2 異動
「ふう。心配してたけど、午前の講義は、けっこうはかどって良かったね……」
助手のアヒムと部屋に戻ると、内藤は執務机の椅子に座り込んで、ちょっと一息ついた。
サーティークにああ言われて、算術の講義を続けることについては正直悩まないこともなかった。だが、だからと言っていきなり講義をやめてしまうなどということは、内藤にはできなかった。
なんと言っても、これを楽しみにしてくれている生徒たちがいる。彼らの目の輝きを思い出すと、そんな無責任なことは、やはりできないと思ったのだ。
ここは、内藤が講師として与えられた準備室である。すでに与えられている、後宮にほど近い居住用のスペースとはまた別の場所だった。
大小の算盤や算術のための書物があちこちに積み上げられて、全体的に雑然とした雰囲気である。もう少し整理をする必要があるのだが、なかなかまとまった時間が取れない。それでこの数ヶ月、ずっと手付かずの状態なのだ。
「お疲れ様でした、ユウヤ様。今、お茶をお淹れ致しますね」
「あっ、ありがとう、アヒムさん……」
「……ユウヤ様。いい加減、その『さん』付けはおやめ頂きませんと……」
苦笑しながら暖炉の熾を火掻き棒で少しかき回し、アヒムがまたそんな事を言う。
「じょ、冗談でしょう? とんでもないですよ……」
内藤にしてみれば、自分よりも年上でずっとしっかりしている人を呼び捨てにするなど、考えも及ばないことだった。もっとも、実際の肉体的な年齢は、内藤の方が少し上のはずなのだったが。
算盤講義の助手ばかりでなく、召使いでもあるアヒムは、内藤の身の回りの世話まで同時に引き受けてくれている。相当忙しいと思うのだが、毎日いやな顔ひとつしないで、くるくると働いてくれていた。それは、この薄緑色の髪をした青年の生まれ持っての頭の回転の速さを物語っている。
(……はあ。俺とはえらい違いだよなあ……)
内藤はちょっと赤面しつつ、半分照れ隠しに、午後の講義のための資料をひっくり返し始めた。準備があるためあまり時間はないが、この間に昼餉も済ませてしまわなくてはならない。算術講師としての日々は、毎日が結構こんな感じで、思った以上に忙しかった。
アヒムは暖炉に小鍋を掛けて、茶を淹れる準備をしている。
昼餉については毎日、厨房から直接こちらへ運んでくれるのだ。
「あ。そういえば、アヒムさん」
「はい?」
「午前中に会ったあの人、なんだけど……」
「え? ……ああ、ヴァイハルト様のことでしょうか」
「あ……うん」
午前中、講義の前に廊下で出会った亜麻色の髪の青年将校。どうしてなのかは知らないが、なぜか内藤の顔を見るなり「すぐにも抹殺したい」と言わんばかりの恐ろしい視線で睨みつけてきた。
あの鋭い眼光を思い出し、ちょっと身震いしてしまう。
「あの……あの人のこと、何か知ってます? アヒムさん」
恐るおそる訊ねると、アヒムは困ったような笑顔で見返してきた。
「そうですね……。わたくしには、王宮の皆が知っている以上のことは分かりませんが」
「あ、そうなの? それって、どんな?」
「はい。確か、陛下よりも二つばかり年上で、昔から仲がおよろしかったとか。それと、ヴァイハルト様はあの天将ザルツニコフ閣下の甥御さまに当たられるはずですよ」
「へ~……」
ザルツニコフというのは確か、内藤がこの国に連れてこられる途中、サーティークを王都の外まで迎えに来た、あの見事な押し出しの将軍の名前だったはず。
内藤は、あの炯々とした強い瞳の色を思い出す。
(あの人の甥御さんかあ……)
あんまり似てないな、と余計なことを考える。
(でも、陛下と幼馴染み……とかとは、違うんだろうなあ……)
かたや一国の王太子。かたやその家臣の親族。
ということなら、互いに幼少時から面識があってもおかしくはないのだろう。年も近いし、気が合う同士で仲良くなったということなのか。
彼を見て急に含みのない笑顔になった、今朝のサーティークをふと思い出す。
けっこう気の置けない関係なのかも知れない。
と、アヒムが内藤の前に茶器を差し出してきた。
「普段は、北方の城砦に常駐されていたかと思います。王都の外での任務が中心でいらっしゃるので、あまり王宮内ではお見かけしない方ですね」
「なるほど……」
「確か、妹君がいらっしゃって、かつてはその方が陛下のお側におられた、とかなんとか──」
「あ、ふ~ん……」
「ここから先は、実はわたくしにもよく分からないのです。あまり皆様、教えてくださらないもので……」
(教えてくれない……?)
