5 レオノーラ
レオノーラは、ヴァイハルトの二つ違いの妹だった。
二人は、あの天将ザルツニコフの妹の子で、幼少の頃から何かと王宮に出入りする機会が多かった。ザルツニコフはその若い頃から武辺者で有名な男だったが、実はそれ相応の貴族の家柄に連なる者だったのだ。
当時の国王は、サーティークの父、ナターナエルだった。
父は聡明で温厚篤実な賢王だったが、残念なことには、少なからず健康上の不安を抱えていた。毎年の<黒き鎧>の儀式の際には、それはひどく疲弊し、息も絶えだえといった様子で帰城してくるのが常であり、その後数日、ひどい時には数ヶ月も政務が滞ることまであった。
また、特に三年ほど前から始まった謎の頭痛が、王を日常的に苦しめ続けていた。
人々は、王の健康を心配していた。そうして、次期王位継承者たるサーティークに、一刻も早く成人して妃を娶り、さらには男子を儲けることを望んでいた。
そんな大人の事情も絡んで、サーティークが公の席に出る式典や何かの際には、家臣たちの家族、親族の年頃の娘たちが全国各地から集まるというのが、日常茶飯事のようにもなっていた。
幼いころから人の気持ちの機微に敏かったサーティークは、そういう大人たちの思惑に、ごく幼少のころから気付いていた。そして、胸のむかつくような不快な気持ちで、それらの式典や舞踏会などに出席していた。
それでもどうやら出席だけはしていたのは、偏に父王が息子に向かって「体の弱い父を許しておくれ」と、申し訳なさそうに言うからなだけであった。
サーティークはこの父を、心から敬愛していたのである。
だが、それと正妃を娶ることとは別問題だった。
自然発生的に生じた気持ちならいざ知らず、こちらが求めるより先に、「さあ、この美しい少女はいかがですか」「こちらは聡明な上に、気持ちの優しい娘にござりまするぞ」と、周囲から溢れんばかりに叩きつけられる縁談話には、正直なところうんざりしていた。
だから城で催されたとある夜会で、忠臣ザルツニコフからその甥っ子と姪っ子だという兄妹を紹介された折にも、実はその妹のことはほとんど見てすらいなかった。
兄、ヴァイハルトは当時十歳。成長期も終わり、成人の仲間入りを果たしたばかりだった。その年齢にしては背も高く、いかにも聡明げで男らしい佇いの爽やかな少年貴族は、すでに貴族の娘たちの話題を攫っていた。
紹介される以前からそんな噂を耳にしていたサーティークは、初めて彼から挨拶を受けた時、ただ不快な気分でそのにこやかな笑顔を見返しただけだった。
「ヴァイハルトと申します。王太子殿下には、まことにご機嫌うるわしく──」
耳に胼胝ができるほど聞かされ続けてきた黴の生えたような挨拶。それを聞き流すようにしながらふと見ると、なにやらオレンジ色をしたものが、ちらちらとうごめいているのが目に入った。それは少年貴族の背後にあった。
「これ、レオノーラも挨拶せんか」
隣にいたザルツニコフが、礼装に包まれた筋骨逞しい体をちょっと傾けてそう言った。それで初めて、それが人間だと分かった。彼女はずっと恥ずかしそうに、兄の後ろに隠れたままだったらしい。
サーティークは最初、兄の背後から出てきた胸の薄い少女が人間だとは分からなかった。それぐらい、彼女の顔は真っ赤だった。やわらかそうなオレンジ色の髪と、くるくるした鳶色の瞳は明るかったが、耳まで赤く染まったその顔は、どう見ても猿かなにかのようだった。
変な顔をして沈黙してしまったサーティークを見て、細くて小柄な身体を薔薇色のドレスに包んだ少女は、ドレス以上に真っ赤になって立ち尽くしていた。と見る間にも、つつつ、とその足が動いて、再び兄の背後に隠れてゆく。
「妹の、レオノーラです。確か、殿下と同い年だったかと」
とうとうヴァイハルトが苦笑して、緊張で固まりきっている妹のために助け舟をだしてやった。どうやら、妹思いの兄であるらしい。
「レ……レレ、レオノーラ、です……。よろしく……」
蚊の鳴くような小さな声が、ヴァイハルトの背後から聞こえてきた。
それが、彼女との出逢いだった。
◇
「猿……だと? 猿ってひどくないか? おい、サーティーク!」
