10 側近
『ヨシュア……ヨシュア』
遠くで、懐かしい人の声がする。
(あに……うえ……?)
体じゅうが火照っている。喉の奥まで、熱湯に浸した分厚い布でも突っ込まれているようだ。そんな不快感が、ずっと体を苛んでいる。
先ほどまでの、体の奥底から震えるような悪寒は去った。けれど、それでもまだ相変わらずのひどい倦怠感が全身を覆っている。
『ヨシュア……大丈夫かい』
また、あの優しい声がした。
ふと目を開ける。
目の前に、大好きなあの人が立っている。
懐かしくて優しい、その笑顔。
(あに、うえ……!)
やっと手を伸ばしてみる。すると、途端にその微笑が色を失いはじめた。それはあっというまに灰緑色に歪んで、やがてどろどろと醜く崩れ始める。
腐臭と共に、嘔吐感が襲ってくる。
(……!)
喉がひきつって、声も出ない。
逃げ出したいのに、足はその場に貼り付いたようだった。
それが気味の悪い髑髏の形になってもまだ、その顎はかろかろともの言いたげに乾いた音を立てる。骨だけになった干からびた指先がこちらに差し伸ばされてきた。
ぞわっと、全身が粟立つ。
……たすけて。
来るな。
お前は……お前は、兄上じゃない……!
「……か……陛下」
その声で、はっと目を開けた。
さきほどから、肩を掴まれて揺すられていたらしい。さっきの恐ろしい髑髏の王の姿は消えうせて、気遣わしげな色を目に浮かべた真面目な表情が目に入った。
佐竹だ。枕辺で蹲踞して、ヨシュアの肩に手を掛けている。彼の静かな雰囲気を目にするだけで、誰よりも気持ちが落ち着くようだった。
「サタ、ケ……」
まだ、胸の鼓動はとくとくと早かった。
周囲を見回せば、すでに見慣れた村長の家である。今はここが自分の宿所になっているのだ。
外は暗く、まだ真夜中の時間帯のようだった。囲炉裏の向こう側、部屋の隅には、薄手の布団を敷いて、侍従と女官見習いの少女、それに昨日自分の側付きになったばかりの赤い髪の少年が眠っている。侍従はどうやら、鼾までかいて熟睡しているようだ。
先ほどまでは、かれらが交代で看病してくれていたようだった。だが、今はなぜか、佐竹が代わりに入ってくれているらしい。
「サタケっ……!」
思わず上掛けを跳ねのけて寝床から起き上がり、ヨシュアは佐竹の胸元にとりすがった。
「あ、兄上が、兄上が……!」
彼の胸元に頭をこすり付けるようにして訴える。しばし戸惑っていたようだったが、やがて佐竹の手がゆっくりと自分の背中に回ったのを感じた。
「どうか、落ち着いてください、陛下」
相変わらずの、静かな声音。ただそれが、どこか寂しげに聞こえるようだ。ヨシュアの気のせいなのだろうか。
「……失礼致します」
そう言うと、佐竹は片手をそっとヨシュアの額に触れさせた。彼の手は、ひやりとして気持ちがよかった。
「だいぶ、熱は下がられたようです。食欲はいかがですか。なにか食されますか」
事務的なことを聞いているだけなのに、その声を聞くだけで、ヨシュアはすっと自分の気持ちが鎮まってくるのを覚えた。肩から力が抜けていく。
「あ……、ううん。今は、いい……」
小さな声でそう答える。そうしてつらつらと、今までのことを思い出し始めた。
皆であの<鎧>の調査に出かけた。不思議な壁に現れた、光る古代文字をヨルムスが読み解いて……自分は、あまりに恐ろしい内容に身がすくんだ。
見かねたディフリードが外に連れ出してくれた。
みんなで馬に乗って帰ろうとして、それから──。
「……あ。私は、途中で気を失って……?」
「はい。危うく落馬されるところでございました」
佐竹がまた、静かに答える。言いながら、自分の羽織ってきたらしいマントをヨシュアの肩に掛けてくれている。彼がそんな風にさりげなく自分を思いやってくれることが、ひどく嬉しく思えた。
