3 胎動
どくん、と頭の中で重い衝撃が起こって、ナイトは目を覚ました。
(何だ……?)
見回せば、また自分は寝床とは全く無縁の場所に居る。今日は後宮の入り口から少し離れた場所だった。もちろん、いるのは後宮の外である。
城の窓に切り取られて少しだけ見える夜空は、ふわふわと明るさが移り変わっているようだった。また翡翠のオーロラが下りているのだろう。
(まったく……)
衛兵に、なんと言って入ればいいものか。
そもそも一体どうやって、あの衛兵の目を盗んでこんな所まで出て来られているのだろう。どこかに抜け道でもあるのだろうか。
そう考える時、ナイトは背中になにか冷たいものを覚えて立ちすくむ。
ひとつの恐怖が、ずっと自分を苛んでいる。
自分の中の、しかし自分ではあずかり知らぬどこかで、自分とは違う意思を持つ「だれか」が存在しているのではないのかと。自分が意識を手放したその瞬間、その「だれか」が自分の体を思いのままに動かして、こうして夜な夜な徘徊を繰り返しているのではないのかと――。
(いったいどうして、こんなことに――?)
この「夜中の無意識の徘徊癖」とでも言うべきものが始まって、もう何年にもなる。弟のヨシュアはもちろん心から心配してくれているし、臣下も女官たちもこの困った王にほとほと手を焼いている様子だ。なにしろほとんど毎晩のように寝床を抜け出して、こうして無意識に歩き回っているのだから。
一国の王である自分が、こんなことで臣下の手を煩わせるなど。本当に穴があったら入りたい気持ちにもなるのだが、自分の意思でどうにかできることでもないので、どうしようもない。
「……これは、陛下!」
先にこちらの姿に気付いて、金属鎧姿の衛兵の一人がびしりと姿勢を正した。
もう一人のほうも、慌てて敬礼をしてくる。
「あ、すまない……。なんだかまた、忍び出てしまったようなんだ」
仕方なく苦笑して、衛兵の前で項垂れてしまう。
「いっ、いえ! 良うございました。陛下の御身になにごともなく……!」
真面目一徹といった風情の衛兵の青年は、そう叫んで直立不動になっている。
「本当に、申し訳ないね……」
心からそう言って謝ると、むしろ二人して顔を真っ赤にして「とんでもないことでございます!」と慌てている。
後宮に続く扉を開けてもらい、中に入ると、ナイトはゆっくりと自分の寝所に向かった。
この病が出るようになってから、宰相ズールはあまりこちらに正妃や側室を持つことを勧めなくなった。それはもう、手のひらを返したかのようだった。それまでの強硬極まりない勧めようからすれば嘘のような変わりようだ。
寝所に女を呼ぶことそのものを拒む風ではないのだが、その実あまり喜んでいないことは、その顔を見れば明白だった。
(……それは、そうだろうな)
少し、自嘲の笑みが零れてしまう。
こんな病気もちの王の子など孕ませてしまっては、後々の内政の乱れの元にもなりかねない。こちらからわざわざそんな不穏の芽を生むなどは愚の骨頂だ。
相手が側室にもできないほど身分の低い女であったとしても、曲がりなりにも王の子ということになれば、その後、最低限の生活を保証してやる必要が生じる。限りある国庫の財源から、そんな子供に使う金など一モルスたりとも出したくない。ズールにしてみれば、それが正直なところなのだろう。
かの老宰相としては、出来ることなら弟のヨシュアが一刻も早く正妃なり側室なりを娶って、健康な子をなしてほしいと考えているに違いなかった。
「兄上……?」
声がして目を上げると、いましも脳裏に描いていたその弟が、夜着の姿で目の前に立っていた。ひどく心配そうな目の色である。その後ろには、彼の世話をする女官がひとり控えている。
「また、ご病気が出ましたか? ……ご気分は」
ヨシュアはすぐにそばにやってきて、兄に手を貸そうとする。ナイトは片手でそれをやんわりと断って、静かに微笑んだ。
「大丈夫だよ。怪我などはしていないから」
そう言ってやっても、ヨシュアの不安げな顔は変わらなかった。
「本当に……お大事になさっていただかなくては」
ヨシュアはそう言うと、女官の視線を避けるようにしてナイトの羽織ったガウンの裾をそっと掴んだ。少し、泣き出しそうな顔になっている。
「うん、そうだね……。ありがとう」
ナイトは彼を安心させようと、優しくにっこりと微笑んだ。
心の優しい、可愛い弟。
この体の続く限りは、なんとか持ちこたえて「稀人」の務めを果たしてやらねば。
