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サーラで病気や怪我を治せる職業、つまり医者として認められているのはリアスの中でも限られている。だから、もちろん彼らに治療というものの経験はない。リアスと長く接してきているチェザでさえ、治療を手伝わせてもらえたことはないし、おそらくカリにもできないだろうと思う。
ラフィの持っているジュオンの葉は怪我の治療に使用するものではあるが、薬草を採るのが仕事というラフィにその使用方法がわかるはずもなかった。
「……アスト」
もう一度チェザが声をかけると、ようやく彼は我に返ると、振り返って二人を見た。
「倒れていたんだ。でもこのひと……ルーシファー様かもしれない……」
唐突にアストが漏らした一言は、二人に衝撃を与えるには十分すぎるものだった。
月霊ルーシファー。
彼らサーラの民にとって、この名ほど神聖なものはない。彼らを導くのはいつでも月に住むと言われている月霊ルーシファーだったから。
そして、彼女の娘がこのサーラを創った。
「……え?」
チェザはなぜアストがこんなことを言い出すのか理解できず、とりあえずその月霊ルーシファーかもしれないと言われた人間に近づいた。そのあとにラフィが続く。こぶしを強く握り締めた。
月姫の巫女しか会うことを許されていない月霊ルーシファー。そんな精霊に会えるのかもしれないという期待が、チェザの中には少なからずあったのだ。
「……あ」
一目見て声を発したのはラフィのほうだった。両手でかかえていた三枚のジュオンの葉がばらばらと足元に落ちたが、それすら気づいていなかった。
「こんなのって……」
「ルーシファー様だろ?」
アストはリアスの知り合いが多いチェザにそう確認するが、チェザに答えられるはずもなかった。チェザはまだリアスでない。それに、リアスでさえ月霊ルーシファーを見ることは叶わないのだ。だが、感じることはできるのだと、カリは言っていた。
「でも、ルーシファー様は女のひとだよ」
そう言い切ったのはラフィ。たしかに見たことはなくても、月霊ルーシファーは女性とされていた。それは月姫の巫女が女性であるからにほかならない。
チェザはじっと倒れている男を見つめる。
年は二十代後半くらいだろうか。たぶんカリと同じくらいの年齢だろうと思う。見たこともない格好をしていた。黒い布に何かいろいろな文様が描かれている。しかも布を縫って加工することを知らないこの国では、腕や首を出す場所が作られていたり上下に分かれていたりするその服装は奇妙に映った。
そして何よりこの青年を月霊ルーシファーだと思い込ませたのは、その髪の毛。
頭部全体を布で巻いているために最初はわからなかったが、そこからこぼれる髪の毛は明らかに金色に輝いている。癖のある長い髪は、夜空に輝く月や、月姫の巫女の瞳と同じ色をしていたのだ。
アストが月霊ルーシファーではないかと思うのも無理からぬことであった。
金色はサーラにとって聖性の証。
月霊ルーシファーやその娘システィザーナ、そして末裔である月姫の巫女にしか現われることのない色なのだ。身体に金色の刻印を持つ民はいない。金色を纏うことを許されているのがリアスと月姫の巫女の近しい血縁者である。
サーラの民の髪は黒、赤、茶であることが多い。月姫の巫女の血筋はたいてい黒であり、遠縁になるほど赤や茶色が出やすいらしい。アストとラフィはともに赤に限りなく近い茶色で、チェザはやはり黒髪をしていた。
「じゃあ……このひとは?」
金色の刻印を持つサーラの民はいない。
それでは……。
「わからない……誰なんだろう」
「生きて、いるの?」
ラフィが不安そうに尋ねた。その口調には人間なのかと問いかける調子も含まれている。チェザが一歩だけ男に近づいたものの、さすがにしゃがみこんで男の顔を覗き込むことはできなかった。
サーラの民以外の人間を知らない彼らにとって、この男がいくら人間の姿形をしていようとも、金色の髪というその異質さだけで、生きている人間には見えなくなってしまう。倒れている男の不可思議な服装なども手伝って、それはまるでシスティザーナと同じ、月霊ルーシファーの落とし子のようだった。
「でも、動かないよ。生き物じゃないのかも」
「え……」
アストの言葉を突飛過ぎると思いながらも、だが誰も反論する言葉を持たなかった。
しばらくは静寂の中に、森の息吹だけが流れた。
「……う」
その閑静に、男のうめき声が奇妙に響いた。
「!」
びくり、と三人の身体が一斉に反応する。驚愕のあまり、叫び声すら出すことができなかった。
男はわずかに身じろぎした。
そして、三人の瞳が見つめる中、彼はゆっくりと瞳を開けた。
「……あ」
誰からともなく、呟きがもれた。
彼の瞳は、三人の想像通りに……月姫の巫女と同じ金色であったのだ。
月霊ルーシファーでないにしても、月からの使者であると錯覚してもおかしくないほどの神聖を持った瞳に見えた。
「メティ・ラ・デューダ……」
彼が弱々しい声で何事かを呟いた。もちろんチェザたちにはそれを理解することはできなかった。
チェザが一歩あとずさった。それを合図とするかのように、彼らは踵を返すと一目散に走り出していた。後ろは振り向かなかった。