悪夢の三日間 後編
本編198・199話目の裏話。前回に引き続き旦那様視点です。
執務室に着いてすぐセロシアの案件に取り掛かる。目を通し、修正させるべきところはチェックを入れ、確認事項は部下に伝えて確認させる。まあまあ面倒な作業だったかが、そこまで時間をかけずに終えられた。
「これを執政官に。あと、こっちの書類は今日中に確認してこっちに返せと伝えてくれ」
「この量をですか?」
「そうだ」
「鬼ですね」
書類を取りに来た部下が目を丸くしていた。まあ、セロシアに渡す分は、こっちの量の三倍くらいの厚みだったからな。いやぁ、ちょうどいい嫌がらせ……もとい、案件があってよかったよ。
とにかく事務仕事を処理して処理して処理しまくった。
「まだ終業時刻じゃないのか……。ヴィーはどうしてるだろう」
気が緩んだようで、唐突にヴィオラのことが気になった。さすがに集中力も切れてきたか。
「ちょっと体を動かすか。ユリダリス、鍛錬に行くぞ」
「や、ちょっと今日は真剣やめようか?」
「なぜだ?」
「え〜と、う〜んと、俺、今日、筋肉痛」
「……ふーん」
なぜか慌てたユリダリスに愛用の剣を取り上げられ、練習用の模造剣を握らされた。真剣を使うといつも以上に精神集中させるから、余計に疲れるとでも言いたいのか? まあいい。模造剣なら手加減一切なしで鍛錬できるし。
ユリダリスとの手合わせはいいリフレッシュになった。これでまた事務仕事も捗るだろう。
「副たいちょ〜、終業ですよ〜」
ユリダリスの声でハッと我に返った。もうそんな時間か。
鍛錬以降ずっと座りっぱなしだったから、体が固まってしまった。う〜んと体を伸ばしながら見た机の上には、山積みの書類とお菓子、花。
なにこれ。
「……なんだこの花と菓子の山は」
「お供物ですかね」
「は? ……それより、明日、私は休みを取る」
「どうぞどうぞ。誰も止めませんよ」
家に帰ると、期待は儚くも砕け散った。
「体で覚えておられることはすべてこれまで通りなのですが、記憶は戻られておりません」
「そうか」
ロータスやダリアの話では、ダンスやマナーは完璧に覚えているらしい。しかし、カルタムやベリスには『はじめまして』と言わんばかりの態度だったそうだ。
マナーやダンスは完璧って、どんだけ叩き込まれているんだろう。いや、わかるけど。
いつも通りの生活でもダメだった——となると、残る希望は〝僕との日常〟ってことか。
「明日は休みをもらってきたから、いつものように外出する」
「ちゃんと仕事の引き継ぎはされてきましたか?」
「してきたに決まってるだろうが!! って、ツッコミどころはそこじゃない」
「失礼いたしました」
ったく。誰からも文句出ないように仕事してきたんだから——って、そうじゃない、外出の話をしてたんだった。
「……こほん。いつも通り徒歩で、ヴィーの気に入っている店を回ろうと考えている」
「それはよろしいですね。きっと奥様も、何か感じるのでは」
「だといいが」
よく行く公園やパン屋、菓子屋を巡ろう。味覚から何か思い出すかもしれないしな。
それでもダメなら……奥の手を出そう。
かなり自分の精神を削るけど、ヴィオラのためなら痛くも痒くもないわ!
「ロータス」
「はい」
「最後にユーフォルビア家に立ち寄ろうと思うから、その旨伝えておいてくれ」
「……かしこまりました」
部屋を出ていくロータスの背中を見送りながら、明日のことを考える。
どうかユーフォルビア家に行く前に、全てを思い出してくれ!!
いつも通り馬車は使わず徒歩で出かける。まずはパン屋でランチだ。
どれでも好きなように注文すればいいよと言う僕の言葉に甘えてくれて、あれこれ…‥と楽しそうに迷いながら注文している。記憶をなくしたからといって好みは変わらないのか、いつも食べるものを自然とチョイスしている。ああ……記憶はなくてもヴィオラだなぁと、少しホッとする。
がしかし、ここで何か思い出すようなことはなかった。
う〜ん、ダメだったか。じゃあ、次に行くぞ!
少し回復の片鱗が見えたのは、レモンマートルのカフェに入った時だった。
綺麗なケーキに目移りしているヴィオラもかわいいな。でも眺めていたら日が暮れそうだ。
「リモネンのムースとアナナッサのスペシャリテ、それと限定のショコラと——」
ヴィオラの好きなものを注文すると、
「完璧に好みを把握されてる……」
ヴィオラが呟いてるけど、そんなの当然でしょ。何回ここでデートしてると思ってるの。
しばらく待つとお茶とケーキが運ばれてきた。
ヴィオラの大好きな店内限定のショコラのケーキは、もちろんヴィオラの前に置いてもらう。
「いただきま〜す! んんん〜!」
「美味しい?」
「はいっ! フワッフワに削られてるショコラが、口に入れた途端消えてなくなる……すごい、美味しいです」
だろうね、見たらわかる。目がキラキラ輝いてるもん。
「ヴィーはそのケーキ、好きだよね」
「はい!」
え? 今、『はい』って、返事した?
