中庭
第二部 第七章 帰還
1 中庭
ふと気付くと、いつもの道を歩いていた。
放課後、高校から中央図書館へと通じる道だ。
二車線の車道脇の歩道を、スクールバッグを肩に担いで黙って歩く。
高校の図書室は、そもそもラインナップからして既読の書籍が圧倒的に多かったため、入学して半年もすると、すべて読破してしまった。仕方なく、放課後は殆ど毎日、街の公立図書館を利用している。
返却する本を返して、適当に数冊見繕い、閲覧コーナーの椅子に座って、日が傾くまでそこにいる。
それが高二になるまでの、いつもの自分の日課だった。
二年生に進級した春、初めて「彼」を間近で見た。
同じクラスになったのだから、まあ当然の話ではある。
が、実はそれ以前にも、何度か図書室で目にはしていた。もしかすると彼のほうでも、廊下や講堂などでこちらを時々は認識していたのかもしれない。
なぜなら向こうは、新学期早々、自分を教室内に見つけるなり、途端に「げ。」という顔になったからだ。
(……失礼な奴。)
それが、あいつの第一印象だった。
(あいつ……?)
そこでふと、思考が途切れる。
(あいつ、とは……一体だれだ。)
(…………)
分からない。
名前は、なんといったのだったか。
……思い出せない。
わりと、ありふれた名だったような気もするが。
……ともかくも。
「彼」は、クラスの誰ともわりとすぐに仲良くなれるようだった。
明るくて嫌味のない、裏表のない性格で、男子とも女子とも普通に話す。多少、子供じみたところもなきにしもあらずだったが、本物の子供にはよくあるような、わがままさや無神経さなどとは無縁のようだった。それが少し、不思議な気もした。
授業中は寝ていることも多かったが、友達連中にそのことを揶揄されて、「バスケ部の朝練のために早起きをするせいだ」と豪語しているのを聞いたことがある。自分は教室の片隅で、「威張って言うほどのことか、それが」と思ったものだ。
「彼」が忌引きのために学校を休んだのは、ゴールデンウィークが明けてすぐのことだった。それから十日ばかりしてまた登校してきた彼を、周囲のクラスメートは初め、まるで腫れ物に触るようにして扱っていた。そうして、恐る恐る、おっかなびっくりといった風で話しかけていた。
しかし、彼のいつもと変わらぬ屈託のない笑顔は、すぐに彼らに「そのこと」を忘れさせてしまったようだった。やがて、彼が登校し始めて一週間もすると、クラスはまた元通り、普段のサイクルに戻っていた。誰一人、「そのこと」を、口に出すことも、気に掛けることもなくなっていた。
昼休み、それまで母親の手作りらしい弁当を持参していた彼は、教室内で昼食をとらなくなったようだった。そういう自分も、多忙すぎる母親の世話になるのも、また自分で作るのも面倒なため、よく購買のパンを利用していたので似たようなものだった。
食べる場所は特に決めていなかったが、その日はたまたま天気も良く、なんの気なしに、いつも人の少ない、小さな中庭のベンチへ歩いていった。
しかし、その日は生憎と先客がいた。
それが件のクラスメートであることに気付いて、自分はどうしたものかと、渡り廊下の柱の陰で、少し思案して足を止めた。
空は見事なまでの五月晴れで、この世には何の不幸も痛みも存在しないかのような陽気だった。中庭に植えられた桜の葉はもう青々としていて、日の光にきらきらと生命力そのものを照り映えさせている。そこここで、せっせと花の蜜を集めている、働き蜂の羽音がしていた。
彼は封を開けただけでまだ齧りついていない焼きそばパンを手に持って、ベンチに一人で座っていた。遠目にも、少しぼんやりしているように見えた。まだ封を切っていないパックのコーヒー飲料は、彼の腰掛けたベンチの上で、ぱたりと倒れたまま所在無さげな顔をしていた。
それは、まったくの偶然だった。
その横顔を少し眺めて、その場を諦めて立ち去ろうとした時、
それが目に入ってしまったのは。
自分は心底、後悔をした。
(……来るんじゃなかった。)
そう思った。
何処を見ているのかも分からない、ぽかりとあいた空洞のような彼の目から、
次々と、ぼろぼろと、熱い雫が落ち続けていた。
その表情にはなにも無く、ただ不思議なほどに静かだった。
(あいつは本当に……泣き虫だからな。)
ふと、そう思って苦笑する。
しかし、その思考に驚いた。
……どういうことだ。
「あいつ」って、一体だれだ。
名前も思い出せないような奴のことで、どうして俺は……?
