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白き鎧 黒き鎧  作者: つづれ しういち
第二部 第一章 南の国
58/141

1 宗之


 佐竹宗之(さたけむねゆき)は、煌之(あきゆき)の父である。


 そして彼は、煌之の幼少の頃からその剣の師でもあった。

 父は会社勤めの(かたわ)ら、週末だけ近所の道場で近隣の成人や子供たちの指導にも当たっていた。その道場で、己が一人息子の指導もしてきたのである。

 決して派手な人ではなかった。だが週末、道場で皆に指導する胴着姿の父は、きりりとして美しかった。すっと素直に伸びた背中は、まさに清廉を絵に描いたようで、ひどく頼もしく見えたものだった。

 しかし、人々が帰ってから一人道場で竹刀を振る姿は、一転して身が引き締まるようなものになる。そこだけ急に空気が変わったように静謐(せいひつ)なものを湛え、場には森閑とした気が満ちた。

 当時まだ幼かった佐竹でさえ、その背中には父の生きる姿勢やら、生き様そのものが垣間見えるように思われた。


 有段者である父はしかし、それで生活を支えるといった選択はせず、とある建設会社で働くことで(おの)が生計を立てていた。

 妻である煌之の母馨子(かおるこ)も、海外を飛びまわってはばりばり働く質の女であり、相当な高給取りではあった。だが宗之はそれとは関わりなく、平凡でも淡々と、また誠実に、自らに課せられた日々の業務をこなして生きる男であった。

 剣道の有段者であることも、本当に必要な時以外、とりたてて吹聴するようなことすらなかった。佐竹はそんな、誰に見せびらかすわけでもなく淡々と己の高潔さを保とうとする父の姿を、心から敬愛してもいた。


 母が不在のことが多い佐竹の家は、大抵、父子家庭の様相を呈していた。そして家事全般を父と息子で分担することが生活の中に定着していた。たまに母が海外から舞い戻ることがあっても、彼女の居場所はあまりないような感じすらあった。

 もちろん母は、そんなことを僅かも気にするような性質(たち)ではない。むしろぐいぐいと無理やりにでも自分の「居場所」を作り出しては場を占拠するような女だったので、それらのことは大した問題にもならなかった。


 玄関先で大きなスーツケースを放り出す音が聞こえると、少年だった佐竹はもはや、本能的に身構えたものだった。次の瞬間、どこの野生の肉食獣が駆け込んできたのかと思うぐらいの剣幕で、母が真っ直ぐに自分に突進してくるのが常だったからだ。


「きゃ──っっ! (あき)ちゃああああん!! 会いたかったわああああ!」

 これが毎度の第一声である。

「いやああ~ん! ちょっと見ないうちに、また男前になっちゃってええ!」

 そしてこれが、第二声だ。


 佐竹はつい、剣道の試合さながらに(たい)(かわ)して、彼女のその第一撃を回避する。両手をすかっと空中で交差させた母は、いつものように唇をとんがらせて不平を並べ立てる。


「ちょっとお、あきちゃん! どうしてそんなあからさまに、お母様の熱い抱擁を()けるのようっ!」

「…………」


 冷ややかな目で自分を見上げる息子に向かって、母は高そうなスーツにロングコートの似合うその長身でさも寂しそうに──いや、わざとらしいまでに寂しそうに──愛息子(まなむすこ)を見下ろすのだった。


「久しぶりに会えた可愛い息子を、ちょっとぎゅーってするぐらい、許されてもいいと思うんだけどなああ~!? お母さん、そのために頑張って毎日働いてるんだからあ!」


 それが本当に「ちょっと」なら、自分も我慢しないこともない。

 が、そうではないから困るのだ。

 大体、そろそろ中学生にもなろうかという息子に向かって「ぎゅーっとする」とか、本当に心の底から勘弁してもらいたかった。


 佐竹の母、馨子(かおるこ)は、年齢的なことや息子としての贔屓目(ひいきめ)を差し引いても、十分に「美女」で通る容姿である。が、「これでもう少し黙ってさえいればもっと品もあるだろうに」というささやかな一人息子の要望は、もちろん聞き入れられたことはない。

 そもそも各国を飛びまわって何ヶ国語もの言語を操り、海外企業との売買やライセンス、合弁、出向等々の契約や交渉に関わるといった国際ビジネス法務一般を扱う国際弁護士に、「おしとやかにしていろ」などは無理な相談なのだろう。口から先に生まれてきたような人間でなくては、到底務まらない仕事である。