内藤は目を上げる。
「知らない」のではなく、「教えてくれない」。
となると。
(それが、昔の事件と関わりがある人だ……っていうことなのかな?)
アヒムの年齢では、十年も前の王宮内の事件などほんの子供の頃の話になってしまうらしい。その知識のほとんどは、城の外で庶民の口にのぼるうわさ話程度のものだった。当然、正確さの点では甚だ心もとないものになる。
地球とは異なり、この国の人々は八、九歳ぐらいの頃に急成長する。そうしていきなり十二、三歳ほどの体格になる。北でも南でも、内藤から見て十四歳ぐらいのころにいわゆる成人年齢に達するようだ。つまり、急成長後は一年もしないうちに成人の仲間入りということになるらしい。
あれこれ計算してみるに、この惑星の人々は、生まれて十年もすれば社会的に成人扱いになるということか。地球の人間からすれば驚くべき早さだが、こちらの世界ではそれが当たり前のことらしかった。
たとえばこのアヒムも、見た目は二十歳前後。だが、よくよく聞いてみればまだ十六なのだという話だった。
十歳で成人して、すぐに王宮に出仕することになり、今年で六年目というわけだ。十年前といえば六歳。その頃のことなど記憶にも残っていないのは当然だった。
となると、あのサーティークも、実際の年齢はもう少し若いことになるのかも知れない。今の見た目は二十代前半といったところなので、そこから十年前となると、事件は成人して間もない頃ということになるのだろうか。
「う~ん……」
地球とは違う計算になるため、内藤の頭はこの辺りで、すでに相当こんがらがっている。やはり、理系でない頭で考えられることには限界があった。
ともあれ。
(そっか……。鍵は、ヴァイハルトさんの妹さんってことか……)
よく分からないまとめ方に行きついたところで、厨房から召使いたちが昼餉を運んできてくれた。内藤の思考はそこで中断されてしまう。
(んー。それにしても……)
いったい、誰に話を聞いてみるべきなのか。内藤はずっと思案している。サーティーク本人が難しいのだとすれば、やはり宮宰、マグナウト翁を頼るべきなのだろうか。
(でも……。きっかけが難しいよなああ……)
机の前で頭を抱えた内藤の前に、召使いの青年たちが次々と湯気の立つ皿を並べ初めて、腹の虫がつい、ぐうと鳴った。
「い、いただきます……」
言って内藤が顔の前で手を合わせるのを、アヒムと他の召使いたちはいつものように、面白そうに眺めていた。彼らには仕方なく「これが南方辺境の田舎の村での習慣だった」と説明している。
ともかく、食べよう。
腹が減ってはなんとやら、だ。
◇
「まあ、そう怒るな。ヴァイハルト」
執務机の前に座って書類に目を通しながら、サーティークは目の前の青年将校をちらりと見やった。言われた相手は腕を組んで、向こう側に立ちはだかっている。
午後の国王の執務室である。人払い済みで、ほかには誰もいなかった。
王の目の前に立ち尽くしているのはもちろん、天騎長ヴァイハルトである。普段は爽やかに微笑んでいることの多い整った容貌が、いまは不快げに眉間に皺を寄せていた。
「どういうつもりだ、サーティーク」
二人きりの時にはそうすることを許されているため、ヴァイハルトは若き国王を平気で呼び捨てにしている。
「北の辺境の城砦にまで、あの者の噂は聞こえているのだぞ。無論、今のところは『王が南の辺境から拾ってきた、謎の優秀な算術教師』で済んではいるがな。だが、そういつまでも、正体を隠しおおせられるわけがあるまい。いい加減、引導を渡すべきだと思うが?」
