2 祈り
一連の顛末を聞いたヨシュアの悲嘆は、ひと通りのものではなかった。
大切な兄は黒の王に連れ去られ、宰相ズールは殺害された。あれほど入念に立てたはずの作戦も、その殆どが日の目を見ることもなく無駄に終わった。つまりそれほどまでに、あの黒の王の戦闘力は凄まじいものだったのだ。
ヨシュアは王の執務室で、蒼白な顔のままディフリードからの報告を受けた。が、次の瞬間ぐらりと体を傾かせ、その場に倒れ込みそうになった。周りの武官たちが慌ててその体を支える。
それでもヨシュアは気丈にも、誰かを責めるような言葉はひと言も吐かなかった。そしてただ「一人にして欲しい」とだけ言うと、よろめくようにして自室に引き取った。
佐竹はその場に同席していたが、いまだ心ここにあらずといった状態だった。
内藤のこと、また父、宗之のこと。それらをまだ十分に冷静には考えられない自分がいた。ヨシュアが武官たちに抱えられるようにして去ってゆくのを見ながら、唇を噛んで拳を握りしめ、黙然と立ち尽くすばかりである。
と、いきなり巨大な拳に胸のあたりをどやしつけられた。
「サタケ。お前はちょっと休め」
ゾディアスだった。
彼も作戦の失敗については相当の精神的痛手をこうむっているのは明らかだった。が、それでもいっさい顔には出さない。隣にいるディフリードも同じだった。
「それがいい。今後の対応については、あらためて明日、検討するとしよう」
美貌の天騎長もさすがにやや青ざめた顔色ではあったものの、それでもいつもと変わらぬあでやかな微笑を浮かべていた。
「今日のところは、ご苦労だった」
ゾディアスもそちらをちらりと見て軽く頷き返している。
「諸々、後始末は俺らに任せろ。部屋に戻んな」
どんと力任せに背中を押され、放り出すようにして執務室の外へ出される。背後で乱暴に扉が閉じられた。
佐竹は振りかえり、背後の扉を少し恨めしげに見つめたが、すぐに踵を返してそこを離れた。
文官宿舎の部屋に戻り、革鎧を外して寝台に座ると、佐竹は改めて「氷壺」を鞘から抜いてみた。黒の王サーティークとあれほど激しく打ち合わせた刃は、それでも刃零れひとつしていなかった。いまも冴えざえと静かに銀色の光を跳ね返している。
佐竹は少し手入れをしてから、「氷壺」を元通り鞘に戻して机に置いた。長靴を脱いで寝台に正座し、静かに呼吸を整える。
様々に去来する思いはある。
自分はかの男に対してまったく歯が立たなかった。彼我の実力差は思った以上に歴然としたものだった。もちろんこちらも、そんなことは百も承知で向かって行ったのだ。そのこと自体は構わない。しかし。
目的を達することができなかったという事実には、どうにも悔恨の思いが拭えない。せめても、あのたったの五分という時間だけでも持たせることができていれば。あれほどの命を損耗させてそんなことすらできなかったのは、いかにも歯痒いことだった。
ヨシュアに対してもナイトに対しても、なんの言い訳もできない。死んでいった者らに対しても、ただただ申し訳なさと慚愧の思いが残るばかりだ。
だがそこは、
(……鍛錬あるのみ)
そうだ。
せめて、あの男と互角にやりあえるほどまでは、自分が鍛錬して力の底上げを図るしか方法はない。そうでなくとも、剣の道を三年も放り出して怠けた挙げ句の鈍らもいいところの腕なのだ。
(──それよりも)
問題はかの男が、どうやら父、宗之のことを知っているらしいということだ。
とすれば宗之は、この世界に関わりがあるという事になる。もしかすると佐竹よりもずっと前に、父はこの世界にやってきたということなのか。
(もしや……)
いや、拙速にものを考えるべきではない。ないが、もし三年前の父の失踪が<黒き鎧>によるものだったとしたら。
父はかの国に捕らえられ、恐らくは内藤と同様に<鎧の稀人>としての務めを強要されていたのではあるまいか。だとすれば向こうの世界で、どこを探したとて見つかるはずはないわけだ。
(では、あの男は……?)
かの黒の王、サーティークは、父とどう関わりがあるのだろう。
いやそもそも、血のつながりがあるのか否か──?
自分と彼とのあまりの容姿の類似性を見れば、それを考えないわけにはいかなかった。
そしてもし、つながりがあるのだとすれば。
彼は見た目こそ年上ではあるものの、自分の「弟」ということになるのだろうか──?
いやことによると、もっと下の世代である可能性もある。
どうにも驚きを禁じえないが、そうとでも考えるよりほかはない。
が、考えたのはそこまでだった。これ以上のことはもはや、なにがしかの新しい情報でもなければ考えるのは不可能である。
佐竹はひとつ深く呼吸をした。そして軽く身の回りを整えて、速やかに就寝することにした。
寝台に身を横たえて、とりたてて飾り気のない四角い天井を見上げる。
内藤は、今頃どうしているだろう。
サーティークは彼を、すぐに抹殺するのだろうか。
あの男の目的どおり「ナイト」を<鎧>の秘密を暴くために利用した場合、元の人格である内藤は一体どうなってしまうのだろう。
佐竹は静かに目を閉じた。
共に消失してしまうのだとすれば、自分がここへ来た目的もなにもかも、ここで終了ということになる。洋介には申し訳ないが、自分はもはや、彼との約束は果たせないということになるのだろう。
(……だが)
もし、それでもたった一つの希望があるのだとすれば。それは、自分と父のことをサーティークがどれほど興味を持って考えるか、の一点だ。
奴が内藤から自分や父や、向こうの世界に関する何かを聞きだしたいと少しでも考えてくれたなら。
どんな目に遭わされるかまでは分からないが、それでもほんのしばらくの間でも、彼の命は永らえさせてもらえるだろう。
(だが……)
冷酷無比、悪逆非道と言われるかの王が内藤をどう扱うのか。
そればかりは、もはや想像することさえおぞましかった。
「内藤……」
ふたたび拳を握りしめる。
「生きていろ」、と言うのは容易い。
だがそれを実行することが、ひどく難しい場合もあるはずだ。
内藤がその場にあって、果たしてどんな選択をするのか。
もとよりそれは、自分が指図する筋合いもないことだ。
そうでなくともこの王宮にあって、内藤は何度もその「衝動」を抑えてきたのだと自ら言った。「飛ぶのが怖くなったから」などという、そんな軽い話でなかったことは想像に難くない。
この上、何が言えるというのか。
彼を再び、そんな環境に追い込んだ自分に。
そんなことはわかっている。
しかし。
(それでも……俺は)
握った拳の片方を目の上にあてがって、唇を噛む。
だから。
これは、「願い」だ。
いや、「祈り」だと言ってもいい。
(だから……頼む)
自分の命を。
お前の命を。
どうか、疎かにはしないで欲しい。
お前を愛する人間がいる。
これからも……きっといる。
……だから。
「生きろ……。内藤──」
微かな佐竹の呟く声を、空の「兄星」のみが聞いていた。