 寡黙な父はそんな彼女を見ては、「馨子さんは相変わらずだなあ」などと言うぐらいで、和室で新聞を広げながら静かに笑っていたものだった。





 佐竹の家に異変が起こったのは、煌之が中学二年になった年だった。

 父、宗之の勤めていたそこそこ大きな建設会社が、公共事業における不正な入札によって新聞やテレビのニュースに取り沙汰されるようになったのだ。

 とはいえ父は、もともとその会社の要職にはほど遠かった。はっきり言えば閑職にいて、そのような汚い金の流れや裏工作になど一切関与していたはずはなかった。

 そもそもが、そうしたぎらつくような男社会には向かない人でもあり、初めから高い地位など望むこともなく、日々を誠実に恬淡(てんたん)と過ごすだけといった様子だったのだ。

 

 それなのに、である。

 父は、姿を消したのだ。

 まさに、そのニュースで世間が騒ぎ出したのと相前後するようにして。


 初めのうち、佐竹も母も、それは単なる偶然だと思っていた。そしてあらゆる手段を講じて父の行方を捜しもした。もちろん、警察にも捜索願いを出した。

 しかし。

 父の行方は(よう)として知れなかった。

 十日が経ち、二十日経ちするうちに、母の不安は絶頂に達していった。


 真夜中の真っ暗なリビングで、いつもよりも酒を過ごしてソファで寝こけている母の姿など、佐竹は生まれて初めて目にした。「気丈」が服を着て歩いているような女である馨子は、息子の前でこそ泣かなかったが、そんな時の母の目尻には、明らかな銀色の跡が見えた。

 母は確かに、あの父を愛していたのだ。普段、少しもそんな風は見せなかったけれども。二人が実は厳しい周囲の反対を乗り越えての大恋愛の末の結婚だったことを知るのは、それよりさらに数年後のことである。


 そして。

 ある日を境に、信じがたい報道が始まった。

 それは、その事件当時その会社から「謎の失踪」を遂げたある社員のことを、さも怪しい点があるかのようにしてまことしやかに言い立てていた。

 そのニュースに初めて接した時の母の形相たるや、凄まじいと言うにも余りあった。

 彼女はテレビの前に、まさに仁王像のように立ちはだかっていた。一応は女性なのだから、せめて般若とか毘沙門天ぐらいには言ってやりたいところではある。しかしあれはどう見ても、いかつい金剛力士像の顔だった。彼女の怒気の凄まじさに、家じゅうの照明が一段、暗くなったのではないかと思われた。


 激怒した母は当然、会社に「殴りこみ」に行った。そして、彼女の夫の役職がいつのまにか、もとの閑職から事件に関与しうる要職へと書類上異動させられていることを突き止めた。

 今にして思えば、その会社も馬鹿なことをしたものだと思う。誰が考えたことかは知らないが、丁度よくいなくなってくれた社員に全てをおっかぶせて上手い具合に口を拭うつもりでいたのであろう。ところが、そうすることでとんでもない()()をつつき出してしまったわけだ。

 他ならぬあの母を敵に回してその後どうなるかを考えなかったのは、彼らにとって大きな失態だったであろう。母はその持てる能力と人脈、つまり()()のすべてを駆使してその会社に噛み付き、蹴散らし、あらゆる証拠を叩きつけて弾劾した。

 最終的に、会社側は自らの非を認めて多額の損害賠償を支払わされる羽目になった。当然、社会的な信用も失墜した。

 母はもちろん、高笑いだった。


「おーっほほほほ! ざまぁごらんなさい! これで(あき)ちゃんが医学部に行こうがMITに入ろうがノーゥプロォブレェム! あっ、ハーバードなんかもいいわねえ! どんどん行っちゃって、行っちゃって~?」


 いや、別に当の息子は、どれにも興味はなかったが。

 それは胸のすくような快挙だった。

 さすがの佐竹も舌を巻き、母を改めて見直した。


 だが。

 それでも、父は戻ってこなかった。

 ……そう、今に至るまで。





 その剣道の試合が行なわれたのは、父が不正に手を染めたとを疑われていた、まさにその最中(さなか)のことだった。

 この頃の母はまだ、知り合いに協力を仰いだり、会社側の誤魔化しを証明するための様々の証拠を集めるべくあちこちを駆けずり回ったりで忙しかった。当然、試合を見に来ることなど不可能だった。


 実はこれより数年前、小学校高学年になった頃、佐竹は父から山本師範を紹介されていた。師範は父の大学時代の剣道部後輩にあたる人で、温和で誠実な人だった。宗之は、それまで自ら指導してきた自分の息子を後輩の師範にゆだねる決断をしたのだった。


