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「カリっ!」
聖月の宮を飛び出してすぐ、フィーザは誰かの鋭い悲鳴を聞いた。
「……カリ、様?」
まさか、とフィーザが顔色を変える。カリの名を叫ぶその声はあまりにも悲痛であったから。
「カリ様っ!」
聖月の宮の回廊を走り抜けると、入り口付近にいる数人の影を見つけた。
ヴァリーという狩人と、ネオンだ。そして、ヴァリーの腕にぐったりともたれかかるようにして倒れているのはーーー。
「―――……っ!」
駆け寄ったフィーザの瞳から、色が消えた。
ひどい怪我であるのは一目でわかる。焼け焦げたラカーユ、ただれた皮膚。こんな怪我の仕方は見たことがなかった。精霊を操る彼らは、火傷を知らないのだ。
「……この、怪我は?」
瞳を閉じていてもかろうじて生きているであろうことは、命霊を見ることができるフィーザならばわかる。だが、生きていることすら不思議なほど悲惨なありさまだった。
瞳を逸らしたくて……だが、フィーザは逸らせなかった。
「話はあとっ!」
ネオンが口を開きかけたフィーザを叱咤するように叫び、ヴァリーとともにカリを聖月の宮の奥へ運んだ。通常ならば、一介の民であるヴァリーは入れないはずの場所ではあるが、それどころではない。そして、フィーザはその後ろについて行くことしか出来なかった。
カリは入り口から一番近い部屋の中央に静かに寝かせられた。床にたくさん敷かれた白い布が、即座に紅く染められる。
ネオンが薬壺を取りに行き、ヴァリーは自分の衣服までも使って止血した。だが、足りない。
「布をもっと持ってきますっ!」
何か役に立ちたくて、そしてそれ以上にこの惨劇を見続けたくなくて、フィーザは布を保管してある部屋へ走った。
何も考えていなかった。
ただ、脳裏のすべてが真っ白だった。
そして、無我夢中で持てるだけの布を抱えて戻ったとき、カリの意識は戻っていた。
「いったいどうして……こんなことに……」
ネオンは自然と、カリを見つけたヴァリーに視線を注いでいた。
「俺もわからん。狩りに行こうと森に行く途中の道で見つけただけだ……こんな様子でよく歩いてこれたよホント」
「カリ、様……」
少し希望を持って、フィーザは名を呼ぶ。カリの顔がゆっくりとフィーザのほうを向いた。
「……フィー、ザ?」
弱く小さな声だったが、確かにフィーザを呼んだ。その緑の瞳はフィーザを見た。
微かに微笑むことすらしてみせたカリの表情に、フィーザは膝の力が抜けて戸口の前に崩れるように座りこんでしまう。
狩りをするヴァリーは、応急手当には手馴れていた。彼がフィーザの手から布を取り、ネオンが持ってきた薬壺を用いて止血していった。焼け爛れたような無残な皮膚にその薬はかなり染みるであろうに、カリは無表情を通した。
「……聞いて、くだ、さい」
「話してはだめ」
ネオンの制止の声も、カリの耳には届かない。
「イーザ様と、シア……様がーーー」
二人の名をカリの口から聞き、ネオンの表情に緊張の色が走った。せわしなく動いていた手が止まる。カリはネオンを見上げたまま、それ以上を言わなかった。その瞳が雄弁に物語った。最悪の事態、を。
翳る瞳の色、が。
「……まさか」
ネオンはきつく唇をかみ締めてから言葉を続けた。
「ーーー死んだ、の?」
え? とフィーザは聞き返した。
言葉の意味がよくわからなかった。
キーーーンと痛いほどの静寂が、フィーザの耳朶を打った。
「殺され、たの……です」
言葉の意味が、フィーザの心にまで届かない。
コロサレタ? 殺、され……た?
「天の……光が、お二人を……そして、私も……」
カリの声がどこか遠くで響いた。
「……殺され、た?」
低いつぶやきは、自分の声でないように聞こえる。
がくがくと全身が震え出した。だが。
「フィーザ!」
幼い頃から聞きなれた声に、フィーザの耳は、心は、反応する。
知らず知らずのうちに溢れていた涙で濡れた双眸でフィーザが振り返ると、戸口には月姫の巫女を連れたチェザが立っていた。
「あぁぁぁぁ……っ」
その姿を見た瞬間、子供のように大声で泣き崩れるフィーザを、だがチェザにはどうすることもできなかった。チェザが握り締めたこぶしすらひどく震えているのだから。
チェザの頬を、悔しさと哀しさの入り混じった涙が伝っていった。
「どうしてこんなことに……っ!」
月姫の巫女がカリのそばに静かに座る。
「チェザ、フィーザ、落ち着いて。私たちに金の御剣はないわ。つまり、未来が……どこにもない……。でも、今を否定しないで! 貴方たちリアスは今を守るために、そして銀の御剣と過去のために動くのだから」
チェザとフィーザが、同時に顔を上げた。
「……今を、守る?」
「どういう意味ですか?」
ネオンも重ねて問いかけた。その手がわずかに振動しているのを見たチェザは、恐怖や不安を感じているのは自分たちだけではないのだと思ってそんなことに安堵した。
「今、金の御剣がそばに来てる……。たぶん、銀の御剣と共鳴していて……だからわかったのだと思うのだけど、彼らはわたしたちをみんな、殺してしまうつもりなの」
月姫の巫女の言葉は淡々としていて穏やかであったから、言われた意味の重要性に気づくのに時間がかかった。
「彼ら、というのは?」
ネオンが同じくらいに静かな声音で確認すると、月姫の巫女は首を横に振っただけだった。
「何者かなんて、聞かないでね。……けれど、カリもそれを感じたはず」
見透かすような金色の瞳に見下ろされ、カリは瞳を閉じた。
そして、開く。
「攻め、てきます……。たぶ、ん。逃げ、て……ください。民を……すべて、連れ、て。国の……外へ」
「ーーーそんなこと」
今まで国を出るなど考えたこともないサーラの民たち。そしてそれはリアスとて同じ。この国を、この土地を去るなど彼らにできるはずがない。
だから、ネオンはカリの言葉に首を振った。
「サーラを出たら私たちは生きられない。聖月の宮はどうするの? 聖月の祠は? システィザーナ様のおつくりになった聖なる大地を去るだなんて……っ!」
ここは完成した大地。
秩序ある国。
月姫の巫女の下に、統治された平和なるサーラ。
その誇りが、サーラを平穏で安定した楽土にしたのだ。
「ーーーわかって、います」
苦しげに息を吐きながら、カリが答えた。
「で、すがーーー」
「でも、もう聖月の祠はどこにもないの。彼らの放った天の光で壊されてしまった」
カリが言いかけた言葉を、代わって月姫の巫女が続けた。
「えーーー?」
次々と知らされる驚愕の事実。
彼らは呆然とその言葉を聞くことしかできなかった。
聖月の祠が……ない?
