4 師範
そのまま午後の授業はすべて休んで保健室で横にならせてもらったが、やっぱり眠ることに対する恐怖が勝って、俺はまんじりともせずにベッドの中で過ごした。
佐竹は放課後、保健室まで俺を迎えに来て、そのまま一緒に帰宅することになった。
「いいよ、佐竹……。鞄ぐらい俺、持てるし――」
何度もそう言うのに、佐竹は二人分の鞄を肩に担いでまったく返してくれなかった。
「やかましい。病人は黙っていろ」
病人って、別に病気じゃないと思うんだけどなあ。
それに、なんか気のせいかも知れないけど、道行く女の子たちが俺らのこと、変な目で見てるんですけど。それも、なんだかちょっと嬉しそうに、ひそひそ囁きあったりしてるんですけど?
(あ〜もう、恥ずかしいな〜……)
ちょっと頭を抱えたくなる。
言っとくけど俺ら、別にそーゆーんじゃないからね?
と、スーパーまであと少しという所で、佐竹がふと足を止めた。
(……ん?)
見ると、前方を見て少し驚いた風な目をしている。何かと思ってその視線を追うと、髪を短く刈り込んだ、どこか毅然とした、細身の中年男性が立っていた。紺色のポロシャツにベージュのスラックスという、ごく普通のいでたちだ。背は、俺と同じぐらいかな。向こうも、こちらを驚いたように見ていた。
「……煌之君? 煌之君だよね?」
と、佐竹が鞄を肩から下ろし、いつも以上に背筋をびしっと伸ばして、一礼をした。
「ご無沙汰しております、山本師範」
「いや、こちらこそ。いや、見違えたよ。随分と、背が伸びたもんだから」
男性の声は嬉しそうに柔らかくなったけど、一方の佐竹の声の調子は、やや固いような気がした。
「……恐れ入ります」
「学校の帰りかい?」
男性は静かに微笑んだ。全体の雰囲気は、どこかが佐竹と似ていて、なんとなく時代劇でみるような古武士風だったが、瞳は優しい人だった。
「はい。友人を家まで送る途中です」
佐竹が軽く会釈する。
「…………」
俺は目を丸くした。
うわ〜、なんかいろいろ新鮮だ。佐竹が目上の人に、きちんと敬意をもって話をするのを初めて見たかも。それに、俺のことを「友人」だってさ。本当にそう思ってるかどうかはともかく、だけど。
「ほう、友人?」
男性は、少し興味深げな目線で俺を見た。
「……そうなのかい。それは良かった」
そして、ちょっと安心したかのようにそう言った。佐竹は黙って、それには何も答えなかった。何となくだけど、気まずい沈黙がその場に流れた。
(………?)
なんなんだろう、この沈黙。
やがて、少し言い出しにくそうに「山本師範」が口を開いた。
「煌之君。剣道……、本当にやめてしまってよかったのかね?」
心から、惜しむような声だった。
「…………」
佐竹は、やっぱりしばし無言になったが、もう一度彼に向かって一礼を返した。
「はい。師範には大変お世話になっておきながら、誠に申し訳ないのですが――」
なんかもう、ここまでくると「本当にこいつ高校生かよ?」とか思ってしまう。言葉遣いがもう、十代じゃないって。
男性は、しばし黙って佐竹を見上げていたが、小さくため息をついたようだった。
「そうかい。お父様が、さぞ残念がられると思うが。仕方がないね……」
それだけ言うと、あとはさばさばしたような顔になって、にっこり笑った。
「まあ、君の人生だからね。私があれこれ言うことではないね」
「恐れ入ります」
佐竹は、また静かにそう言って一礼をした。
「体に気をつけて、頑張りたまえ」と言って去っていった「師範」を少し見送って、また佐竹は歩き出した。俺も慌てて後をついていった。
(やっぱりこいつ、剣道やってたんだな)
俺は心の中でそう思った。
でも、さっきの話の流れだと、もう随分前にやめてしまったらしい。なんでかは分からないけど、あの師範の言い方からして、かなり上級者だった風なのに、もう続ける気持ちもないらしい。
(あの人、ものすごく『もったいない』って顔、してたもんなあ……)
と。
「……何か、聞きたいことがあるなら言ってみろ」
いきなり佐竹の声が降ってきて、俺はびっくりした。
「えっ!? あ、いや……。俺は、別に……」
「どうだかな」
見下ろしてくる佐竹の目は、どこか疑わしげだった。俺は顔の前で手を振った。
「い、いや、ほんとに……。俺がどうこう言うこっちゃないし――」
佐竹はちょっと俺の顔を眺めていたが、少し肩を竦めると、元通り二つの鞄を肩に掛け、また黙って歩き出した。
◇
学童の建物入り口まで来ると、洋介がもう紺色のランドセルをしょって待ち構えていた。
「さたけさ〜ん! 兄ちゃ〜ん!」
洋介は俺たちの姿をみつけると、入り口のガラス戸の内側でぴょんぴょん跳ねまくって、両手をぶんぶん振り始めた。
(それにしても……)
なんで、佐竹を先に呼ぶんだ?