遂に、思いあまったようにヴァイハルトが口を挟んだ。もはや鬼の形相で、執務机の向こうのサーティークに詰め寄っている。
「仮にも、故人だぞ! しかも、俺の可愛い妹だぞっ……!」
対するサーティークは半眼である。
「兄バカもいい加減にしろ。これでも相当、脚色したぞ。こう言ってはなんだが、決して『花も恥じらうばかりの妖艶な美女』というわけでもなかったろうが、そなたの妹御は」
「そっ……、そんなことは断じてないぞっっ!」
ヴァイハルトが真っ赤になって抗議する。
「この世に、あんな可愛い妹がいて堪るものか! ……だから、俺は嫌だったんだ! 貴様のような朴念仁に、可愛い妹を嫁にやるなどっ!!」
「それは残念だったな。国法上、兄と妹が結婚できぬことになっていて」
サーティークは半眼のままそっぽを向いた。
ただ、内藤は見逃さなかった。そのあと彼が、ごく微かに唇だけで「別に、可愛くないとは言ってない」と言ったのを。
ただそれは、もちろんヴァイハルトには見えも聞こえもしなかっただろうけれど。
(なんだろうなあ……)
楽しそうな二人の言い合い聞きながら、内藤は隣のマグナウトと目を見交わした。
そもそもこの世界には、写真などの技術がない。というわけで、今となってはレオノーラその人の美醜について、客観的な判断のしようもない。しかしまあ、要するにそのレオノーラ嬢は、いわゆる「美少女」と形容されるほどの容姿ではなかったということらしい。
マグナウト曰く、レオノーラ本人も自分の容姿にまったく自信がないというので、晴れて正妃となった後でさえ、決して宮廷画家たちに肖像画なども描かせてくれなかったのだそうだ。
要するにそれはもう、「推して知るべし」ということだろう。
「もういい! その先の話は俺がする──!!」
ヴァイハルトが鼻息も荒く言い放った。どうやら今度は、彼が話の続きを始めるようだ。妙にしかつめらしい顔になり、少し咳払いなどしている。
「ともかく、だ。そこからレオノーラは、ちょっと様子がおかしくなった。普段からややぽーっとしているというか、なんというか……もちろんそこも可愛いんだが、ともかくいつも以上に、そそっかしい不始末が増えてしまってね……」
サーティークに初めてお目見えしてからのレオノーラは、それまでの粗忽具合にさらに磨きが掛かったようだった。
運んできた茶器を落とす。磨いていた花瓶を落とす。果ては気がつくと、お父上の少しの寂しくなってきた頭を代わりに磨いてしまっている……。一事が万事そんな調子で、兄であるヴァイハルトはもちろんのこと、父母も首を捻って困り果ててしまったのだ。
一度は医者に診せてもみたが、体は特にどこにも異常がないという。
しかし。
そのうち、ヴァイハルトは気づいたのだ。
妹が、どうやら家族の中で王太子殿下の話が出たときにだけ、異様にそわそわして落ち着かなくなるということに。
初めのうちこそ「まさかな」という思いが強く、また個人的にあまりそれを認めたくもなくて、ヴァイハルトもしばらくは黙っていた。だが、妹のしでかす粗相がいよいよひどくなってきて、母が心配のあまりに倒れそうになった時、とうとう家族に告白したのだ。
「母上。あれはいわゆる、『恋の病』というものですよ」と。
母からその事を訊ねられたときの、レオノーラの狼狽えぶりといったらなかった。
「そんなっ! 違いますわ、お母様……! わたくし、そんな、そんなことっ……!」
そう言ったきり、レオノーラは肘のあたりまで真っ赤になって部屋を飛び出し、そのまま家からも飛び出して、しばらく戻ってこなかった。
心配した家の者が、馬など使ってみなで捜索したところ、レオノーラは王都クロイツナフトからまで飛び出ていって、近くの農家で保護されていた。あまりの恥ずかしさに、体の疲れなど忘れてしまったものらしい。
彼女はそこまで行ってしまって、ようやく自分のいる場所を認識したらしい。それで急に不安になって、そこで盛大に大泣きしていたのだ。
家族全員、安堵するやら呆れるやら。どっと疲れたのを覚えている。
父は、可愛い我が娘の恋心を気の毒な思いで見ていたようだった。
