フリーマーケット
暖かな陽光が、真っ黒な学生服に心地良く沁み込んでくる。
じきに訪れる、夏の清香を乗せた爽やかな微風が、頬の上を流れていく。
それは、よく晴れた晩春のある日だった。
当時、私はまだ高校生で、学校で二時間のテストを終えて、一人家路を歩いていた。
もしも私が、実直かつ勤勉な好青年だったならば、すぐさま帰宅し勉学に勤しむところであるが、当時の私は、決してそのような誠実な学生ではなかった。
朝から、愚にも付かない直角三角形の性質やら、実に身勝手な振る舞いをする異国の言語やらに、完膚なきまでに叩きのめされていた私は、さらに自室の机に座って、兵どもの夢の残骸を拾い集めようなどという気には、どうしてもなれなかったのだ。
太陽が頭上高く昇るまでには、まだ幾許かの余裕があった。
私は、特に腹が空いているわけでもなかったので、昼飯までの時間を潰すべく、小躍りしたくなるような陽気の充満した町並みを、ちょっと散策してみようと思い立って、普段の通学路から足を逸らせた。
とは言っても、生まれ育った町の風景は、幼少の頃からほとんど変わらぬままであり、たとえどこかに変化があろうとも、その変わりゆく様は一通り目には入っていたので、私は早々に飽き始めた。
気が付くと、私はとある公園に足を踏み入れていた。
そこは、ぐるっと一周するのに数十分もかかるほど大きく、緑の多い公園だった。
幼い頃、拷問のような父の調教に涙をこらえながら、ここで自転車に乗る練習をしたことなどを思い出しつつ、私はその公園をのんびりとあてどなく歩いた。
そして、一面を芝生で覆われた広場があったことをふと思い出し、私はくるりと方向を変えた。
春には、桜を愛でるという名目で酔い騒ぐ、無作法な大人達で溢れかえるその広場は、普段は静かで落ち着いた場所である。
背の高い木々が両側にそびえる道を抜け、その広間が目に入ると、私は小さく溜め息をついた。
一面の芝生を覆いつくさんばかりに、人々が群れている。
よく見ると、運動会で見るような大きなテントなどもあるようである。
柔らかな日の温もりを全身に感じながらの、至福の昼寝を目論んでいた私は、心の中でささやかな悪態をついたが、すぐに考えを改めて、好奇心の赴くままに足を進めた。
近寄ってみると、それはフリーマーケットだった。
これは格好の暇潰しであると思い、私はその会場に入っていった。
健全で一般的な高校生の例に漏れ、およそファッションなどというものについてほとんど無頓着であった私にとって、そこは実に退屈な空間だった。
そこには多くの簡素な店が並んでいたが、そのほとんどは古着を売っていた。
まれに、多機能な鍋やら浄水器やらを売る者もいたが、見ていて面白いものではなかった。
芝生に敷かれたシートの上に、色とりどりの使い古しの洋服が並ぶ中を、私は首を左右に振りながら歩いた。
やがて、私の心にじわじわと退屈の染みが広がり、徐々にその大きさを増していくのだった。
もう帰ろうかと思い、来た時とは反対側の会場の隅まで、私は歩いていった。
そして、彼女を見つけたのである。
大きめの風呂敷の上に、気だるそうにあぐらをかく彼女は、決して麗しき美少女などではなかったが、しかし彼女には、私の心臓の鼓動をやけに急かす何かがあった。
そのどこか冷めたような表情や、近寄ってくる不快なもののすべてを拒むような、硬く理知的な雰囲気などが、あるいはその何かだったのかも知れないが、今となってもそれは私にも分からない。
彼女の目の前には、擦れば魔人が飛び出てきそうな、極彩色の小さな壷や、安っぽい推理ドラマで凶器として使われそうな鈍重な灰皿、人間を模したものであることだけはかろうじて分かるが、何をどうしたらそうなるのかまったく不可解な、奇怪な像の置物など、よく分からないこまごまとしたものが、乱雑に並べられていた。
それらは実に興味をそそる品々ではあったが、彼女自身に対する私のそれを、上回るほどではなかった。
それほど、私は彼女に惹かれたのだ。
文字通りの雑貨の類を物色しながら彼女に自然に話しかけるべく、私は意を決して、そのあまりに素朴な店に向けて足を進めたが、すぐにその方向を変えて近くにあった古着の森に身を隠した。
一人の男が、親しげに彼女に話しかけたのである。
茶色い長髪の下に薄っぺらい笑顔を貼り付けた、いかにも、街行く若い女性に片っ端から声をかけていそうなその男が、風呂敷の前にしゃがみこんで何やら話している。
私は、Tシャツを選んでいるふりをしながら、その様子をちらちらと盗み見、もとい観察した。
男は親しげではあるが、どうやら二人は初対面らしかった。
男は、全身の毛穴からあふれ出た親近感を垂れ流し、さも旧知の仲であるかのような調子で話していたが、彼女はいかにも面倒くさそうに、あぐらの上に頬杖をついて、時折うなずくだけであった。
