7 父王
ぱたぱたと、深夜の廊下を走る足音がする。
空にはあの「兄星」がぼかりと浮かんで、うす明るい夜空をさも偉そうな顔をして見回している。
王宮の夜の廊下は、広くて暗くて、いつもよりも音が響いて、ちょっと気味が悪い。
でも、衛兵たちの目を盗んであちこちうろつくのは、結構面白いのだ。
少年は、真っ直ぐな黒髪を揺らして尖塔を目指す。
大鐘のある塔には常駐する兵がいるため、もうひとつの塔のほうだ。
日中は剣術の稽古や帝王学の勉強で忙しいし、父や母もそこに行くことにあまりいい顔をしない。つまり、滅多に行かせてもらえないのだ。
(今日こそは、行ってやるぞ──)
少年は、ときどき物陰に走りこんで、巡回してくる衛兵の目を盗みながら進んでゆく。
もう少しだ。
あの渡り廊下を抜ければ、そこはもう尖塔の建物である。
中にさえ入ってしまえば、もう衛兵も入ってこない。
足音を忍ばせて、十分に慎重に進む。
建物の中に入ると、長い螺旋階段がずっと空に向かって伸びていた。階段にそって、壁には小さな窓が並んでいる。
足音を立てないために裸足になり、靴を抱えてひたひたと上ってゆくと、やがてそのてっぺんに辿り着いた。
(やった……!)
……だが。
少年は、はっとする。
最上階の、少し大きめの窓の前に人影が見えたのだ。
人のことは言えないが、こんな時間にこんな所で、何をやっているのだろう。
階段を上がりきったところの壁にそっと隠れて、少年は様子を窺った。
(あ、なんだ……)
つい息をつく。
それは、父王の後ろ姿だった。
夜着の上から上着がわりにマントを羽織って、静かに外の景色を眺める風情である。
しかし。
「父上」と呼びかけようとして、少年はふと口を閉ざした。
……なんだか、違う。
夜空を見上げ、時おり城下を見下ろすその静かな横顔は、いつもの父王のものとは少し違って見えたのだ。
父も物静かな人で、あまり派手なことは好まず、いつも優しい笑みを浮かべて少年を諭してくれる人ではある。だが、この男とは少し雰囲気が違う。
なによりも、その背中はどこか寂しげだった。
気性は激しいが可愛い妻と利発な息子に恵まれて、いつも「私は幸せ者だ」と言う父は、人にこんな背中を見せる人ではない。
何となく、胸を掴まれたような気持ちになって、少年は息を殺して蹲った。
(だれ、……なんだ……?)
姿かたちも、着ている物も、紛れもなく父王のものなのに。
……と。
「そこにいるんだろう? ……出ておいで」
静かな声が聞こえて、少年の心臓は跳ね上がった。
まさか、気づかれているとは思わなかったのだ。
長い長い、沈黙があった。
少年は、かなり迷った末にようやく、壁の端からそうっと顔を覗かせてみた。まるで猫がやるように。
父王と同じ顔をしたその人は、少年を見つめて静かに微笑んでいた。
「……やあ。話をするのははじめてだね」
それが、「ムネユキ」との出会いだった。
◇
それからは、少年はときどき夜にこっそりと寝所を抜け出して、もう一人の父に会うようになった。
彼はいつも、決まった日に現れてくれる訳ではなかった。だから確実に会う方法はなかった。だが、それでも一応は大体の日時を約束して、なんとか月に二、三度は会うことができたのだ。
彼は、自らを「サタケ・ムネユキ」と名乗った。
「カンジ」とかいう不思議な文字を教えてくれて、その書き方も見せてくれた。
そして、なぜ夜に現れるのかを語ってくれた。
それは、まだ八歳になったばかりの少年にとっては衝撃だった。
現実は少年の知らないところで、とっくに厳しい側面を突き付けていたのだ。
本当の父が、すでにこの世の人ではないなどと。
まずそこからして、納得できるものではなかった。それを初めて聞かされたとき、少年は、とても続きを聞くことなどできなかった。それで一目散に自分の寝所に逃げ帰った。
