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「え?」
聞き間違いだろうか。
なんだか私たちにはすごく場違いな問いが聞こえたような。
けれども先輩はもう一度、今度は向き直って、私を見る。
その目はどこか納得しているようだった。
「うん、そうしよう」とでも言っているような。
「キスしよう」
「……遠慮します」
「なんで?」
「いや、なんでって…」
意味がわからないですから。だって今までの私たちの空気って、そんなのじゃなかったでしょう。
それとも、私が勝手に勘違いしてただけだろうか。
「………」
そう思った途端、すう、と自分の中のどこかが冷めていく気がした。
なんだろう。
先輩は好きだけど、好きだから私はこの薄暗い教室に通っていたわけだけど。
だけど、先輩は、
「……彼女さんが、いるでしょう?」
そう言っても、先輩の瞳は微塵も揺らがなかった。
少しも、動揺なんかしていなかった。
彼女がいると、私が知っていたのを、まるで最初からわかってたみたいに。
別にそれを知られていようがいまいが、私としてはどっちでもいいことだけど。
「……いるね」
一拍だけ間を空けて、先輩はいつもの調子で答える。
私はそこまで聞いて、少しだけ、無意識のうちに張り詰めていた息を吐き出した。
そうしてやんわりと、距離をとる。
「じゃあ他の女の子にそんなこと言っちゃだめですよ、先輩」
なんとなく、髪の毛で自分の表情を隠しながらそう言えば、視界の端で、影が揺れる。
衣擦れの音がして、それから、ぱきり。チョコレートの砕ける音がした。
「………甘い」
「…チョコレートですから」
「うん、久々に食べたら甘い」
「そうですか」
「明日も来る?」
そしてなんでもないことのように、かけられた疑問符。
先輩は、マイペースだと思う。
「……来ます」
「そっか」
「はい」
甘ったるいチョコレートの香りが、鼻を抜けていく。