わからない。
わからない……。
…………。
◇
「結論から申さば、五分と五分、といったところでしょうか」
黒き鎧の王サーティークは、淡々と、これまでの経緯と現状の説明を行なっている。
ノエリオールの《黒き鎧》には、彼と内藤、宮宰マグナウトとフロイタールの竜騎長ゾディアスが、そしてフロイタールの《白き鎧》には、ヨシュア、ディフリード、宰相ドメニコスと、《白き鎧》から奇跡の生還を遂げた人、ナイトがいた。
ゾディアスは、佐竹を連れてきてそのまま、《黒き鎧》にとどまっている。まるで「それが当然」と言わんばかりの顔だったが、サーティークも特に、彼に何も言う気はないようだった。
佐竹が《黒き鎧》の中へ再び入れられてから、既に二刻ばかりが過ぎている。
「そちらでの《儀式》の際に、アキユキは相当の無理をしたようです。なんとか最後まで自らの意識を保ちはしたようですが――」
青年王は、少し声のトーンを落とした。
「如何せん、やはり《儀式》そのものが過酷に過ぎた。さらには、そちらのナイト殿をも、同時に引き上げるという離れ業までをもこなしたとなれば――」
サーティークの声は落ち着いたものだったが、それは意識的にそう保たれていることが十分に知れるような種類のものだった。
「…………」
両《鎧》の面々は、一様に重苦しい沈黙に包まれた。
ナイトとヨシュアは、先ほどからずっと寄り添うようにして立っている。年齢が随分と近くなってしまったせいか、彼らはちょっと見ると、まるで双子のようだった。二人は互いに手を握りあったままでいる。
サーティークは、声の調子を変えないままに、事実を淡々と述べ続けていた。
「アキユキの自我は、恐らく崩壊しかかっている。この《黒き鎧》が《鎧の稀人》の記憶を修復する機能を持つとは言え、今回初めてこの《鎧》に入ったアキユキに、それがどこまで適用されるかも不明です」
《黒き鎧》の部屋の奥、壁際に立ち尽くしている内藤は、もう蒼白だった。隣に立つマグナウト翁が、彼を案ずるようにして時々その背中を叩いている。向かいの壁際に傲然と立つゾディアスも、ただ険しい顔のまま、ひと言も言わなかった。
やがて、《白き鎧》のディフリードが質問した。
『お尋ねしても良ろしいでしょうか?』
「何だ? ディフリード卿」
『こちらとしては、勿論大きな喜びではありましたが、いったいどうして、こちらの陛下がご生還できることになったものでしょう。しかも、このようにお若いままで――』
「……そうだったな。説明しよう」
サーティークは一つ息をつくと、そこに置いたままになっていた椅子にどかりと座った。
「実を申さば、俺も確信があったわけではない。しかし、七年前、このユウヤがあちらの世界から召喚されるに至った経緯を鑑みると、どうやらそうではないかという結論に至ったのよ」
『……と、申されますと』
「考えてもみよ。いくら《白》と《黒》の操作法が違うとはいっても、やはり大本は同じ技術で作られたものであろう。あの時、確かに俺が操作したことで、ナイト公はお体に変調を来たしたのかも知れぬが、それですぐさま命に関わる、というのはいかにも不自然だと思うたのよ」
『…………』
ナイトは、少し変な顔になってじっとそう言うサーティークの顔を見つめている。
「あの時、ナイト公は、俺が現れたことで慌てて《鎧》に飛び込まれた。《儀式》を始めるための、なんの準備もなしにな。……例えば、懐の匕首など、身につけたままでおられたのではないのかな?」
『あ……』
ナイトがはっとしたようになって、目を瞬かせた。
「ご存知のとおり、《儀式》には寸鉄も身に帯びてはならん。そうした様々の要因から、ナイト公のお体に無理な負担がかかり、一時、心の臓が動きを止めてしまったのではないか……と、俺は推察する。要は、『仮死状態』と呼ばれる状態だな」
『…………』
