10 悔恨
ディフリードの話は続く。
「で、臣下としてご注進申し上げるうえで一番よいのは、『陛下の健康問題』だろうと思う。今でさえ、これだけ体調に問題もあられ、夜な夜な『謎の徘徊』を繰り返しては臣下を困らせておられるわけだ。私としては、あとはもう、話のもってゆきようだけではあるまいかと思っている」
「……なるほど」
佐竹がひと言挟んだ。
「では特に、内藤が『鎧の稀人』である必然性はないと?」
しかし、それに対するディフリードの返事は歯切れの悪いものだった。
「う~ん……そこなんだよね」
言いながら、ちょっとゾディアスと目を見交わす。
次はゾディアスが、腕組みをしたまま口を開いた。
「もしそうなんだとしたら、もっと早くにズールがそう言い出しててもおかしくねえ。それぐらい、最近の陛下のご体調はよくなかった。だが、奴はどうも陛下ご自身に──つまりナイトウに、だな──拘ってると俺は見てる。その理由が、どうにも読めねえ」
ディフリードが考えながら、その後を引き取った。
「ひとつ考えられるとしたら、お世継ぎの問題かなとは思う。知っての通り、陛下にはいまだ嫡子がおられぬ。ヨシュア殿下がいま王位を継がれても、それは同じこと。このままでは、次なる『稀人』の確保が非常に難しくなるわけだ」
(……つまり、保険か)
佐竹は考えている。
もし今すぐにナイト王に何かがあった場合、ヨシュアがその跡を継ぐことができる。いわばヨシュアが「稀人」の保険である。が、ヨシュアが王位を継いだあとには、すぐに「稀人」となれる人物が見繕えない。
(ズールが心配しているのは、そのことか――?)
たとえこの先「影武者」である内藤に嫡子が出来たとしても、真実を知る臣下として、それを王座に据えるのはさすがに憚られよう。となれば。
「ズールが待つのは、ヨシュア殿下の嫡子だと……?」
気の遠くなるような話だった。その子が生まれてくるまでは、内藤は「ナイト」のままでいることを余儀なくされるのか。
だとすれば、一体あと何年待てばよいのだろう。
が、眉を顰めた佐竹を見て、ディフリードは首を横に振った。
「いや、単に可能性を言ったまでだ。今のうちからそうそう予断は許されない。……ま、要するに、まだまだ情報不足だ、ということだね──」
ちょっと肩を竦めている。
「もうひとつ気になるのが、あのノエリオールの『黒き鎧』だ。その『稀人』たる黒の王、サーティークの最近の動きも、これに関係していると私は見ている」
「…………」
その恐怖の名を聞いて、一同はしばし沈黙した。
(サーティーク……)
その名を反芻した佐竹の胸に、言い知れない冷たい澱みが湧き上がった。
「ここ七年ばかりの彼の動きは、あまりに性急過ぎる。恐らくあの『赤い砂漠』を渡るためだけに、すでに数万という将兵の命を費やしているはずだ。一国の王として、あのなりふり構わぬ侵攻のやりようはもはや狂気の沙汰としか言いようがない」
顔の前で手を組み合わせ、ディフリードは考え考え、じっと燭台の蝋燭の火を見つめながらそう言った。
「これは私見だが、かのサーティークはそこまで愚かな男じゃない。これまでの戦い方、国政のおこない方を鑑みるに、七年前までの彼はあの若さにも関わらず、ごく聡明で冷静な印象の王だった。……まあ無論、間違っても『温情派』とは呼べないけどね?」
「…………」
佐竹は沈黙する。
かの男が自分の想像通り、自分の<鏡>であったなら。
かつての彼の姿は、確かに自分と相当重なるように思われる。
それがこうまで、猛り立つような「狂気」に満たされたのだとしたら。
(その時、一体、何があった──?)
