産声
第二部 第七章 帰還
2 産声
寝台の上、ぴくりとも動かない黒髪の青年の隣で、
その小さな人は、まだすやすやと眠っていた。
黒き鎧の王は、さすがに全身を震わせるようにして、ただ呆然とその人を見つめていた。
内藤も、マグナウトも、ゾディアスも、それは同じようなものだったが、やがてゾディアスが老人を見て、くいと寝台の方へ顎をしゃくった。
「……なあ。その……、寒いんじゃねえの?」
見れば、その人は丸裸のままで、少し顔をしかめてぴくぴくし始めている。
「なあって! 爺さん」
「お、おお……!」
言われてようやく、老人は自分のマントを肩から外し、慌てて寝台に近づいた。
突然のゾディアスの胴間声にびっくりしたのか、小さな人は「う、あう……」と人語にならない呻き声を上げ始めている。
内藤も、それでやっと自分のマントを外して、佐竹の方に近づいた。
サーティークはまだ呆然と、制御盤の前に立ち尽くしたままだ。
老人が自分のマントでそうっとその小さな人を包んで、小さな顔を覗き込んだ。
「ご無事……とは……。ご無事、じゃったとは――」
さすがの老人も、声と手がわなないている。皺の間の瞳から、遂に涙が転がり出た。
「若……、若、ご覧なさいませ。ほれ……このように、お健やかで――」
内藤は、自分のマントを物言わぬ佐竹の体に掛けて、少しその頬に触れてみた。佐竹の体は、先ほどとは違って温かみを取り戻している。意識は無いが、表情に苦しげなところもなくなっていた。その事にほっとして、内藤は改めて目を上げた。
老人が、そっと歩いてマントに包んだその人をサーティークの所へと連れてゆく。
「若……、それ、抱いておあげなされ」
「…………」
サーティークはまだ呆然としているようだったが、老人の抱いているその人に、おずおずと両手を差し出した。
「若の、お子ですぞ。……レオノーラ様と、若の――」
慣れない様子でその子を受け取り、やはり呆然とした瞳で、サーティークはその小さな顔を覗きこんだ。小さな人の顔は真っ赤で、まだくしゃくしゃと皺だらけだった。
「ようござりました。……よう、ござりました……」
老人はもう、年甲斐もなく涙に掻き暮れている。皺だらけの手で顔を覆い、もう嗚咽を堪えるのもひと苦労の様子だった。
内藤も、片手で佐竹を抱きしめるようにしながらも、彼らを見てぽろぽろと涙を零した。
サーティークは、老人と内藤をちょっと見やって、急にぎゅうっと顔を歪めた。
そのまま、胸に抱いた小さな人の胸元に顔を埋めた。
「……はは」
やや皮肉めいた笑い声。
そうして、小さな声でぽつりと言った。
「……猿だな、まるで」
途端、いきなり赤子の声が部屋にはじけた。
それは、父親のひどい第一声への抗議だったのかも知れない。
けれどもそれは、
明るく、激しく、雄々しくて、
真っ暗だったこの国の、未来を拓く産声だった。
◇
目を覚ますと、そこは見知らぬ寝室だった。
気のせいか、ひどく豪奢な雰囲気のある寝台だ。こういうのを、天蓋つきの寝台と言うのだろう。
あまり見たこともないような凝った織りの掛け布は、洋風というよりはむしろ少し和風に近い雰囲気で、花鳥風月といった自然の風物を丁寧に織り込んである。
(ここは……どこだ。)
まだ少しぼんやりする頭で、そんなことを考える。体が、酷く重かった。
それでもゆっくりと体を起こして、周囲を見回す。
やはり、見たこともない部屋だった。
広さは大体、ちょっとした一戸建て住宅ぐらいはありそうだ。
大きな窓にはやはり落ち着いた色目の分厚い織り地のカーテンが下がり、窓外の光をいい塩梅に遮ってくれている。
長々と、不思議な夢を見ていたような気がする。
誰かが出てきて、ひどく懐かしい気持ちがした……ような、気もする。
(いや……わからない。)
何かを思い出そうとすると、片端から指の間を砂が零れてゆくようにして、大切なものが失われてゆくような感覚になる。
それを押しとどめられるわけでもないのに、目の前で何となく指を閉じ、自分の手のひらを眺めてみた。
