友達
第二部 第七章 帰還
5 友達
内藤の嗚咽が、まだ部屋の中を満たしている。
佐竹は黙って、じっとその震える肩を抱いたまま、内藤を見下ろしていた。
「……済まない」
ぽつりと言ったその言葉が、この「友達」の耳にちゃんと入っているかどうかは定かでなかった。「友達」はもう、涙をぼろぼろこぼしながら、堪えきれない嗚咽を、それでも必死に堪えようとしている。
(……なぜだ。)
ただ、「ユウヤ」と呼びかけただけだ。
ただそれだけの事だったのに、目の前のこの青年は、急に泣き出してしまった。
周りの皆がそう呼んでいるのだから、そう呼べばいいのだと、単純に考えたのが浅はかだったということなのか。
「…………」
(『ユウヤ』……か。)
考えてみれば、それがどんな漢字なのかも自分は知らない。
いや、「知らない」のではない。置き忘れてきてしまったのだ。
あの、《白き鎧》の暗闇の中に。
――と。
彼の頭を抱き寄せていた自分の手が、少し違和感のあるものに触れているのに気づいて、佐竹は目線を下げた。そっと、彼の少し長めの茶色い髪を指先で分けてみる。
「…………」
見覚えのない形の、少し尖った耳が見えた。手に触れていたのは、どうやらこれのようだった。
(耳……。)
ざわざわと、頭の中で何かが蠢いたような気がした。
……なんだろう。
何となく、こんなことが前にもあったような気がする。
その時自分は、彼の髪を掻き分けて、
やっぱりこんな風にして、耳の形を確かめた――。
「…………」
佐竹は目を落として、その耳の形をじっと見つめた。
しかし、その時のそれは、もっと丸い形だったような気がする。
ともかくも、それを見て自分は安心し、今のようにして彼を抱きしめた――。
ちりちり、しゃらしゃらと、オーロラの囁く声が聞こえる。
派手な色目の冷たい夜空に、緑や赤の豪奢なカーテンが下がって、
あの時かれらは、自分たちを面白そうに見下ろしていた。
『やっと見つけた』――。
そう思って、自分はひどく嬉しかった。
これで帰れる。
こいつを連れて、帰れるのだと――。
「連れて……帰る……?」
ふと、疑問が口をついて出た。
ぴくりと、腕の中の「彼」の肩が動いた気がした。
そうだ。
自分はそのために、ここへ来た。
「ここ」、すなわち……「弟星」へ。
彼がいきなり、あの真っ黒な《門》に飲み込まれて。
彼の弟を逃がしてから、自分もその《門》に飛び込んだ。
言葉も分からない村人たちに救われて、やがて武術会に出ることになり、
そこでようやくお前に会った。
……しかし。
その時、それはもう、「お前」ではなくなっていた。
お前は見知らぬ誰かを見るような目で俺を見て、いきなり涙を流し始めた。
そうして、突然意識を失った。
今なら、それが何故だったのかは分かる。
お前は、あの王の意識下に、無理やりに抑え込まれていたのだと。
(……七年だ。)
七年も、待たせてしまった。
ほんの僅か、あの《門》に飛び込む時間がずれただけのことだったというのに。
それでもちゃんと、お前は生きて待っていた。
何度も飛ぼうとしたと言う、尖塔の窓の誘惑を退けて。
しかし、ようやく帰る道筋を見つけかかったその時に、
この南の黒の王が、お前をナイト王ごと連れ去った。
目の前で連れ去られるお前を見ながら、俺には何も出来なかった。
何度、お前の名を呼んだだろう。
何度、「生きろ」と叫んだだろう。
……それなのに。
(そのお前の名を、……この俺が。)
他ならぬこの俺が、忘れるなどと――。
ぐうっと、彼の肩を握る手に力が籠もって、「彼」は驚いて顔を上げた。
見れば、もう涙まみれで、まだしゃくりあげるようにしている。
目も、鼻の頭ももう真っ赤だ。
佐竹はその顔を、じっと見返した。
(……本当に、泣き虫だな。)
がしがしと、乱暴に彼の髪をかき回す。
(一応、十七の男だぞ。)
いや、実際は二十四か。
(……それはますます、駄目だろう。)
くす、と思わず吐息が洩れた。
「…………」
彼はびっくりして、目を真ん丸くした。
「え、佐竹……?」
じいっとこちらの顔を凝視している。
自分がどんな表情をしているのかは分からなかったが、何もそんな、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしなくてもいいんじゃないのかと思う。
「ど、どど、どしたの……? ……わぷっ!」
もう、全部は言わせなかった。
佐竹は彼の体を引き寄せて、両腕で思い切り抱きしめた。
「さ、……ささ、さた??」
「どうもしない」
そして、わたわたしている彼の尖った耳に、そっと一言だけ呟いた。
「元の世界に帰るぞ。……内藤」
内藤が、目を見開く。
「………!」
声にならない声を上げて、ばっと体を離すと、佐竹の顔を凝視した。
佐竹はじっと、その瞳を見つめ返した。
次の瞬間、彼の目にぶわっと、また涙が盛り上がる。
「さ、……さた――」
「泣くな」
びしりと、彼の額に指を突きたてる。
「お前のは本当に、水分の無駄遣いだと思うぞ」
言ってまた、彼の髪をぐしゃぐしゃにした。