思うところは様々にあったが、佐竹はただ黙っていた。
ディフリードの言葉はそんな佐竹の気持ちを代弁するように続いている。
「思うに、ナイト王の御崩御とほぼ時を同じくして、恐らくかの国でも何かが起こったのではないだろうか。それゆえに、彼はこの国を襲い続けているのだよ。あれほど苛烈に、気も狂わんばかりにしてね――」
一同は、やはり沈黙を続けていた。
蝋燭は随分と短くなり、部屋の中は足元から、しんしんと底冷えするような寒さである。
と、内藤が唐突に口を開いた。
「……だめだ」
「……?」
佐竹が隣を見ると、内藤がひどくつらそうな目をして、じっと床の一点を見つめていた。ゾディアスとディフリードも内藤を見て、そのあまりに真剣な眼差しに息を呑んだようだった。
「駄目だよ……。ヨシュアに『稀人』なんて、させられないよ……」
その声が、少し震えていた。
「『黒の王』のことは、よくわかんないけど……。でも、俺が退位して、代わりにヨシュアに『稀人』をやらせるなんて――」
ぶんぶんと、激しく首を横に振っている。内藤はいつの間にか、佐竹の長衣の裾を力いっぱい握り締めていた。
「どういうことだ? 内藤」
静かな声で聞き返す。
内藤はさらに俯いて、しばらく黙った。
が、やがてまた、訥々と言葉を紡ぎはじめた。彼自身は気づいていないようだったが、それは途中から日本語に戻ってしまっていた。
「佐竹なら、わかるよな? ヨシュア、洋介にそっくりだろ……?」
「……ああ。そうだな」
佐竹は頷いた。ひと目見た瞬間から、それは明らかだった。
別人だとは分かっていても、それでもあの容姿だ。内藤にとって、二人を切り離して考えることなどとても無理な相談だろう。
「俺、いつもナイトの中にいるし……。眠ってることも多かったから、はっきりとはわかんないけど……。でも、あれは……あの『儀式』は、だめだ。ヨシュアには絶対、させたくないよ……!」
だんだんと、その声が激しさを増してくる。
「俺、わかるよ。ナイトは、弟にあれをさせたくなかったんだ。だから──」
佐竹の服を掴んだその手が、ぶるぶると震えだした。言葉は分からないながらも、ゾディアスとディフリードも彼の様子にただならぬものを感じたらしく、沈黙して内藤を見つめている。
「頭も……体も、ばらばらになる。そんな感じなんだ……。あれは、酷いよ。死んだほうがましだって思うぐらいだ。あんなの……!」
内藤はもう完全に、いまの状況を忘れて大声を出していた。
「自分の弟に、させられるわけないだろっ……!!」
苦しげに顔を歪めて、今度は佐竹の服の胸元を握り締めて叫んでいる。
次にはもう、大粒の涙がその目に溢れ出していた。
「俺……もう、弟に、そんなことっ……!」
佐竹は、眉間に皺をよせたまま、黙って内藤を見返しているばかりだ。
「あの時、みたいなことっ、もう……!」
そのまま、胸元に頭を埋められてしまう。
「…………」
そこから、低く嗚咽が洩れ聞こえた。
(『あの時みたいなこと』……?)
内藤の言わんとすることが分からず、唇を噛む。
隣にいるゾディアスとディフリードにちょっと目配せをして待ってもらい、佐竹は内藤を落ち着かせるべく、その背中に手を置いた。そうして、なるべく穏やかな声で尋ねた。
「なんのことだ……? 内藤」
「…………」
「ゆっくりでいい。……話してみろ」
彼が言葉を紡げるようになるまで、またしばしの時間が掛かった。
「ズールに、……言われた」
(ズール……?)
あとの二人も、その名前には反応した。互いにちょっと目を見かわしている。
内藤は顔全体を覆うようにしながら頭を抱えて、佐竹の胸にその頭を押し付けている。
「あの、時……、<門>に吸い込まれたとき……、あいつ、『俺の声を聞いた』って──」
「…………」
あの時、佐竹自身には何も聞こえてはいなかった。だが、恐らく内藤にはズールの声が聞こえていたのだろう。
「あいつ……見抜いてた。……俺が……逃げ出したがってたこと──」
「…………」
佐竹の表情が厳しいものになる。
「洋介、置いて……。どっかに逃げたいって、思ってたこと──」
佐竹の眉間の皺がさらに深くなった。知らず、奥歯を噛み締めている。
「最低、だろ……? あんな小さな弟、置いて……!」
内藤の声は明らかな自嘲の色を含んで、少し笑ったようにも聞こえた。
だが、それは掠れて、喉を掻きむしるようだった。
もう止め処もなく涙をこぼして、内藤は言い募った。
「母さん、死んで……、俺なんかよりっ……ずっと辛いの、洋介なのに……!」
「俺……、兄貴なのに……!!」
「サイテー……。ほんっと……サイテーだよ……!」
あとはもう、内藤は佐竹の胸に頭を押し付けたまま、声を殺して泣くだけだった。
「…………」
しばらくは、その場の誰も何も言わなかった。
ただ佐竹は、どうしようもない怒りを鎮めることができずにいた。
内藤の言いたいことは分かる。
だが。
(それは……罪か?)
