箱の中の闇 後編
エレベータの扉が閉まって、黒い女は出て来なかった。
少しほっとした俺は、とりあえずフロアを見渡す。
四階は全員帰ったのだろう、真っ暗である。
エレベータホールから、オフィス部分へ通じる両開きのガラス扉の前、非常灯の下に、ディスプレイが一台置かれていた。
そうそう、これだ。
俺はこのディスプレイの為にこんな思いをしたのだ。
額の冷や汗を拭い、静かな行くエレベータホールの床に置かれたディスプレイに屈んで手を伸ばしたその時、
カリカリ…カリカリ…
背後で音がする。
俺は、背筋に氷水を垂らしたような感覚を覚えて、ディスプレイから手を離した。
何の音だ?
まるで、エレベータの壁を真っ黒な爪で掻いているかのような音だ。
背後のエレベータか?
いや、あいつはエレベータの中だった。
扉が閉まってここに出て来られなかった筈だ。
俺は慌てて振り向いた。
そこには、エレベータの横の壁に開いた真っ黒な穴から上半身を出して、ニヤニヤ笑う黒いシミだらけの顔の女がいた。
何だ、この女は何がしたいのか…。
明らかに俺を狙っているが、呪い殺すのか、恨みを晴らすのか知らないが、俺はこの女を知らない。
この女にとり殺される謂れはない。
だいたい、今日はろくな事がなかった。
朝からフロアの引っ越しに駆り出され、昼過ぎに客先に呼ばれて怒られ、会議で吊し上げられ、部長に説教を食らう。
挙げ句に自分の運んだディスプレイは誰かに使われて行方不明。
四階まで取りに行く羽目になって、さらにこの、お化けの女である。
俺は早く報告書を作成して帰りたいだけだ。
なのに何故こんな目に合うのか。
「おい、お前!」
俺は怒りに任せて、そのニタニタ笑う女に怒鳴った。
それで、ニタニタ笑っていた顔が一瞬止まった。
が、すぐにまた、ニタニタと笑いながら壁に真っ黒な爪を立てて這い出ようとしている。
これはいける!
と、俺は確信した。
こいつは、俺の声が聞こえている。
俺はこの黒い女に向かって、突然、全力で駆け出した。
女の黒いシミだらけの顔の前、数センチの所に自分の顔を突き出し、
「お前の事だ、コノヤロー!」
と恫喝しながら睨み付けた。
女のニヤニヤは一瞬で凍り付いた。
「何やってんだ、コラ!」
俺はなおも怒鳴り付ける。
「死んでるクセに、生きてる人間様の邪魔をするとか、なめてんのかコラ!」
俺のあまりの剣幕に、女の細長い瞳に怯えの色が浮かんだ。
それを見てさらに畳み掛ける。
「だいたい中途半端なんだよ!出るなら出る、引っ込むなら引っ込む!ちゃんとメリハリつけろやコラ!」
女は何も言わず、ただ怯えていた。
「もう一回ぶっ殺されたいのか、あ?!何とか言えよ!」
少しの静寂の後、
「はい…」
と、蚊の鳴くような小さな声が聞こえた。
それはなおさら、俺の怒りに火を付けた。
「はい?!なめてんのかコラ!とりあえず殴る、あぁもう殴る!いいから一回こっちに出てこいやコラ!」
女はうつむき、伏し目がちな目をキョロキョロとさせ、落ち着かない様子だ。
だが、俺の命令に従わず、壁から出て来る気配はない。
「おい、聞こえてんのかクソ女!中途半端なんだよ!さっさと出てこいよ!」
二度同じ命令をされ、女はしぶしぶながら、暗闇の穴からひょこんと出てきた。
黒いロングのワンピースで、手足には黒いアザのような斑点がたくさんついている。
「早く出ようと思ったら出来るだろうが!ぐずぐずするなよ、のろま!」
俺は冷酷な表情で女を罵りながら、
「で、お前は何がしたいんだ?」
とたずねた。
女は歯をくいしばりながら、何か言おうとするが、そこへ俺が怒鳴り付ける。
「俺を呪うのか?!殺す気か?!呪い殺す気なんか?!」
女は具合の悪そうな顔で、弱々しく頷いた。
「どうやって殺すんじゃコラ、死んでるクセに!」
俺がそう吐き捨てるように言うと、女が弱々しい声で、
