4 夜闇
あとも見ないで猛然と村はずれまで走ってきてから、マールはやっと足を止めた。
一目散に走ってきたため、息が上がって、少し苦しいほどだった。村の端にある大木の影に入り、膝に両手を当ててしばらく呼吸を整える。
夜の空気は、すでに真冬のものから初春のものへと移り変わっている。村を囲む木杭の防護柵の外では、まだ寒々しい夜の森と山の稜線が、薄明るい夜空を黒々と切り取っていた。
(ほんっとに……なんだっていうのよっ……!)
まだ零れ続けている熱い雫を、乱暴な仕草で拭いとる。
(あのオルクなんかに、あたしが――)
小さい頃からいつも一緒に育ってきた、赤い髪のあの少年。いつまでたっても子供っぽくて、自分の後ろにくっついてくるばかりだと思っていた少年。そんな彼に、あまりにも真っ直ぐに痛いところを衝かれてしまった。それで、つい動転したのだ。
その上、見せたくない物まで見られた上に、そこをあの佐竹に見つかってしまうなんて。
マールはもう、悔しいんだか情けないんだか、訳もわからなかった。そうして、ただぼろぼろと零れ出るものを拭いつづけた。
(わかってるわよ、そんなこと。あんたに言われなくたって……!)
そんなことは、とっくにわかっているのだ。
あの佐竹が、「ナイトウ」という人のことだけを考えているだなんてこと。
彼が向こうの世界からやってきたのは、ただそのためだけなのだということも。
『もし、本当にサタケがマールのこと好きになってくれたとしても、マールにそう言うと思うのかよ? あのサタケが――』
オルクのあの言葉が、楔のように胸に刺さった。
そうだ。佐竹は、きっと言わないだろう。
もし、ほんとうに万が一、佐竹が自分にそんな気持ちを持ってくれたとしても。いずれ向こうの世界に帰ることになる立場の彼が、そんな無責任な告白など間違ってもするはずがないのだ。それはきっと、誰が相手でも同じだろう。
このままこの先、あちらの世界には決して戻れないことが分かったりすれば話が違ってくるのかもしれない。だが、少なくとも今の佐竹は、それに向かって真摯にひたすらに努力している。そんな彼にこれ以上、一体何を求められるというのだろう。
(わかってる……。わかってる。わかってるのよっ、そんなことっ……!)
マールは、結い上げた桃色の髪を掻き毟った。そのためにもしゃもしゃになってしまった髪に苛立って、マールは女官用の髪飾りを毟り取った。
ほどけた髪が夜空の淡い光を受けて、ほわんとピンク色の靄がそこに現れでたようになった。
「マール……?」
「えっ……」
背後からちょっと呆けたような声がして、マールは振り向いた。
ヨシュアだった。背後には、松明を手にしたディフリードが立っている。
「へい、か……?」
マールの喉からは、自分でもびっくりするような、掠れた声しか出なかった。
「マール、だよな……? 驚いた」
彼が何に驚いているのか、マールにはわからなかった。
「陛下……。どうして、こんな所へ――」
思ったことをそのまま口にしてしまってから、はっとした。
そうだ。あのまま佐竹に追いかけられていたら、もっと気まずいことになっていたに違いない。周囲のみんなは、きっと自分に気を使ってくれたのだ。
「あっ、ああ、あの、ごめんなさい……じゃなくて、申し訳ございません……!」
マールは慌てて一礼し、髪を元通りに直そうとした。
「勝手に飛び出てきてしまって……! すぐ、戻りますので――」
「あ、いや……。気にするな」
ヨシュアの声は、優しかった。とは言えこの少年王が、臣下に対して優しくない声で話すことは滅多にない。
ふと気付くと、ヨシュアの背後にいたはずのディフリードの姿が消えている。
マールは不審に思いながらも、ヨシュアに向き直った。ヨシュアはゆっくりと近くまで歩いてくると、困ったような顔で頭を掻いた。
「その……。王宮に仕え始めたばかりのそなたに、急にこのような役目を命じてしまったからな。他に適当な人材もいなかったとはいえ、何かと大変なことも多いだろう。……申し訳ないことをしたな」
「えっ? あ、いえ、とんでもないです……」
思わぬことを謝られて、マールはどぎまぎした。
「むしろ、村にしょっちゅう帰ってこられて、こんなのでいいのかなって思うぐらいで……。おばあちゃ……いえ、祖母のことも見に行けますし、感謝しております、本当にっ……!」
必死でそうまくしたてて、マールはまた頭を下げた。ヨシュアはそれを聞いて、にっこり笑ったようだった。
「ああ。そなたの祖母も、王宮に仕えてくれていた人なのだったな。母上からお聞きしたことがあるよ。一度、お顔を見に伺わなくてはな……」
ヨシュアが淡々と言う。年の割には温厚な、落ち着いた声音だ。柔らかい夜空の光に照らされたその横顔は、穏やかだった。
「…………」
マールは、ふと押し黙った。