本当はもう、彼の胸にとりついている必要もないのだろう。けれど、ヨシュアは敢えて気づかないふりをしていた。できることなら、もう少し、もう少しだけでもこうしていて貰いたかった。
本当のことを言えば、もっと力をこめて抱きしめて欲しかった。兄が、よく自分にしてくれていたように。けれども、さすがにそこまで彼に求めるわけにもいかなかった。
「あのあと……ほかに、どんなことが分かったのだ……?」
佐竹の胸に頭を凭れさせたままで訊いてみた。
彼は少し考えるようにしていたが、やがて簡潔に答えた。
「<鎧>の歴史と、それがどこから来たものかが、相当わかって参りました」
「え、それは──」
「詳しいことは、お体が治られてからのことになさって下さい」
佐竹はそれ以上はもう答えるつもりはないらしかった。そう言っただけで、あとは沈黙してしまう。
ヨシュアにはそれだけで分かった。それはあまり、嬉しい知らせではないのだろう。
これ以上、まだまだどんな不幸なことを知り、それを乗り越えなくてはならないのだろう。
この国も……この自分も。
胸に暗澹たる思いが広がって、ヨシュアも黙りこくった。また少し、佐竹の胸に体を寄せる。
その言葉は、不意に口をついて出た。
「なあ……サタケ」
「はい」
「そ、その……。これは命令ではなくて、その……」
少しもじもじする。
「お願い……なのだが」
熱のためとはまた違う熱さが、頬に差しのぼってくるのを感じた。
「……なんでしょうか」
「え、えと……」
少し口ごもったが、色々逡巡した挙げ句、ヨシュアはとうとうそれを言った。
「ふっ、二人きりでいる時だけでもっ……、その、『陛下』はやめてくれぬか……?」
「…………」
佐竹が黙り込んだ。明らかに、「それならどうお呼びすれば」という顔である。
ヨシュアは、更に自分が赤面してゆくのを自覚する。
「ただ、ヨ……ヨシュアと……呼んで欲しいのだが──」
蚊の鳴くような声でそう言ってしまってから、ヨシュアは急にすべてが恥ずかしくなった。そうしてそのまま、逃げるようにして自分の寝床に転げ戻った。上掛けを頭からひっかぶって顔を隠してしまう。
少しの間があった。
が、ぎゅうっと目をつぶって縮こまったその背中に、佐竹の低い声が掛かった。
「……了解しました、ヨシュア様」
不思議だった。
その声からは、先ほどの寂しげな色が、少し薄まったように思われたのだ。
と、ごそりと違う方向から人の身じろぐ気配がした。佐竹はそちらを向いたらしい。
「……あとは頼む」
相手に向かってそれだけ言うと、佐竹はこちらに一礼したようだ。立ち上がり、そのまま部屋を出てゆくようである。
「サタケ……!」
ヨシュアは慌てて、またぱっと上掛けを跳ねのけた。もう体の半分を部屋の入口に隠しかかっていた佐竹が、立ち止まってこちらを振り返る。
「あ、……あの。ありがとう……」
彼は何に対して謝意を述べられたのか少し計りかねる様子だった。が、すっと一礼だけすると、そのまま部屋から出て行った。
見れば、少年オルクと見習い女官マールが、寝床から起き上がってこちらを見ていた。二人とも、なんともいえない妙な顔をしている。どうやら、先ほどの佐竹との会話を聞かれていたようだった。
「……!」
ヨシュアは急に恥ずかしくなり、またばふっと上掛けの中にもぐりこんでしまった。
一人が佐竹のあとを追って出て行った気配がした。
ごそごそと、もう一人がこちらへ近づいてくるのが分かる。
「……なあ。熱、下がったの? 陛下」
少年の声だった。侍従を起さないためか、かなりのひそひそ声である。
恥ずかしさのあまりに声も出ないヨシュアに構わず、少年は言葉を続けた。
「恥ずかしがんなくっていいぜ? 陛下。サタケ、すげえかっこいいもんな。俺もマールも、サタケ、大好きだからさ──」