「…首を、絞めて…」
と申し訳なさそうに答えた。
「はぁ?!バカか?!のろまのクセに?穴から出てくるよりエレベータの扉が閉まる方が早いのに?のろまだけじゃなくてバカも患ってるの?!」
俺に思いっきり嘲笑された女は、少し反抗的な目になって何か言い返そうとしたのだが、俺はそんな隙も与えない。
「はい、はい!バカに質問してやる!ここは何ですか?」
俺はわざと思いっきりバカにして大声でたずねた。
「…会社…」
女が少し不貞腐れて答えた。
「そうです、ここは会社ですよ。あんたは何?ここの社員?社員証は?」
俺は女に畳みかけた。
女は黙ってなにも答えない。
俺はその場にあった長椅子を蹴り上げた。
ガン!とフロアじゅうに響く音を立てて長椅子が飛び上がる。
それと同時に女も小さく飛び上がった。
俺は冷酷な目で女を見下して指さしながら、
「ここの社員じゃないんだな?はい、不法侵入~」
と言い放った。
女はうつむいたまま何も言わない。
さらに俺のターンは続く。
「で、おたくなの?エレベータにいたずらしてたのは?」
オレの質問に、女はかすかにうなずいた。
チッと舌打ちした俺はまた女を指さして、
「はい、威力業務妨害~」
と言った。
女はさらにうつむいた。
俺はさらに追い打ちをかける。
「それに、殺人未遂だよね。臭い飯、食いたいのか?」
すると、女は顔を上げ、涙を貯めた目で俺を睨み、弱々しい声で「…幽霊だから」と反論した。
それで俺はブチギレた。
長椅子をガンガン蹴りながら喚き散らす。
「はぁ?!幽霊?じゃあ死んでるんだな!死んでるクセに何で生きてる人間の邪魔をするの?!バカなの?お前は死んでるんならもう終わってるんだよ!生きてる人間はまだ終わってないの?わかる?うすのろバカな頭でもそれくらいは理解しろよ!自分で幽霊だって言ってるんだろ?!死んだ時点で敗け、負け犬なんだよ!アレか、お前は自分がゲームオーバーになったからって、真剣にゲームしてる彼氏の後ろから抱き付いてゲームを邪魔するタイプか?空気読めよ!かまってちゃんか?!鬱陶しいんじゃ、クソボケ女!」
その時点で、女はすでに泣いていた。
それが俺を余計にキレさせる。
「はい、出た。出ましたよ女の武器!泣いたら許してもらえるとでも思ってるの?!どこまでもバカのかまってちゃんだな!いいから謝れ。とりあえず謝れよ!」
女は肩を震わせて何も答えない。
俺は大きく息を吸って、壁にドンと手を突いた。
「謝らんかボケ!」
「…すいま…せん…でした…」
女はか細い声で、途切れ途切れにそう言うと、ヒックヒックとしゃくりあげ始めた。
俺は舌打ちをしてから、
「…余計な時間とらせやがってクソが…とりあえず、ここのモニターを十一階に持って行って、俺のパソコンにつなげてから報告書作っとけや!」
と怒鳴りつけた。
泣きながら恨めしそうな顔で俺を見る女を睨み付け、俺は右側のエレベータのボタンを押し、そのまま会社を後にした。
カリカリ…
嫌な音で俺はガバっと顔を上げた。
目の前でモニターが光っている。
画面の左下を見ると、時間は「13:11」と表示されている。
まずい、昼休みで寝入ってしまって、昼休憩から10分以上も経っている。
ぼうっとした頭で隣を見ると、同僚がボールペンで机の上を擦っていた。
カリカリはこの音だ。
しかし、なんて夢を見たんだ…。
などと思っていると、頭を上げた俺を見付けた課長が、「早く報告書上げろよ」と声をかけてきた。
そうだ、客先で起こった不始末の報告書を上げなければならなかったんだ。
俺は姿勢を正して画面に向かった。
そこには、既にワードの報告書が立ち上がっていて、
「すいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいません」
と書かれていた。