「それを、かのズール殿は、まことにナイト公がご崩御されたものと見誤られた。……無理もない、心の臓が動いていなければ、普通はそう考えるのが妥当でもある――」
一同は、ただ沈黙している。
ヨシュアが掠れた声で言った。
『それで……、それで、ナイトウ殿が……?』
つまりはそれで、内藤がこちらの世界へ召喚されることになったということか。
しかし、話の中に自分の名前が出ても、あまり内藤は会話に反応しなかった。先ほどからただぼうっと、佐竹の消えていった床面だけを見つめて項垂れている。今の内藤にとっては、そのような顛末は、別にどうでもいいことだった。
「その通り」
サーティークがヨシュアに向かって頷いた。
「無論、ズール殿に非があるわけではない。その咎の全ては俺にある。その点については幾重にもお詫び申し上げるつもりでいるし、もしナイト殿がお望みならば、いずれこの命も差し出す覚悟でいる。……まことに、申し訳ないことをした」
言って、サーティークは一度、深く頭を下げた。
『…………』
ナイトは少し悲しげな顔になって、ただ沈黙して俯いた。
「さらに《鎧》は、ともかく自分のための《鎧の稀人》については多種多様、あらゆる策を弄して確保しようと動くものらしい。今回のように仮死状態になった《稀人》は、そのまま非常に低い温度でその体を保存して、必要に応じて治療も施し、場合によっては目を覚まさせ、《稀人》の血脈が尽きそうになった暁には、再び利用するということらしいな」
「ちっ……。何だそりゃ。けったクソ悪い――」
思わず青年王の背後のゾディアスがそんなことを口走ったが、それはその場の一同、みなの気持ちを代弁していた。
「因みに、ナイト公」
『えっ? は、はい――』
いきなり敵国の王に名を呼ばれて、ナイトはびっくりして目を丸くした。
「貴方様の今の状態なのですが。果たしてどのあたりまでの記憶がおありか」
『は? え、ええと……。はっきり思いだせるわけではありませんが、『冬至の日』にサーティーク公が私を連れ去られて……、それから、ナイトウ殿にお別れを言ったような気が致しますが――』
「ああ、なるほど」
黒の王が顎に手を当てた。
「ではやはり、アキユキがこちらの《鎧》から、貴方様の記憶も持ってそちらに入り、それを貴方様にお渡しした、ということのようでございますな」
『は、はあ……』
ことの顛末があまりよくわかっていないナイトは、いまひとつ反応が鈍かった。
「では、そのほかの点についてはまた、臣下の皆様方からお聞きください。ひとまずこちらは、アキユキの状況を注視したいと思います。今後のご連絡につきましては――」
「…………」
両《鎧》のあいだで細かな今後の打ち合わせが行なわれている間もずっと、内藤はただひたすらに、じっと床の一点を見つめているばかりだった。
◇
《白き鎧》との通信を一旦切ってから、三刻後。
いきなり《黒き鎧》の制御盤に、ちらちらと何かを告知するような光が閃き始めた。
サーティークがきっと緊張の度合いを深めて画面を睨みつけた。
「………!」
他のみなも、はっとして全員が床を見つめた。
思ったとおりだった。
そこはまた、ぷつりと音もなく四角い寝台を形成し始め、やがて床下から、腹の中に飲み込んでいたその人物を返還してきたのである。どうやら、「治療」が終わったということらしかった。
「さ、さた……!」
内藤はそちらへ駆け寄ろうとして、しかし、はっと立ち止まった。
「………!?」
《白き鎧》の時とは違い、寝台の大きさは、始まった時とさほどは変わらなかった。
しかし。
「…………」
一同は、ただただ愕然として、寝台の上を凝視していた。
誰一人として、ものを言わなかった。
佐竹は、居た。
寝台の上に。
……だが、その横に、もう一人。
佐竹の隣に、
信じられぬ人物が横たわっていた。