心の中で、思っただけだ。
ただほんの少し、楽になりたいと願っただけではないか。
辛い状況で、苦しい中で。心密かに望んだだけだ。
実際、そうしたわけでもない。
……それを。
そこにつけ込み、彼を攫って、
その体を思うが侭にするような輩が、彼に向かって何を言うのか。
彼に罪があるというなら、そういう貴様は何者か。
奥歯がきりきりと軋むのも構わず、佐竹は内藤の着ているガウンの背中を、力任せに握り締めていた。
ゾディアスとディフリードはそんな二人を黙ってしばらく見つめていたが、やがて互いに目だけで話をしたらしかった。そして、こちらに向き直った。
「……そろそろ、我々にも分かるように話して貰えるかな?」
まず、ディフリードがそう言った。
「んで、サタケ」
ゾディアスも、ぽりぽりと頬のあたりを掻きながら、ぼそっと言った。
「なんでもいいが……顔、怖え」
◇
残念ながら、そこまでで内藤の時間はなくなってしまった。
ようやく少し落ち着いた彼を先に後宮へ戻らせたあと、残った三人は更に細かい打ち合わせをし、別々に部屋に戻ることにした。
佐竹が扉のすぐ脇に立って外を窺う。部屋の出入りの時だけは、常に緊張せざるを得なかった。十分に気をつけないと、巡回してくる衛兵の目についてしまうのだ。
ところがなぜかディフリードだけは、ゆったりと燭台を手にして、至極暢気な様子だった。
「そういやお前、なんでそんな格好なんだ?」
あまり聞きたくもなさげな様子で、ふとゾディアスが彼に訊ねた。
「ん? ああ。これが一番、通りがいいかと思ってね――」
美貌の男は、やはりにっこり笑って楽しそうである。
「衛兵も、大抵は笑って通してくれるし?」
「……あっそ」
ゾディアスにはそれだけでもう悪友の言わんとすることが分かったらしい。何となくうんざりした目になっている。質問したことを心底後悔する風で、巨躯の男はすぐにそっぽを向き、もう何も言わなくなった。
佐竹だけが怪訝な目で自分を見返しているのに気づいて、ディフリードは口許の笑みを深くした。
「ああ、若い人には分からなかったかな?」
ゾディアスのとはまた違う、板についた美しいウインクが飛んでくる。相当垢抜けたものだったが、それでもやっぱり、佐竹は気色の悪そうな顔で沈黙した。
「普段から、夜は結構こういう姿でうろついているもんだから――」
と、ゾディアスが速攻で遮った。
「聞くんじゃねえぞ、サタケ。耳が腐るだけだっつうの!」
吐き捨てるような言い草だ。ディフリードは破顔した。
「うわ~。相変わらず、気持ちがいいぐらいに身も蓋もないね。じゃ、私はお先に失礼するよ」
言ってまた二本指を顔の前にかざし、ディフリードはするりと扉を擦り抜けた。そしてそのまま廊下へ出ると、どうやら自分の部屋とは違う方向へ軽い足取りで歩いて行った。
「ちっ……。ったく、しょーがねー野郎だぜ……」
ゾディアスが舌打ちして頭を掻く。そしてごく低い声で「今夜は一体、何人斬りだ?」と呟くのが聞こえた。
佐竹は耳を疑った。
やがてほんの三分ばかり間を空けてから、ゾディアスも出て行った。
ひとり残された佐竹は、顎に手を当てて考えてみた。
(……なるほど)
が、それが今の自分からは一番遠い次元の話であることに思い至って、それ以上考えるのはやめにした。
考えるだけ無駄である。少なくとも、自分の参考になることはあるまい。
そんな芸当は、恐らくこの国の中でも、あのディフリードにしかできないことだ。ならばそれは「知るだけ無駄」というものだった。
佐竹は扉の外を確認すると、そっと足音を忍ばせて廊下に出、そのまま自分の部屋へと戻った。