私には、二人の会話は――といっても、ほとんど男が一方的に話しているだけであったが――まったく聞こえなかったが、そのおおよその内容は容易に想像できた。
おもむろに、彼女の口が小さく動いた。
短い言葉である事と、決して友好的な言葉ではないということだけが、私の知り得るすべてであった。
そして、彼女の言葉で、男の動きがぴたりと止まった。
下心が口角を引っ張り上げているような笑顔も、その顔からあっさりと消え失せたであろうことは、彼の落胆する背中が物語っていた。
男はゆっくりと立ち上がり、意気消沈を絵に描いたように、とぼとぼと去っていった。
読者諸君は、私の心に湧き上がった恐怖を想像できるだろうか。
おそらく彼は、恋愛遊戯においては百戦錬磨の達人であると思われた。
これまでに幾人もの乙女達に声を掛け、甘い睦言を交わすことも多々あったであろう。
時には、声を掛けた途端に冷たい言葉を浴びせられ、それでもめげずに、決して諦めることなく甘美なささやきを続け、その結果として一夜の勝利を必ず手に入れるような、そんな男であるように見えた。
その彼を、彼女はたった一言で無惨に屠ったのである。
そんな女に、私もまた声を掛けようとしている。男として、これほど恐ろしいことが他にあるだろうか。
もちろん、私には彼のような、剥き出しの下心など断じてありはしない。
当時の私は純情な高校生である。純白の無垢の権化である。
しかし、安直に彼女に話しかけ、彼と同じ轍を踏んで、私の純一無雑な心に修復不可能なほどの傷が付こうものなら、それこそ目も当てられない。
そして、その無様な有様が、いとも容易に想像できてしまうのは、決して私の豊か過ぎる想像力のせいだけではないだろう。
私はとても怖かった。笑っているのは膝だけである。
しかし、この時なぜ“諦める”という選択肢が一片も浮かばなかったのか、今になってみても不思議に思えてならない。
私は、消費者金融が泣いて喜びそうなほど、慎重かつ計画的な男である。
分析に分析を重ね、熟慮勘考を怠らず、十全万全の計画を立ててから、ようやく行動を開始する男である。
明石海峡大橋でさえ叩いて渡る。叩きすぎて橋が崩壊することもしばしばである。
私にとって、彼女に何気なく話しかけるという行為は、人生を賭けた大勝負であった。
当然、そこには完全無欠の計画が必須である。考えもなしに虎穴に入れば、四肢を引き裂かれるに違いない。
私は、ハンガーにかかったシャツやらパーカーやらを、右へ左へ適当に動かしながら思慮を巡らせた。
頭の中で、ありとあらゆる可能性を考慮し、決して厚くはない語彙辞典を広げ、彼女にかける第一声と、それに続く会話案の吟味推敲を繰り返した。
そして、思案するのに夢中になるあまり、私はすっかり時を忘れた。
ようやく出来上がった計画書を、脳内議会が満場一致で採択した頃には、太陽はすっかり頭上を通り越していた。
恐怖はもはや、私の足元から去っていた。
私には完璧な計画がある。どんなに気難しい人間もたやすく心を全開にし、たちまち手を繋ぎ肩を組むだろうと思われるほど、私は自分の計画に自信があった。
実にはつらつとした気分で、私は振り返った。
彼女が店を出していた場所には、ただ芝生だけがあった。誰もいない空間だけが、ただそこにぽつんとあった。
店と共に、彼女は消えたのである。
やってしまった。
私は、計画を練るのに夢中になるあまり、彼女が店じまいをしていたことに気付かなかったのだ。
輝きに満ちた青春へと架かる虹色の橋は、私が慎重に叩いている間に、空の彼方へと消え去ったのである。
賑やかな喧騒の中にぽっかりと空いた、やけに物寂しい空間に、私は呆然と突っ立っていた。
青々とした芝生を見つめていながら、私の頭は真っ白であった。
完璧だったはずの計画はその存在意義を失い、私は成す術も無く、そこに立っていることしかできずにいた。
すべてを諦めて家路につく決意が固まるまでに、少々の時間を要した。
ようやく決心して、私は肩と視線を落としたまま、足を一歩踏み出した。
そして、それを見つけたのだ。
拾い上げてみると、それは小さな猫のぬいぐるみであった。
誤解しないで頂きたい。それはお世辞にも可愛いとは言えない代物である。醜いとさえ言ってもいいだろう。
その容姿を事細かに描写することに、並々ならぬ抵抗を感じるほどである。
ただ、私は未だにそれが猫であるという確信が持てないでいる、ということだけは記しておく。
私は、その得体の知れぬ小さな布の塊をまじまじと眺め、これはもしや彼女の落し物ではないかと思い至った。
もしそうならば、ここでこうして待っていれば、彼女がこの猫らしき何かを探すため、再びここに戻って来るのではないだろうか。
しかし、脳内議会はこの考えをすぐさま棄却した。
こんな、見ようによっては禍々しくも見えるぬいぐるみが、彼女にとって大切な物のはずがない。失くしたところで気にも留めないであろう。