何気ない会話だったけど、なんの躊躇いもなく返事が返ってきた。それはいつもの会話のように。
ヴィオラ自信も驚いたようで、少し首を傾げている。
これはいい兆候かもしれないぞ!
「公爵様もお召し上がりになりますか?」
僕がじっと見ていたから(驚いていただけなんだけどな)気を使ったのか、ヴィオラがケーキを指している。ああ、これもいつも通り……違うのは『サーシス様もどうぞ』と言ってくれないところだけ。
「ああ、ひと口もらおうかな」
「どうぞ」
するとヴィオラはいつものようにフォークでケーキをひと口分とりわけ、そのまま僕に向かって差し出してくれた。
きっとこれも、ヴィオラの中では体に染み付いた行動なんだな。
嬉しくてにやけそうになるのを堪えながら、いつも通り、そのままいただく。このまま上手くいけば記憶が戻るんじゃないか?
しかしまた期待は裏切られ、ハッとなったヴィオラが急に慌て出した。
「し、失礼いたしました!」
「なんで? いつものことでしょう?」
僕の言葉に『え? そうなの?』っていう表情になるヴィオラ。反射的に行動は出るけど、記憶という部分では思い出してくれない。
結局それ以上の反応を見ることなく、菓子屋を出ることになった。
「ん〜。これでもダメだったか……」
残すは奥の手のみ。最後の手段。
……はぁ。自分の黒歴史を自ら抉る。気は重いが、僕ができるのはこれくらいだ。
これでもダメだったら、もう今までの記憶は諦めよう。そして、新たに思い出を作っていけばいい。これまで以上に、たくさん。思い出はどんどん増えていくもんなんだからな。そうだ、ついでに黒歴史も忘れてもらえると言うメリットもあるぞ。……って、あの黒歴史ですら、今ではヴィオラとの大事な思い出になってるんだけどね。
グルグルと頭の中をいろんな思いが渦巻いているうちに、ユーフォルビア家に着いた。
義母上が出迎えてくれる。
「いらっしゃいませ。今日は急にどうしたんですか?」
「ヴィオラが、伯爵家の花を摘みに行きたいと言いましてね。なんでも、うちの屋敷にはない花のようで」
「あら〜、そうなんですか。どの雑草かしら?」
「庭で探しますね」
「どうぞどうぞ」
適当な口実で、庭に入る許可を得る。というか義母上、雑草て……。
あの日はもっと自然に近い状態だった、ヴィオラの実家の庭。あれからベリス主導で手入れをしたから、かなりスッキリとした美しい庭に変わっている。それすら覚えてなくて目を丸くしたままのヴィオラの手を引き、椅子に腰掛けた。
「今日は楽しかったですか?」
「はい! とっても」
「それはよかった。ヴィーのお気に入りのコースだしね」
「……そうなんですか」
覚えていなのが辛いのか、きゅっと眉間に力が入った。
「そんなに眉間にシワを寄せないで。やっぱり何も思い出せなかったみたいだなぁ」
「はぁ……」
ため息に近い返事をするヴィオラは、今までにないくらいにどんよりと曇っている。
ああ……いつもの晴れやかなヴィオラの顔が見たい。
「最後の手段です。これで思い出せなかったら、今までの記憶は諦めましょう」
さあ、覚悟は決まったよ。僕は、一つ深呼吸した。
「私はお飾りの妻を欲しているのですよ」
なんであの時こんなひどいことを笑顔で言えたかなぁ、自分よ。引きつりそうになるけど、ここは笑顔だ。
「実は長いこと付き合っている彼女がいまして、でもその人とは結婚できなくて、だからと言って正式な妻を娶る気もないんです」
さすがにここは良心が痛みすぎたから早口になってしまった。あ〜もう自己嫌悪。
「はあ」
「ということで、お飾りの妻をもらい、仮面夫婦として生活してもらおうと思っているのです」
「はい?」
あの日と同じく、キョトンとしているヴィオラ。あーくそっ! 毒を食らわば皿までだ!!
「あなたは自由にしてくださって構いません。あまり派手には困りますが、恋人を作ってもらっても結構。衣食住、何不自由なく生活していただくことを約束しますよ」
やけくそで微笑み、言い切った。ごりっごりに精神削られた。どうかヴィオラに響きますように!
祈りながらヴィオラを見ていると、その表情がどんどん生き生きしたものに変わっていくのがわかった。
そして。
「サーシス様? またなんで自分の傷口に塩ぬってるんですか」
うん、ひと言目から辛辣だね! って、そうじゃない。
「ヴィー……?」
「はい?」
「僕がわかる?」
「へ? 分かりますよ。流石に自分の旦那様のことを忘れるおばかさんはいないでしょ」
「……記憶が……戻った!」
「はい? 記憶? てゆーか、なんで私たちはうちの実家の庭にいるんですか?」
今度はさっきまでの記憶がなくなってるようだったけど、どうやら以前のことは思い出してくれたようだった。
ああ……疲れた。最後の手段でどっと疲れた。でも、ヴィオラの記憶が戻ったからよしとする。
とりあえずロータスには今日の顛末を話しておいた。
「よくまあ黒歴史をご自分で掘り起こしましたね。傷口を抉ると申しましょうか」
「ヴィーのためなら痛くも痒くもないわ!」
「涙目で言われましても」
「ほっとけ」
ありがとうございました(*^ー^*)




