6 潜行
(『サーティーク』……?)
「こいつ、発音がおかしいな」と、どこか他人事のように思う自分がいた。が、佐竹は何も言わなかった。
それが自分を指して発せられた言葉だということは分かったが、なにか奇妙な感じを拭い去れない。この暗黒の門から聞こえる声の主は、まるで自分のことを知っているかのようだ。しかも、なにか、ある種の恐れをもって。
「にいちゃあああ……! うああああ……!」
背後では、洋介が棒立ちのまま、わんわん泣き声を上げている。
(…………)
佐竹は、迷った。
兄をこのまま連れて行かせるわけにはいかない。だが、だからといって弟をここにこのままにしておくわけにもいかない。
(どうする……?)
その刹那。
《急げ、同胞どもよ――》
ひび割れたような老人の声が、慌てたようにそう命じるのが聞こえた。
《その者は、決して入れるな……!》
そして内藤の体が、再び、ずぶずぶと黒い闇の中に引き入れられ始めた。
「…………」
どうやら、その声が警戒しているのが自分のことであるらしいのは見当が付いている。やつらは自分を、内藤と共にそちらへは入れたくないらしい。
そして実際、黒い腕どもがまた息を吹き返し、さきほどよりも本数を増やして、さらに激しく内藤から佐竹の体を引き剥がしに掛かった。
その腕を佐竹の首に、胴にとぎりぎりと巻き付け、長くて鋭い爪が佐竹のシャツをあちこち引き裂き、皮膚にも容赦なく掻き傷を作った。シャツのあちこちに血が滲んだ。
「く……!」
凄まじい力だった。もはや気を失って力をなくした内藤の体に何とかまだ掛かっている腕にも、黒い腕どもが何本も絡みつき、次第にじりじりと捥ぎ取るように引き剥がされてゆく。
みしみしと腕が悲鳴を上げる。恐らく、折れる寸前だった。
(くそっ……!)
ついに、最後の指が内藤のシャツから離れた。
途端、ぐん、と佐竹の体が、ごみでも投げるようにして黒い腕に跳ね返された。
佐竹はすぐに足を踏ん張り、その場に踏みとどまる。
内藤の体が闇に沈みこむ速度が上がった。
(そうまでして、俺を排除したいか――!)
怒りに腹が煮える。拳を握り締める。
あまりの憎悪で、自分の顔は今、さぞかし青ざめていることだろう。
佐竹は、腹を決めた。
(――なら、むしろ)
それならば、どうあっても自分も、そちらへ行くべきだ。奴等の困るように動くべきだ。それでこそ、どうにか逆転の目もあろう。このままこちらに自分が残ったところで、ただ内藤を奪われて、それで終わるだけの話ではないか。
(そんな結末だけは、御免だ)
佐竹は、そう決めた瞬間、洋介の方を振り向いた。
「洋介……!」
背後で内藤の体が暗黒の中にずぶずぶと沈んでゆくのを感じながら、佐竹は急いで電柱のそばに戻り、洋介の前に片膝をついた。
洋介はまだ、ひいひい言いながら泣き喚いていた。
「た、すけてえ……、さたけさ、……にいちゃああああ……!」
洋介の言いたいことは痛いほどに分かった。しかし。
一瞬だけ考えてから、盛大にしゃくりあげているその肩に両手を置いて、佐竹は言った。
「……洋介、泣き止め」
静かな声だった。
洋介はまだ、わあわあいって泣いている。佐竹は、もう一度言った。
「泣き止め。お前だって男だろう」
ぼろぼろと涙をこぼしている洋介の目を真っ直ぐに見て、いつもと変わらぬ静かな声で佐竹は言い募った。
「泣いていたって、兄貴は助からん。……わかるな」
洋介は、ようやく少しだけ、泣く声を静めてくれた。だが、まだ真っ赤な顔をしてしゃくりあげている。体じゅうが、ぶるぶると震えているのがわかった。
佐竹は、「よくやった」と言うように頷いた。
