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「おーい、チェザー、フィーザーっ!」
戸口から大声が聞こえて二人が振り返ると、隣に住むラグが立っていた。
彼は妖精族の一人で、もう五十歳近いというが、見た目はチェザやフィーザとあまり変わらない。細い金色の長い髪と尖った耳を持っている。
ここでは、金色の髪すら珍しくなかった。チェザたちもそれに慣れた。
「どうしたんだよ、ラグ。また慌てることでもあったの?」
だが、ラグは些細なことでも大事にしたがるから、チェザもフィーザもあまり真面目には取り合わなかった。
「オリビアとミュラがなんか連れてきたんだよ」
「……なんか?」
また見たこともない動物かなにかだろうか、だがチェザたちも里の人々も知らない動物など、この森にはいくらでもいることをすでに学んでいる。そうして驚くほどのことではないのだ。
「とにかく来いって」
ラグの説明ではなんだか釈然としないままだったが、とりあえずチェザはスープの皿を置いてシェルを立たせると、自分も立ち上がった。
「ちょっと見てくるよ」
「フィーザも行くわ。ーーーシェル、おいで」
チェザがラグのあとについて戸口を出、フィーザがシェルの手を引いてそれに続こうとしたとき、ちょうど湖から走ってきたらしいオリビアが遠くに見えた。
「早く~っ。早くきてっ」
長く細い手足を生かして飛び跳ねながら、チェザたちに手を振っていた。
「湖畔で誰かが倒れていたのっ。助けてっ」
「誰かって、里のひとじゃないのか?」
オリビアの案内で走りながらチェザが尋ねると、彼女は違うと首を横に振った。
やがてその湖畔に着き、ひざまづくミュラのそばに横たわっていたのは、まだ年端もいかない少年だった。全身が泥で薄汚れていたが、獣の毛皮で衣服を器用に衣服を作っている。この森の今の時期は、さすがにかなり冷える。森は獣の毛皮には事欠かないが、これで寒さを凌げるのだろうか。
十五か十六か、だがほとんど食べていないのか、里にいる同じ年頃の少年たちに比べてかなり痩せ細っていた。
「ミュラ」
だが、ミュラは少年をじっと見詰めたまま、父の呼びかけにも口を開こうとしない。説明する必要はないというように、澄んだ金の瞳で少年の顔を静かに覗き込んでいた。
すると、きつく閉じられていた少年の瞳がうっすらと開いた。
「……うっ」
かすかなうめき声が口から漏れた。
「大丈夫か」
チェザが声をかけてやる。だが、開いた双眸はまだ呆然と宙を彷徨っていて、チェザやミュラや、そのほかのすべてが見えていないようだった。
口を少し動かした。何かを言っているようだが、聞こえない。
「…………」
「え? なんだって?」
「……ここ、はーーーサー、ラ?」
「ーーーえ?」
少年の発した言葉の意味よりも、その言葉そのものにチェザは驚きの声をあげた。傍らのフィーザを見ると、彼女も呆然としたようにチェザを見つめ返したから、それが幻聴ではなかったことを確信した。
「……君は、誰なんだ」
少年が発した言葉は、まぎれもなくチェザたちが昔使っていたサーラ国の言葉。それを話すのはサーラの民しかいない。チェザもサーラ国の言葉で話し掛けた。
「おれはチェザだよ、リアスのチェザだよ! 君は誰?」
「……チェ、ザ……さま」
彼は重たげに両の瞼をはっきりと持ち上げた。
濃い緑色の瞳が誰かを連想させたけれど、誰なのかとっさには思い出せなかった。
「父、は……最期に……言って、ました。チェザを、さ……が、せ」
「……っ!」
フィーザが声にならない悲鳴をあげた。チェザを、リアスを知るサーラの民が他にもいたのだ。隣におとなしく座っていたシェルをとっさに抱きしめる。
全身が震えていた。
そして、それはチェザも同じで……。
少年の手を、チェザの両手が握り締めた。
この面影。
チェザは知っている。
知っているのだ。
「あと……少し、だった、の、に」
