箱の中の闇 前編
ガタンと大きくエレベータが揺れる。
中に乗っているのは、三人。
太ったおっさんと、黒い服を着た長い黒髪の女だ。
広さは一坪半ほどある十人以上は乗れるエレベータだ。
俺はエレベータの壁に手を当てて、眉間にシワを寄せた。
(またか…調子悪いな…)
このエレベータはよくこういう問題がある。
揺れたり、異音がしたり。
その度に点検して整備してもらっているようだが、その時には問題がないらしい。
点検を呼んでいる自体が嘘で、そういう必要経費もケチっているのだろうか?
自社ビルなのだから、この会社自体を疑ってしまう。
十七階建ての十一階が自分のフロアで、エレベータは二基ある。
よく問題を起こすのは向かって右側のエレベータで、左側のはそういうのがあまりない。
「あまり」というは、故障で利用できない、という事がたまにあったからだ。
右側のエレベータで不快な現象が起こるのだから、必然的に反対側のエレベータばかりが使われる。
だから左側のは故障頻度が増えるのだと、俺は理屈で結論付けていた。
ただ、だから左側のだけを使えばいいとはならない。
急ぎの用事がある時、空いていて呼び出し易い右側のエレベータは便利なのだ。
お客先からやっとこさ帰社した俺は、早く自分のフロアへ行きたかった。
というのも、今日はフロアの移動があって、四階から十一階へ引っ越したばかり。
ろくに自分のパソコンの設置も出来てない時に、お客から緊急の呼び出しがあった。
その後立て続けに会議があり、そこでその問題を指摘され、しこたま非難された。
納得する改善策を出すまで帰さないと偉い人が言ったものだから、こんな時間まで長引いた。
帰って早く報告したいというのも、パソコンを設置をしないと何も出来ないというのも、一息付きたいというのもあって、右側のエレベータを使ってしまった。
大きな音と揺れがあったが、エレベータは止まる事もなく、上へ上へと上っていく。
太ったおっさんと俺は、少し不安げに階の表示ランプを見上げているが、女はイライラしているのか、じっと扉を見つめたままだ。
五階でおっさんが降り、九階で女が降りた。
一人になった俺を乗せたエレベータは、ウィーンと音を立てて上がり始める。
その時、
パチン
と、小さく何かが弾けたような音がして、エレベータの明かりが一瞬消えた。
だが幸いにも消えたのは一瞬だけで、すぐに明るくなった。
「なんだよ…勘弁してくれよ」
一人の俺は思わずつぶやいた。
明かりが消えるということは、電気が来てないという事だ。
だが、エレベータは止まる事なく上昇し続ける。
十階を過ぎた。
「あと一つ、頑張れ!」
一瞬だけ明かりが消えたにも関わらず、止まりもせずにそのまま十一階に着き、静かに扉が開くと同時に俺はエレベータを飛び出した。
「まったく、なんだよ…」
そうつぶやきながら、十一階のエレベータホールを見渡す。
一階以外は基本的に同じ構造で、二基あるエレベータに向かって右側は狭い休憩所があり、緑色の長椅子が壁際に設置され、その奥に自販機が光っている。
その奥には建物内の階段へ通じる鉄の重い扉と、トイレの扉が男女並んで二つある。
偶数階の休憩所には吸煙機が置かれ、そこでタバコを吸うようになっている。
定時退社日だというのに、そこには何人かのおっさん達が、タバコ休憩をしていた。
そのうちの一人が、不審な顔をしてエレベータを見つめるオレをみとめて、
「また調子悪いの?」
と、とぼけた声をかけて来た。
「ええ、そうなんですよ。またこっちのが…」
おれがそう答えると、
「あぁ、二号機ね。総務に連絡しとくよ」
と言って俺の肩をぽんと叩き、自分の机に戻って行った。
そのおっさんは隣の課の課長だ。
俺が慌てて部長に報告し、説教を食らって席に戻った時にはもう居なかった。
定時退社日だから、さっさと帰ったのだろう。
俺も報告書を作成してさっさと帰ろうと思い、席に着いて気付いた。
パソコンをつなげていない。
ネットワークどころか、電源もささっていない。
電源線とパソコンの本体、それにLAN線が机の上に散らばっていた。
そうだ、設置する前に客先から電話が入ったんだった。
その電話で慌てて出て行き、今のこの状態だ。
いやな一日だ。
客先では怒られ、その後の会議で吊し上げられ、自社に帰って来てからは部長に説教される。
挙げ句にエレベータは不調、パソコンも運んで来ただけでほったらかしとは…。
俺は隣の席がこんな状態なのに放置して家に帰った同僚を恨み、自分を憐れんだ。
しかし、そんな感傷に浸っていてもしようがない。
とりあえずパソコンを何とかしないと、と線を繋げ、本体を綺麗に机の角にセットして、ふと気付く。
ディスプレイがない。
その間にも周りの人間はちらほら帰宅していき、このフロアに残っていた最後の女性がエレベータホールへ去ろうとする時、
「モニター、知りませんか?」
とたずねた。
その女性は会社の設備関係詳しい。
多分そういう業務なんだろうが、俺は彼女の業務をよく知らない。
鞄を入り口付近のデスクに置いて、わざわざ見に来てくれた。
「あら?本体はあるのに、ディスプレイがないわね」
