3 鎧の稀人
こうして佐竹は、ほとんど生まれて初めて馬上の人となった。そして王都に向けて移動しつつ、隣をゆくゾディアスから馬術の基本についてみっちりレクチャーされることになった。
彼が言った通り、すでに調教されている大人しい馬でなら、馬術はさほど難しいものではなかった。佐竹はすぐに基本的な馬への合図、すなわち方向転換と「停止」および「進め」を覚えた。次いで常歩から速歩、軽速歩と順に覚え、最も速度の出る駈足までこなせるようになった。
ちなみに軽速歩は、馬の一足ごとに鐙の上で立ち上がったり鞍に座ったりを交互に繰り返す走法である。これで走らせることにより人馬ともに、普通に速歩で乗るよりも体の負担が軽くなるのだ。知っておいて損はない。
「さすがは『剣士』だ。なかなか、筋がいいじゃねえか」
ゾディアスは隣で馬を駆けさせながら、あっさりと褒め言葉を口にした。
そう言う彼自身は当然ながら「人馬一体」の見事な手綱捌きなので、佐竹はあまり素直に受け取る気にはなれなかった。もちろんゾディアスは「無論、悍馬じゃこうはいかねえよ?」と、笑いながら釘を刺してもいたが。
街道は、ウルの村から次第に南下するようだった。
赤い太陽が昇るにつれて、周囲は農地から草原に変わり、広い平野部には幾本もの川が流れ、この国の地味の豊かさを物語っていた。時には鹿のような生き物が何頭か、楽しげに跳びはねながら薮の中に駆け込んでゆく姿が見えた。
大きな川を渡る際には渡し舟や「渡し筏」を利用するらしかった。人だけならば小さな舟だけでもよいが、それが馬車や騎馬兵ともなれば到底乗れるはずもない。そういう時にはここでのように、大きめの筏を利用することになるようだった。
とはいえ、それでも一度では無理だ。筏が少しずつ人馬を載せては往復せねばならないため、すべての兵が渡りきるまでに結構な待ち時間ができた。天気もよく、ちょうどよい休憩時間のようなものだった。
佐竹はその間、馬車から少し離れた所で大きめの岩の上に腰をおろしていた。
ナイトは馬車を降りてきて、その脇でしばらく体を伸ばすようにしていたが、やがて佐竹を見つけると、すぐに軽い足取りでやってきた。
「……隣、いいだろうか」
佐竹はやや驚いたが、特に断る理由もない。黙って体を横にずらし、隣に場所を空けた。ナイトは何の躊躇いもなく「ありがとう」と言ってそこへ座った。
いつもうるさいサイラスは、最前から馬車の中で船を漕いでいるらしい。旅の疲れが出ているのだろう。
隣には座ったものの、別になにか話すことがあったわけでもないらしく、ナイトはしばらく黙って川の方を見つめていた。膝に肘をついて顎を支えたその横顔は、何ごとかの考えに耽る風だった。
と、出し抜けにナイトがつぶやいた。
「ここにも、できれば橋を架けたいのだけれどね」
それは少し、残念そうな声だった。
さりげなく見ると、その目はやはり、じっと川面を見つめていた。
「…………」
穏やかな横顔を見やりながら、佐竹は何も言わなかった。
別にここは黄河のような大河級の川幅ではない。自分の暮らしていた日本にもいくらでもあったような、そんな規模の川に過ぎない。だが、確かにここに橋を架けるとなれば、佐竹の世界だったとしても結構大掛かりな工事が必要になるだろう。
察するに、この世界の技術ではまだまだそこまでの事はできないのに違いなかった。
王としてのナイトは今、その歯がゆさを感じているということらしい。
沈黙している佐竹をふと見返って、ナイトは少し笑ったようだった。そして、静かにこう言った。
「礼を言うぞ、サタケ」
「…………」
佐竹はそのいきなりの礼の言葉に、返事を忘れて彼を見つめた。
この王はまた、いきなり何を言い出すのだろう。
「そなたのような才能ある若い人材が、こうして国のために働いてくれることほど有難いことはない」
その瞳は相変わらす優しかった。
「そなたのような者がもっと増えてくれるなら、今よりももっともっと、国を豊かにすることもできよう。そうすれば、皆の暮らしもずっと豊かにしてやれるはずだ。今は、まあ……まだまだだけどね」
静かな色を湛えた瞳は、それでも強固な意思を秘めてもいた。
佐竹はやはり、何も言う事はできなかった。
その沈黙をどう受け取ったものか。
最後に王は、ひと言いって立ち上がった。
「まあ、そうは言っても、ひとつひとつ、やってゆくしかないのだがな……」
そのままマントを翻し、馬車に向かって歩き去ってゆく。そんな王の後ろ姿を、佐竹はなにか言いようのない思いで見つめていた。
(ナイト王……か)
この世界で「ナイト王」と呼ばれる彼は、もはや完全にこの世界の住人なのだ。たとえあの内藤がその体の中で、泣きながら「助けてくれ」と叫び声をあげているのだとしても。
彼の見た目の年齢から考えても、内藤がこの世界へ連れて来られてから、優に五、六年は過ぎ去っていることが推察される。
(向こうでの、あのたったの一分弱が――)
洋介の身の安全を図るために費やしたあの時間が、よもやこちらでこれほどの差になろうとは。
今の佐竹にとって、その年月は酷く重いものに感じられた。
その年月の間に内藤は「ナイト王」になり、すっかりこの世界に溶け込んでしまっている。そして生きる目的や、自分の存在意義まで見つけているのだ。
「…………」
佐竹は知らず、拳を硬く握り締めていた。
「怖え顔だな。え? 兄ちゃん」
背後から低い声がして、佐竹は我に返った。ゾディアスだった。
佐竹と一緒に筏に乗って川を越えてきたゾディアスは、どうやら先ほどから少し離れた場所で、王と佐竹のやりとりを見ていたらしかった。
ゾディアスは、無言で見返してくる佐竹をしばし観察するような目で見ていたが、腕を組んだまま顎の辺りを掻いたりしつつ、やがてのんびりと口を開いた。
「あんたが何やら、訳ありなのは分かってる。が、ひとつ言っとくぜ?」
「…………」
ゾディアスの言葉に多少意外なものを覚えたが、佐竹はやはり黙っていた。
この男は見た目の豪快さとは裏腹に、どうやらこうした他人の観察眼に長けているらしい。これは気を引き締めてかかる必要がありそうだった。
そんな佐竹の心中を見透かしたものかどうか、ゾディアスは更に言葉を継いだ。
「陛下になんかしやがったら、ただじゃおかねえ」
「…………」
「あのお方は、この国の宝だ。あのお方あってこその、この国よ」
佐竹には、あのナイトが国王である以上、それは臣下として当然の言葉だと思われた。が、次に続いた彼の台詞には、大いに引っかかる部分があった。
「ま、勿論? 『鎧の稀人』としてのお立場があるから、っつうのもあるが――」
(『鎧のマレビト』……?)