苦しそうな吐息とともに、無念の言葉を吐き出した。チェザは表情を変えた。持ちかけた希望が失われていくのを即座に悟ってしまったから……。
「あと少し? アースは! アースはどこにいるの? ミール! しばらく前までいっしょにいたの?」
確認するまでもなく、チェザは少年の名前を呼ぶ。
だが、その声は聞こえていないようだった。
「ファーリー、さま、が……伝えて、と……。サーラ、を忘れ……ないで、と。チェザ……に」
疲れたように再び息を吐く。緑の双眸は、焦点が定まらずチェザたちを見ていなかった。
「……あぁぁぁぁ!」
チェザは慟哭の声を上げる。
「母君様、母君様……っ!」
懐古が突然、チェザを襲った。
逃げる途中での急な別れ、あのあと逃げることに必死で、それだけで精一杯で、母ファーリーのことや月姫の巫女たちのことが頭から離れなくても探すことなどできなかった。
ただ、生きていこうとフィーザと二人で誓った。
生きていればきっといつか、出逢えると信じることにした。月霊ルーシファーが導いてくれると、彼らは信じることで救われようとした。
そして、それが、それだけが生きる糧だった。
この里を見つけて十五もの暦がいつのまにか過ぎた。
もう未練など捨てて、ここでの暮らしを満喫できていると思っていた。ここでは幸せそうな子供たちの笑顔に救われていた。だから、二人は生きていけた。
それでも忘れたことなど一度もなかったのだ。
サーラという国や、そこで共に暮らした民たちのことを。
母のことを。
父を金色の男によって失ったチェザ。そして母親もまた、同じような男たちによって失われた。
月姫の巫女も守れなかった。
リアスとはなんて無力なのだろう。結局、サーラを守ることができなかったのだと今更ながら実感させられる。
だが、この少年はきっとチェザの母や月姫の巫女たちを守ってくれたのだろう。手足には古い傷がいくつも見える。それが、彼の生活の過酷さを物語っているようだった。
母を最期まで見ていてくれたであろう少年の手を、チェザはさらにきつく握り締めた。
「ミール、ありがとう……ありがとう……!」
その手を額に、リアスの証がある額に押し当てて、何度も何度も呟いた。
ありがとう。ありがとう。
それ以外の言葉は、必要なかった。
二人の手がチェザの涙に濡れる。
それは、母のための感謝の涙であり、ミールと出逢えた歓びの涙であり、アースたちを失った哀しみの涙であり、サーラを思い出す懐古の涙であった。
そこにフィーザの手が重なり、彼ははっと顔をあげた。フィーザの双眸も赤く濡れていて、チェザたちがこの里に着いて以来、初めて見る涙だった。
どんな思いで、彼はアースと別れて一人、ここまで歩いてきただろう。行く当てもなく、この深い森の中を。
この少年はおそらく、父や母、ファーリーや姉のすべてと別れてもなお、生きてきたのだ。これほどの残酷はあるだろうか。だが、アースはその残酷を知りながらもあえて、この少年に未来を見て欲しかったのだろう。
この少年はサーラがあったころ、まだ生まれたばかりの〇歳の乳飲み子だった。物心ついたときにはリアスがそばにいなかったに違いないのだ。それなのに、チェザを知っている。リアスを知っている。
チェザたちの生きがいがほかの民と出逢うことならば、ミールの生きがいはリアスであるチェザに出逢うことであったのかもしれない。
そしてそれは、エリェルの願いであり、アースの願いであり、ウリンの願いであり、ファーリーの願いであったのだろう。
「月姫、の……巫女、さ、ま……。姉……君、さま」
「エリェルさまはわたしの中にいます。憶えてるから、あなたのことも。これからもずっと、ずっと。憶えておく。安心、してください」
ミール、チェザ、フィーザの手にミュラの小さな手も重なった。
そのぬくもりを感じたのだろう、ミールの瞳からも、一粒の涙が零れ落ちた。
それは安堵だっただろう。
父の願いをかなえることができた達成感だっただろう。
そして、満足そうに唇に笑みすら浮かべて、そっと双眸を閉じた。
アースと同じ色をした、瞳、を。