ちょっと頭など掻きながら、そんなことを言っているらしい。ヨシュアは恐る恐る、上掛けの隙間から目だけを出して、寝床の傍らで胡坐をかいている少年を見つめた。
手も足もすらりと伸びた、しなやかな体つきの少年である。確か、オルクという名だったはずだ。
「そ、そなたも……?」
目が合うと、見るからに健康そのものといった、日焼けした顔がにかっと笑った。真っ赤な髪に、紫色の元気のいい瞳がきらきらしている。
「おう! 陛下もそうだってんなら、仲間だなっ! 俺たち、仲間!!」
それは、侍従がもし目を覚ましていたら、「なんという口の利きよう!」とこっぴどく叱りつけているであろうような、砕けすぎた言葉遣いだった。だが、ヨシュアはかえって、その口調にほっとした。
「う、……うん。そうだな……」
恥ずかしそうに、それでもにっこり笑ってみると、向こうでもちょっと気恥ずかしげに、頭を掻いてにやにやしていた。
やがて、オルクがちょっと言いにくそうに、つんと上を向いた鼻の頭を掻いて、小さな声で囁いた。
「で、えーと……あのさあ、陛下?」
「なんだ?」
聞き返してからも、しばらくオルクは逡巡していた。
「んーと……。その、さ。サタケともそんなこと言ってたけど……。良かったら、俺らもそうしねえ?」
「え?」
何を言われているのか分からず、ヨシュアはきょとんとして少年を見返した。
「あ~……だからさ。俺ら、『友達になれ』って言われたんだよな? あの、めっちゃ綺麗な将軍さんからさ……」
「あ? ……ああ、そうだな」
そこで、オルクは急に、ふう、と小さな溜め息をついた。
「なんだかな~、とは思うんだけどさ。『友達』なんてそんな、『なれ』って言われてなるもんじゃねえし?」
(……う)
言われてヨシュアは言葉を失う。オルクの言う通りだった。
「んでも、『王様』じゃあ、そうなっちゃうんだろーなー、とか……思ってさ」
ぽりぽりと、赤髪の頭を掻きながら少年が言う。
ヨシュアは沈黙するしかなかった。恥ずかしいような、情けないような。なんと言ったらいいのかも分からない。そんなヨシュアを見つめて、オルクがまたにこっと笑った。それはなんとも、屈託のない笑みだった。
「大変なんだな~、『王様』って。ま、考えてみりゃ、当たり前なんだけど……」
やはり黙ったままのヨシュアを見ながら、オルクが「んで、」と言葉を続けた。
「『友達』を『陛下』なんて呼ぶの、おかしいじゃん? まあそりゃ、あのジジュウのおっさんの前じゃまずいんだろうけどさ……。二人っきりの時は、サタケみたいに、あんたのこと名前で呼んでもいいかなあって……。ダメ?」
自分でそう言いながら、次第に恥ずかしさが募ってきたらしい。オルクの視線がだんだんと明後日のほうを向いてゆく。それとは対照的に、ヨシュアの胸のなかにふつふつと温かなものが湧きだしてきた。自分でも、顔が嬉しさに輝き始めるのがわかる。
「ほ、本当に……? 呼んでくれるのか? そなたも……?」
思わず布団から抜け出して、少年の正面に同様にして座り込む。オルクの顔を覗き込むようにしたら、彼の顔がその髪色のようにさらに真っ赤になっていた。
「お、おお。ヨ……ヨシュアさえいいんなら、俺はヤブサカじゃねえっつーか……なんつーか」
「オルク……!」
ヨシュアが思わずオルクの手を両手で握り締めてしまって、少年が「ひゃあっ!」と変な声を上げて飛び上がった。慌ててヨシュアが「しーっ!」と言い、二人でそっと侍従の寝ている方を窺ってみる。相変わらず、中年男は高いびきの様子だった。
「ありがとう、オルク……! 嬉しいぞ……あ、いや……嬉しいよ!」
「お、……おお」
にこにこしているヨシュアを見返して、オルクは真っ赤な顔のまま、それでもまんざらでもなさそうな、むず痒いような顔でにやにやしていた。
「改めて、これからよろしく頼むぞ。……オルク」