なにか、急に色々と恥ずかしくなってきてしまったのだ。
この少年王はごく最近、とてもつらい形で兄王をお亡くしになったばかりだ。そればかりではない。その後はすぐに王権を引き継がねばならないことになり、南の国からの強烈な敵意にも晒され、国政の重圧に日々耐えてこられた。
それでもこの少年は、こうして自分の務めを果たそうと、寝る間も惜しんで働いている。この方こそここしばらく、精神的に、また体力的にも大変なこと続きだったはずなのに。
先日、発熱して倒れたのがいい例だ。
あの時、彼の体はとっくに、限界だと悲鳴をあげていたのに違いない。
それなのに、この王はどうして、周囲の人々をこんなに優しく気遣えるのだろう。自分とさほど、年も違わないはずなのに。
「っ……!」
先ほどとは意味の違うものがこみ上げてきて、マールの視界はまた熱い雫で霞んだ。
胸から喉にかけてが、ぎゅうっと苦しくなる。
「マール……?」
驚いたようにヨシュアから顔を覗き込まれ、マールは慌てて顔を覆った。
それでも、握り締めた拳の間から、ぽろぽろと雫が滴った。
(あたし、……どうして)
どうしてこんなに、自分のことしか考えられないのだろう。
佐竹も、ヨシュアも、他のみんなも、こんなに頑張っているというのに。
みんな、それぞれ自分の辛いことを抱えて、それでも周りの人を気遣うことを忘れないでいるというのに。
あのオルクでさえ、自分のことよりも、このバカな幼馴染を気遣おうとしてくれている。
(それなのに……!)
こんな自分が、佐竹に好きになって貰おうなんて。
そんなの土台、無理な話だったのだ。
こんなことで、一体どうやって、あの佐竹の隣に立とうと言うのだろう。
どうして、そんな事ができるなんて思ってしまったのだろうか。
(バカ。大バカ……!)
体中を震わせて立ち尽くし、拳にした両手で顔を覆ってしまったマールを、ヨシュアはしばらく困ったような顔で見つめていた。
が、それでも何も言わず、黙って夜空のほうを見上げていた。
マールの拳の間から聞こえる、押し殺した嗚咽が少しおさまってくるまで、ヨシュアは周囲の森や山の姿を見渡しながら、ただ静かにその場に立っていた。
やがて少年王の口から、静かな声が流れ出た。
「無理をしなくてもいいのだぞ……マール」
拳の間からそっと見返すと、ヨシュアはやっぱり空を見ていた。
「サタケの傍にいるのがつらいなら、いつでも言ってくれればいい」
「…………」
マールは涙に濡れた目を上げて、ぽかんと少年王を見つめてしまった。
(え、まさか……)
まさかとは思うが、この少年王にさえ、自分の気持ちは筒抜けだったのだろうか。
そんなにまで、自分はこの気持ちを顔いっぱいに表現してしまっていたのか……?
一気に顔に熱が集まってくるのを覚えて、マールはその場に固まった。
「あ、ああ、あの……」
「そなたは、十分にやってくれている。だから、居なくなられるのは本当に困るのだが……。それでも、無理は言わないよ」
「へ、陛下……?」
マールは真っ赤に染まった顔で、呆然とヨシュアを凝視してしまった。それは本当は無礼なことだったけれど、そんなことはすっかり失念していた。高貴な少年は、相変わらず穏やかな顔をして、別に何を咎める風もなかった。
「……さあ、そろそろ戻ろう。また、あのうるさい侍従に、あれこれ言われたくはないだろう?」
にっこり笑ってそう言うと、ヨシュアはゆっくりと回れ右をして、もと来た道を歩き始めた。が、マールがぼうっとしてまだついてこないことに気付くと、こちらを向いてちょっと立ち止まった。
「あまり、立派な人ばかり傍にいると……平凡な者は少し、つらいものだよな……? マール」
その言葉は彼の口から、まるでふと零れてしまったかのようだった。
少し寂しげに苦笑する少年王を、マールはびっくりして見返した。
(『平凡な者』……? いま、この人、そう言ったの……?)
マールの胸で、何かがはじけた。
それはきっと、「義憤」に近いものだったろう。
「そっ……そんな! 陛下は決して、平凡なんかじゃ……!」
顔の前で、必死にばたばたと両手を振る。
しかし、少年は黙ったまま苦笑しただけだった。そして、首を静かに横に振り、あとはもう何も言わずに、踵を返して歩き始めた。
「あ、あのっ、陛下……?」
慌ててマールはあとを追う。
二つの小柄な影が村の小道を歩いてゆくのを、少し離れた木の影で、美貌の青年がじっと見つめていたようだった。いつものように、ちょっと顎の辺りに指を添え、何かを考える風である。長く美麗な銀色の髪は、夜闇にすら映えて仄明るい。
妖艶なまでの菫色の瞳に思わせぶりな色を湛えたまま、青年は微かに、笑みを含んだ吐息を漏らした。
やがて、流麗な動きで髪をいちど払うようにすると、青年はふたつの影からやや離れて、音もなく歩いて戻っていった。