宗之は、何も責めはしなかった。少年がまた、恐る恐るあの尖塔に会いにやってきたとき、ただ「無理をする必要はない」と言って、静かに笑っただけだった。
少年はその後も、何日も思い悩んだ。
昼間、優しい父王と普通に会話しながらも、「この人の体は、本当は自分の父のものではないんだ」という思いがわきあがり、とうとう顔を合わせるのもつらくなって、終日部屋に閉じこもってしまったこともある。
母はそんな少年を心配したが、少年は決して、「もう一人の父」のことを誰にも話しはしなかった。
やがて、何週間もの苦悩の果てに、とうとう少年は事実に向き合う決心をした。
宗之は少年のその言葉を、なにか悲しげな顔をして聞いていた。そして、少年に深々と頭を下げた。
宗之は宗之で、後悔をしていたらしい。「自分があの夜、そ知らぬ顔をして君の父として振舞ってさえいれば、こんな思いはさせずに済んだ」と、静かな声でそう言った。
少年はそんな宗之を見て、なぜかふわりと、嬉しいような心持ちになった。
この男は、父と同じか、それ以上に尊敬に値する。
そのことが、ただ単純に嬉しかった。
この男になら、父の代わりになって貰ってもいいと、そこで初めてそう思った。
それから宗之は、順々に丁寧にこれまでのことを少年に語ってくれた。
少年が理解するには、まだ少し難しい話ではあった。だが、それでもゆっくりと分かりやすく、そして辛抱強く、宗之は何度でも説明してくれた。
だが、聞けば聞くほど、それは不思議な話だった。
もっと不思議だったのは、そんな理不尽な思いをさせられ、この世界と父王の意識の下に閉じ込められた宗之が、周囲の誰を恨む言葉も吐かなかったことだった。自分が彼と同じ立場なら、大暴れして、泣き叫んで、それは酷いことになっているだろうと思われるのにだ。
考えてみれば、自分はその宗之に人質にでもされて、「もとの世界に戻せ」とばかりに家臣や母を脅迫する材料にされていてもおかしくはなかった。もし自分が宗之の立場だったら、間違いなくそうしていたことだろう。
だが、宗之はそんなことはしなかった。むしろ少年を本当のわが子のように遇し、いつも慈愛のこもった瞳で見つめているだけだった。
やがて少年は聞かされた。宗之が元いた世界に、自分とよく似た少年がいるという話をだ。
「君は間違いなく、お父君の本当の息子だよ。だから、別に彼と血が繋がっているわけではない。しかし──」
宗之は静かに微笑みながらそう言った。
「それでも、君は本当によく似ている。瓜二つだと言ってもいい……。私の息子、煌之にね──」
その瞳を懐かしそうな色に染めて、宗之が低い声でそう言うのを、少年は欠伸をしながら夢のような思いで聞いていた。
どこか、自分の知らない遠くの世界に、自分とそっくりの少年がいる。
どんな奴だろう。
何が好きなんだろう。
今、何をしているのだろう。
いつか、会えたりするのだろうか……。
そうして眠ってしまった少年を、宗之はそっと抱き上げて、寝所に連れて戻ってくれたものだった。
翌朝目を覚まして初めて、少年はそのことに気づくのだ。
宗之はごくたまに、寝所から父の愛刀を持ち出して、あの巨大な「兄星」を背に、美しい演武を見せてくれることがあった。
宗之の剣の流儀は、この国の剣技とは少し異なるものだった。それはなにかずっと深く、心の奥底までを見通すような、透徹した清らかさを漂わせていた。少年の眼から見ているだけでも、それは時に、泣きたくなるほど美しかった。
宗之は少年がせがむのに応じて、時おりその剣の「形」などを手を取って教えてくれることもあった。ちょうど、その息子にしていたようにして。