壊された?
月姫の巫女が紡いだ言葉は、ゆっくりと、だが確実に耳まで届いた。
いったい北の森で何が起こっているのだろう。
「……な、なんてこと―――」
フィーザが口元を押さえて呟く。
聖月の祠はこの国の中心。かつて人間を愛したシスティザーナが初めて暮らした場所なのだ。あの神聖なる祠がなくては、もう二度と誰もリアスの十字の紋章を擁けない……。
「ネオン。イーザがいない今、長は貴女だわ」
つまりリアスとしての決定権は、彼女にゆだねられている。
「重要なのは民がいること。そうでなければこのサーラは完全に消えてしまう。たとえ聖月の祠や聖月の宮が無傷で残ったとしても……民が一人もいなければ意味がない」
チェザが今まで考えたこともないような大きな問題だった。
国の存続。
サーラは永遠だと信じていたから、そんなことに疑問をはさむことはなかった。
昨日までは永遠だったのにーーー。
だが、今その永遠の夢が終わろうとしている。
このサーラの大地から去る。
そんな決定を下せるはずはないのだ。サーラを愛するリアスであれば……。
ネオンは唇をかみ締めた。
この決定を自分がしなければならない。
イーザとシアの死。
そして、たぶん……ネオンとともに旅立ったケアラとリィウも……往路の途中のどこかで見失ったけれど、生きているとは思えなかった。
謎めいた天の光。
聖月の祠の崩壊。
そして、サーラを捨てることーーー。
突然、悪夢は降ってきた……。
「……わかりました」
ネオンは頷いた。頷くしかなかった。それ以外に今、道はないのだ。
戦うことを知らないサーラの民たち。競い合うのではなく、協調することで生きてきた。誰かが誰かを蹂躙し、支配する世界ではない。
そんな彼らが見た新しい出会いはなんて、黒く濁った世界なのだろう。
「でも……なんで今ごろになって?」
チェザがふと気づいた疑問を口にした。
武器を持った男がサーラ国に侵入したのは十五も前の暦での出来事。
なぜ今、またリアスが殺されるような事態になったのだろうか。
「リシー……」
「え?」
チェザが聞き返した。
「彼ら……武器を……。リシーが現われ、て、男が……再会を、喜んで、た……」
カリの報告は、あまりに信じがたく現実離れしたものだった。
「……リシーが?」
チェザには信じられない。父を殺した男と同じ髪を持っていたからといって、それだけで疑うことはできなかった。
「彼が手引きしたの?」
「……可能性は」
否定できない、と。
ネオンの問いに、カリはそこまで口にすることはできなかった。
風に乗せてしまうのはあまりにも残酷だったから。あの金色の髪は月光のようで、民はおろかリアスですら、彼の国トゥールは月霊ルーシファーと関わりがあるのだとどこかで信じていたかったのだ。
「…………」
顔には緊張の色が濃くなる。リュシルエールが国を壊すのか、彼はそのためにここにいたのか。月光の髪を持ちながら?
「……ひどすぎる」
ネオンの口から嗚咽が漏れた。こうなった今、長の代理を務められるのは最年長のネオンしかおらず、その彼女がすべきことは泣き崩れることではないと誰もが知っていたが、それを制することもできなかった。
チェザはもう、泣くことすらできなかった。実感がなさすぎた。現実とは思えない。カリの言葉なのに信じられない。
フィーザの顔も蒼白で、うつろな瞳はカリだけを見ていた。
「……ひどすぎる」
もう一度繰り返す。どんな言葉も無意味に聞こえた。これほど激しい絶望感を表現する言葉など、今の彼らは知らないのだから。
「……お早く、ネオン様……。民を誘導、して……ください」
今のカリにとっては、口を開くことすらひどく体力を消耗する。苦しげに咳をするカリを見て、ネオンはようやく我に返った。
「……わかったわ」
ネオンの瞳に色が戻る。
「チェザ、フィーザ、手伝って。ここはヴァリーに任せましょう」
若い二人がいても、この状況でできることはあまりない。二人は眼前で繰り広げられるめまぐるしい変化に呆然としながらも、リアスとして頷いた。
「月姫の巫女様はお隣の部屋に。今、どこがもっとも安全なのかはわかりませんが、この聖月の宮だけは……貴女様の御身だけは、我らリアスがお守りいたします」
「ーーー気を、つけてね。わたしは知っているから。サーラは消えない。ルーシファー様が地上にわたしたちを残してくれたのは、こんな形で終わるためじゃないの」
「はい」
今のリアスにとっては、月姫の巫女の言葉だけが最後の救いだった。