「おう。任せとけって。……ヨシュア」
少し恥ずかしそうにそう呼びかけたオルクの瞳は、ほんの僅かだったけれども、今までにはなかったような、大人びた色を湛えていた。
「へ、へへ……」
「ふふふ……」
少年二人のひそやかな笑い声は、部屋の隅で大鼾をかいている侍従の耳には、遂に入らなかったのだった。
◇
「サタケ! 待ってよ……!」
大股にもとの宿所の家へと戻りかけていた佐竹を、後ろから追いかけてきたマールが呼び止めた。どこか、苛立った様子である。
佐竹が黙って振り向くと、マールはやっぱり怒ったような顔で、下からぐいっと佐竹の顔を睨み上げた。冷たい空気に、吐く息が白く溶ける。
「どうしたの? 何かあった……?」
「…………」
少し怪訝な顔になった佐竹を、マールは更に、思いっきり睨みつけた。
「ごまかしてもだめよ? なんかおかしいわよ、さっきから! 急にやってきて、『看病を代わる』とか言っちゃって……。なんか、元気ないし。何があったのよ? 教えてよ」
それでも、佐竹は黙っていた。そんな彼の顔をじっと見上げて、マールは盛大に溜め息をついた。
「ああそう。いいわよ、もう。どうせ私なんか、ほんの子供だと思ってるんでしょ? そりゃ、大人なサタケの相談相手には、私なんてふさわしくないんでしょうけどっ……!」
「……そんな事はない」
(……え!?)
マールは耳を疑った。
腕組みをしてぱんっぱんの膨れっ面になり、そっぽを向いていた体を、ちょっと佐竹の方へと向け直す。
(サタケ……)
慎重に彼の顔を凝視するが、それは常と変わらないようにも見えた。
しかし。
(なんだかやっぱり、元気ない……?)
それはきっと、いつもいつも、目の隅でその姿を追いかけている者だけにしか分からないことだろう。
今日の佐竹は、明らかにいつもよりも覇気がない感じがした。しかし彼は、その後は特に何を言うわけでもなく、夜空の「兄星」をじっと見上げているだけだった。なんとなく、何かを考える様子である。
「サタケ……?」
「……いや。いいんだ」
再び兄星からマールへと視線を戻して、佐竹は短くそう言っただけだった。
「もうっ!」
マールは再び、頬を膨らませる。
ふんっと鼻を鳴らし、腰に手を当てて仁王立ちになった。
「言いたいことは、我慢しないで、わーって言っちゃったらいいじゃない! お腹の中に溜め込みすぎなのよ、サタケはっっ! そんなんじゃ、お腹が膨らみすぎて、いつかぽーんって破裂しちゃうんだから!」
「…………」
「おばあちゃんが、いつもそう言ってるわよ。そうやって溜め込んだものは、端から毒になって、しまいに体も心も腐らせちゃうんだって! おばあちゃんが言うんだから、絶対まちがいないわよっ!!」
ぽんぽん言葉を投げつけてくるマールを、佐竹はしばし、呆気にとられたような目で眺めていた。
「なによ? なにか、文句でもある?」
仁王立ちのままじろっとまた睨まれて、佐竹はしばし沈黙していたが。
そのクソ真面目な唇から、吐息が洩れた。
……くす。
(え……??)
マールは心底驚いた。
見間違いではないかと、何度も瞬きをする。
いや、間違いではなかった。
佐竹の、いつもあまり変化のない静かな顔が。
今、僅かだけれども微笑んでいる。
まちがいなく、微笑んでいる。
(サタケが……笑った──!?)
びっくりしすぎて固まってしまう。
と、マールの頭に佐竹の手がついと伸びてきて、そのままぽすぽすと軽く叩かれた。
「まったくその通りだ。さすが、お婆様だな」
マールは目を白黒させて、まだ笑っている佐竹の顔を凝視しているばかりだ。
「ありがとう、マール」
「ど……どどど、どういたし、まして……」
呆然としたまま返事をしたマールをそのままにして、佐竹は微笑んだまま少しマールを見返すと、踵を返して、再び宿舎へと戻っていった。





