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毎日、月姫の巫女の身辺を世話するリアスが決まっている。今日、私室へ入ることを許されたのはフィーザだった。
昼頃になって、彼女はある連絡を受けていた。
「月姫の巫女様。もうまもなくお越しになられますわ」
布の上に軽い身体を横たえる月姫の巫女は、懸命に世話をしてくれるまだ幼いリアスを見上げて瞳を細めた。
「……ありがとう、フィーザ」
柔らかく儚く、月姫の巫女がそう笑ったとき、戸口の布が静かに開かれた。
「具合はどう? アンディア」
聖月の宮を訪れたのは、月姫の巫女の姉であるファーリーだ。
このところ寒さが続いたせいか、月姫の巫女の体調がよくないのである。もともと体力のない身体である。一度体調を崩してしまえば治るのも遅い。そして、彼女はもう三十歳。高齢とまではいかなくても、寿命の短いサーラの民の中では、長生きしたほうである。代々の月姫の巫女がほとんど、金の儀式を行なえなかったことを考えると、彼女は生命に恵まれている。
「あ、姉君様」
「起きなくていいの」
姉の姿を視界のすみで見つけ、儚い容貌に笑みを浮かべて、寝床から起き上がろうとした月姫の巫女を、ファーリーは穏やかに制した。
「ありがとう、フィーザ。しばらくは私が見ているから大丈夫よ」
「はい。では失礼いたします。ファーリー様」
リアスとしてラカーユを纏ったときから、ファーリーは親友チェザの母君ではなく、サーラ国を支える月聖システィザーナの末裔である月姫の巫女の姉なのだ。フィーザはチェザとは違って礼儀を心得ているし、また重要視している。
「……あ。フィーザ」
部屋を出ようとした彼女の背中に静かな声がかかる。月姫の巫女だ。振り返った。
「は、はいっ」
「アースをこちらへ呼んできてもらえますか」
月姫の巫女は横たわった姿勢のまま、フィーザのほうを向いた。
「わかりました!」
フィーザは元気な返事をした。今は病気を得てしまった月姫の巫女。いつもにも増して儚く、消え入りそうな、翳りを持った瞳をしている。その黄金の瞳には、それでも今でない時の欠片を見ることができるのだろうか。
フィーザが去っても、月姫の巫女はしばらくその戸口を眺めていた。ひらひらと布が余韻に浸って揺れている。
「明るい子。とても頼もしいわ。あの子がリアスに選ばれたこと。ルーシファー様には本当に感謝しているのよ」
独り言のように、月姫の巫女は呟いた。
チェザとともに若い二人は、活力に満ち溢れていた。生きる希望や糧そのもののように輝いているのだ。
「そうね。とても素晴らしいことよ。でもそれは、貴女がここにいるから成し遂げられた奇跡でしょう?」
月姫の巫女は答えなかった。
「……アンディア?」
「ーーーわたくしには今、一つの決断を迫られています。姉君様とアースにはそれを支えていただきたいのです」
その言葉を言い終えるかどうかというとき、アースが部屋に入ってきた。
「姉君様方、失礼いたします」
「アース。お入りになって」
月姫の巫女の褥をはさんで、ファーリーとアースが向き合うように座る形となった。
彼女は再び、起き上がろうとして手をついた。
「姉君様……」
「いいのよ、アース。これは寝ていては話せないこと。わたくしは月姫の巫女としてお二人に話さなければならないことがあるのですから」
無理をするその身体を、アースが支えてやった。
なんて軽い体躯だろう。鳥の羽根のように風に舞ってしまいそうだ。細い手足も普段にも増してか弱く感じる。
「私たちに話さなければならないこと?」
「もしかしたら国が変わるかもしれないのです。姉君様。アース。そのときわたくしはいないでしょう。そして、その決断は貴方たち二人に委ねられることになるのです。でも、わたくしは月姫の巫女として、最後の義務を果たさなければ……」
「え」
二人は一様に絶句していた。
時を知る月姫の巫女。その言葉は少なからず真実であると、サーラの民は信じている。
あまりにも衝撃的な言葉だった。曖昧な部分もあるが、ただわかったのは……。
「いないとはどういうことですか、姉君様っ!」
思わず声を荒げてアースは詰問した。
「それは運命なの。もう、廻り始めてしまっている運命。ーーーでもわたくしにはまだ決意があります。アース。貴方の娘がやがて次なる巫女となるでしょう。ルーシファー様の血脈を強く受け継ぐ娘」
「……な、なにをおっしゃるのですか。娘のエリェルはまだ五歳。しかも目が見えぬのですよ?」
月姫の巫女の証は、その金色の瞳にあるといっていい。だが、アースの五歳になる長女はその双眸に、光を見出しはしないのだ。
「見えるようになります。そして尊い金色の瞳を受け継ぐのです。御剣がなくともわかります。これは必然なのですから」
「……アンディア。どうして今、そんなことを私たちに言ってしまうの?」
責める口調ではない。だが知りたくないことであったのもまた、確かだった。ファーリーは穏やかに尋ねる。
月姫の巫女は、翳った瞳の奥に凛とした表情を浮かべて二人を見つめた。
金色に輝く瞳。
なんて美しいのだろう。
「アース、姉君様。月姫の巫女の近親者として、彷徨い人の思いを叶えてあげてほしいのです。思う通りにせよ、それがルーシファー様の御意志でもありましたから」
「……彷徨い人? それはリシーのことですか」
彼女はアースの言葉に微笑んで頷いた。
「わたくしは、彼の国と交流を持ちたいのです。それを向こうの人たちは外交と呼ぶのだそうですが」
「……がいこう」
新たな一歩の予感がした。
アースはそう思った。
そして、その十日後。久しぶりに雪が上がった銀の日の夜。
月姫の巫女システィザーナ・アンディア・ルーシファーの予言通りになった。
彼女の言葉はすべて、真実になったのだ。
サーラ国は慟哭の叫びに覆われた。