彼はすでにサーティークから、内藤の正体についての説明を受けている。
「引導……か。これはまた、手厳しい」
くくっと笑って、若き王はちょっと窓外を眺めやった。背後の窓の手前には、彼の愛刀「焔」が刀台の上に掛けられている。
「温情派の天騎長殿らしくもない言いざまだな。……まあ、俺も人のことは言えんが」
「と言うと?」
聞き返されて、サーティークはしばし黙った。が、やがて背後の刀台に置かれている愛刀を手に取ると、じっとその鞘を見つめるようにした。
「実のところ、俺も幾度かそうしようとした。……結局、そうはしなかったが」
それはつまり、「何度か内藤を殺そうとはした」という意味だ。
「だが、その度に、なぜか思いとどまった──」
言って「焔」を見つめたまま黙り込んだサーティークを、ヴァイハルトはしばらくじっと眺めた。
「何故かは分からん。……俺にもな」
部屋の中に、少しの沈黙が下りる。
それを破ったのは、やはり青年将校のほうだった。
「さっき、爺様に釘を刺されたぞ。しかも、いつも穏やかなあの爺様にしてはえらい剣幕でな。どうやら相当、あの者に入れ込んでいるらしいが。まったく、ご聡明な爺様らしくもない──」
多少、吐き捨てるような口調になっている。「爺様」というのはもちろん、あの宮宰マグナウトのことだ。
「ああ。爺は、そうよなあ」
くはは、と少し声を立てて笑う。そのまま立ち上がると、愛刀を元の場所に戻した。
「どうも、ひと目でユウヤを気に入ったらしくてな。だがまあ、爺の人を見る目は信用している。爺がいいと言うなら、俺はこのまま、あいつをここで働かせておくことも吝かではない」
「しかし、それでは――」
「言いたいことはわかる」
サーティークは素早くヴァイハルトを片手で制した。
「だが、あいつがこの国にとって有用なのもまた事実だ。事態が家臣どもに露見するまでは、今のままでおくのが最善よ」
沈黙してこちらを凝視しているヴァイハルトに、サーティークは「すまん」と、軽く頭を下げた。
「あ、いや……俺は」
ヴァイハルトもはっとしたように頭を下げた。が、すぐに確認するように目を上げる。
「ひとつだけ、いいか? サーティーク」
「なんだ」
ヴァイハルトは少し逡巡するようだったが、思い切ったように言った。
「レオノーラとは……関係ないのだよな? あの者のこと」
「……どういう意味だ」
サーティークが思わぬことを訊かれたという顔になる。
寝耳に水のことらしい。
「あ~、いや……。違うならいいんだが」
顎に手を当てて、ヴァイハルトが難しい顔になった。
「今朝は、ちらっと見ただけだったが。兄の俺が言うのもなんだが、あの者、どこか妹に似た雰囲気があるだろう。……そう思わんか?」
サーティークが絶句して、ヴァイハルトの顔を凝視した。
「まさか。あれでも一応、男だぞ」
「それは分かってる。いや、いいんだ。余計なことだったな、すまん」
ちょっと所在なさげに咳払いなどして、ヴァイハルトは姿勢を正すと、改めてサーティークに向かって臣下の礼をした。
「では、わたくしはこれで。速やかに北方の守りに戻ります。ご政務のお忙しいところ、大変お邪魔を致しました」
「ああ、その事なんだが」
サーティークはさっと片手を上げると、卓上にあった羊皮紙を素早く一枚取った。そのまま何でもないようにヴァイハルトの胸に押し付ける。