(俺は、一体……。)
と、控えめな音を立てて、窓とは反対側にある大きな扉が開いたようだった。
天蓋から下がる薄絹のために、あちらからはこちらの様子がすぐには見えないらしく、その人物はただ黙って、寝台の脇へとやってきた。足音を忍ばせて、眠っている相手を起こすまいと気遣っている様子だった。
が、ふと顔を上げ、上体を起こした自分とぱちりと目が合うと、急に目を見開いて、持っていた物を盛大にその場に落としてしまった。
派手な音を立てて床に転がったのは、確か「算盤」と呼ばれるものだったはずだ。
「さ……佐竹……!?」
青年とも、少年とも取れる容姿のその人物を見て、自分も「あ」と声を上げた。
「お前は――」
彼は、「あいつ」だ。
夢の中とは、服装がまったく違っているが。
何度も夢の中に出てきた「あいつ」。
名は――。
(名……は。)
ああ、やっぱり思い出せない。
仕方なく、そいつに訊いてみる事にした。
「ああ……、すまん。名前を教えて貰えないか」
青年が、更に大きく目を見開く。
「…………」
ぱちぱちと、その目が何度も瞬いた。そして。
「………!」
次の瞬間、くしゃっと泣きそうな顔になる。
「おい――」
驚いて声を掛けようとしたが、もう間に合わなかった。
彼はもう、くるりと後ろを向いたかと思うと、一目散に部屋から逃げていってしまった。
元通り、部屋に一人で残されて、まだ少し痛む頭にちょっと手をやる。
「何なんだ……一体」
あいつは「佐竹」、と自分を呼んだ。
その名は、何となく覚えている。それが自分の名なのだろう。
ここまでの経緯を考えると、どうやら論理的な思考の分野はどうにか無事らしいが、要は人の名前そのほかの、言語記憶の一部分が、相当お粗末な事態になっているらしい。
(……参ったな。)
それでもどこか他人事のように考えながら、静かに寝台から足を下ろした。
見れば自分は、先ほどの青年が着ていたような形状の、少し日本の着物にも似たような袷の夜着を着せられている。深い紺地に竹の葉のような植物が刺繍された、結構豪華なものだった。肌触りは絹に近い。
何か違和感を覚えるのは、夢の中で見た世界と、こことが随分違う様相だからだろうか。元々、もっと平たい形状の革靴を履いていたような記憶があるが、寝台の横には短めの長靴らしきものが置いてある。
それを履いて、多少ふらつきながらも、寝台の柱に手をつき、どうにか立ち上がった。
「……あ! いけません、急に立ち上がられては――」
驚いた声がして、先ほどとはまた違う青年が部屋に入ってきた。慌ててこちらへ駆け寄って来る。薄緑色の髪を後ろで束ねた、優しい青い目をした青年だった。
「ユウヤ様が走ってゆかれて、何かと思って来てみたのですが……。お目が覚められて何よりでございました。今すぐ、御殿医の先生をお呼びいたしますので」
(『ユウヤ』、というのか……あいつ。)
その呼び名に、何か少し違和感を感じはしたが、なにがどうおかしいのかも分からない。頭の中にもやもやと、ずっと霧がかかっているような感覚が抜けなかった。
仕方なく、黙ってその青年に頷くと、自分は大人しく寝台に腰掛けた。
◇
それからすぐに、部屋は人でいっぱいになった。医者だという中年の男と、看護を担当している女官や召使いたちが、あわただしく部屋を出入りした。
「何度か目を覚まされてはいましたが、意識は混濁されたままで……。え、覚えていらっしゃらない……、そうですか。すぐに、白湯と粥などを運ばせましょう――」
「意識を無くされてから、十日ばかりが過ぎております。ずっと横になっておいででしたので、思った以上に筋力の低下がありましょう。しばらくは、ゆっくりと動かれることをお勧め致します――」
ここの「御殿医」だというその男は、てきぱきと診察を終えると、「陛下にご容態をお知らせせよ」と召使いの一人に言いつけて、静かに部屋を出て行った。
その後、まるで鏡を見るように佐竹の姿にそっくりの、長髪の男がやってきた。
