2 異邦人
《ね。あれ、なんだろうね……? マール》
小さな少年の声がする。
《なに? なにがあるの、オルク?》
次は、小さな少女の声だ。
ただ、それらは佐竹の耳には、意味不明の音声としか聞こえなかったが。
うっすらと目を開けると、周囲は随分と明るくなっていた。
「…………」
体のあちこちに不快な痛みを覚えつつ、佐竹は周囲を見回した。先ほどよりは、随分と明るくなっている。どうやらこの世界にも、「日の出」らしきものがあったらしい。
ただ、地球のそれとはちがって、光の色が多少赤っぽく思えるのは、別に朝焼けだからということでもなさそうだった。
頭上の木の葉をすかして見える薄青い空には、昨夜のあの巨大な惑星が、ぼんわりと白く色を変えて浮かんでいた。
あれから、まだ足元も暗い中を、踏み固められた小道を辿ってこの辺りまで歩いてきたが、さすがに疲労と眠気とに耐えられなくなり、ひとまず小道脇の木の下に座り込んで休むことにしたのだった。正直なところ、かなりの空腹も覚えるが、この世界の知識が皆無のままにあれこれと手を出すわけにもいかなかった。
まずは、曲がりなりにも意思の疎通のできそうな相手をみつける必要がある。
とはいえ、必要に迫られて、道の脇に流れる小川を見つけ、その水を飲んでみたのは事実である。水の味も、特に自分の知っているものと変わりはなかった。
内藤を攫った者たちの様子からして、なにがしか、知恵のある生き物が必ずここに存在はするはずなので、そのこと自体はあまり疑わなかったが、なにしろ森林を抜ける道も相当な距離があり、ここに至るまで、集落のようなものにはまったく行き当たらなかったのだ。
感覚的なことでしか分からないが、恐らく、十四、五キロぐらいは歩いたのではないだろうか。
時折り、森の中から何かの生き物の吼える声が聞こえたが、それがなんであったかは分からなかった。そんな時は、ただじっと立ち止まり、気を殺してやり過ごした。
《ねえ、あれ……人じゃない?》
少年の声が、また何か言っている。
《わ、ほんとだ……。血が出てるみたい!》
そしてまた、少女の声。
(人か……。助かったか)
佐竹はまた、目を閉じた。
これ以上、無駄にエネルギーを使うべきでないことは分かっていた。
もしも万が一、相手がこちらを殺そうと掛かってきた場合のことを考えて、最低限、自分の命を守るために戦うだけの余力は残しておかなくてはならない。そのためにこうして、木刀を作り、片手に握ったまま倒れているのだから。
ともかく今は、そこで何か言っている「知能のある生き物」がどうするのか、しばらく様子をみることにした。
小さな者たちが、恐る恐る、近寄ってくる気配がした。
彼らが発しているのは、ちょうど洋介ぐらいの、子供の声のようだった。
《ねえ、ちょっと! 大丈夫? ねえ……!》
何かを呼びかけてきている様子がしたので、佐竹は少し、目を開けた。
《あ、目をあけたよ! 生きてるよ! この人》
《あたし、だれか呼んでくる!》
一人が、慌てて駆けさってゆく。
ゆっくりと視線を動かすと、想像していたような、小さな子供らしい顔が目に入った。
それは、燃えるような赤い髪をした、くりくりした目の少年だった。
いや、少年と見えて、実は大人であるということもあるのだろうが。
「…………」
思ったとおり、見たところ、地球人とたいして違わない。
あえて細かいことを言うならば、彼らは少し、耳の形が尖って見えるということと、あまり見たことのない目の色をしているということぐらいか。
少年は、地球ではまず見ることのない、透き通った紫色の瞳をしていたのだ。
たとえこれらの生き物が、地球人から見て凄まじい異形の相手だったとしても、別にこちらとしては、やることは変わらないとは思う。
まずは彼らとの意思の疎通をはかり、内藤の行く先を探り出し、彼を取り戻す。できれば元の世界への帰り方も見つけ出す――それだけだ。こうして並べ立ててみれば、いかにも単純なものだった。
が、ひとまず佐竹は安堵した。相手の容姿が地球人に似通っていてくれるというのは願ったりだ。たとえどんな容姿であれ、いずれは見慣れるとは思うのだが、どうせなら少しでも、こちらの精神状態を安定させておきたいからだ。
《ねえ、あんただれ? どこから来たの?》
少年は紫の瞳をさらにくりくりさせて、なにごとかを佐竹に尋ねた。
「…………」
少年が何度か同じ言葉を、身振り手振りを交えて繰り返すうちに、なんとなくその質問の意図がわかって、佐竹は静かに手を上げた。
ゆっくりと、人差し指で宇宙を指す。
おそらくそれは、間違ってはいないだろう。
自分は、この惑星の人間ではない。
どこから来たかと問われれば、こうとでも答えるしかないではないか。
少年が声を失って、明らかに驚いた様子になった。
口をぱくぱくさせ、佐竹の指先と、その指し示す空とを、何度もかわるがわる見比べている。
《あっち……? あっちから来たっていうの? ほんとに……??》
やがて、遠くからもっと多くの生き物……いや、人々が駆けて来る音が聞こえてきた。先ほどのもう一人が、仲間を連れて来たに違いなかった。
どやどやと、先ほどの二人よりももっと低音の声が聞こえてきて、「ああ、やっぱりこの二人は子供だったか」と思うと同時に、佐竹は意識を手放していた。
どうやら彼らは、すぐに自分を殺す気を放ってはいなかったから。
《あっ、ねえ! しっかりしなよ、『お空の兄ちゃん』……!》
少年の声が、もう遠くで聞こえていた。
◇
王宮の執務室で、低い老人の声がする。
「陛下。夜も更けましてござりまする。本日の政務はもう、このあたりになされませ」
執務机の向こうで「陛下」と呼ばれた人物が、書類からゆっくりと目を上げた。
「ああ……うん。もうこんな時刻か……」
言いながら、彼はちらりと窓外に目を移したが、急に眉間に皺を寄せた。
「つっ……!」
そこがなにやら痛むらしく、静かにこめかみのあたりを指で揉んでいる。
「それそれ、言わぬことではござりませぬ。さようにあまり根をお詰めあそばすと、またお頭のご病気が出まするぞ。ほどほどになされませ……」
老人の声は、やんわりと優しげだ。
「また、ご寝所にお薬湯を運ばせましょうぞ。今宵はもう、ごゆっくりとお休みなされませ……」
「ああ、爺。すまぬな――」
「陛下」は静かに微笑むと、老人の勧めるままに執務室を後にした。
慇懃に礼をして、その背中を見送ってから、老人は誰にも聞こえぬ声で呟いた。
「……ふむ。まだあの薬は有効であるようじゃのう。なにより、なにより……」
そして、口の端ににやりと不気味な笑みが浮かんだ。
「まだまだ、そなたには働いてもらわねばならぬでのう……」
鉄錆の音を含んだその声が、王宮の敷物に染みこんでいった。