なにしろ、相手は王太子殿下なのだ。しかも国じゅうから、美貌や高い家柄はもちろんのこと、気高い気質やすぐれた人柄まで備えた娘たちが、こぞって妃の座を射止めようと群がり来ているこの時期に。
この取り立てて素晴らしい美人だとも言えず、性格こそ可愛らしいがひどい粗忽者の娘など、彼女たちに伍して戦っていけるはずもなかった。
そのような事情なので、父は初めから直接的な結果については求めなかった。そうして、「遠くからでもいいから王太子殿下のお姿を見たい」という娘のささやかな希望を叶えてやるために、ヴァイハルトとレオノーラを伴って王宮の晩餐会などに行ってやるぐらいのことしかできなかった。
初めから「未来の正妃の座を射止める」などという身の程知らずな高望みをしているわけではないので、周囲の少女たちのように、レオノーラに非常にめかしこむこともさせなかったし、わざわざ王太子のそばへ連れて行って無理に話をさせようともしなかった。
来賓たちが集まっている大広間の片隅で、物陰からそっと王太子の姿を隙見しているだけで、レオノーラは幸せそうだった。
父とヴァイハルトは、そんな可憐な少女の背中を、困ったような笑顔で見つめていたものだった。
「……そんな経緯だったとは知らなかった」
サーティークが憮然と言うと、ヴァイハルトが微笑した。
「それはそうだろうな。言ったのはこれが初めてだ」
しれっとした顔で答えると、青年王はじろりと彼を睨み据えた。
ソファでは内藤が腹を抱えて、必死に笑いをこらえている。
「かっ……かか、可愛い……。レオノーラさん、可愛すぎ……!」
涙を流してひいひい言っているのだが、一同は変な目で彼を見つめていた。
彼らの目は明らかに「お前にだけは言われたくない」と言っている。
「……ともかくだ」
サーティークがひとつ咳ばらいをした。
「そんなこんなで、レオノーラは俺の妃になったわけだが──」
「は?」
内藤が、即座に涙の滲んだ目を上げた。急に不満たらたらの顔になる。
「待って下さいよ、陛下……。今、ものすご~く、途中のあれやこれやを端折りませんでした?? そこが一番、大事な部分なんじゃ……?」
「やかましい」
凄まじい眼光で内藤を黙らせておいて、サーティークは続けた。
「ヴァイハルトに任せていたら、話が明日の朝になっても終わらんわ。爺、あとは頼む」
「やれやれ、仕方がありませぬな……」
次なるバトンを渡されたマグナウトが、控えめなしわぶきをひとつした。
「その前に、申し訳ござりませぬが。ひとつ、差し挟んでおきたい話がござりまする。話がちと相前後いたしまするが、皆様、よろしいですかな?」
ちらりと周囲を見回して、みなに反対の色のないことを確認すると、老人は話を始めた。
「そのご婚礼より数年前に、実はひとつ、大きな事件があったのでござりまする……」
国王ナターナエルが<黒き鎧>の儀式の最中にお倒れになったのは、その三年ばかり前のことだった。
当時すでにこの国の宮宰を務めていたマグナウトは、折悪しく流行病のために病床にあり、王の随伴は、代わりに御前会議の副代表者である宮中伯筆頭の老人が務めていた。
名を、バシリーという。この宮中伯筆頭の男というのが、要は<鎧>の伝統を固く守ることを擁護する一派の一人だったのだ。
マグナウトは、かの男が随伴することをことのほか心配し、病床にありながらも「這ってでも王のお供をする」と申し出た。だが、当時でもすでに結構な高齢だった老人に、心優しい王はそれを決して許さなかった。
結果として、それが仇になったのだ。
ナターナエル王は不幸にも、<鎧>の中でそのままご崩御されてしまった。
……そして、宗之が召喚された。
無論、サーティークがその事実に気付くのは、相当あとのことだったが。
「分かるか? 『ムネユキ』。あの『アキユキ』の、父上だ」
「え……」
サーティークが確認するようにこちらを見たが、内藤は一瞬、何を言われているのか分からなかった。
(『アキユキ』って……まさか)
次第に驚愕に見開かれてゆく内藤の目を、サーティークは暗い色を湛えた瞳でじっと見つめている。
