1
「イーザ様。カリ・リアス、チェザ・リアス、参りました」
落ち着いた声でカリが戸口の前でそう告げ、厚い布を巻き上げた。
「入れ」
もともと寡黙なイーザは、鋭い声音で短く告げる。チェザはまだ彼と直接話をしたことはない。儀式などで形式的な言葉を掛け合っただけである。
部屋にはイーザと金色の男だけがいた。アースがいない。
「彼の様子はいかがですか?」
「心配ない」
片足をひどく腫らしており、適切な処置をしないまま長く放置していたために悪化していたのだという。また、ほとんど何も食べず休む場所もなかったのか、疲労が激しかったために昏睡状態が続いた。だがそれも、イーザの治療の甲斐あって、ようやく意識を取り戻したのだった。
「なぜ我らをお呼びになられたのですか」
「とりあえず座れ」
イーザが寝ている男をはさんで向かい側を示した。カリがそこに座り、チェザもカリより少し後ろに座った。
「彼の名は、リュシルエールというらしい」
カリの瞳を見ながら、イーザはまずそれを告げた。
「……リュシ、ル、エール」
カリがその言葉をゆっくりと唇に乗せてみるが、聞いたことのない発音だった。サーラではこのような難しい発音をする名前はないだろう。
チェザは男の顔をじっと見た。
あのときと変わらない端正な顔立ち。奇妙な服装。そして、金色の髪と金色の瞳。何から何までサーラの民とは違っていた。
リュシルエールがチェザを見た。月と同じ色をしたその瞳で。
「……チェザ」
「え?」
おもわずチェザは身を引いていた。
静かで低い声。チェザがそれをこの男の声だと認識するまでには少しの時間を必要とした。だが、それは紛れもなく東の森で聞いた声そのものだった。
名を呼ばれた。
(もしかして……おれのこと覚えてた)
アストやラフィが呼んでいる声を覚えていたのだろうか。
「ーーーいまのは?」
「なぜチェザの名を知っている? 覚醒してからチェザを呼ぶばかりなのだ」
言葉も通じず、なぜかチェザの名を知る青年の扱いに、イーザもさすがに困惑や疲労を覚えたのだろう。
サーラにはもちろん言語はひとつしかない。民はみな共通の言葉を話している。そのことに違和感を覚えることなど一度もなかった。この言葉を話せない生き物は、森に住む動物たちだけだからだ。
意味の伝わらない言葉というものを彼らは知らない。
「実はおれ、リアスになる前、果実の月にこのひとに会ってるんです。東の森で遊んでたとき……」
「ーーー何?」
鋭い声音と瞳に射抜かれ、チェザは少しだけ肩を震わせた。やはり人の命にかかわる重要なことだったのかもしれない。後悔がよぎった。
「ご、ごめんなさい」
チェザはあわてて、カリに話したのと同じ内容をイーザに説明した。険しい表情のまま彼はときおり確認を取りながら聞いていた。
「……シン・ケル・ラー」
リュシルエールはチェザの瞳を見て、そう言った。数ヶ月前にも聞いた、意味のわからない声、を。
不思議な響きをする言葉だった。月姫の巫女やの声もかなり不可思議で神聖なものに思えたけれど、そういったものとはまた別で新鮮なものだった。
「なんですか?」
怪訝な表情を浮かべて尋ねるカリに、イーザが無表情を装って答えた。
「彼は……別の発音をする言葉を話せるらしい」
「……別の発音をする言葉、とは?」
ひどく難しく、また理解に苦しむ言い回しだった。
「どうやら同じ意味をしても別の言い方があるようだ……」
「?」
よく、わからない。チェザは複雑な表情をした。率直な性格の彼は、難しいことや曖昧なことが苦手だった。
「シン・ケル・ラー」
リュシルエールはもう一度言った。
こんな言葉もあるのだ。まるで水が河を流れるように、星が瞬くように、それらの言葉は響くのだ。
「シン・ケル・ラー?」
真似てみたら、彼が嬉しそうに笑った。
カリは理解できないという面持ちであったけれど、チェザはむしろ喜々として彼の声を聞き、彼の仕草を見ていた。純粋な好奇心が掻きたてられて、もう止められないほどになっていた。