「えぇ。出かける前に、ここに置いて出たんですが…」
俺がそう言うと、なにかぶつぶつとつぶやきながら一通り辺りを見渡して、
「ここらのディスプレイはみんな型が同じだから、間違って誰かが繋げたのかもね…」
と言った。
だが、余っているディスプレイは何処にもないようだ。
「そうだ、下に余りが何台かあったわ」
「下?」
「四階よ、待ってて…」
彼女はそう言うと何処かへ電話した。
何言か話して、電話を切った後、
「丁度みんな帰るところだったみたい。エレベータ前にモニターを一台置いとくからって。取りに行って」
と告げて、
「じゃ、お疲れ様~」
と、足早に左のエレベータに乗って帰って行った。
そんなやり取りをしている間にも、部長を含めてほとんどの社員が帰宅していく。
ざっと見たところ、このフロアにはあと二、三人しか残ってない。
早く取りに行ってパソコンを繋げ、報告書を作らないと最後の一人になりかねない。
エレベータホールに出ると、左側のは一階へ降りていく最中だった。
俺は焦って舌打ちしなから、右側のエレベータのボタンを押した。
すんなりとエレベータは到着する。
乗り込むと、何か嫌な予感がした。
しかし、そんな予感どうこう言っている時間じゃない。
夜はまだ始まったばかりとはいえ、一般家庭が夕食を食べる時間は過ぎているし、このビルからはどんどん人が居なくなっている。
「早いこと頼むよ」
俺はそんな一人言をつぶやきながら、四階のボタンを押して、閉ボタンを何回か連打した。
下り始めたエレベータはすぐに、二つ下の九階で止まった。
開いた扉の向こうは真っ暗。
フロアには誰もいない、みんな帰ったのだろう。
少しぞっとしたが、まぁよくある事だと自分に言い聞かせた。
二つボタンを押して、先に来た方に乗る。
後から到着したエレベータは誰も乗せることはない。
俺はまた舌打ちをしながら、操作パネルの横の壁に背中を着け、閉ボタンを連打した。
また下り始めたエレベータ。
するとすぐに、ガコンという音と共に、明かりが消えた。
しかも今度は一瞬消えただけではなく、二度と点灯しない。
真っ暗である。
電気が来てないなら止まる筈なのだが、エレベータは下り続ける。
…8…7
緊急停止ボタンを押そうかと一瞬迷ったが、押せば当然止まってしまう。
早く四階に降りたいし、何より動いている今の状況を悪化させたくはない。
天井の蛍光灯が切れただけだと言い聞かせた。
…7…6…
祈るように階数の表示ランプを見つめていると、五階で停止し、扉が開いた。
フロアはまた真っ暗。
だが、エレベータを待っている人が居た。
スーツ姿でリュックを背負ったり、鞄を下げたりしている男女三人組だ。
少しほっとしたのもつかの間、彼等はこちらを凝視したまま動かない。
その顔には驚きと恐怖が表れていた。
そらそうだ。
到着した曰く付きのエレベータの扉が開いたら真っ暗で、男が一人、壁際に立っているのだから。
明かりが切れたみたいなんです、なんて微笑みながら声をかけようかと思った俺は、気付いてしまった。
彼等の視線は、俺の方を見てはいるが、俺を見てはいない事に。
彼等が凝視しているのは、俺の後ろ。
壁しかない筈の後ろ斜め上だ。
その時、チンという間抜けな音と共に、エレベータの扉が閉まった。
動き出すエレベータ。
俺の眼球も、見たくない筈の背後に自然と動く。
見てはいけない。
あの三人の表情からもそれは察する事が出来る。
何があるのか、何かいるのか…
動悸が早くなる。
頭の中がグルグル回り、色々な考えが浮かぶ。
あの三人は暗闇のエレベータにヒビってただけで、俺が見えなかったんじゃないか。
いや、単純に楽しいおしゃべりを続けたかっただけで、乗るのに躊躇したんだ。
いやいや、もともとこっちのエレベータに乗るつもりはなかったのに、ボタンを押しちゃってて、扉が開いてビックリしていただけじゃないか。
それじゃ、俺の後ろには何も居ない…。
だが、耳元で音がする。
カリカリ…カリカリ…
いや、何も居ない筈だ。
これはエレベータの音だ。
壊れかけたエレベータの部品か何かが引っ掛かって、カリカリ鳴っているだけだ。
何も居ないし、何もない。
そんな事を考えている間も、エレベータは勝手に下りる。
…5…4
エレベータは四階に音もなく着き、ガガガと音を立てて扉が開く。
密室から開放されるという安心感からだろうか、俺は見てしまった。
カリカリと音を立てる背後のモノを。
そこには、長い黒髪の女が、真っ黒な爪を俺の肩に食い込ませようと手を伸ばしながら、黒いシミだらけの顔をニタニタと歪ませていた。
全身の毛が逆立った。
鳥肌がシャツに擦れて痛いくらいだったが、必死に手足を動かしてエレベータから飛び出る。
と、同時にエレベータに振り返った。
黒い女は真っ黒な爪でカリカリとエレベータの壁を掻き、壁に開いた真っ黒な穴から這い出て来ようとしているようであった。
その顔は、何が面白いのか知らないが、ニタニタと笑っている。
エレベータの扉からその真っ黒なアザだらけの腕が出ようかというとき、エレベータの扉が静かに閉じた。