「え? いや、だって……。佐竹は、だいぶ前にお父さんは死んだって……。え? まさか、そんなことがっ……!?」
混乱してきょろきょろしてしまう。その肩に、マグナウトが宥めるように手を置いた。
「まあ、まあ。どうか、落ち着いてくださいませ、ユウヤ殿」
「で、でもっ……!」
泣きそうな顔になった内藤を、マグナウトもヴァイハルトも、なんとなく気の毒げな目で見つめていた。
「じゃ、陛下は……佐竹のお父さんのこと、知ってるんですか……?」
恐るおそるそう訊くと、サーティークが静かに頷いた。
「お前が北の国でそうだったように、ムネユキも夜にだけ現れた。俺はたまたま、その時の彼に会うことができたんだ」
呆然とサーティークの瞳を見つめて絶句してしまった内藤に、サーティークは宗之との思い出を、順々にかいつまんで説明した。
「だから、あの『アキユキ』と俺がこれほど似ているのも当然の話だ。もしかすると母親も、同じ顔をしているのやも知れん──」
サーティークの声は、やや皮肉めいていた。
内藤はもう、呆然自失の状態で頭を抱えている。
その様子をじっと見ながら、老マグナウトは何かを躊躇う様子を見せた。
「いかがいたしますか、陛下、ユウヤ殿。この話、今日はここまでと致しまするか……?」
「い……いいえ!」
気遣わしげな老人の声を聞いて、内藤は慌てて首を横に振った。
膝に置いた手を、ぐっと拳の形に握りしめる。
(だめだ。ちゃんと聞かなきゃ……!)
せっかくの機会なのだ。この多忙なサーティークたちが、自分のために時間を割いて、こんな大切な話をしようとしてくれているのではないか。それなのに、ここで中断させるわけにはいかない。
「すみません、取り乱して……。大丈夫です。続けてください……」
内藤の顔色は、ひどく悪くなっているのだろう。それを見てとったのか、ヴァイハルトとサーティークがほんの一瞬、ちらっと目配せをし合ったようだった。
と、次の瞬間、ヴァイハルトがぱっと両手を上げた。
「ああ! すまないね、ユウヤ殿」
「え……?」
「いや、大事な用事を忘れていたよ。私はそろそろ時間切れだ」
「そういえば、もうこんな時間だな。俺も、今日中に片づけたい仕事が残ってる」
間髪容れずに言ったのはサーティーク。彼もさっさと席を立ち、目の前にあった書類のいくつかを素早く手に取った。
「すまんな、ユウヤ。話は今度にさせてくれ」
「本当にすまない、ユウヤ殿」
わさわさと、青年二人が忙しげに動き出す。
「え、あの……」
「貴様がのらくらと話を長引かせるからだぞ、ヴァイハルト。まったく、妹のこととなると、どうして貴様はいつもいつも──」
「やかましいぞ! うだうだと長話をしていたのはお前だろう。人のことが言えるのか!」
ぎゃんぎゃんと言い合いながら、互いに肩をぶつけ合うようにして出て行こうとする。
「え? え……? あの、ちょっと──」
内藤はどぎまぎして彼らを引き留めようかとしたのだったが、もはや一顧だにされなかった。二人が慌しく出て行って、マグナウトと二人だけで部屋にとり残される形になる。
内藤は、恐るおそる隣のマグナウトを見た。
「あ、あのう……。なんだったんでしょうか、今の……?」
「いやはや、お忙しい方々でありまするからのう……」
老人は嬉しげに目尻の皺を深くして、優しく微笑んだだけだった。そうして「よいこらしょ」と自分も腰を持ち上げる。
「え? あの──」
「では、ユウヤ殿。年寄りはもう眠たい時間でござりますれば。爺いもそろそろ、このあたりにて退散いたしまするわ……」
そうしてやっぱり、とことこと執務室から出て行ってしまう。
「いやあの……ちょっと、閣下まで……??」
一体みんな、急にどうしたと言うのだろう。
呆然としているうちに、目の前でぱたりと扉が閉まった。
気が付けばもう部屋にひとり、ぽつねんと取り残されている。
「な……な……」
しばし、ぽかんと口をあけて扉を見つめるしかできなかった。
が、やがてぱしっと額に手をやり、思わず情けない声を出した。
「なんなんだよ~~~っっ!」
窓の外ではあの「兄星」がぼかりと浮かんで、王の執務室を覗き込んでいた。