なんかこのところ、色々納得いかないぞ、俺は。
「何をしてる。さっさと引き取りに行かないか」
隣で佐竹が怪訝な目で見下ろしてきた。
「わ、わかってるよ……」
どんなに懐かれているといっても、子供の引き取りばっかりは、家族でないと無理だからな。第一、こんな怖い見た目の高校生に、すんなり子供を引き取らせてくれる学童がどこにある。
「じゃあ、先生、またあしたね〜。さよーならあ!」
洋介が学童の先生に手を振って、俺と入り口から出てくるのを、佐竹は外で待っている。このところ、これが俺たちのいつもの風景になってしまった。
うちの親父は、佐竹がうちに毎日のように出入りすることについて、特に文句は言ってない。勿論、最初のうちはちょっと心配して、「どんな子なんだい」とか、色々聞かれはしたんだけど。
(いや……。本人見たら、さすがに『子』はないよなあ……)
ま、それはともかく。
その後、一度早めに仕事から帰ってきたとき、たまたま佐竹の様子をひと目見てからは、親父はすっかり安心したようだった。
いや、むしろ積極的に、「来てもらったらいいんじゃないか? あちらの親御さんさえいいんなら、別にうちは毎日でも。なんだったら、泊まっていってもらっても構わないぞ」とまで、言うようになってしまった。
(……なぜだ。こんな強面の高校生だぞ)
やっぱり、挨拶とか、言葉遣いとか、きりっとした姿勢とかが、大人に対してはポイントが高いのか? っていうかそれ、もう俺の「友達」じゃなくて「保護者」とか、「子守り」として当てにしてるってレベルの言い草だよな?
くそう、やっぱりなんだか納得がいかない。
「今日の夕飯は何にするんだ?」
いつものように三人でスーパーに入ると、洋介は例によって、とっととお菓子のコーナーへ走っていってしまい、そのまま俺と佐竹だけで肉や魚、野菜のコーナーを回ることになる。
「ん〜。週末に作り置きしといたおかずがまだあるしなあ。今日はそんなに、いろいろ買わなくてもいいかもなあ」
ああ、すっかり主婦みたいな台詞が板についちゃってるよ、俺。
「……そうか。いつでも嫁に行けるな、貴様」
佐竹が隣で、顔色も変えずにしれっと言った。やっぱり、買い物かごも持たせてもらえず、今はこいつが手に持っている。
「んなこと褒められても、ちっとも嬉しくないっつーの!」
周りにいるおばちゃんたちが、声を殺して笑ってるじゃないか。ったく、やめてくれよな。
大体、そうやって一週間の献立とそれに使う食材を、先に計画的に考えて回していけって教えたの、お前じゃないかよ。
「買って来たらすぐ、洗ってある程度下ごしらえして冷凍しとけ」とかさ。
「結局はその方が手間も時間もかからず、食材も無駄にしないからな」とかさ。
どうなんだよ。お前は「スーパー主婦」かなんかか?
嫁に行くどうこう言うなら、まず真っ先に行くのはお前だっつの。
……って、ほんと言ってやりたいよ。
言わないけどね、怖いから。
「言いたいことは、言ってみればいいんじゃないのか」
(……げ)
恐る恐る見ると、隣の佐竹の目が、物凄く意味ありげな光を帯びて怖くなっていた。
「あ、あははは……」
さっきとはまた違った冷や汗を流しながら、俺はくるりと後ろを向いた。
いやもうほんと、頭の中を覗かれてるんじゃないだろうな? 俺。
◇
そんなこんなで買い物を終え、洋介も一緒に、うちへと続く道へ出た。
先日、懸案の期末考査も終わって、そろそろ夏休みも近づいてきていた。四時ぐらいだと、まだぜんぜん夕方って感じはせず、空も青いままだ。
佐竹は買い物したバッグも俺に持たせてはくれず、俺は手ぶらで、洋介の手だけ引いて一緒に歩いた。
(そっか……。夏休みかあ……)
俺は、住宅街の道を歩きながらぼんやりと考えていた。
この辺りまで来ると、周囲には一戸建てが増えてきて、ぐんと人通りが少なくなる。
いつもだったら、毎年、部活でほとんどすべての日が潰れてて、お盆以外での休みなんてなかったけど。試合もあったりするし、本当に早朝から夜まで、ずっと体育館か、外部の施設で合宿か、はたまた外でランニングか――。
ほとんど、家になんていた記憶がないのに。
今年は一体、どうやって過ごせばいいのかな。
毎日、ずっと洋介と一緒にいるのかあ……。
ま、佐竹も来てくれるだろうけどさ。
なんだか、そう思うと、心のどこかが、ぽかっと空虚になった気がした。
(退屈、だろうなあ……)
洋介がいたんじゃ、友達と遊びにいくわけにもいかないだろうし。
洋介連れて、プールやら動物園やら? いや、それは暑いから水族館かな。
まあそれも、楽しくなくはないんだろうけど。
でもなあ……。
(俺って……)
ばくん、と心臓の音が飛び跳ねた。
『オレッテ、ナンデ……ココニイルンダロ』――。
……と。
ばひゅっ、と、突然つむじ風が湧き起こった。
ばたばたっと、シャツの襟がはためいて、髪の毛が煽られたのが分かった。
「わぅ!」と隣で、洋介が小さく悲鳴をあげた。
(………!?)
つむじ風? ……いや、ちがう。
こんな天気のいい穏やかな日に、そんなものが起こるなんて。
「内藤……」
佐竹の声が、ひどく低くなっていた。
その目が、ちょっと見たことのない色になっていた。
「……え?」
見返すと、驚いたように俺を、いや、俺の後ろを見つめている。
俺は、恐る恐るそちらを振り返ってみた。
その風は明らかに、こちら側から、そこへ流れ込んでゆく空気の渦だった。
(なん……だ、これ……?)
俺の背後に、真っ黒な《穴》が開いていた。