6 マール
ミード村に、長い夜がやってくる。
マールの家は、ミード村の端にある小さな小屋だ。マールはそこに、生まれた時から盲目の祖母と共に暮らしてきた。
父親は生まれる前に森の野獣に噛み殺された。母は自分を産んで、すぐに死んだという。つまり、マールに両親の記憶はない。
ぱちぱちと、小屋の真ん中で囲炉裏の熾が静かな音を立てた。
小屋の隅では、十日前からここに寝泊まりしている黒髪の青年が、胡坐をかき、自分が教えたとおりに麦藁を綯い、黙々と縄を作っている。時おり、何ごとか考えに耽るように手を止めて窓外を眺めやる以外、ただ黙って作業を続けているだけだ。
(静かな人だなあ……)
囲炉裏のそばで縫い物をしながら、マールは思う。
ああいう静かな横顔を、なんと形容したらよいのか。こんな辺境の、小さな村の娘に過ぎないマールには分からない。ただ、初めはなんとも思っていなかったこの青年のことで、最近なんだか胸のどこかがもやもやするのだ。
(なんなのよ、もう……!)
マールはそんな自分の胸を、どすどす叩きのめしたくなることがある。
自分のこのもやもやの意味が、どうしても分からないのだ。
サタケは、不思議な人だ。
そもそも初めから、あの村はずれの楡の木の下で倒れていた時から奇妙だった。
まず、その漆黒の髪。この北の王国で、その髪色をした男はまずいない。それに、着ていた服も見たこともないような布で出来ていて、形もへんてこりんだった。それはびりびりに破けていて、あちこち血が滲んでいた。
そして何より、一緒に居たオルクに「どこから来たの」と尋ねられ、あの空を指差したのだと聞いたときには、マールの心臓は一瞬、止まったみたいになって、次には早鐘のように打ちなり始めた。
(空から来たっていうの? まさか――)
初めはマールも、彼が何か、自分の出自をごまかすためにそんなことを言ったのだと思っていた。しかし。
村の大人たちからサタケの身柄を預ることにして我が家に連れてきてからというもの、次第にその言葉の信憑性を疑えなくなってきている。
何より、彼には「嘘」がなかった。
この村の者たちでも、大人ともなれば、皆、多少の嘘やごまかしはする。子供が相手ともなれば、なおさらそうだ。勿論、悪意があってつく嘘ではないが、マールは人一倍、そういうことには敏感だった。そして不快にも思っていた。子供だからといって、簡単に嘘でごまかして、大人の都合のいいように動かされるのは我慢ならなかったのだ。
だが、このサタケからそれを感じたことは、今までのところ一度もない。
それに、風貌だけ見れば背が高くて目が鋭く、顔つきがちょっと怖い感じはあるのだが、付き合ってみればこの青年には、少しも怖いところはなかった。それどころか、むしろその行動は「優しい」と言える場合の方が多いように思われた。
殆ど笑顔など見せないにも関わらず、今ではマールは、彼を誰より「優しい男」として認識している。
サタケは、決して派手に動くわけではない。だが、力仕事や高い場所の物を取るときなど、すぐにさりげなく手伝ってくれたり、祖母が立ったり歩いたりするときには、こちらが何か言う前からすっと手を貸してくれたりする。
日々が自然にそんな風であり、常に、マールが何か頼むより先に、サタケの手はもうこちらへ差し出されていることが多かった。それでいて、ただ「やって当然のことをした」という様子で、特に礼も期待する風ではなかった。
逆に、こちらが何か彼の世話に類するようなことをしたときには、いつも義理堅いまでに、あの綺麗な一礼を返してくれるのだった。
ルツの準備した最初の小屋で、彼のあの一礼する姿を見た時、マールは本当に驚いた。多少形は違うが、礼は、この村でも日常的に行われている習慣である。しかし、マールはあれほど美しいものは見たことが無かった。
なんと言ったらいいのか。そう、あれは何かの「信念のある人」がする礼だと思った。
あの時、サタケはきっと、何かはっきりとした目的があってここに来たのだと本能的にマールは思った。
そして、不安になった。
(サタケは、どこかに行っちゃうんだわ――)
それも、そんなに遠くはない未来にだ。
そんな風に考えると、マールの胸は締め付けられるように悲鳴を上げた。
そんなことが、ここ数日続いている。どうしてこんなことになったのか、マール自身にも分からなかった。それが、何と呼ぶべき感情なのかも。
「マール。お婆さまがもう眠そうだぞ」
と、静かなサタケの声がして、マールは我に返った。目を上げると、縄を綯う手を止めて、部屋の隅からサタケがじっとこちらを見ていた。いつもの黒い、静かな瞳だ。
「あ、ああ……ほんとだ」
見れば、祖母が座ったまま、うつらうつらと船を漕いでいた。
「早く寝かせて差し上げたほうがいいんじゃないか」
サタケがまた、静かに言った。その言葉はもう随分と、片言から普通のものへと変化しつつある。彼はマールがびっくりするほど、言語を記憶する能力に長けていた。
「うん、そうだね……。そろそろ、寝よっか?」
マールは慌てて、自分も縫い物をする手を止めると、寝床の準備に取り掛かった。
言葉そのものはまだ理解できない部分もあるようだったが、マールの見るところ、この青年は相当、聡明なタイプに見えた。それでも、それを鼻に掛ける風もない。ただ黙々と、日々やらねばはらないことをやり、先ほどのように沈黙のまま、今後のことについて考える様子だった。
時々、地面に棒を立てて何かを観察してみたり、それをじっと見つめて難しい顔になり、腕組みをして何事かを考え込んでみたりと、マールにはまったく意味不明なことをしているようだったが、それにも何か大きな意味があるようだった。
そして、朝と晩、仕事の手が空くと、必ずあの訓練をした。
最初に見つけたとき、手に持っていたあの木の棒で、サタケは毎日、なにかの稽古をしていた。誰もいない空き地へ出かけ、一人でずっとその棒を振っている。
何をしているのかが気になって、マールも一度こっそり覗きに行ったのだが、あの空の「兄星」を背景にして、その動きがまた、鮮やかにとても美しかった。
空気を切り裂く音がして、あんなただの棒っきれが空間に綺麗な弧を描き、その間を、まるで水が流れるようにサタケの体が滑ってゆく。まるで夢でも見ているように、マールはそれをぼうっとしてしばらく見つめていた。
そうして、それもきっと彼の目的のために必要なことなのだろうと思うと、マールの胸はまたしくしくと痛むのだった。
マールは、彼に聞いてみたいことがいっぱいあった。しかし、彼との意思の疎通は、まだなかなかに難しかった。身の回りの物の単語は一通り覚えてもらえたと思うのだが、もっと込み入った話をしようとすると、より抽象的な表現が求められる。それには、まだまだまだお互いの語彙が足りなかった。
(ちがう。そうじゃない……)
マールには分かっている。
何よりも、マールにその覚悟がないのだということを。
どう切り出してよいのかも、いったい、彼に何を聞けばよいのかも。
マールは毛皮の敷物の上に寝転び、端切れと毛皮の端を継ぎ合わせて作った掛け布の中に潜り込んだ。
そしてまた、今日という日も終わってしまう。
最後のこの言葉で、また終わってしまうのだ。
「……おやすみなさい、サタケ」
「おやすみ、マール」
窓の隙間から覗いている、空の「兄星」を恨めしく見上げて、マールはひとつ溜め息をつき、諦めたように目を閉じた。