3 夢魔
※嘔吐シーンありです。お食事中の方はお控えくださいませ。
《異界に惑いしまことの子らよ……》
彼方で、しわがれた老人の声がする。
《寄り来たれや、ここなまことの同胞のもとへ》
呻くような、囁くような――
でも、喉を絞るような苦しい声だ。
知っている声?
……いや、知らない。
《群れ集え、飛び来たれ……疾く来たれや、わが主の御許へ――》
そもそも、言葉が難しくて、意味もよくわからない。
(でも……)
なぜだろう。
なぜか、胸の奥底から涌いてくるのだ。
自分は、すべてを知っている。
この老人を、よく知っている、と――。
そう思ううちにも、しわがれた声はその囁きをやめない。
いや、それはもう、とても「囁き」などとは呼べない声だ。
その声量はどんどんと大きさを増してきて、
いまやもう、耳を聾するばかりの叫びになっている。
《そは偽りの世。偽りの魂……!》
「い……や、だ」
頭が、がんがんする。
ほかに、何も考えられなくなる。
(やめてくれ……。いやだ、俺は――)
《いざや、応えませ。汝がまことの御名は――》
「――やめろおおおおっ!!」
「内藤! 内藤祐哉!」
教師の叱咤が飛んで、俺はびくっと目を覚ました。
「え……あれ?」
周囲のざわつきが、ようやく耳に入ってくる。くすくすと聞こえるのは、クラスメートの忍び笑いだ。
(ここは……)
頭を上げて見回すと、そこはいつもの教室だった。冷たい汗で、首も、背中も、べったりと濡れているのがわかる。心臓が、まだばくばく音をたてていた。
太った英語の男性教師が、教壇から冷たい視線でこちらを睨んでいる。
「私に、授業をやめろといいたいのかな?」
皮肉たっぷりに確認されて、血の気が引いた。
(……あ。まずい……)
寝言が声に出ていたらしい。俺は慌てた。
「あっ、いえ……! すみま……」
言いかけて、胸の奥からこみあげるものを覚え、俺は口を押さえて席を立った。
(………!)
がたたっ、と足元で椅子が倒れた。
「あっ、こら、内藤!」
教師の叫びを無視して、教室の外へ飛び出ると、一目散に廊下を走って、トイレに駆け込む。個室に飛び込み、一気にそこで嘔吐した。
「くっ……はあっ、はあ……」
冷や汗が背中を伝い、ひどく呼吸が苦しくて、何度も喉がひきつった。
「な……んなんだ、よ……!」
咳き込みながら、思わず個室の壁を殴りつける。
なんなんだ、あの夢は。
このところずっと、夜と言わず昼といわず、目を閉じると、ずっとあの気味の悪い老人の呪詛が聞こえ続けている。そのせいで夜は眠れず、完全な睡眠不足になって、昼間にうとうとしたと思ったら、またこれだ。
そうでなくても、ただでさえ慣れない家事やら洋介の世話やら、やんなきゃなんないことばっかでパンクしそうになってるのに。
今更だけど、主婦って偉いなと思ってしまう。
いや、そんなことよりも――
「勘弁、してくれ……」
荒い呼吸の間から、声を絞り出した。
わけがわからない。
どうもこの夢は、ただの悪夢とはわけが違うようだ。なにより、あまりにも声がリアルだ。今、目を閉じてもありありと思い出すことが出来る。あの老人の声の様子も、細かい言葉遣いまで、一言一句、書き出せるくらいにだ。
……と。
「内藤」
背後で、静かな低い声がした。振り向くまでもなく、誰だかわかる。
「大丈夫か」
俺は、ゆっくり振り返った。
「さた、け……」
背後に立った長身のクラスメートは、俺の顔を見て微かに眉間に皺を寄せた。
「……立てるか」
落ち着いた佐竹の声は、聞くだけで気分が静まってくる効果があるようだった。
「あ……、うん……」
口元を拭いながら立ち上がると、やっぱり少しふらついた。すぐに、佐竹が俺の二の腕を掴んで引き起こす。
「先に口を漱いどけ。保健室まで付き合う」
手洗い場まで腕を掴んで連れて行かれ、佐竹はそこで一旦手を放し、個室の水を流してくれた。俺は手と口を漱いで、顔を上げた。
「ごめ……、ありがと……」
佐竹に腕をつかまれたまま、俺は保健室に連れて行かれた。誰もいない廊下を二人で歩きながら、少し気分が落ち着いてきた俺は、ふと気になって佐竹に尋ねた。
「佐竹、授業は? ……いいのかよ」
「心配いらん。あんな授業、聞くだけ時間の無駄だしな」
事もなげに佐竹が言った。
なにをあっさり言い放ってんだ。頭のいい奴って、これだから困る。
「なんなら、あとでお前にも、俺が五分で同じ内容を解説してやる。心配するな」
「はあ、そうですか……」
相変わらずの、俺様な性格だな。俺はちょっと呆れて苦笑した。
最初にこいつが俺の家に来た日から、そういえばもう二週間になる。
なんだかんだ言いながら、佐竹はあれから放課後になるとうちに来ては、洋介の相手をしてくれたり、俺の料理のレパートリーを増やしてくれたり、色々手助けをしてくれている。
毎日のようにそんな事をしていて、家の人は何も言わないんだろうか。ちょっと気になったので一度聞いてみたところ、実はこいつも一人親家庭らしくて、家ではほとんど一人暮らしと同じなのだということだった。なるほど、料理が得意なわけだよな。
こいつのほうは、だいぶん前に親父さんが亡くなってて、お袋さんはなんだか、海外をあっちやこっちへ飛び回る仕事なんだそうだ。さすがは佐竹の母、すげえなあ。なんていうか、レベルが根本的に違うよな。
最初は俺様で怖いだけの奴かと思ったけど――いや、確かに俺様で怖いんだけど――この佐竹というクラスメートが、それだけの奴じゃないことも少しずつ分かってきた。
普段は強面で「寄らば斬るぞ」的オーラ全開で、周りのことなんて何の関心もない風にしているくせに、今みたいに必要なときに必要なサポートがすっと出来る奴だったりするし、洋介みたいに明らかに弱い立場の奴には、妙に優しいところもある。
実際、洋介なんてこの二週間で、すっかりこいつに懐いてしまった。「さたけさん、さたけさん」って、俺よりよっぽど頼りにしてたりするから、実の兄としてはちょっと複雑な気分になるぐらいだ。
「だから、人の顔を見て百面相はやめろと言ってる」
ぼそっと言われて、おれははっとした。
(ま、またしても……!)
佐竹が隣で、冷たい視線で見下ろしていた。
「で?」
「……は?」
なにが「で?」なのかさっぱり分からない。
「少しは、話す気になったのか?」
「え? ……えーと……」
佐竹の目がすうっと細められた。軽く殺意が飛んできているような気がする。気のせいか?
佐竹が足を止めた。まっすぐに見下ろされる。
「ここ最近、様子がおかしいな? なにがあった」
「あ、……ああ、うん……」
別に、説明したくなかったわけじゃない。でも、どう説明したら具体的に分かってもらえるのか、自分の能力的な問題もあったりして自信がなかった。
それにこんな、医者に行っても説明できそうもないようなことを、こいつに言ってもしょうがないだろうとも思っていた。
もしも本当に心の病気だったりなんかしたら、なおさらじゃないか?
佐竹は、沈黙してしまった俺をしばらく見ていたが、やがて少しため息をついた。
「……まあいい。とにかく休め」
そう言って俺を保健室にほとんど放り込むようにして、佐竹はさっさと行ってしまった。