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朝の眩しい陽光が、突然降り注いだ。
続いて、最近めっきり冷たくなってきた風が頬を打つ。
それでもまだ、瞳を開きたくなくて頑固に寝ているふりをしてみたら、今度は何かがドンっと勢いよく腹部の上に乗った。
「うぐ……っ」
予想外の事態に、細い声が漏れる。続いて、甲高い声。
「お~き~て~っ! 父君さまっ、おねぼうさんっ」
パチンと両頬を小さな手のひらでたたかれて、やっと重たいまぶたを持ち上げた。
まだ軽い十歳の少女とはいえ、寝ぼけ眼のところに勢いをつけて乗られ、しかも子供の遠慮のない大声で叫ばれてはかなわない。
「……ミュラ」
馬乗りになってじっと見下ろす無邪気な双眸は、月と同じ黄金色ーーー。
「あのねっ、今日はねっ、オリビアと湖に行きたいの。舟に乗って遊ぶのっ。行ってもいいでしょ? 父君さまっ」
朝から元気な少女は、寝ぼけ眼に向かって懸命に説得した。オリビアはミュラと同じ年頃の幼なじみの少女である。
「母君様はなんと言っているんだ?」
「父君さまに訊きなさいってー」
上手く責任を押し付けられた気がする……。上体を起こしてミュラを膝の上に座らせながら尋ねた。神秘の色をした瞳を覗き込んで。
「今日、危険はないんだよな?」
「うんっ、ヘーキだよ」
彼女は、小さな首を確信を持って縦に振った。
「でも、危ないことはするなよ」
「わかってるもーん。……あ、シェルも連れてっていいー?」
「あの子はまだ六歳だろ」
「でもわたしが六つのときはもう湖で泳いでたよっ」
元気よく答えてしまってから、あっと小さく叫んで両手で口を押さえるミュラ。だが、もう遅い。
眠たげにしていた瞳は一気に見開き、見る見るうちに険しくなったその顔を上目遣いにおずおずと見て、ぺろりと舌を出した。
「なんてことをしてるんだおまえは!」
「ごめんなさーいっ」
ぴょんと膝から飛び降りたミュラは、そのまま走り出した。
「ミュラ!」
慌てて追いかけるようとするが、起きたばかりで身体が俊敏には動かない。その間にミュラの小さな身体は家を飛び出していた。
「安心して、父君さまっ。わたしが湖で溺れることはゼッタイにないってわかってるんだから!」
そんな声を残していく。
「貴女が今日怪我しないことは貴女がいちばんわかっているかもしれないけど、気をつけなさいよ」
その背中に声をかけたのは、大きな葉で作られた屋根の下でスープをかき混ぜていた、彼女の母だ。そしてその足元には、小さな少年シェルの姿がある。
「はぁい!」
元気に家を飛び出す娘を見送ると、彼女は振り向いて笑いかけた。少し意地悪そうに。
「おねぼうさんっ」
ミュラの口真似をする。不機嫌そうな顔を作って反論した。
「……聞いてたのかよー」
「聞こえたのよ」
たしかにミュラの声はよく通る。明るく、可愛らしい。いや、これは親の贔屓目というやつかもしれない。
「まったく、誰に似てあんなにおてんばになったのか……」
床に敷かれた布の上に腰を下ろすと、彼女はスープとパンを用意してくれた。
「さ~あ? 誰かしらねぇ」
「なんだよ、自覚ないのかー」
そう笑いながらスープを口に運ぶと……。
「あちっ」
あやうくそのスープを膝の上に落とすところだった。
飲める熱さではないスープの皿の下から顔を覗かせたのは、小さな爬虫類の顔。
「お前またー。サラマンダーけしかけたなっ!」
「おいしいスープでしょ」
嬉しそうに言いながら、彼女は隣に腰を降ろした。深く嘆息して肩を落とし、息でスープを覚ます。彼女に頼めば、今度は氷霊フラウでも呼ばれて、冷凍スープにされることはすでに経験済みだ。
「父君さまー」
「シェル、おいで」
「みてみてー。シェルがかいたの。あねぎみさまにおしえてもらったの」
てくてくと寄ってきたシェルを、抱き抱えて膝に座らせた。少年の小さな手に握られている紙を覗き込む。
「シェルの名前かー。よく書けてるよ、上手くなったな~」
「うんっ」
二、三度頭を撫ぜてやると、彼はうれしそうに笑った。そして、チェザは顔を上げる。
彼女の表情も朝だというのに少し疲れていて、寝不足なのだとわかった。
安眠なんてできるはずがないのだ。色褪せない記憶の中で、今日という日を迎えるためには。
「……フィーザ」
だが、そのあとに続く言葉を口にしかけて、だがやはり躊躇われて黙ってしまう。純真なミュラの瞳を二人で思い出し、そしてそれが記憶と重なってーーー。
今日寝坊したのは、昨日の夜に考えすぎてしまったからだとたぶん彼女も気づいているだろう。
「今日でちょうど十五の暦が巡ったのね、チェザ」
言えなかった科白を彼女が続けた。久しぶりに聞いた、サーラの言葉で。
それが長いのか、短いのか、彼らにはよくわからない。
ただ、サーラでは十五や三十という数字は特別な意味を持っていて、彼らはちょうど今日で三十歳であった。
サーラの暦で、今日が正確にどの月の何日目なのかはわからない。だが、生き延びられると確信できた日から、今日でちょうど十五回だけ暦が巡った。暦の境目をこの日にしていたから。
本来ならば、彼らは金の日を選んで金の儀式を行なうことになっている。そんな特別な時なのに。