いきなり聞きなれぬ単語が出てきて、佐竹は一瞬、その言葉が理解できなかった。思わずじっと男を見つめる。
佐竹が奇妙な顔になっていることに気づいて、今度はゾディアスのほうが変な顔になった。
「お? なんだ? まさかあんた……知らねえのかよ?」
心底びっくりしたような彼の表情に、佐竹は一瞬「まずったか」と思ったが、敢えてそ知らぬ顔でまた、川の方に目を戻した。
ところが幸いにもゾディアスは、勝手に納得してくれたらしかった。
「ああ、あんた、ミード村だっけか? あそこはすんげえ田舎だもんなあ。ま、しゃーねえか……」
そう言って、ばりばりと頭を掻いたりしている。
「…………」
ここで「そうだ」と肯定するのは、さすがに世話になった村の皆に悪い。そんな気がして、やはり佐竹は黙っていた。
「ま、何でもいいや。とにかく、陛下に妙な真似だけはするんじゃねーぞ?」
そう言いながらゆっくりと歩を進めて、ゾディアスは佐竹の二歩ばかり手前まで近寄ってきた。そのまま佐竹の目の前に傲然と腕を組んで仁王立ちになる。上から、迫力のある視線で睨みおろされた。
「そん時は俺がどんな手を使っても、あんたの息の根、止めに行く。……いいな?」
暢気そうな声音とは真逆のように、その眼はいまや薄く細められて、ぎらつく殺気を湛えていた。気色ばんだその鈍色の瞳は、獲物を狙う蛇よりもずっと酷薄かつ狡猾そうなものに見えた。
「…………」
気の小さい者ならば、その目に睨まれただけで気を呑まれてしまうところだろう。だが、あいにく佐竹はそれに動じることはなかった。
何と言っても「筋を通す」という意味では、こちらのほうに遥かに理がある。
そもそも内藤は、元々むこうの世界で平和に暮らしていただけではないか。それを訳のわからぬ技術を弄し、無理やりにもこちらの世界に引きずりこむなど。そればかりか、さらには「ナイト王」だの「鎧の稀人」だのという器に押し込め、思うが侭に動かすなどと。
そんなことに、どんな「道理」が存在するのか。
(……だが)
ここには、それをやった奴らが確実にいる。
いやもちろん、目の前のゾディアスは与り知らぬことかも知れない。だがそんな「道理」が通るというなら、そしてどうあってもこの男が、この道の障壁になると言うのなら。
いかにこの巨躯の男が立ちはだかろうと、自分のすることは決まっている。
彼をその戦斧ごと薙ぎ払ってでも、ただ前に進むだけだ。
内藤の弟である、あの洋介との約束を守るために。
そしてあの内藤の、魂の叫びに報いるためにだ。
佐竹は岩から立ち上がり、ゾディアスを真正面にして向き直った。
そして黙って、その瞳をまっすぐに見返した。
静かに燃える二人の眼差しが、しばし沈黙のうちにぶつかり合った。
やがて一言、佐竹は言った。
「陛下にとって何が最善か。……それは、俺自身で考える」
「……はっは!」
途端、ゾディアスが破顔した。急に楽しそうな雰囲気になる。
ゾディアスは先刻来の殺気など一気に吹き飛ばすようにして、いまや楽しげに大笑いしていた。
「そうかい! そりゃいい! 言うね、兄ちゃん」
そしてまた、グローブのような手の平で、ばしばしと佐竹の背中を叩いた。
「そりゃ楽しみだ。そんじゃま、王都に戻ってもよろしく頼むぜ?」
言うが早いか、ゾディアスはくるりと踵を返した。さっさと馬の方へと戻る様子だ。が、やがて思い出したように首を振り向け、笑顔で一言だけこう言った。
「ああそれと。『手合わせ』の件も、忘れず頼むわ」
顔の横で手などひらひらさせながら、また例によってその気色の悪いウインクもついてきた。
「…………」
広い背中を見送りながら、佐竹はある種の予感のようなものに襲われていた。
(……もしかすると)
あの男には、いずれ話す時が来るのかもしれない。
自分とあの「ナイト王」の、その本当の来し方を。
そして、あらゆる事の顛末を――。