「これを」
「……は?」
変な顔になったヴァイハルトに、若き王が笑いかけた。悪戯っぽい瞳である。
「話が相前後して申し訳ない。辞令書だ、受け取れ」
「は……」
「というか、そのために呼んだのだろう。そなたもあまり、身内の粗忽を笑えんぞ?」
苦笑する王を横目で見やりつつも、渡された羊皮紙にさっと目を通す。その途端、ヴァイハルトの目が見開かれた。
「王宮付き……? 今さら、俺が……?」
思わず、言葉遣いが元に戻ってしまっている。
「そうだ。別に、不服はあるまい?」
「いや、そうだが、しかし――」
「今後は、北もこちら同様、<鎧>を操作することを考えよう。そうなれば、一気に<鎧>の力でこちらへ攻め込んで来ることも考えられる。信用できる側近は、一人でも多く近くに欲しい」
「分かるが、俺は――」
サーティークは彼の言葉などまるで無視した。
「すぐにでも戻って来い。……いいな」
にやりと笑ってそう言い放つと、サーティークは書記官や秘書など執務室付きの文官を呼び戻し、すぐに政務を再開した。
ヴァイハルトはまだ半ば呆然としたまま、入ってきた文官どもに追い出されるようにして外へ出た。
廊下で恨めしげに執務室の扉を見やり、ちょっと溜め息をついてから、青年将校はやがて踵を返した。
明るい夏の日差しの溢れる、午後の王宮を足早に行く。
久しぶりに王宮に現れた好男子の将校を、廊下の隅に寄って頭を下げた女官たちが、こっそりと嬉しげに目で追っていた。こそこそと、小さな声でなにやら囁き合っている。そんな情景も久しぶりに見るものだ。
以前のこの王宮は、もっと何かに怯えたような、凍りついた雰囲気が漂っていたものだった。
それはやはり、いま現在の、王の気分を反映してのことなのだろうか……?
少し明るい心持ちになりながら、ヴァイハルトはふと考える。
久しぶりに、かつて非業の死を遂げた、かの人の墓に花でも手向けに行こう。
明るくて、泣き虫で、少し粗忽者だった可愛い妹。
両親は、あの恐ろしい事件の後、あまりの衝撃のために相次いでこの世を去った。
あの、悲惨に過ぎた事件の当時。
若きサーティーク王は狂ったのだと、国中がその噂で持ちきりだった。
しかし。
(……俺とて、妻をあんな目に遭わされたら)
あれで狂うなと言う方が間違っている。
兄である自分でさえ、狂わんばかりの思いをしたのだ。
(だが……)
先ほど、自分の聞き間違いでなければ、彼は自ら、妹のことを口にした。
遠まわしとはいえ自分から、「粗忽者の身内」云々と言ったのではなかったか。
ヴァイハルトは口の端を少しひん曲げた。
そろそろ、彼の傷も癒えかけているのかも知れぬ。
そのこと自体は、喜ばしい。
しかし。
(それが、あの者によるのだとなると──)
それはそれで、今後、王宮にとっての大事にもなりうるのではないだろうか。
なんにしても、臣下にとっては頭の痛い話には違いない。
マグナウトは一体なにを考えているものか……。
と。
(ん……?)
たった今脳裏に描いていた人物を目前に捉えて、ヴァイハルトは足を止めた。
廊下の先で、午前中に会ったあの青年が、付き人らしき青年と二人、また大量の教材を抱えて歩いている。
ここで後ろから声を掛ければ、きっとまたその教材を盛大に取り落とすのに違いない。
胸に、つい悪戯心が湧き起こった。
青年将校は意図的に足音を忍ばせると、そっと彼らの背後に近づいていった。