壁にはめ込まれた形で飾られている二振りの短剣を、彼らはどちらからともなく見つめた。
未来の象徴である金の御剣、そして過去の象徴である銀の御剣。
半身を取り戻したお互いは、今はもう離れることなく寄り添っている。
ここは名もなき里。
崖から落ちたあとの記憶は二人ともない。
気づいたら、この里にいた。耳が長く尖っていて金色の長い髪を持ち、サーラの民の二倍は生きる妖精族という種族と、チェザやフィーザのような黒や茶の髪で耳が丸く、寿命もサーラの民と変わらない種族がいる里だった。
彼らは精霊の話す言葉とよく似た言葉を話していたため、意思疎通は困難ではなかった。彼らはこの森をサファの森と呼んでいた。彼らの言葉でどのような意味を持つのかはわからなかったが、サーラの言葉で似た発音の言葉があり、サファとは樹木のことを指す。
だが、ここでは様々なことがサーラとは違っていた。
初めて見る世界の広さ。
そして彼らとは違った外見のひとたち。
「フィーザたち、帰るの諦めて……よかったのかな」
今でも思う、この里で永住することは正しい決断だったのか。それはチェザも同じだった。
だが。
「戻って何ができるんだよ?」
「……わからない。わからないけど」
あの狭く自由な大地だけが、彼らの住む世界のすべてだったから。
サーラとは違うこの里での生活を受け入れてきたつもりだったし、子供たちはサーラという国で生きたことはない。そこにあった秩序や神秘を体験していない。だからいつまでも固執していてもしかたないことは、チェザもフィーザわかっているのだ。
「でも、湖とか舟とか泳ぐってことをおれたちは知ることができただろ? それに……文字とか紙とかさ」
サーラには湖というものはなかった。大きな水溜りに初めはかなり驚いたものだ。河はあったが流れが急で、サーラの民は泳ぐという行為を知らなかった。だから舟を浮かべることもない。
文字もなかった。月姫の巫女がすべてを記憶しているのだ。文字に表わして後世に何かを遺すという手段は、彼らには必要なかったのだ。
すべての食物を森に頼っていたサーラとは違い、ここではいくつかの食物を自ら栽培している。優れた金属加工技術を持っていた彼らは、栽培の知識すらなかったのだ。それはたぶん、東の森があまりにも豊かであったからだろう。
土レンガと布で作っていた家は、丸太と葉の家に変わった。一つの家にたいてい三つの部屋があり、寝る場所と生活する場所が分かれている。食事の支度は外で行なっていて、百人あまりの里の人々が敬うのは月姫の巫女ではなく森そのものだ。
「フィーザが考えたのは、戻ったらまた御剣が狙われるってことよ。それからミュラだって……。きっと彼らは気づいてたでしょ? この御剣は月姫の巫女様にしか使えないものだって」
「そうだよな……」
彼らがどこから来たのかはいまだにわからない。少なくとも、この里の人々はトゥール国やサーラ国という存在を知らなかった。
十年前、フィーザが産んだ女の子は、生まれながらにして金色の瞳を持っていて、チェザとフィーザはしばらく驚愕のあまりに言葉を失って、我が子の瞳をまじまじと見つめたほどだった。
彼女は二振りの御剣をもって、過去を受け継ぎ、未来を悟る。けれど、二人の月姫の巫女が同時に現われるはずはないから、彼らはシスティザーナ・エリェル・ルーシファーや、そこに付き従っていたアースやウリン、ミール、ファーリーの哀しい運命を知った。彼らが月姫の巫女のみを犠牲になどするはずはないのだから。
女の子をシスティザーナ・ミュラ・ルーシファーと名づけた。未来を見据える次代の月姫の巫女としての名だ。
未来を見据える彼女は、この里でも巫女として尊敬の念を集めてはいたが、誰も彼女を月姫の巫女とは呼ばない。
その言葉は、いつしか消えた。
「フィーザたちは、まだリアスなのに」
この里でリアスの紋章が役に立つことなどない。だが、それでも彼らの額にはまだ金色に輝く証があり続ける。
チェザとフィーザはたぶんきっと、サーラで最後のリアスになっただろう。
彼らがチェザを最初に逃がしたのは、もしかしたら月姫の巫女の濃い血筋が絶えることを懸念していたからかもしれない。今ならそう思えた。チェザはリアスの中でもっとも濃く、月姫の巫女の血を引く少年であったから、システィザーナ・エリェル・ルーシファーに万一のことがあったとき、その血筋を未来に繋げる願いをチェザに託したのだ。
六年前に産まれた子供はシェルと名づけた。
気高いサーラ国の心を未来へ遺すために、少年をシェル・サーラと名乗らせるようにした。
だが、リアスにはなれない。リアスの名を遺すことはできない。
ここにはリアスになるための条件、すなわち聖月の祠がどこにもない。
世界で最後のリアスたちから生を受けた少年は、だが十字の紋章を額に宿すことはできないのだ。
チェザとフィーザも、リアスの証であった一房の緑色の髪はいつしか色が落ち、トリアで作られた金糸の布や銀の髪留め、赤銅色の腕輪は逃げる途中で無くしてしまっていた。着ている衣服ももうラカーユではない。
だが二人の額には変わらず十字の紋章がある。
今の二人にはそれこそがリアスの証、それこそがサーラの存在を示す確かな光であったのだ。