赤と黒を基調にしたこの国ふうの軍服らしい装束に、黒いマントを流した精悍な男である。彼はどかりと、部屋の応接セットらしきソファに座り込んで、にこにこ笑った。
「良かった、アキユキ。心配したぞ」
それが、この国の王、サーティークという男なのだと、周囲の皆が教えてくれたが、どうもぴんとは来なかった。ただ佐竹は不思議と、ずっと前から彼を知っていたような、奇妙な親近感を覚えた。
佐竹をソファの向かい側に座らせて、若き青年王はいかにも隙のない身のこなしで、まずは深々と礼をした。
「そなたには、もはやこの生涯をかけても返しようのない恩を受けたと思っている。俺にできることならば、そなたのため、どのようなことでも致す所存だ」
そして、これまでの経緯について、簡潔によくまとまった説明をしてくれた。
《黒き鎧》で意識を失った佐竹と、そこから奇跡的に生還したという王太子の赤子と共に、彼はその《門》を使い、一足飛びにこの王宮に戻ってきたらしい。ヴァイハルトという将軍だけが、後始末のために向こうに残ったのだと青年王は説明した。
「そなたも不安だろうとは思うが。《鎧》の制御盤の表示を信ずるならば、そなたの《治療》は成功している」
ただ、ひとたび櫛の歯が抜け落ちるようにして失われた記憶を、後から人工的に埋め込みなおしたわけなので、それがうまく馴染むまでには、相当な時間がかかるだろうということだった。
「……済まぬな」
「いえ。……もう、それは」
再び頭を下げたサーティークを、佐竹は片手で押しとどめた。
頭を上げた青年王が、ふと思い出したように言った。
「……ユウヤには、もう会ったか」
「ユウヤ……。ああ、はい」
一瞬、誰のことを言われたのかがよくわからなかったが、佐竹は曖昧に頷いた。
サーティークが少し顔を曇らせる。
「そなた……。ユウヤを覚えていないのか」
「…………」
「覚えている」、といえば覚えているが、どのように思い出してみても、そうはっきりと言いきれるほどの記憶ではない。何と答えればいいものか分からずに、ただ佐竹は黙っていた。
サーティークは眉根を寄せて、しばし考え込む様子だったが、やがて黒いマントを翻して立ち上がった。
「まあ、慌ててどうなるものでもあるまいよ。ともあれ、俺の方ではそなたらには、いつまでこの王宮に居てもらっても構わん。……ゆっくりと思い出すがよかろう。今後のあれこれについてもな」
「……恐れ入ります」
静かに答えて一礼をした佐竹を、王は面白げな目でちらりと見やった。
「……そういうところは、少しも変わっておらぬというのにな。まったく――」
苦笑して佐竹を見下ろしたかと思うと、王は大股に部屋を出て行きかけ、ふと立ち止まって振り向いた。
「ああ、それと。外でそなたの『お付き』の男が、鬼の形相で待ってるが。部屋に入れても構わぬか?」
「……は?」
(『お付きの男』………?)
誰だそれは。
そんな男がいたのだろうか。
「いい加減そうしてもらわねば、こちらとしても少々困る。先日来、肝の小さい者どもから、『ここの廊下を歩けぬ』と、苦情が殺到しておってな――」
何の話だか皆目わからず、眉を顰めている佐竹を置いて、王はさっさと出て行った。
それと入れ替わるようにして、小山のような体躯の男が、ぬっと部屋に入ってきた。
男がくぐると、大きなはずの観音開きの扉が、なにか随分と小さく見えた。
金色の短髪頭、鈍色の瞳。盛り上がった、鋼のような腕の筋肉。
「てめえ。目ェ覚めたんなら、真っ先に俺を呼ばねえかよ! はったおすぞ!」
そして、怒号がいきなり飛んできた。
「…………」
しかし、佐竹はやっぱり、怪訝な目でその男を見返しただけだった。
「……申し訳ありません。どちら様だったでしょうか」
「………!」
その途端、びきびきびきっと、男の額に青筋が立った。
「上っ等だぁ、この野郎! 表ェ出ろやああ――――!!」
その後、部屋の近くに居た武官ら数名の「体を張った懇願」により、巨躯の男はやっとのことで、ぶん回す寸前だった巨大な拳を、佐竹の顔の前から引いたのだった。