あの「儀式」は、あまりにも体の負担がありすぎる。
いや、体ばかりではない、あれはこの心までをもばらばらにされるほどの難行なのだ。
随分成長してくれたとはいえ、まだこの弟にあの務めは重すぎよう。
心配するヨシュアを宥めすかして寝所へ戻らせ、ナイトは自分の寝所に入った。
天蓋つきの寝台はこのところずっと、一人寝のためにしか使われていない。
その中へ体を潜り込ませて目を閉じると、寝所付きの女官が静かに部屋を辞していった。
体は疲れて睡眠を欲しているのに、ナイトは寝付くことができなかった。眠ってしまえば、またあの「だれか」がこの体を勝手に動かし始めるかもしれぬと思うと、不安で眠れなくなってしまうのだ。
しかし、王の体調を心配してまたあのズールが薬湯を運ばせると言い出すのも面倒だ。そう思って、こうして眠ったふりをするのも何度目になることか。
――と。
《そこに、いるのか……? 白の王よ》
耳元で、不思議な声がした。
低くて張りのある、まだ若い男の声だ。
(……?)
思わず体を起こして、周囲を見回す。
誰もいない。
気のせいだったかと身を横たえた途端、再び同じ声がした。
《白の王、ナイトよ。聞こえているか?》
「……!」
間違いなかった。
ナイトは飛び起きて、もう一度周囲を必死に見回した。
部屋の中には、やはり誰の姿もない。
(一体……)
「お前は、だれだ……?」
恐る恐る、その声に尋ねてみる。
相手は喉奥でくくっと笑ったようだった。
《すぐにわかる――》
声に、嘲るような敵意が滲んでいる。
いや、それは悪意そのものだろうか。
《……そしてそれが、貴公の最期になるだろうがな》
(……!)
背中を冷たい汗が伝い落ちていくのが分かった。
(しかし、この声――)
ナイトは、それに聞き覚えがあるような気がした。
醸し出す雰囲気はまるで違うが、確かにこの声質を知っている。
(誰の……声だったか)
比較的最近、聞いたことのある声のような気がするのだが。
そんな風に思ううちにも、声は言葉を続けている。
それは、いかにも余裕の笑みを含んでいるようだった。
まるで表情さえ窺えそうなほどの色を含んだ声である。
《予告しておこう。貴公の国でいう、『冬至の日』だ》
「…………」
《貴公の御身を、頂きに上がる》
(……!)
ナイトは目を見開いた。
なんという豪胆さか。
一国の王をかどわかすのに、わざわざ日付を予告するとは――。
もはや声を発することもできず、微動だにしなくなったナイトを嘲笑うかのように、声は最後の台詞を吐いた。
《まあせいぜい、覚悟しておかれるがよろしかろうよ――》
くすくすとくぐもった笑声がそれにつづき、声はふつりとそこで途切れた。
元どおりの静寂に包まれた暗い寝所の中で、ナイトは寝台に起き上がったまま、ただ冷や汗を流していた。心の臓はばくばくと早鐘のように打ち続け、頭はひどい痛みを訴えている。ナイトは両手で顔を覆った。
名乗られるまでもない。
……あれは、奴だ。
あのようなことを、あのような言葉で、この自分に言いうる者は一人しか居ない。
「サーティーク……!」
底知れぬ恐怖に包まれて、自分の肩を抱きしめる。
ひとり密かに体を震わせている王を、室内の灯火だけが黙って暖かな光で照らしていた。
◇
翌朝。
佐竹は朝一番で国王の執務室に呼ばれた。訝しく思いながらも足早に歩いてゆく。
なにか、嫌な予感がする。
遂に宰相ズールと顔を合わせることにもなるかもしれぬという事もあるが、どうにも朝から、奇妙な胸騒ぎがしてならなかった。
「佐竹、入ります」
ひと声掛けて王の執務室に入ると、幸い、そこに国王以外の人物はいなかった。すでに人払いがなされているようである。
佐竹は心密かに安堵した。
「おはよう、サタケ。朝から呼びつけてしまって申し訳なかったね」
そう言って執務机の向こうでにっこり笑ったナイト王は、しかし、酷くやつれて見えた。笑顔を浮かべているのにも関わらず、顔色は青白い。目の下には隈までできている。
佐竹はその顔を見て眉を顰めた。それはナイトの体であると同時に、内藤の体でもあるのだ。あまり無理なことはしてもらいたくなかった。
「おはようございます、陛下。御用向きはなんでしょうか」
恐らくここしばらく、この王は自分に会うことを避けていた。それがどうして、こんな風に出し抜けにここへ呼びつけることになったものか。
が、国王はしばらく佐竹の言葉にじっと耳を傾けるようにして、そのまま沈黙してしまった。
(……?)