『いつまでも、親の翼の(もと)に置いて甘やかしておくわけにもいかないのでね』


 父は山本師範に、そんなことを言って笑った。

 その時から佐竹は父のもとではなく、山本師範の道場で剣の修練に励むことになったのだ。


 そして、その夏。

 毎年開催されている全国道場少年剣道選手権大会に、山本師範の属する剣友会も例年どおりに参加した。その個人戦、中学生男子の部で、佐竹も出場することとなった。

 小学生時代から毎年この大会に参加して、もはや上位の常連である佐竹は、その日も常に変わらず冷静でいたつもりだった。

 だが、一回戦から順当に勝ち上がり、次はいよいよ優勝決定戦というときに、ふっとその声が聞こえてきたのだ。


「佐竹君って……もしかして、あの?」

「ほら、今、ニュースでやってるでしょ、あの不正入札の――」


 観客の誰がそう話していたのか。それはもう分からない。

 そもそも、ニュースではまだ父の名前など上がってはいなかった。例によって「失踪して行方不明の社員、(なにがし)」という形式で報じられているだけだ。となると、その声の主は佐竹や父の近辺にいて、その辺りの事情に詳しい人物だったのだろうと思われる。

 たかだか十四だったとはいえ、そこまでであったなら、佐竹も単なる「雑音」として聞き流せたかも知れなかった。なぜなら学校生活の中にあっても、そのぐらいの噂話はあれやこれやと耳に入ってきており、もはや慣れっこだったからだ。

 しかし。

 次の台詞は佐竹にとって、断じて許せるものではなかった。


「たしかお父様も、有段者だったわよね? そんな心の曲がった剣士の息子さんじゃあ、いくら強くっても、ねえ……?」


(……!)


 一瞬、呼吸をするのも忘れた。


『心の曲がった剣士』。


 あろうことか。

 信じられない。

 あの、自分が敬愛する父に向かって──。


 殺気を含んだ眼光でぎりっとそちらを睨んだ佐竹を、しかし、見返す者は誰もいなかった。その時の佐竹の目には、観客席にいる誰もかれもが、無表情な仮面を(かぶ)ったマネキンのように見えた。

 隣で同様にその声を聞いたのだろう山本師範が、眉を(ひそ)めて一瞬だけそちらを見やった。だが、やはり何も言いはしなかった。師範はもちろん、父の潔白を心から信じてくれていた。

 そして、佐竹に向かってこう言った。


「惑わされてはならないよ。辛いだろうが、これも試練と思うんだ。(にご)りなき全き心にこそ、剣は応えてくれるものだよ──」

 温かく、毅然とした声だった。

「この場に()いては、剣のことのみ考えなさい。ほかのすべては忘れることだ。……いいね」

「…………」


 佐竹は黙って頷いたが、心の波は、それで凪いでくれたわけではなかった。

 自分の胸中に渦巻くものが、どうしてもそれを許してくれなかった。

 先ほどの、あの浅ましい中年女の声が何度も耳の中で鳴り響くたび、(はらわた)はぐらぐらと煮え立った。

 それは、明らかに醜い感情だった。

 

 ……そして。

 佐竹は最も大切なその決戦の場で、

 呆気ないほどにあっさりと、苦い敗北を喫したのだった。


 山本師範は、決して佐竹を責めなかった。勝てる相手だったことは明らかだったが、それをひと言も言おうとはしなかった。

 そしてただ「また次を目標にしよう」と、穏やかにおっしゃったのみだった。


 しかし。

 それから二度と、佐竹が師範の元へ教えを乞いに伺うことはなかった。

 あのような、一時(いっとき)の稚拙な感情に負けた自分が許せなかった。


 相手に負けたのではない。あれは、自分に負けたのだ。

 自分の若さや、幼さ、そして最も恥ずべき辛抱の足りなさ。

 そんな己の(つたな)さに、向き合いきることができなかった。

 

 そして、幼い頃から慣れ親しんだ竹刀も、胴着も、何もかもを処分した。


 身を切られるような思いがしなかったといえば、嘘になる。

 それでも、佐竹は心に決めたのだ。


 一度こうして裏切った以上、

 もう二度と、この心を剣に預けることなどできないと──。





(それが……)


 巨大な「兄星」の浮かぶ暗い空を眺めながら、佐竹は呆然と立ち尽くしている。

 ゾディアスも、ディフリードも、他の何百人もの兵士たちも、先ほど消えうせた真っ黒な円盤のあった場所を愕然として見つめている。


 長い黒髪を流した恐るべき武辺の王は、紛れもなくその名を口にした。


『<ムネユキ>、という名に……聞き覚えは?』──


 ぎりぎりと、血が滲むほどに唇を噛みしめる。


(一体、何が……どうなっている――?)


 内藤は、連れ去られた。

 ナイトが亡き者にされるのは、もはや仕方のないことかもしれぬ。しかし。

 あの内藤までがそれと同時に奪われることになるなど、もはや耐え難い思いがした。


(内藤……!)


 「氷壺」の(つか)を、折れんばかりに握り締める。(あるじ)の心を読み取ったかのように、それは手許でかちかちと刀身を鳴らしていた。

 佐竹はきつく目を閉じた。

 そして食いしばった歯の間から、掠れた声を絞り出した。


「死ぬな……! 内藤……!!」


 フロイタールの明けない夜が、さやさやと冷たい風だけを運んできていた。



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