「………!」
次の瞬間、内藤から息も出来ないほどに抱きしめられて、佐竹はソファから危うく転げ落ちそうになった。
腕の中から、とうとう、子供のような号泣が聞こえ始める。
それは部屋中に轟きわたって、窓やカーテンまで震わせるかのようだった。
扉の外では、青年王と巨躯の男が、やや困った顔のまま、しかしちょっと嬉しげに、目と目を見交わしていた。
◇
フロイタールの人々も、その知らせを聞いて大いに喜んだ。
そして早速、フロイタールとノエリオールの両国間で、佐竹と内藤を元の世界へ戻す相談が始められた。
勿論、内藤が言ったように、佐竹の記憶が戻るのを待たずに行なう話もないではなかったのだったが、思った以上に早く彼の記憶が戻ったことは幸いだった。
「ユウヤが申したとは思うが、《白き鎧》の過去の記録を用いれば、そなたらがこちらへ連れ去られたと同じ場所、時間へと、再び《門》を開くことは容易だ」
例によってサーティークが事前説明を行なっている。
王都クロイツナフト、ノエリオール宮。王の執務室である。
今この場にはサーティーク、宮宰マグナウト、竜将ヴァイハルト、フロイタールの竜騎長ゾディアスと、内藤、佐竹が同席している。
佐竹は正直、驚いていた。
自分がこの世界に来てから、既に八ヶ月ばかりが過ぎ去っている。
当然ながら、戻る際には、あの夏休み直前の時期からその分未来へ進んだ時点、つまり翌年の春頃の時期へと戻されるものと思っていたのだ。しかしこの王の言によれば、そんな必要はないのだという。
「《鎧》が《門》を開く際の座標には、位置情報のほか、時間軸の座標が含まれている。思うに、《鎧の稀人》の身代わりを探す際、同じ時間軸上でだけしか探せないのでは、いかにも心もとないということなのではあるまいか」
一同は、じっと息を詰めるようにして執務机の向こうにいるサーティークの言葉を聞いている。
例によってゾディアスは、説明の後半から、とうに明後日の方を向いていた。「それならなぜ同席する」とは思ったが、佐竹は呆れつつも、この上官には何も言わない。
言ったところで返ってくるのは、怒号か拳骨と相場が決まっているからだ。
サーティークは言葉を続けている。
「ただ、勿論、こちらから探せるのは過去の時間軸からだけのようだな。従って、アキユキとユウヤの二人は、我らから見れば過去の人物ということになるらしい」
「…………」
佐竹は腕組みをして立ったまま、顎に手を当てて聞いていた。内藤は、マグナウトとソファに座って、半ばぽかんとした顔だ。
「え、えーと……。つまり、俺たち、あの時のあの場所に、いきなり戻るっていうことですか……?」
「まあ、そういう事になるだろうよ」
「へ〜。なんっか、信じらんない……」
まるで他人事のように、内藤はそんなコメントを挟んでいる。そんな彼を見て、窓脇の壁に凭れたヴァイハルトが、爽やかな笑顔でにこりと笑った。
サーティークは説明を続けている。
「《白》と《黒》、両者の動力確保ができ次第、すぐに行動に移すつもりだ。二人とも、そのつもりで。それと、ユウヤはそれまでに算術の講義の件、後任にしっかり引継ぎをよろしく頼む」
「あっ、は、はい……!」
後任は、恐らくあの優しい目をした緑の髪の青年なのだろうと思いつつ、佐竹は目線を王に戻した。
「サーティーク公。あちらに戻ってからしばらくの間で構わないのですが、こちらへ音声による通信だけでもしていただくことは可能でしょうか」
「それは可能だが。……なぜだ? アキユキ」
サーティークが少し首を傾けて佐竹を見返した。
「今後、内藤の体になんらかの変調があった場合、また《鎧》の力をお借りせねばならないかもしれません。また、この先の《鎧》がどうなるかも気がかりですし――」
「あ……」
言われて初めて気づいたように、内藤もサーティークを見上げた。王は軽く、内藤を見て頷いた。
「ユウヤの体の件については、勿論そうだ。考慮しよう。……だが」
そして、改めて佐竹を見て言った。
「《鎧》についてのあらゆる事は、すべて『こちら側』の問題だ。俺としては、そなたらがもはや、これ以上このことに煩わされる必要はないと考えている」
「…………」
佐竹は沈黙し、王の顔をじっと見返した。
サーティークの瞳は、静かで、かつ、真摯だった。
「そなたらには、そなたらの人生がある。……これ以上、我らの世界と、あの《鎧》に振り回されるな」
内藤も、じっとサーティークを見つめている。
ゾディアスも、ふとにやりと笑ったようだった。ヴァイハルトとマグナウトも、ただその微笑と沈黙だけで、王の言葉に賛意を表していた。
サーティークは立ち上がり、二人の傍に歩み寄った。
立ち上がった内藤と、佐竹との間に入ると、黒髪の青年王は右腕で佐竹を、そして左腕で内藤の肩を抱きしめた。
「『兄上殿』、ユウヤ殿」
その腕に、力が籠もる。二人もその腕を握り返した。
「己の人生を生きよ。……俺の望みは、それだけだ」
部屋には、静かな時間が流れている。
紅色に染まる秋の陽光が、執務室を温かく照らしていた。