「落ち着いて聞け。このまま、さっきのスーパーに行くんだ。道はわかるな?」
「…………」
涙まみれの顔で、洋介がじっと佐竹の顔を見た。少しの間はあったが、やがて、少年はこくんと頷いた。
「よし。そこで、店の人に言って、警察に電話してもらう。……わかるか?」
今度はさらに少しの間があったが、なんとか洋介は頷いた。
背後では、ばちばちとまだあの門の音が聞こえている。まだ間に合う。間に合うが、明らかに時間はない。
「よし。慌てなくていい。車には気をつけるんだ。いいな?」
こくこく、と、必死で洋介が首を縦にふった。
佐竹は、じっと洋介の目を見て言った。
「お前の兄貴は、必ず助ける。俺が約束する。……だから」
そのままランドセルごと、佐竹は洋介の小さな体を抱きしめた。
「お前も無事でいるんだ。……いいか」
ぽすぽすと、その頭を軽くたたく。手の中で、その頭がまた、縦にふられた。
「……よし。行け!」
そのまま、すっと手を放し、洋介に行くように促した。
洋介が、おずおずと向こうへ向かって歩き出す。背後でまた、ばちばちとプラズマが音を立てるのが聞こえた。
洋介が振り返り振り返り、ゆっくりとスーパーの方角へ歩いてゆくのを、佐竹はほんの少し見送っていたが、やがて自分も振り返った。
「暗黒門」にはもう、内藤の姿は見えなかった。すっかり取り込まれ、引き入れられてしまったらしい。ほんの一分程度のことだったと思うが、あの黒い腕も目もすっかり姿を消しており、そこにはただ、真っ黒で平板な皿があるだけのようにも見えた。
その「門」そのものも、かなり萎んで小さくなってきている。当初は直径が二メートルほどはあったものが、今はせいぜい六十センチといったところか。
もう、時間の猶予はなかった。
――次の瞬間。
佐竹は、地面を蹴った。
一足飛びに、「暗黒門」に飛びこんだ。
迷う気持ちはなかった。
かなり馬鹿なことをしている自覚はあったが、
だからと言ってこうしない選択肢だけはなかった。
何が自分をそうまで衝き動かすのか、それだけは少し不思議だったが。
(内藤……!)
どろどろとした闇の中に、ただ内藤の姿だけを求めて、佐竹は静かに沈んでいった。
◇
真っ黒な泥濘の中は、呼吸もできないほどの腐臭がしていた。
不思議なことに呼吸そのものはできたのだが、却ってそうしたくないほどのものだった。
(どこだ……?)
右を見ても左を見ても、ただただ真っ黒な闇が広がっているだけで、自分がどちらに向かって進んでいるのかさえ定かでなかった。洋介の身の安全のため、彼に言葉を掛けていた時間の分、自分は出遅れてしまったのだ。
内藤の姿も、あの巨大な眼や真っ黒な腕も、どちらを向いてもその片鱗すら見つけることはできなかった。
足元は不安定で、どこにも支えになるものすらない。まるで宇宙空間のように、どちらが上か下かすら不明だった。佐竹は、その中を泳ぐようにして進んだ。腕をゆっくりと掻くと、多少、水よりは軽い感覚だったが、なんとか前には進むようだった。水は水でも、それは真っ黒な、腐った泥のような水だった。
やがて、佐竹は次第に、本当に呼吸が苦しくなり始めた。
そればかりでなく、酷い頭痛と吐き気が襲い、眩暈がして、何度も視界がぼやける感覚を覚えた。恐らくそれは、ちょうど高山病のような、酸欠の症状に似たものだと思われた。
吐き気は極限に達し、なにか自分の体の細胞が、隅々まで変化してゆくような感覚があった。というよりも、自分の内と外とが、すべてひっくり返されて裏返るような、異様で強烈な不快感が襲ってきた。
上も下も分からない空間なのにも関わらず、佐竹は突如、真っ逆さまに落ちてゆく感覚に捉われた。
それは、意識を失う感覚だった。