いなく地獄に引きずり落とされるだろう。そしたらもう二度と元の世界には戻ってこれやしないし、死ぬことすら許されなくなる。裏で人身売買を容易に行っているのが想像できた。
あいつらが一旦店に戻ったのを見計らって、俺はいつもの踏み込みで猛ダッシュで逃げた。息を止めて今までで一番命がけで走った。
ああ、脇腹が激痛だ。さっき飲んだエナジードリンクが胃の中でタプンタプンと過激に乱交している。走って発汗した汗にさっきび散ったエナジードリンクのグルコースがブレンドして、体を動かすたびにツーンとした腐敗臭が漂う。
今頃三本のエナジードリンクも俺の胃の中で混じり合いカオスを作り出しているのだろう。三原色はどの色をどう組み合わせても作り出すことができない、要するにその色でしか存在しない。自主性の高いから俺の腹の中でも自他共に認め合い個性を保っているのだろうか。それとも混じりに混じり合ってブラ
ックホールのように、真っ暗に俺の腹を腹黒く染めているのだろうか。
俺は走って走って再び繁華街に戻って人通りの多さに安心した。改札の外から見える駅の電光掲示板には八時三分発の時刻が書かれていた。いつもの部活終了時刻に合わせてそろそろ家に帰ることにした。そうしたら母には疑われない。
繁華街をまっすぐ直進していくと、夕飯どきだから客引き行為が目立った。注意喚起のアナウンスなんて人々の声にかき消されもはや意味をなさなず、製作して生産する分だけ税金の浪費だった。
中学生の俺にまで勧誘してくる奴がいて、呆れてしまう。学校名が堂々と刺繍されたユニフォームを着ていたりすると、安全が保障されていると勘違いをしていたみたいだ。目の前にチラシを渡す男性は珍しく紳士服に身を包み単発で少しワックスで整えてある頭髪は清潔感にあふれていた。どうやら飲食店の勧誘ではなさそうだった。しかし、何であるにしろ俺は入会する気がなかった。
俺はまるでその紳士をいない人みたいに、ただ暗闇の前だけを向いて歩き無視を決め込んだ。でもチラリと見たチラシはビニールの袋に包まれていてその中にシャープペンシルと消しゴムが入っていた。それだけで分かる。相当大手の塾を経営している大企業に違いなかった。俺はシャープペンシルとちょうど不足していた消しゴムに目がくらんで、一度引いた塾講師の手からチラシを抜き取った。
塾講師はその強引さに驚いたようだった。そのまま何事もなかったかのようにたち去ろうとする俺に、この好機を逃してはならんと塾講師がセールスを始めた。
「私、〇〇塾の相原と申しますが、今お客様何年生でいらっしゃいますか?」
無視し続ける俺にしつこくつきまとってくる。無視を決め込んだのに、偏見かもしれないけど俺は大阪のおばちゃんではないから、無視することを全うできなかった。俺はすぐに足を止め、渋々答えた。
「……三年生……です……」
「三年生ですか!!では受験生ですね、精神的に苦労する時期ですね。もう志望校は確定されましたか」
精神的に苦労する時期ですね、俺はあっちの商法だと知っていても共感されたことに嬉しくなる。そうなのだ今死ぬほどつらいのだ。
「そうなんですよねえ、本当に。志望校は〇〇高の推薦貰っていたのでそこだったのですが、今ちょっと変えようと考えていて」
「〇〇高という事はサッカーが得意なんだね、じゃあ、〇〇高とかならサッカーもそれなりに強いし、就職率もいいから……」
「へーっ!!そんなところあるんですか!!」
さすがはプロだった。この世界の仕組みや知識に詳しいし、学校より断然で豊富な資料をiPad上に表記して説得力のあるものにしていた。
「うちはラスト五十日から、国立付属、慶應、早稲田、桐蔭、お茶高、日比谷、國學院、MARCHレベルの学校などが狙えて、実際にこのデータをご覧になるとお分かりになると思うのですが……」
前の塾でもそうだった、巧妙でありがちな塾の勧誘方法だった。
俺が少し前まで通っていた塾は酷いものだった。俺たちはブラック企業の商売道具でしかなかった。このように煽てておいていざ入会すると、優秀な子に手厚くするばかりに他の生徒に手が回らなくなって、放置同然の扱いにされる。
俺は高校に特にこだわりがなかったから、合格判定に学力相応の高校を模試で記入した。結果はよくて自分の中ではベスト校だったけど、所詮は自分の価値観であった。合格判定一覧のチラシを見たとき、光桐とか松蔭とかはでかでかと掲載されているのに、俺の合格した高校はびっくりするくらいチラシの隅に小さく名前が書かれただけだった。そんなこと当たり前だった、自分の学校は世間一般から見たら平凡な進学校だった。分かっていたけど、何処となく悔しかった。それからだったかな、自分の立ち位置を気にし始めて、世間観を気にするようになったのは。
彼がいとも簡単に出す学校名はルイヴィトンやグッチなんかよりずっともっと、喉から出が出るほど欲しいブランド名ばかりだった。みんなが価値を認めるそのブランド名を自分の肩書きとして生きていけたらどんなに楽だろうか。想像しただけでワクワクしてしまう。騙されていると分かっていても、ブラック企業の不良品の商売道具にされると分かっていても、もう何かに縋り付かずにはいられなかった。
俺はその夜、何事もなかったかのように家に帰ると勉強にいき詰まっている事実を母に包み隠さず暴露し、翌日母とその塾を訪れ契約書に判子を押してもらった。
俺はサッカーを諦めてこの道で生き抜いてやるんだ。