佐竹は片眉を上げて彼の顔を窺った。
どうも先ほどから様子がおかしい。
「やっぱり、そうだ……。その声だ」
「……は?」
意外な言葉が来て、無礼ながら思わず聞き返してしまった。
ナイトは困ったような笑顔で佐竹の顔を見返した。顔の前で手を組んだまま、瞳には明らかな不安の色を浮かべている。
「いや、すまない。だからといって、そなたがそうだとは思っていないのだが――」
話の流れがまったく読めない。これが「内藤」相手なら、もうとっくに「もっと筋道を立てて話せ」ときつい突っ込みを入れているところなのだが。
ナイト王はしばらくまた逡巡して、手を組み替えてみたり立ち上がってその場をうろうろと歩き回ってみたりしていたが、やがてとうとう、こう言った。
「変なことを言うと思うだろうが……聞いてくれるかい?」
その目は至極不安そうだった。
佐竹は頷き、「無論です」と即答する。
それを聞いて、ナイトは明らかに少しほっとしたようだった。
「実は、その……」
体の前で、手を何度ももじもじさせたり、揉みしだいたりを繰り返している。見るからに、それはとても言いにくいことのようだった。
「そ……そなたにそっくりな男の声が、私を攫うと……言って来た」
(なに……?)
「それが、私の最期になるだろう、とも――」
絶句した。
ぞわっと背中の毛が逆立ったのが分かった。
「昨夜、耳元で──声だけでそう……言ってきた」
「…………」
「『冬至の日』だとまで……予告した」
佐竹はしばし、二の句も継げずに立ち尽くした。
自分にそっくりな男。
それはもちろん、自分ではない。
だとすれば、もうそれは──。
「……陛下。このこと、他の者には?」
低い声で呼びかけると、ナイトはおずおずと目を上げた。その表情は、やはりあの内藤によく似ていた。やがて王はゆっくりと首を横に振った。「今のところは、まだ──」と小さく聞こえる。
佐竹は少し考えてから再び訊ねた。
「この件、天騎長ディフリード閣下と、ゾディアス千騎長殿にお話ししても構わないでしょうか」
ナイトはハッと目を上げた。ひどく驚いた様子だった。
「そなた……ディフリードとも面識があるのかい?」
「はい。ゾディアス千騎長殿のご紹介で」
簡潔に答える。
「お二方にご相談した上で、再度、陛下にお話しに伺っても構いませんでしょうか。何かきっと、お力になれることもあろうかと」
ナイトの表情は、それを聞いて急に明るいものになった。ようやく「ほっとした」といった様子だった。
「それは……なによりだよ。あの二人なら、安心できる。むしろこちらから、よろしくお願いしたいぐらいだ」
青白い顔ににっこりと笑みを浮かべたナイトに、佐竹はすぐさま姿勢を正して一礼をした。
「では、早速にお話しに上がります。自分はこれで」
「あ……サタケ!」
くるりと踵を返し、扉に向かいかけた佐竹を、ナイトは慌てて呼び止めた。見れば彼は、少し申し訳なさそうな顔でこちらを見ていた。
「そ、その……。そなたのせいではなかったのだが。ここしばらく、私はそなたを遠ざけていた。さぞや不愉快な思いをしたかと思う。大変、申し訳なかった……」
「……いえ」
言葉少なに会釈しただけの佐竹を、ナイトは心から嬉しげに見返した。
「本当に、ありがたく思うよ。どうか諸々、よろしく頼む」
言って臣下への礼をした王に再び一礼を返して、佐竹は執務室を後にした。