更けゆく夜の星空を背景に、まるで滑るような、また舞うような宗之の剣捌きが映えている。少年はよく、それをぼうっとなって見つめていた。
そうしてまた、ゆらゆらと覆いかぶさってくる眠気に負けて、いつのまにか夢の中に落ち込んでゆくのだった。
……宗之。
彼もまた、自分の父だ。
少年は、ずっとそう思っている。
……いや、そう思っていた。
あの日、あの時、
悲しみに満ちたあの夕刻に、
父が自分から奪い去られるまで──。
◇
はっと目を開けると、もう朝になっていた。
サーティークはすっと体を起こした。そうして埃の積もった夢を振り払うように、頭を一度、強く振った。
(『アキユキ』……か)
あの時。
自分が北の国に、ナイト王を掠め取るために乗り込んだ時。
背筋も凍るような殺気を纏い、白刃を閃かせて掛かってきた、あの男。
自分よりも少し若いように思われたのが、なんとも皮肉に思われた。
知らず、唇に笑みがのぼる。
(まさか、この地で見えることになろうとはな──)
そしてあの「ナイトウ」は、彼の無二の友でもあるという。
「く、はは……」
そんな皮肉。
そんな運命か。
もはや、笑うしかないではないか。
攫ってきた青年は、「ナイト」が<鎧>に消えた途端、あのひどく暢気な人格に変貌した。
現れた当初から泣いてはいたが、とにかく涙もろくて、感情がそのまま顔に出る。「あんな調子で、今までよく無事で生きてこられたものだ」と、こちらが心配になるほどだ。
一応「人質」とか「捕虜」とかいうものの立場は理解しているようなのだが、逃げる気もないらしい。それでべつに拘束もせずにいたところ、なんと「仕事がしたい」と言い出した。
要は、意味もなく厚待遇を受けることに慣れていないということらしい。要するに庶民感覚なのであろう。だが、意外にもその仕事で思った以上の成果を上げて、遂にこの王宮でそれなりの階級を与える羽目になってしまった。
あの「アキユキ」とは親しい友人だということだったが、それにしても、あまりにも性格が違いすぎる。それに、二人は「単なる友人」というには、ずっと密度の濃い間柄にも見えた。
「実はもっと違う関係なのではないか」と少し下世話な勘繰りもしないこともなかったのだが、のほほんとした本人を見ている限り、どうやらそういうことでもないらしい。
(ユウヤ……か)
長い黒髪をかき上げて、サーティークは眉間に皺を寄せた。
あの優しげな佇まいも、くるくる変わる表情も、自分の心を波立たせる。
傍には置きたい。
だが、疎ましいのだ。
本当なら、初めから、もっと遠ざけておくべきだった。
早々に、地下牢にでも放り込んでおけばよかったのだ。
涙もろくて素直に過ぎるあの顔を見て、それには忍びないと思ってしまった、あの時の自分が恨めしい。そもそも、「あの宗之と同じ辛さを味わってきた青年だから」と、憐れみを掛けたのが間違いだったのだ。
……もちろん、今となってはすべてが遅いが。
(ナイトウ……ユウヤ)
彼の笑顔は、自分にかの人を思い出させる。
……もう二度と、会えない誰かを。
「おはようございまする、陛下。そろそろ、朝のお時間にござりまする」
寝室の扉の外から遠慮がちな侍従の声がして、サーティークは取り留めのない思考に終止符を打った。
「入れ。もう起きている」
短く答えて、素早く寝台から降りる。これからの朝稽古のため、サーティークは手早く稽古着に着替え、愛刀を手にした。
早朝の、城の中庭へと続く廊下を足早にゆく。
途中、ちらりと遠目に、渡り廊下へ続く通路の方を見やった。
あの尖塔へと続く通路だ。
かの父は、一体どう思うのだろう。
自分の、もう一人のあの父は。
彼の息子とこの自分が、いずれ刃を合わせて戦うことになるのだと知ったなら──。