あるいは、意図して捨てたのかもしれない。
行儀は悪いが、そうであってもおかしくはないほどの説得力を、そのぬいぐるみは持ち合わせていた。
突然、私の脳裏に、稲妻が走るが如く、素晴らしいひらめきがやってきた。
このフリーマーケットは、各々が勝手に出店しているゲリラ的な催しではないはずだ。必ず、企画した主催者がいるはずである。
となれば、店を出す者は、その主催者に事前に申請した者に限られる。当然、主催者側は会場内で何かしらの問題が起こる可能性を考慮し、出店者をある程度管理しようとするだろう。
もし、出店者がフリーマーケットの終了時刻より早く店じまいをするのであれば、主催者側にその旨を伝えなければならないはずである。なにか書類を書く必要があるのかもしれない。
彼女がここを去ってから、そんなに時間は経っていないはずである。
きっと、主催者の簡易的な事務所のような場所がどこかにあって、彼女は帰る前にそこに立ち寄るに違いない。
私は、この広場の入り口あたりに大きなテントがあったことを思い出した。
あれが事務所だ。彼女はきっとそこに向かう。手続きに時間がかかっていれば、まだ間に合うかもしれない。
この手の中にあるいびつな猫は、もしかしたらただのゴミかもしれないが、彼女に声をかける恰好の口実となる。
事務所で彼女を見つけたら、落し物を届けに来ただけのただの誠実な高校生として、ごく自然に彼女と話すことができるだろう。
ここまで考えて、私は危うく小躍りするところであった。
いける!
私は確固たる自信と共に子猫を握り締め、事務所のテントへ急ぐべく振り返った。
そして危うく、心臓が止まりそうになった。
目の前に、彼女が立っていたのである。
大きな風呂敷を、サンタクロースよろしく肩にかけて、彼女はそこに立っていた。
その視線は、まっすぐに私の目を捉えていた。
どれほどの沈黙の時間があったのか、私の記憶は定かではない。
数秒だったか、あるいは永遠だったか。私には見当もつかない。
それほど、私の頭はからっぽになっていたのだ。
「それ、返してくれない?」
突然、彼女がそう言った。
彼女が指差す先には、私の手の中にある不細工な猫があった。
「拾ってくれたの?ありがとう、大事なものなんだ。返して」
なぜそうしたのかは分からないが、私は首を振った。
「だめです」
その時の彼女の怪訝な表情を、私は一生忘れることはないだろう。
「あたしの作品第一号なんだ。ボナンザっていうの。お願い、返して」
彼女はそう言って手を差し出したが、私は猫を両手で握り締め、さらに首を振った。
「これは、その、えっと……ひ、人質です!」
言った瞬間、しまった、と思った。
しかし、彼女はふっと笑った。その微笑もまた、一生忘れることはなさそうである。
「人質か。じゃあしょうがないね。要求は何?」
私の頭は依然として完全な真空であったはずなのに、言葉は勝手に口から飛び出した。
「えっと、あの……お茶、しませんか?」
手に掻いた汗のせいで、ボナンザがびしょ濡れになってやしないかと心配になったが、かまってはいられなかった。
「ふふっ、いいよ。要求はそれだけ?」
「い、いえ、まだあります。ええっと……」
私がまごついていると、彼女は私の手首を掴んで引っ張り、ずんずんと歩き出した。
「交渉の続きは、座ってゆっくりやりましょう」
彼女はそう言って、公園のそばの喫茶店へと私を引きずっていったのであった。
ある小説に、こんな一文がある。
『成就した恋ほど語るに値しないものはない』
これには私もまったく同感である。私達の眩しく輝く青春の思い出を読者諸君に見せびらかすなど、悪趣味にもほどがあるというものだ。
しかし、私の幸福のごく一部でも誇示したいという気持ちが無いわけではない。
そこで、ここでは簡単な近況報告のみに留めておこうと思う。
ボナンザは、今でも私の管理下にある。
毎年の結婚記念日には、思い出の喫茶店『踊る子山羊亭』にて“交渉”を行うのが、我が家の決まりとなっている。
諸君はよくご存知だとは思うが、私は計画的な男である。
先日行われた交渉会談においても、私は綿密な計画を練って挑んだ。
4才になった娘を『魔女っ娘ルミちゃんのマジカルステッキ』によって秘密裏に買収し、こちら側のネゴシエーターとしたのである。
妻は、娘が自分の味方であると信じているようだったが、私の完璧な計画によって形勢は逆転し、かねてからの悲願であったお小遣いの千円アップは、容易に実現するはずであった。
しかし、いざ交渉の席についた時、娘の発した「おとうとがほしい!」の一言によって、私の計画は水泡に帰したのである。
彼女が、妻の放った二重スパイだったのかどうかは定かではないが、妻が何やら意味深な微笑を浮かべていたことだけは確かである。