プロローグ
「いかぬ……。いかぬ!」
まばらになった白髪をかき乱し、老人が一人うろうろと歩き回っている。
黒いマントの頭巾で顔は見えない。
しわがれた声は悲愴に裏返り、ひび割れて、もはや狂気の様相だ。
灯りらしい灯りといえば、石壁に備え付けられた灯火だけ。
仄暗い部屋の中央部には石造りの寝台が据えられている。
その上に、ちらちらとゆらめく燭台の灯に囲まれて、高貴なお方が横たわっていた。
まるで眠るような、穏やかで清らかなお顔であった。
……だが。
その方の頬は青白く、もはや息もなさってはいなかった。
「いかぬ……。いかぬのじゃ……!」
世界のすべては、平衡を保つことによって存在しうる。
この「高貴なお方」がお隠れになってしまっては。
この世でなにより重要な、大きな土台が、前提が崩れ去る。
「そのようなことは許されぬ。どうあっても。どうあってもじゃ……!」
(だが──)
だが、魔道は。
魔道に手を出すのだけはまずい。
(あのような力に頼ってしまっては――)
後のこの世に、より絶望的な皹をもたらす可能性もある。
老人はその禿頭の皮膚を、血も滲まんばかりにかきむしった。
「じゃが……じゃが、だからと言って……!」
いったい、背に腹が替えられようか。
今まさに、世が焉わろうとしている土壇場で?
目の前に、回避できる可能性がありながら。
むざむざとこの自分に、ここでただの傍観者たれと言うのか。
「はいそうですか」と、この世を終焉に至らしめよとでも――?
老人は頭巾の下で、血走った眼をぎょろつかせた。
呼吸は荒く、今にも止まるばかりに喘ぎを漏らす。
そこにはもはや、選択の余地などなかった。
あらゆる事象が、その事実を物語っていた。
やがて。
老人は、だらりと両腕を脇に落とした。
それはあらゆることを諦めた人のようにも見えた。
石造りの寝台の上の、高貴なお方をじっと見つめる。
「ゆ、許されよ……わが君」
(どうか、すべての咎は、ここなわが身に──)
爛れた眼をゆらし、ゆっくりと部屋の隅に目をやる。
そこにはこの場で唯一の、白く清らかな光があった。
美々しく飾られた祭壇の上。
白銀に輝く甲冑が一領、静かに安置されていた。
◇◇◇
なにが起こったのか分からなかった。
脳内の血管が全部、灼き切れてしまいそうな衝撃。
今にも命を絶たれそうなほどの吐き気。
そして、真っ黒に口を開けた背後の恐怖──。
(いや……だ。いやだ)
じわじわ、じりじりと、なにかが俺の中に押し入ってくる。
「やめ……、いやだ……いやだああああッ!」
「内藤……!」
視界がすさまじい高速転換をくり返して、どれが本当の映像なのかも分からない。
それでも、真っ黒な嵐の向こうに、やっと見えたのはあいつの厳しい顔だった。
あいつに庇われるようにして、その後ろにいるのは洋介。
小さな俺の弟だ。
洋介はもう真っ赤な顔をして、ランドセルの肩ベルトを両手で必死ににぎりしめて、ずっとわあわあ泣きわめいてる。
「にいちゃ……、にいちゃああん……!」
──だめだ。
来るな。
俺は今にも消し飛びそうな自分の意識を、必死でその場につなぎとめた。
そして、喉から声を絞り出した。
あいつに向かって頼んだんだ。
そのほかに、もうできることなんて何もなかった。
お願いだ。
お願いだ。
どうか、守って。
(佐竹……!)
どうか……どうか。
俺の弟を、守ってください──。